8.あと、五夜 ~わたしのせかいは~②
足元に漂う瘴気の紫靄を蹴り分け、しばらく進むと、そこはまるで妖精の隠れ家のような場所だった。
黒ずんだ樹皮の隙間から、裂けるような白い光が斜めに差し込んでいる。空を覆う分厚い樹冠の間に、ほんの一点、まるで世界が選び抜いたような箇所だけが、陽に照らされていた。
「……きれい」
苔に覆われた岩々の間から、澄んだ水が静かに染み出している。紫と緑のまだら模様が幻想的で、雨歌はそのひとしずくにそっと人差し指を這わせた。指先に伝わる、冷たい感触。
ぺろり。
隣に来たルーガンが、手首を伝う水を舐め始めた。ぬるりとした舌の感触にくすぐったくなって、雨歌が肩をすくめて笑っていると、どこからともなく彼の主が現れて、その首根っこをひょいと掴んだ。
「ここは、瘴気の源──イシュタールの根が届かない稀少な場所だ。比較的安全……だが、魔素の濃度は高い。ルーガン、飲むな。腹壊すぞ」
淡々とした声音でそう言いながら、男は荷袋から皿を取り出し、その上に手をかざす。数秒もしないうちに、透明な水が皿を満たした。驚いて目を丸くする雨歌をよそに、ルーガンは目を細めて皿から水を飲んでいる。
男は今度は、雨歌にコップをひとつ差し出した。
彼女の目の前で、何の手間もなく水が満たされる。
「……ありがとう」
素直に受け取って、岩に腰を下ろす。光に透かして見ると、コップの中の水は、ほんのりと朱色に揺れていた。飲んでみると、微かに甘い。ほんの少し、果実にも似た香りがした。
「いちいち驚くなよ。空気中の魔素から有害な成分だけを抽出して、再構成してるだけだ。水と火の魔術の応用ってやつ」
そう言って、今度はマントの内側から紫色のドライフルーツを取り出すと、何の躊躇もなく雨歌に放り投げてきた。
「食っとけ。倒れられたら面倒なんでな」
宙を描く果実。だが、キャッチには失敗し、雨歌はそれを慌てて拾う羽目になった。
そして、聞こえてきた──あのねちねちとした、余裕たっぷりの声。
「アンタさぁ。気持ち悪ぃくらい観察ばっかしてんのに、なんでこういう時に限って転んだり、今みたいに距離も測れねぇの?」
その言葉に、彼の笑いが滲んでいた。
責めてるわけではない……多分。ただ、これまで何回も転んで、そのたびにあきれられていたのは事実だ。雨歌は下を向いた。
「『観る』と「見る」は、違うから……でもごめんなさい。わたし、目が悪いの。この眼鏡が割れてなかったら、まだましだったかもしれない」
「メ……ガネ?っていうのか、それ」
男の片眉が少しだけ上がる。興味が出たのだろうか。
「うん。知らない?これをかけると、視力がよくなったり、物の見え方がはっきりするの」
(それに、世界と自分を上手く隔てることも)
胸の内でだけ呟いて、彼にはなぜかあまり知られたくない思いをそっと飲み込む。
「この世界には眼鏡がないの?」
「ああ。そんなもん、わざわざ作って装着するよりもヒーラーに頼んで治してもらった方が早いだろ」
男はあきれたような口調で言いながらルーガンにドライフルーツを投げた。ルーガンはこともなげにキャッチして咀嚼している。
眼鏡は存在しない。必要ないから。つくづく不思議な世界だ。雨歌はそっと嘆息した。
「……きみ、魔獣治癒士って言ってたよね。じゃあ、きみも治せるの?」
その一言に、男の眉がわずかに上がる。
「無理。魔獣治癒士とヒーラーは別だからな」
即答すると、男はドライフルーツをかじる雨歌を正面から見つめた。
「魔素を流して、肉体組織を修復して、痛みを軽減する──それがヒーラー。人間用の治癒士だな。街に一人は必ずいる。医療とセットだし、王都に行けば資格持ちの術者がいくらでもいる。すげぇように見えるけど、あれは言っちまえば、“便利な魔法使い”だ。」
鼻で笑って肩をすくめてみせる。
「でも“魔獣治癒師”は──違う。流す魔素の質を体内で魔獣用に変換するからな。そもそも、発現しない。血筋に魔獣の感応素質がなきゃ、絶対に起きない。どんだけ努力しても、無理」
「その血筋が、きみのおうちなの?」
「ああ……オルドレア創世のころから続いている名門だよ。本来、顔芸変態女には一生縁がない高貴な生まれ__まぁ」
男は急にトーンを緩め、わずかに目を伏せて付け足した。
「俺は魔獣を“治せる”って言っても、完全じゃねぇけどな。何の因果だか、正当な魔獣治癒士に生まれたにも関わらず、生まれつき俺には完全な治癒の力が備わってなかった。その分精神干渉系やら攻撃系の”壊す””狂わす”能力特化はしてるんだが……」
ルーガンが男のそばにやってきて、そっと彼を見上げている。
「気まぐれで願いを叶える神獣に、死んだ親父は泣きついたらしい。俺の魔獣治癒士としての力を完璧にする”つがい”を授けてくれと」
膝の上で彼のこぶしが白くなるほど強く握りしめられているのを、雨歌はじっと見つめた。これは悲しみだろうか。怒りだろうか。
「念願かなって、顔芸特化型の変態観察女が俺のつがいとして転がり込んで来たってわけ。安心しろよ、俺の方からつがいなんて解消してやる……勝手に決められたどこの誰だか分かんねぇ女なんかと手を取り合って仲良く生きていくなんて馬鹿馬鹿しい」
雨歌は何も言わず、黙って彼の指先を見つめる。男の話を聞いていると、どうやら自分が『選ばれた』ことになっているようだが、そもそも雨歌はそんなこと、願った覚えはない。
ただ、絵がうまくなりたかった。
そして本音は__
(__消えたかっただけなのに。ずっと)
何かの手違いとしか思えなかった。
「……で?俺が人間も治せねぇ、魔獣もろくに治せねぇって聞いて、何かガッカリした?」
目の奥に宿るほんの一滴の孤独と、誇りを守るための攻撃性にも、雨歌は気づくことなく、ただ、首を振る。
「__試してみるか?」
「何を……」
「その眼鏡、外してみろよ。どうせ治すなら、俺の手で」
言うが早いか男は立ち上がり、雨歌の目の前までやってきた。
その指が雨歌の顎を捕らえて上向かせる。その指が、眼鏡のつるをそっと外した。
カチリと小さな音がして、雨歌の視界から、世界を隔てていた壁が消える。
一瞬の空白。
今まで世界と自分を隔てていた壁を急に奪われ、裸になったような心細さ。
雨歌は無意識に彼の袖を握った。
「……ふーん。これが無いと、そーんな可愛いお顔になっちゃうんだ?__だったらこんなもん捨てちまえよ。その顔の方が……そそる」
彼の口元に刻まれる笑みの意味が分からない。
(このひとはどうしてわたしが困ると、楽しそうにするんだろう)
「__よし、なおす」
「眼鏡を?」
「アンタの目をだよ」
断言に、雨歌は目を瞬かせた。
「だってきみ__」
「いいから俺を見ろ」
今度は背中の三つ編みをぐいと引っ張られ上を向かされる。覗き込んでくる彼の目は、先ほどと違い、熱を帯びていない。ただ、探るために見る目。雨歌はその目を知っていた__観察する目だ。
眼鏡がないせいで、ぼんやりと赤い瞳がにじんで見える。
男は雨歌の瞳に何を見たのか、面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
「……屈折異常。目の奥の焦点が網膜より手前に落ちてる。こんな目で今までよく見えてたな」
男の言葉は雨歌の耳には届かない。
飲み込まれるような感覚。めまいがして、自分が見られているということが急激に雨歌の中で認識されていく。なぜか頬に血流が集中し、雨歌は知らず、身じろぎして目をそらした。それが彼を煽る行為だとは雨歌には分からない。
「……へぇ?いつもは観る側だったのが、観られる側になって、意識しちゃったわけ?__目をそらすなよ。”俺を見ろ”」
また、あの時と同じように、低い声が二重に聞こえる。声を失ったときのように抗えない力が働いて、自分の意志とは裏腹に。そらしたはずの瞳が彼を欲して、また、見つめてしまった。
「どうせまた後で解析されるのも癪に障るし、これが終わったらすぐに解除してやるよ……手、放せ。術を流すのに『邪魔』だ__これ、アンタに初対面で言われた言葉。覚えてる?」
言われて雨歌は自分がまだ彼の服の袖を握りしめていたことに気づいた。何やら根に持たれるような発言をしたらしいが、全く心当たりがない。
雨歌の指先を袖から外した手が、こめかみに当てられる。
「魔獣はな、破れても戻るようにできてる。再生が前提だ。でも人間は……元に戻す“手順”がない。だから“構造から組み直す”必要がある」
「……そうなの?」
「ああ。ましてやヒーラーでもねぇ俺が魔獣治癒を応用してアンタの中いじるってのは──当然、痛ぇだろうな?神経に触る。眼球の奥、脳に近いところを、ちょっと焼くしな……まあ加減はするが、耐えろ」
「え、あ、まっ__」
制止することはできなかった。彼の指先から、朱色の光が滲み始める。
光は真円を描いて宙に浮かび、中心に浮かぶ幾何紋が脈動する。
「──視界の境界、曲率を調整。光の変換、焦点距離……捻じれ、収束せよ……視神経」
低く抑えた声が、雨歌の奥に響く。
呪の言葉が皮膚ではなく、内臓でもなく、“視覚”そのものに触れている──そんな錯覚。
と同時に、雨歌の目元が男の片手で覆われる。何も見えない。
視界が真っ暗になると同時に、脳裏で赤い火花がスパークした。
触れていないようで、確かに焼けるような熱が、内側から押し寄せる。
ただ、焼けるような熱の奥には痛みではなく。
快楽という名の、甘くしびれるような電流が脳をゆるやかに揺らしていた。
「……ぁっ」
雨歌が呻きかけた瞬間、耳元で彼が低く囁く。
「……動くな。揺れると、視界、ずれたまま固まる」
魔術陣の中心が、虹彩の奥へ吸い込まれるように沈みこむ。
視界の端が歪み、色が滲み、光が千切れる。
「──“あんたの視界を、俺が塗り替える”」
言葉とともに、潮が引いていくような感覚。
──でも、それは確かに、変化の予兆を伴っていた。
数秒後、すべての光が収束し──
「目を開けて見ろ」
しんとした暗闇の中、脳裏であの甘いしびれの余韻だけがわずかに残っている。
彼の魔力の残滓だろうか。ぐるぐると、目の裏で赤い光が万華鏡のように形を変え、巡り巡っている。
ちいさく、まばたき。
意を決して、そっと目を開けると__
目に飛び込んできたのは、
__蘇芳色。
赤よりも黒く、朱よりも鮮やかで。
「オルドレアにようこそ」
そう言って笑う男の目が、初めて“輪郭”として見える。
睫毛の長さ、目の端の傷。
角度によっては黒にも、血のような色にも見える色。
(きれい……)
彼を中心に視界が広がる。
岩から染み出る澄んだ水、苔生す地面を這う赤い虫、翼の生えた狼のはちみつ色の瞳。紫がかった霧、空からわずかに差し込む光。
分厚いガラス越しではない世界。
鮮烈で、残酷で、美しい世界。
「まるで……何かを、描き直されているみたい……」
雨歌の目の中に、新しい線が引かれていく。
今までぼやけていた輪郭が、濃い鉛筆でなぞり直したみたいに、心に、脳に、鮮烈に色や形を刻んでいく。すべてが沈む中、彼の蘇芳色の瞳が瞳が、ひときわ際立って見えた。
「__きみが、せかいを変えたんだ……」
思わずもれる雨歌のつぶやきに、男が一瞬目を見開く。が、すぐにいつもの光を取り戻し口元が吊り上がる。
「気持ちわりぃこといってんじゃねぇよ」
なぜだろうか、雨歌にはその言葉ににじむ嬉しさの気配が分かる気がした。
気のせいかもしれないけれど。
半分レンズのない、割れた眼鏡が地面に転がり、天から差し込む光をうけて鈍く光っている。
雨歌はそれを拾わずに、新しい世界をじっと見つめていた。
____あと、四夜。




