第1話:井戸
夜も更けてきた頃、全員が風呂に入り終わったのを見計らって、彼は懐からUNOを取り出した。
「UNOやろうぜ、UNO。」
どうしてまた唐突にUNOなんだ? とその場にいた全員が思ったが、誰もその疑問を彼に投げかけなかった。
なぜって、彼はいつも唐突だからだ。
いつだって、彼のこうした突拍子の無さが色んな事件の発端になっている。
「UNO、ルール分かるよな? 皆。」
「そりゃぁ……まぁ……うん……」
「高校時代とかは修学旅行先でよくやってたけどね。」
「学生時代以来じゃないかにゃ~、大学入ってからはあんまりそういう機会無いにゃよね~?」
彼は当然、一番にイスに腰かける。
二番目に私が、彼の隣のイスに腰かけて、
三番目と四番目に、いつも目の下にクマがある彼と、猫目の彼女が、私達の向かいのイスに座った。
「じゃ、配るな。」
「ぁあ……うぃ……」
「にゃはは~」
「ありがとう。」
配られた手札は、可もなく不可もなくといった具合で、勝ちを確信することも負けを覚悟することもなく、他三人の表情を見るに、多分彼らもまたそれは同じようで、戦いの火ぶたは切られた。
***
私達に突拍子も無くUNOを提案してきた彼と私は、高校時代からの仲だ。
彼との関係の始まりは当然、高校時代にまで遡る。
当時の私は普段、昼休みを一人、図書室で過ごしていた。
なぜ一人なのか、さらに、なぜ図書室なのか、その理由はわざわざ述べなければならないことだろうか。
まあ、そういうわけで図書室で一人本を読んで時間を潰していた私の下に、ある日突然、異物が現れた。
「あ! キミでしょ! 図書室でいっつもボッチで本読んでるって子!!!」
「あ?」
奴は、私にそう声をかけてきたのだ。しかも、質が悪い事に一切悪気もなく。
空気が読めないどころの話でないだろう。正気を疑うレベルの話だ。
当然、私は彼を無視した。
私は彼の存在を、どうせ冷やかしの類だろうと考えたのだ。
無視していればそのうち飽きていなくなるだろうと、そう考えていたのだ。
だが、違った。
彼の鬱陶しさは、むしろ悪化し続けた。
毎日、毎日、一切の反応を見せない私に対して、飽きもせず、しょうもない話ばかり投げかけてくるのだ。
昨日の夕飯は〇〇だった~とか、最近の学校は〇〇なのが面白い~とか、本当に身も蓋もない話ばかりだ。
……ああ、いや、一つだけ気になる話をしていたことはあったか。
「僕ね、冒険家になりたいんだ。」
「……」
「こうやって狭い図書室で、100年ぽっちしかない貴重な時間の一部を費やしている時、いつも思うんだ。」
「……」
「日本には井戸の中から空を見上げる人の、なんと多いことか、って。」
「……」
「そうは思わない?」
ある日、急に気になって、初めて、彼と言葉を交わした時もこの話題についてだった。
「お前は……」
「ん?」
「お前は、違うのか? お前は自分が井戸の中の蛙ではないと確信しているのか?」
彼は、凄い驚いた顔を……いや、驚きはきっと私が初めて彼に話しかけたことに対するものだろう。
驚きの中に、何かに対する絶望感ともとれる表情があったのを私は見逃さなかった。
彼は、数秒、私の顔を見つめてから答えた。
「まだ、だ。 でも……」
「……でも、なんだ?」
「井戸の中で燻っているよ、キミも、僕も。」
「……」
彼は私に手を差し出した。
「……なんだよ。」
「キミもまた、僕と同じ人間だということを、僕は知っている。」
「はあ?」
「井戸の中で燻っていて、そのことを自覚した上で、身動きの取れなくなったクズ。それが僕で、キミだ。」
「……」
「僕と共に来い。僕だけの力では無理だが、僕はキミの力を借りることで……そしてキミは、僕の力を借りることで、共に井戸から抜け出せる。」
「……」
彼の言うこと全てが理解できたわけではなかった。
むしろ、コイツは他人の癖して、どれだけ私のことを理解した気になっているのだろうと苛立ちを覚えた。
でも、なぜだか否定はできなかった。
酷く退屈だった日常の中で、初めて激しい感情が芽生えたが。
目の前の男に対する激しい苛立ちの感情が胸の内から湧いてきたが。
彼の言葉を、否定することはできなかった。
「……お前、友達いないだろ。」
「お互い様だろうに。」
私は彼の手を取った。