第1話:握られた舵
生まれて初めての体験だった。
明かりの無い暗い部屋、ブルースクリーン上に映るそれを見た瞬間、体中が熱を帯びた。呼吸が乱れ、心臓の刻みは耳元で聞こえるようになった。これが「恋」というものなのか、とも思った。今にして考えれば、これは人並みに「恋」と呼ぶものではなかっただろうが。
ただ、未知に対して覚えた恋とも錯覚するほど、心の奥底から湧いてきた高揚感。
私はそれを二度と忘れることは無いだろう。
この時点をもって、私という人間の辿る未来の舵は「たった一つの野望」に握られたのである。
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「私は卒業までに異世界転生します。」
その言葉を聞いた時、その教室にいた全ての人間は同じことを思っただろう。
この女は一体何を言っているだろうか、と。
ただ、誰も彼女の言葉の真意を質そうとはしなかった。なぜならば、彼女の瞳には一点の曇りも無く、自分の言葉には一切の誤解など存在しないのだという確固たる自信を感じ取ることが出来たからである。それに加えて、言葉の後ろに付けた「絶対」。その場の全員がその女が、異常であることを感じ取った。瞬間、全員の防衛本能が呼び起こされ、女に対する興味関心、開かれていた門戸は全て警戒心へと変化し、閉じられた。
唯一、「異世界」という単語自体に触れる機会が無かったであろう担任の教師だけが顔をしかめていた。
「え~っと……『水森 朱音さん』でいいのかしら? その……なんて聞けば良いのか分からないけれど……その『異世界』っていうのは?」
一部の勘のいい生徒はこれはきっと開戦のコングになるだろうと察したのか、視線が泳ぎ始めたり、瞬きの回数が異常に増えたり、春にしては随分な汗を額から流したり、各々、動揺が見て取れた。一体、この女は何と返すのか全員が見守る中、女は「この人は一体何当たり前のことを聞いているのだろう」というような表情で教師を見つめている。
全員が固唾を飲んで見守る中、「ああ」と納得したような表情をした女は続けて、
「人間がいない世界です!」
と清々しいほど満面の笑みで、元気よく答えた。
*
入学早々、自己紹介でやらかした女のその後は言うまでもないことだ。
教師相手に見当違いな返答をした女は、困惑を露わにする教師の数々の質問に対しても同様に見当違いな返答を繰り返す。あのような異常者に対して質問という形式で会話を進めることは、そもそも相手の持つ常識という前提から間違っている可能性があるのだから、一番話が水掛け論的な進展を見せない形になってしまうことは当然だった。また俺は、教師という職業は大変だなとも思った。いや教師だけでなく、そもそも多種多様な人を直接的に相手取る仕事というのは本当に大変だろうと思った。尊敬に値することだ。特に、子供というのは心に抱いた自我をまだ隠していない時期である。中学生あたりで大抵の子供は、自我に殻を宿し、自分自身を包み隠して生きていくようになる。中には先の女のように、自我に未だ殻を宿さずに生きていく者もいるが、そういうのは例外的で目立っていて数が多く感じるだけで、実態はそういう者は少数で、殻を持つ者が多数だ。
休み時間になり、教師から職員室の呼び出しを受けて女がしぶしぶ教室を出たのを見計らってから、クラスの一同、交流を始めた。
高校生になったばかりの彼らは、互いの様子を伺いながら、手探りでなんとか会話を繋げている。それはとても健気で健全なことだなぁと思いつつ、俺もまたクラスメイトの輪の中に潜っていく。どうやらLINE交換をしていたようで、俺もまた彼らと同じような無機質な笑顔を張り付けて、軽率で馴れ馴れしく、彼らに話しかけた。
「出会いを大切に」という言葉があることは知っているし、現実がその通りであることも知っている。俺は出会いは大切にすべきで、また人間関係というのは常に良好に、かつ幅広く持っているべきであると考えている。また人間関係においては狭く深くという考え方も唾棄すべきではないものである。
しかしながら、俺はとにかく人間というものが嫌で仕方なかった。全てがストレスの要因になりえるし、実際今、なっている。お腹から朝食を急速に消化している音が聞こえてくる。
「ゴメン、ちょっとお腹痛いから席外すね。」
俺はそれだけ言って、彼らに背中を向ける。
*
トイレから出て教室に戻っている途中、出くわした。あの女。
「あ」
思わず声が出てしまったが、小さかったので大丈夫だろうと思った次の瞬間、
「ん?」
女は目にも止まらぬ速度で首を振り、こちらを見ていた。
「……ど、どうも」
俺は何をやっているのか、動揺が表情と言動に出てしまっていた。
女はジロジロと俺の頭の先からつま先までを眺め、こちらを観察している。
ああ、やってしまった。
こんな奴を前にボロを出せば、怪しまれるどころか変に絡まれるに決まっていたのに。
「……ん~」
女は何かが腑に落ちないというような表情で私の顔を見つめていた。
「な、何か御用でも……?」
「ん~あ~、いや、なんでもない。」
女は変わらぬ表情でその場を後にした。
俺はそんな彼女の背中を眺めていることしかできなかった。
その時、なぜかこんな意味の無い疑問が頭の中に浮かび上がった。
どうしてあの女は「異世界転生する」などと宣言したのだろうか。
その疑問は浮かんで、すぐに泡のようにはじけた。
考えたって無駄なことだ。あのような頭のネジの外れた女と関わるべきじゃないのだ。
どうせ大した理由でもないはずだ。昨日見たばかりのアニメやらラノベやらに影響を受けただけとか、その程度のことだ、きっと。
しかし、なぜこんなどうでもいいことが疑問になったのだろう。
不思議だった。自分がなぜあの女に対して、興味というものを抱いているのか、と。
*
教室から戻って、クラスメイトにかけられた最初の言葉は「先生に呼ばれてたよ」だった。
「入学初日に俺は何かしてしまったのか」と不安になりつつ、職員室に向かうとそこにはクラスメイトの投票で学級委員に選ばれていた女子生徒と担任教師が俺を待っていた。
「あ、来た来た。」
学級委員と会釈を交わすのを忘れないようにしつつ、教師に本題を尋ねる。
「先生、その用事っていうのは……?」
「そのことね。そのね……」
「……」
教師が本題に入るまでの刹那、隣の学級委員の心底面倒くさそうな小さな溜息が聞こえた瞬間、俺は心のうちが後悔に溢れた。これから自分の身に起こる最大の不幸を感じ取ったからだ。きっとその不幸は俺のこの輝かしくなるであろう高校生活三年間に暗い影を落とすことになるだろうから!
「……これから私の目が届かない所であなたたち二人に、水森さんに付き添ってて欲しいのよ」
「……は?」
疑問と苛立ち。驚愕と絶望。
その全てはすぐに打ち砕かれ、現実を直視させられる。
これはただ普通の高校生活を送りたかった俺の人生の舵を異世界狂いの女子高生に握られ、全てが狂った悲劇、その一部を描いた物語である。