カビノウワサ
今年も夏が来たな、と季節の変わり目に気がつく時に、今でも思い出す出来事がある。
10年以上経った今となっては、どこまでがほんとうで、どこからが根も葉もない噂だったのかはわからない。
わからないまま、また今年も、あの初夏を思い出している。
当時私は大学生で、大学敷地内にある学生寮に入っていた。
田舎にあるにもかかわらず、日本中から集まる学生の為にかなり昔から運営されていて、豊かな緑に囲まれた環境の中で通学時間がほとんどゼロになるかわりに、門限が早かったり、異性は入れなかったりと、ルールが厳しいところだった。
第一志望の学校ではなかった為、大学や寮についてほとんど下調べを自分でしなかった私は、両親の勧めと早起きからの解放というメリットに安易に飛びついたことを、入寮初日からたちまち後悔したものだ。
だが、住めば都とは良く言ったもので、2年生になる頃には厳しいルールや先輩後輩間の独特の上下関係、役割分担にも慣れ、それなりに楽しく学生生活を送っていた。
その日はお風呂掃除の当番で、早く終わらせてドラマを観たい私達は、良く言えば手早く、悪く言えばやや乱暴に浴室や湯船にデッキブラシをかけ、洗い場の椅子を洗い、脱衣所の床をほうきで掃いた。
窓を開けていても、湿度の高い不快な空気はなかなか出ていかないように感じられて、早く梅雨が明けないかなとうんざりした気持ちになる。
最後の仕上げに脱衣所の鏡の拭き上げをしながら、誰ともなく、ふと、ある先輩の名前が上がった。
「ひーちゃん先輩、今日も講義でてなかったらしいよ。」
3年生の平井先輩は、一階の一番奥の部屋の住人だ。
「あぁ…。ひーちゃんね。朝ご飯、ここんとこ毎日1人分余ってるんだけど、たぶんひーちゃんの分なんだよねぇ。5月病、まだ引きずってるのかな。」
同じく3年生のマイ先輩が、心配そうに言った。
この寮では、前日までにキャンセルしなかった場合、朝晩の食事は基本的に寮生全員分用意されてしまうシステムなのだ。
朝ご飯も食べずに講義も休んでいるとなると、かなり体調が悪いのだろうか。
「でも、帰省後は元気そうでしたよね?」
私は、ゴールデンウイーク明けに日本各地のお土産が飛び交う談話室で、地元で彼氏と久々に会えたと嬉しそうに話していたひーちゃん先輩の姿を思い出しながらマイ先輩に問いかけたのだが、私の持っていた情報は古かったらしい。
5月の下旬には、その彼と別れてしまっていたというのだ。
その後、講義以外は自室にこもりがちになり、ぽつぽつと食事を飛ばしてしまう日が出てきて、ここ数日は朝食はおろか講義も休み始めてしまったとのことだった。
「あんまり続くようなら、寮母さんに相談かなぁ。」
マイ先輩のそんな言葉に、その場にいた面々は心配ながらも特に何のアイデアも持ち合わせていなかったため、それぞれに賛成の意を述べ、その場は解散となった。
だが、そんな話を聞いたら、なんとなくひーちゃん先輩のことが気にかかってしまうのが人情というものだ。
私自身は特別仲が良いとか、すごくお世話になった先輩という訳ではなかったけど、同じ寮に住む者同士、ちょっとした仲間意識みたいなものを持っていたような気がする。
「今朝も来てないね。」
「夜もあんまり食べてないらしいよ。」
「消灯後、自販機のとこで会ったけど顔色悪かった…。」
「最近部屋に遊びに行っても入れてもらえないって聞いたよ。」
気づけば食堂では、毎日誰かしらがひーちゃん先輩のことを話している。たまに本人が居合わせると、なんとなく気まずく、皆そそくさと食事を済ませて足早に食堂を出ていた。
この頃は、講義の空き時間に寮に戻ったとき、寮母さんがひーちゃん先輩の部屋をノックしている姿を見たこともあった。
完全に引きこもり、という訳ではなかったようだが、かなり長い時間を寮の自室で一人で過ごしているようだった。
そんな中、じわじわと季節は夏に向かい、大学生たちが試験勉強やレポートの提出に追われる時期に差し掛かった頃、ひーちゃん先輩の噂にそれまでと少し毛色の違うものが混ざりはじめた。
「差し入れ持っていったんだけど、部屋の入口、ゴミが積んであって…なんか、臭うっていうか…。」
「なんか虫が出たらしいよ、一匹じゃなくて複数だって!」
気分の落ち込みや、気圧の変化に伴う体調不良、そのあたりまでは皆ひーちゃん先輩のことを心配していたが、共同生活を送る以上、一定ラインの衛生状態を保ってもらわないと困る、というのは、多くの寮生が同じ意見だったらしい。
テスト明けのある晩、寮長・副寮長の先輩方が「部屋替え」の提案をしたらしい、という噂を聞いた。
年度末以外ではあまり無いことだが、寮内の空き部屋へ”引っ越し“をすることを「部屋替え」と言うのだ。
普通、希望したとしても学年末の時期以外に部屋替えの許可はあまり下りない。
掃除の要請ではなく部屋替えの提案というかなり特殊な事態に、これまで以上に様々な噂が飛び交った。
「壁がカビだらけだったんだって。」
「部屋の中、足の踏み場もなかったらしいよ。床が見えなかったって。」
「除湿機が壊れてたって聞いたよ。ずーっと水捨ててなかったみたい。」
「先輩、部屋から出たがらないんだって。換気しようにも窓が開かないから、あの部屋で話し合いなんてできなかったって。」
あっという間に噂は広まった。
寮のみならず、大学内にも。
「ひどいフラれ方をして、女子寮で汚部屋に引きこもって病んでる学生がいるらしい」
「部屋から夜な夜な話し声がして、妄想の中の恋人と二人だけの世界で生きてるんだって」
噂というものは、もたらされる驚きが大きいほど足が速いのかもしれない。尾ひれがつき、背びれがつき、人から人へ面白可笑しく足し引きをされて。
結局、部屋替えは行われなかった。
ひーちゃん先輩は夏休み中に大学をやめて、寮からも去っていったのだ。
ほとんどの寮生が帰省していた夏休み中に引っ越していったために、ひーちゃん先輩が去り際にどんな様子だったか、実際に目にした者はいなかったようだ。
『体調不良により療養が必要な為』
寮の掲示板に貼り出された退寮理由の文面からは、噂の真相は誰にも読み取れなかった。
この出来事で、私はひとり歩きする噂の怖さを鼻先に突きつけられた気がする。ひーちゃん先輩は、いったいどんな気持ちで寮を、大学を後にしたんだろうか。
そんな気持ちで、休み明けに一階の一番奥の部屋のドアを見つめていたら、ちょうど隣の部屋から出てきた同級生の木村さんに、談話室に誘われたのだ。
「先輩がいなくなったあと、私、夜に間違えて先輩の部屋に入っちゃったみたいなんだよ。」
「わかってる、施錠してあって入れないはずだよね。でもその時は開いてて、入れたの。」
「でね、入った瞬間、
おかえりー
って言われたの。」
「荷物も何もない部屋の、壁から。
業者が入ってカビ落としされたはずの壁に、ぼんやりシミが残ってて、声は、たぶん…そこから聞こえたの…。」
木村さんは、私の方を見もせずに一気にまくし立てるように話して、とてもじゃないけどここには居たくないから、自分は近々引っ越す予定だと続けた。
鼻腔にツンとくる刺激臭が、残暑の談話室に一瞬漂った気がした。
結局次の夏が来るまでに、私も寮を出て、アパートで一人暮らしを始めた。
あの寮の一階の一番奥の部屋がどうなったのか、知らないし知りたいとも思わない。
ただ、この先の人生で、カビと噂だけには縁遠くありたいと願うばかりだ。
湿気の酷い季節ですね。
皆様もカビにはご注意下さい。