序文
はじめまして。あるいは、どこかであなたとお会いしているかもしれません。
私は現在、ある出版社で編集の仕事をしています。毎年夏に刊行される怪談・心霊系の文庫シリーズで知られており、このジャンルに興味のある読者であれば、一度は弊社の書籍を目にしたことがあるかもしれません。
出版社に入る前は、地方のラジオ局で深夜の心霊・オカルト系番組のスタッフとして働いていました。表に出る役割ではありませんでしたが、毎週寄せられる体験談の整理や選別、時には現場取材まで行い、いわゆる「人が本当に怖いと感じた瞬間」を数多く耳にしてきました。
そのような背景から、怪談というジャンルに対して私は、どこか現実に近い感覚を持ち続けています。
本書のきっかけは、数年前に弊社に寄せられた一通の読者投稿でした。
内容は、昭和の後期に短期間だけ芸能活動をしていたある女性アイドルと、彼女が生前最後に録音したとされる未発表のシングル『淚光の微笑』についてのものでした。
なお、彼女の名前として本書では「川島美奈」という仮名を使用しています。これは、実在の人物をモデルとしているため、不必要な混乱や誤解を避ける目的によるものです。
投稿に書かれていた話は、よくある「呪われた音楽」の怪談に見えました。「この曲を最後まで聴いた者には、不幸が訪れる」といった内容は、過去にもいくつも例があり、特段珍しいものとは思いませんでした。
そのため私は、投稿内容を簡単に整え、当時担当していた夏の怪談文庫に短編として収録しました。ところが、その本が発売された後、状況が少しずつ変わっていきました。
読者から、似たような体験談が次々と寄せられ始めたのです。
「この歌、昔聴いたことがある気がする」
「親戚がこのアイドルのファンだったが、不可解な最期を迎えた」
「曲の一節を思い出すと、必ず耳鳴りがする」
どれも偶然とは言い切れないような、妙に具体的な話ばかりでした。
そうした声が出版社内で注目され、上司から「一度きちんと調べてみてはどうか」と提案を受けました。私はその提案を受け入れ、本格的にこの件の調査を開始しました。
調査を始めてすぐ、私はあることに気づきました。川島美奈に関する情報が、極端に少なすぎるのです。昭和のアイドルであったにもかかわらず、彼女の楽曲や出演番組、雑誌インタビューなど、メディアに残された痕跡がほとんど見つかりませんでした。まるで、誰かの手によって意図的に削除されてしまったかのように。
私は旧知の音楽業界の知人たちにも声をかけ、当時彼女に関わった可能性のある関係者を探りました。ラジオ時代のツテを頼りに、放送台本や録音資料など、メディアに残されたわずかな痕跡も追いかけました。
その中には、川島美奈がゲスト出演したとされる深夜ラジオ番組の録音台本、すでに削除されたYouTube動画の文字起こし、そして匿名掲示板に残された奇妙なスレッドのログも含まれていました。
さらに、調査の過程で、私はあるルートを通じて『淚光の微笑』のカセットテープのコピーを入手することができました。音源の一部を聴いた人々からは、その後、耳鳴り、幻聴、不眠、そして不可解な体験に関する証言が多数寄せられています。
本書は、そうした調査の過程で私が集めた証言や記録、資料を一つにまとめたものです。構成としては、投稿された手紙、フォーラムのやり取り、ラジオ番組の文字起こし、失われた映像の記録、そして関係者から得た証言など、さまざまな視点で「川島美奈」と「その歌」に迫っています。
一見すると無関係に思える情報の断片が、読み進めるうちに、少しずつひとつの像を結び始めることでしょう。
この本をどう読むかは、あなたの自由です。ただし、ひとつだけ警告しておきます。
この本を最後まで読んだとき、あなたはすでに「彼女の歌」を知ってしまうことになります。
これは過去の話ではありません。今もどこかで、静かに続いている話です。
そしてもし、読了後、ふと口ずさんでいるメロディがあることに気づいたとしても、それがどこで覚えたものなのか、無理に思い出そうとしないほうがいいかもしれません。
それでは、あなたがご自身の答えを見つけられることを願って。
松井徹
なお、この名前もまた、本名ではありません。
ネットや出版の世界で使用している筆名です。
本名を明かすつもりはありません。
その理由は、いずれお察しいただけるかもしれません。