どうか夢であってくれ
春爛漫の学院――桜に似たルベリウムの花が咲き誇る庭園で、貴族たちの最後の宴となる卒業パーティーが華やかに幕を開けていた。
だが、誰もが予想しなかった「幕引き」が、そこで始まった。
壇上に立つは、この国の第一王子――アレクシス・フォン・レーヴェンハイト殿下。隣には、どこか場違いな派手なドレスに身を包んだ男爵令嬢、エミリア。殿下はその肩を抱き寄せると、学園の中心にいた一人の令嬢を名指しする。
「クリスティーナ! お前との悪縁も今日ここできっぱりさっぱり終わりだ!」
呼ばれたその名に、会場の空気がぴんと張り詰める。
人々の視線が集まる中、現れたのは――
銀糸のように輝く髪を緩やかに編み上げ、淡い薔薇色のドレスを纏ったクリスティーナ・ユリシーズ・フォン・ローデリヒ。格式ある公爵家の令嬢にして、常に礼節と気品を纏うその姿は、見る者に思わず息を呑ませた。
「まぁ、殿下。唐突に呼びつけられたと思えば……今度は断罪ですか?」
優雅に一礼し、静かに笑う彼女の表情に、アレクシスは苛立ちを隠せない。
「その薄寒い笑みも見納めだ! 貴様の悪行をここで暴いてやる! 今日限りでお前は国外追放だ!」
会場がざわつく中、クリスティーナは片眉を上げて言い返す。
「まぁ、それは大変。殿下、なにか悪いものでも召し上がったのでは? ……例えば、あなたの隣にいらっしゃる、外見は多少ましでも中身が腐っていそうなご令嬢など?」
「ひ、ひどいですわ……っ! 見た目や人格をけなしてくるなんて……なんて悪辣な方なのっ!」
エミリアが涙を浮かべてアレクシスにしがみつく。だがその哀れみの演出をかき消すように、場の空気が再び変わった。
「我々は、公爵令嬢を支持します!」
低く、しかしはっきりと響く声。
「……誰だ今の発言をしたのは。不敬罪だぞ!」
アレクシスが眉を吊り上げたその瞬間――
「私もクリスティーナ様を支持いたしますわ!」
「私も!」
「俺も!」
「僕だって!」
次々と響き渡る賛同の声。そのひとつひとつが、殿下の威厳を剥ぎ取るように、壇上の空気を塗り替えていく。
「な……なぜだ……お前たちは……俺の味方のはずだ……!」
アレクシスの声は震えていた。自分が王族という立場である以上、この舞台は当然、自分の独壇場になるはずだった。だが、今やクリスティーナを囲む者たちの数は、全校生徒のほぼすべて――
いや、教師陣までもが、静かにうなずき、彼女を見つめていた。
なぜ、こうなったのか。
――それもそのはず。この世界では、「浮気」は甲斐性である。
いかに多くの者と関係を築けるか、いかに人脈を持ち、社交界での立ち位置を確保するか。それこそが"できる貴族"の証明。恋人を一人に絞る? 一人の愛を貫く? そんなものは、甘い理想を語る貧乏貴族のたわごとに過ぎない。
アレクシスが関係を持ったのは、男爵令嬢のエミリアただ一人。周囲の貴族たちから見れば、それは「器の小ささ」を証明するに他ならなかった。
一方で、クリスティーナは――公爵家令嬢という立場を活かし、誰にも礼節をもって接し、上級貴族から平民の推薦生徒まで、あらゆる層と絆を築いていた。
噂では、彼女を中心に構成された非公式な連絡網は、もはや王国の一機能とさえ呼ばれていた。
「……新たな国を築ける女……かもしれぬな……」
誰かの呟きが、空気の中に消える。
アレクシスは唇を震わせながら、壇上にいるエミリアを見下ろす。その視線に、クリスティーナが静かに口を開いた。
「殿下。あなたがこの学院で心を通わせたのは――その隣に立っていらっしゃるご令嬢だけなの?」
その一言は、優雅な微笑と共に放たれた、鋭利な刃だった。
アレクシスは一瞬、言葉を失った。ざわめく会場の空気が、一拍置いて、静まり返る。
「……それが何だと言うのだ! 貴様のように、手当たり次第声をかけて、節操なく関係を築く方が下劣ではないか!」
「まぁ、殿下――まさかこの学院で、いまだに"純愛"が美徳だとお信じなのですか?」
クリスティーナの声に、周囲の者たちはくすくすと忍び笑いを漏らした。だが、そこにあるのは嘲笑ではない。哀れみと、驚きと――まるで迷子の子どもを見るような、温度差のある視線。
「この国の貴族社会では、『浮気』は甲斐性の証。身分ある者が社交の場で多くの人脈を築き、多様な関係を持つことが、政治的手腕の一端と見なされますわ」
「……!」
「殿下がこの学院で関係を築かれたのは、男爵令嬢エミリア様ただ一人。対して私は――」
そう言って、彼女は場に集う令息・令嬢たちをゆるやかに見渡す。
「皆さまと、友情を築いてまいりました。それは、身分を問わず、敬意と誠意を持って向き合ってきたからこそ。もしこれが『悪行』に見えたのであれば……それはご自身が、それを実行できなかったという証明なのでは?」
アレクシスの顔がみるみる赤くなる。怒りなのか羞恥なのか、自分でもわからなかった。
「で、でも! お前はエミリアを侮辱し、彼女の学園生活を無茶苦茶にしただろう!しかも 公の場で、婚約者である私にも――このような辱めを!」
「侮辱……ですの?」
クリスティーナはあくまで穏やかに首を傾げた。
「それは、エミリア様が"見かけは多少ましでも中身が腐っていそう"という私の言葉を、ご自分に向けられたものと認識されたから、でしょうか?」
エミリアがビクッと肩を震わせる。
「そ、そうよ! 私は……っ、殿下をお慕いしていただけで!」
「では、問います」
クリスティーナの声が、わずかに硬くなる。
「殿下との関係が始まったのは、いつのことでしょう? 私との婚約が公表されていたこの学院在学中に、すでにお二人は“個人的に”関係を持たれていましたわね?」
「……っ、それは……!」
「さらに、学院のリソース――王族用の書庫や、教師陣の特別講義に、エミリア様が殿下に随行していた件も記録に残っています。それらを本来利用できるのは、婚約者、あるいは王族認定の補佐者のみ」
その瞬間、アレクシスの肩がびくりと震えた。
「殿下は婚約者の立場を使って、私の許可なく第三者を私的に招き入れた。これは契約違反にして、学内規定にも明確に反しますわ」
「そ、そんな書類……勝手に見たのか!」
「私ではありませんわ。教師陣が、です。疑惑のあった令嬢の中に、皇位継承権保持者が含まれていたため、学園としての調査が入ったのです」
その時、壇上の下から一人の老教師がゆっくりと進み出た。
「事実確認は済んでおります。王子殿下、ならびに男爵令嬢エミリア・ルシル殿は、学園の信用と機密を私的に利用した件で、厳重注意の対象とされております」
「そ、そんな……私は……王族だぞ……!」
アレクシスの足元がふらついた。だが、それを支える者はもう誰もいない。
一方で、エミリアは目を見開いたまま、周囲の貴族たちの冷たい視線に晒されていた。
「私……だって、ただ殿下をお慕いしていただけなのに……!」
泣き崩れようとするエミリアを、アレクシスは支えることすらできなかった。自分の足元が崩れかけているのだから。
そして――クリスティーナが、最後に静かに問いかける。
「殿下。今一度、伺います。あなたがこの学院で“心を通わせた”のは――その隣に立っていらっしゃるご令嬢、お一人だけだったのですか?」
沈黙が、会場を支配した。
その一言は、答えなど必要ない、最も容赦のない「真実」の提示だった。
王族の権威など、空虚な看板に過ぎない。この世界では――"広く愛される者"こそが、真に価値ある者。
「殿下。あなたが心を通わせたのは、その隣に立っていらっしゃるご令嬢、お一人だけだったのですか?」
その言葉が、剣のように突き刺さった瞬間――
――ふと、世界が音もなく崩れ落ちた。
気がつけば、天井にはレースの天蓋。柔らかな朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。
「……っ、ゆ……夢……?」
アレクシスは荒く息を吐き、濡れた額を拭う。
胸の中では、あの卒業パーティーの光景が生々しく焼き付いていた。断罪され、国外追放となり、誰からも見送られず、冷たい石畳の上を引きずられる――そんな悪夢だった。
――目が覚めても、胸の奥に残るあのざわめきは、消えなかった。
ベッドから起き出しても、頬を洗っても、朝食を摂っても、心の底に棘が刺さったまま。
(まさか……俺が、あんな結末を迎えるとは……)
夢とはいえ、自分の愚かさと無様な姿をまざまざと突きつけられた感覚は、現実よりも強烈だった。
そして、その日。
アレクシスはいつものように学園に登校した。白馬のごとき輝かしい存在。誰もが彼を見て道を開ける――はずだった。
「殿下〜っ♡ 今日もお顔が凛々しいですわぁ〜! お隣、いいですかぁ?」
「……ああ」
いつものように甘い声で駆け寄ってきたのは、夢にも出てきたあの男爵令嬢、エミリア・ルシル。胸元が大きく開いた制服のカスタム、わざとらしい目の潤ませ方、指先で唇を押さえる仕草――
(……う、わ)
アレクシスは無意識に目を逸らした。
(いや、ちょっと待て。なんだこの……不自然さ。……こんなに、媚びてたか?)
今まで気づかなかったその演技過剰な態度に、妙な違和感が身体を走る。自分にしか興味がないような話題、空虚な褒め言葉、そして他人を見下すような視線。
「……あ、すまない。今日は一人で行く」
「えっ!? で、でも、私……!」
引き攣った笑顔を無理やり浮かべたまま、エミリアが袖を掴もうとしたのを、アレクシスはすっと身体を引いて避けた。
そのままふらふらと歩き出す。正直、どこへ行くかなんて考えていなかった。ただ、このもやもやを晴らすには、一人になりたかった。
(まさか、夢の中の方が真実に近かったなんて……)
そして、学園の裏庭の方へ差しかかった時だった。
ふと、風に乗って上品な笑い声が聞こえてくる。
(……あの声……)
木々の間を抜けたその先にあったのは、優雅なお茶会の光景。
淡い色のパラソルの下。シルバーのティーセットに囲まれたテーブルを囲む数人の令嬢たち。中心には、もちろん――
「……クリスティーナ」
アレクシスは思わず立ち止まった。誰にも気づかれない距離で、木の影からその様子を見つめる。
夢の中では、圧倒的なカリスマと冷徹さを持った"悪役令嬢"だった彼女は、今目の前で――
「ええ、本当に? まあ、それは素敵なお話。パメラの絵、私も一度見てみたいわ」
柔らかく微笑み、楽しそうに談笑していた。
(……え?)
彼女と向き合うのは、名門の令嬢たち。だが、夢のような“取り巻き”ではなく、それぞれが個性を持った、自由な雰囲気の少女たちだった。
気取らず、上下関係に縛られず、でも自然に中心にいるクリスティーナ。
(まるで……対等な仲間たちの中にいるみたいだ)
そして、次の瞬間――彼女の口から、意外な言葉がこぼれた。
「……でもね。殿下が“政略結婚で構わない”っておっしゃった時、少しだけ……悲しかったの。笑っちゃうでしょ?」
「えぇ!? でも、あれって、クリスティーナ様が最初に割り切っていたのでは?」
「ふふ、そうよ? 言ったのは私。でも……そう言わないと、気持ちがばれちゃうでしょう?」
「え……まさか、恋……!?」
お茶を吹きそうになる令嬢たちを見て、クリスティーナは苦笑する。
「……叶わないわ。だって、私は“役に立つ女”であることを望まれてるもの。恋なんて……しちゃいけないのよ」
その横顔は、夢で見たどんな冷たい表情よりも、切なく、美しかった。
(……俺は……何を、見落としていたんだ)
アレクシスの胸が、ぐっと締めつけられる。目を逸らしていた現実、勘違いしていた本音、それらが一気に押し寄せてきた。
まるで、夢が“警告”だったかのように。
彼は木の影から一歩踏み出そうとして――けれど、その足は止まった。
(いや、今は……まだ、いい)
振り返る彼の顔には、微かに笑みが浮かんでいた。
「……どうか夢であってくれ、なんて。願ったのは、どっちだったんだろうな……」
クリスティーナの言葉が、確かに彼の胸を打った。
そしてそれは、アレクシスが初めて、クリスティーナを「ひとりの女性」として見つめた瞬間だった。
(本当に始まる物語は、これから)