第1話:落ちる星
他者と比較した時に、自分が最高に位置することも最低に位置することもなかったことが、私を縛る呪いとなったことに私は気づいていた。気づいたキッカケがなんだったかは思い出せないけれど、ただただ自分が普遍であるという事実が受け入れがたかった。
幼い頃の自分は、自分がファンタジー小説の主人公であるとまでは驕っていなかったが、それでも自分が何か特定の分野においてだけ、特別であると信じて、疑うことすらしなかった。自分が輪郭すら与えられない、モブにすらなれない陰であることに気がついたのは、同年代の子の中には髭の生え始めを実感する奴が現れたり、異性という存在に対する意識を明確にした奴が現れ始めた頃。ただ授業で忘れ物を一つしたという些細な出来事一つだけ、それだけで、私の中で存在を自覚しかけていた根拠のない自尊心に小さなヒビが入ったこと。それがキッカケだった。
いや、それだけじゃなかった。ただそれが始まりにすぎなかったっていうだけで、私の心はそこから少しずつ、流水に侵されていくように、少しずつ、削れ、摩耗していった。気づけば、取り返しのつかないところにまで来てしまったみたいで……今や私は、私自身を眼球以外が存在しないように思えていた。宙に浮かんだ両目。ただ他者の観察だけにその視界を用いて、都合の悪いことには目を閉じた、言語を持たぬ怪物……それが私の思う私だった。
ある日から、自分は頭痛に苛まれるようになった。それも早朝だけ。
偏頭痛持ちでもないし、特別自分は体が弱いなんてこともなかった。むしろ前はクラスでも一番の健康優良児だった記憶がある。それに元々、よく寝るし寝つきも良かった。ゆえに、原因の特に分からない、熱も咳もない頭痛だけの体調不良なんて初めての体験だった。
初日は無視して学校に通った。苦痛ではあったが耐えれないことはなかった。
次の日もまた頭痛に苛まれた。前日よりも少し痛みが増したようにも感じられたが、口の中に物を入れたり、水を飲んだりして自分を誤魔化した。
そのまた次の日も頭痛に苛まれた。さらに次の日も、その次の日も、また、頭痛に苛まれた。
連日、頭痛に襲われ、さらに苦痛は衰えることを知らず苦痛は増していく一方だった。
ある日、プツリと糸が切れた音がした。
私はベッドから出ることもせず、携帯に手を伸ばし、先生に電話をかけた。
ただ一言「今日は休みます。」とだけ伝えて、私は電話を切った。
電話を切った瞬間、私の苦痛は綺麗さっぱり消えて無くなったが、その時の私はもはやそのことに気づく余裕すらなかった。
電話を切った直後の私は、毛布で体を包み込んで、中で咽び泣いていた。
そんなことが何日か……少なくとも指では数えられない程度には続いた頃、私は鏡に写る自分を見た。
ボサボサの手入れひとつされていない髪に、所々に引っ掻いた傷跡のあるガリガリの体躯とロクに睡眠をとっていないことが窺えるクマの深い目。最後に剃ったのがいつだったか思い出すこともできない伸びた髭とボロボロになった爪。
私は、鏡の中の私の目を見ることすら出来ずに目を逸らす。
どうして?
布団に戻って、心の中で何度もその言葉を繰り返す。
同時に、自分の過去を思い出せる限りの過去に遡り、自分の行いを辿っていった。
自分は一体、何をした? 何の罪を犯せば……こんなことになるのだ?
自分は……ただの普通の両親の下に生まれた、ただのどこにでもいる子供だった。
生まれてから、ただ人並みに成長してきた私は、いい意味でも悪い意味でも目立つことは無く、
これといって誰からか特別尊敬されるようなことをした覚えもなく、誰かからの想いを自覚することもまた無く、
同時に誰からか特別疎まれた行いをした覚えもなければ、誰かからの憎悪を自覚することもまた無く、
ただただ私を知覚し、私を誰だと定義する者は一人もおらず、
誰も私の周りには残らず、私は孤独であった。
────であれば、お前が望むのは?
声が聞こえた。
私は声のした方へと導かれるように、ふらふらと向かった。
そこは洗面所で、鏡の中から声が聞こえた。鏡を覗くと、そこには今の私がこちらをただまっすぐに見つめていた。
私は冷静ではなかった。燃えるように熱い頭で、目の前のモノに答える。
「ただ、私は誰かに認められたかっただけなんだ。それが傲慢で私の罪だった。自分が特別でないことを理解した上で、それを認められなかった。」
────であれば、お前が望むのは「他者からの承認」なのか?
「……違う。」
────であれば、お前が真に望むのは?
「ただ今は苦痛から逃れたかった。でも私は怠惰でもあったから……苦痛から逃れる術を持っていなかったんだ。私は……ただ、自らを委ねられる器が欲しい。」
────お前が欲するのは「自らをオサめる器」でいいのか?
「ああ、そうだ。私は自分が自分であることを理解する癖にそれを受け入れようとしなかった上に、全てから逃げようとした傲慢で卑怯で怠惰なゴミ袋同然の存在であるが故……私は、言葉を持たぬ無機物になりたかった。」
鏡の中の私の手が、鏡の中から飛び出した。
その手は私に救いを差し伸べていた。
────大丈夫、なりたい貴方になれるよ。
私は、その手を取った。
そこで、私の意識は途絶え、ようやく苦痛はそれを感じるための心は消えてなくなった。
*
晴れやかな朝。
新たな人生の幕開けにはぴったりの天気だ。
通学路を歩けば、周囲からの好奇の目線を浴びた。
「なあアイツって確か……」「うん……不登校って聞いてたけど……」
「雰囲気だいぶ変わったな……」「あんまり関わらない方が良さそうだぜ……」
他人など、どうして気にする必要があるのだろうか!
私は、私以外にいないというのに。
私こそが特別で、私という存在そのものがこの世界に唯一無二であったというのに!
その女の姿を久方ぶりに見た者は口を揃えてこういったと聞く。
「あの女の瞳には、星が宿っていた」と。