〇〇月刊誌別冊 掲載短編「真夜中のガラス窓」
これは関東地方に在住する録音技師・Y氏による投稿である。
現在40代半ばのY氏は、20年以上のキャリアを持つベテランのサウンドエンジニアだ。この出来事が起きたのは十数年前、都内郊外にある古びた録音スタジオでのことだった。
なお、そのスタジオはすでに取り壊されているが、当時の異様な噂はいまだ業界内で語り継がれているという。
Y氏によれば、事件が起きたのは晩秋のある夜だった。その日、急遽キャンセルされた収録素材の整理作業が残っており、Y氏は一人でスタジオに残っていた。夜の静けさを利用し、早めに作業を終わらせようとしていたという。
その録音スタジオは昭和の時代から使用されてきた老朽施設で、録音ブースとコントロールルームは分厚い二重ガラス窓で仕切られていた。壁には古びた吸音材、床には年季の入ったカーペット、そしてわずかにカビのようなにおいが空気に漂っていた。オーナーは大掛かりな改修をせず、結果として、そこは低予算の制作現場としてひっそりと利用され続けていた。
その晩、スタジオ内にはY氏しかいなかった。彼はヘッドホンを装着し、音声トラックをひとつずつチェックし始めた。作業に没頭しているうちに時間は過ぎ、気がつけばすでに午前2時を回っていた。廊下の照明は夜の深まりとともに心許ない明るさになり、機材の低い駆動音だけが室内に響いていた。
そのときだった。
Y氏は、あるトラックに異常な音を感じ取った。それは本来なら“無音”のはずの空白部分から、かすかに聞こえてきた低く曖昧な声。耳を澄ますと、それはまるで誰かが旋律のない歌を口ずさんでいるようにも思えた。遠く、こだまのように、はっきりとは聴き取れないが確かに存在する音。
「機材の不調かもしれない」
そう思い、彼は再生を止め、ファイルを再チェックし、ソフトウェアを再起動した。しかし、奇妙な音はどの方法でも消えることはなかった。あの低く、湿ったような声は、何度再生してもトラックの同じ箇所から微かに聞こえてきた。
そのとき、Y氏はふと異変に気づいた。
まるで部屋の空気が一瞬で冷え込んだように感じたのだ。温度計には変化がないのに、首筋にひやりとした感覚が走る。そして彼の視線は自然と、録音室を見下ろすガラス窓へと向かった。
録音ブースの照明が、ほんのわずかにチカチカと瞬いていた。まるで電圧が不安定になったかのような、不規則な光の揺れ。Y氏は椅子から立ち上がり、窓に近づいて中の様子を確認した。ガラス越しに見えるブース内は無人で、何も変わった様子はない──そう思った、そのとき。
ガラス窓に映る“反射”の中に、彼はある“影”を見た。
それは、肩まで伸びた長い髪の女性の姿。
彼女は録音ブースの中央に、まるで誰かを待つかのように静かに立っていた。表情は曖昧で、姿もどこか揺れており、しっかりと目を凝らしても輪郭ははっきりしない。Y氏はとっさに振り返って背後を確認したが、もちろんコントロールルームには誰もいない。あるのは、チカチカと光るモニターのランプだけ。
「見間違い……か?」
そうつぶやきながら、彼は再びガラス越しに目を向けた。だがその女性の影は、まだそこにいた。じっと、こちらを見ているような気がした。
息を呑みながら、Y氏はガラスにそっと手を伸ばした──
その瞬間、女性の影も同じように手を上げ、ガラスの向こうからこちらへとそっと手のひらを重ねるような動作を見せた。
思わず体が硬直した。
Y氏の手は空中で止まり、それ以上近づけなかった。
数秒の沈黙の後、ガラスについた“彼女”の手の跡が、まるで霧が晴れるようにゆっくりと消えていった。そして同時に、録音ブースの照明は再び安定し、室内の空気も何事もなかったかのように静けさを取り戻した。
翌日、Y氏はスタジオのオーナーにあの夜の出来事について尋ねてみた。だが返ってきたのは、どこか言葉を濁すような曖昧な笑みと、「昔から、たまにそういう話はあるよ」という一言だけだった。
その後、Y氏は自らこのスタジオの過去を調べてみた。すると、昭和の終わり頃、この場所では一人の女性アーティストが頻繁にレコーディングを行っていたことがわかった。彼女は一時代を彩った清純派のアイドルとして知られていたが、あるスキャンダルを機に芸能界を引退。その後、郊外に身を隠すように移り住み、数年後、若くして命を絶ったという。
その名を、Y氏はすぐに思い出した。
学生時代、ラジオやテレビで何度も耳にしたあの歌声──まさしく、自分が昨夜聞いたあの不思議な旋律と、どこか重なるように感じた。
業界内では、彼女が最後に訪れた録音スタジオのひとつがここだったという噂もある。いつからか、この場所では「夜になると誰もいないはずの録音室に人影が映る」「ヘッドホン越しに誰かの歌声が聞こえる」といった怪談めいた話が囁かれるようになった。
Y氏はあの夜、無意識のうちに何度も再生していたという。旋律のない、言葉のない、けれども心を引き寄せるような“歌”。あの“手”がガラス越しに現れるまで、彼はその音を止められなかった。
彼は最後にこう記している。
「真夜中のスタジオで、僕が聞いたあの声。それが彼女のものだったかどうか、証明する術はない。けれど、あのガラス越しの手のひらを思い出すたび、もう一歩踏み出していたら……と、今でもぞっとする。」