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あぁ、嫌な臭いだ。
居間のそこら中に撒かれた灯油の異臭が、古い畳の隙間から立ち上り、鼻について仕方ない。
せめて仰向けになれたら、と安藤伸二は思った。でも言葉にできない。
麻痺した口元は涎を垂れ流し、うつ伏せのまま床に倒れた体はろくに動かず、不快な湿り気を拭うのさえ難しい。
自分じゃ若いつもりでいても、伸二は還暦間近の五十九才。
ここ数年、寄る年波で体力が落ち込み、予期せぬ危機に対して余りにも無力だ。
苛立ち任せに精一杯の唸り声を上げると、視界の外側、右耳の後ろの方から女の声がした。
「あ~ら、驚き……まだそんな元気があるんですねぇ?」
細い爪先で強かに横腹を蹴飛ばされ、黒く粘る泥濘の上を転がった弾みで、体が仰向けになる。
その御蔭で、やっと声の主が見えた。
一年前に入籍した妻・清子が、肉付きの良い頬に薄い笑みを浮かべ、上から彼を覗き込んでいる。
「あのね、あなたが隠していた危ないお薬、晩酌の肴へ仕込み、飲ませて差し上げたんです。すぐ意識が無くなると思ったのに、案外しぶといじゃないですか」
伸二より十一才年下で、皺が目立たない清子の左手には、見覚えのある鮮やかな黄色い錠剤が載っている。
あぁ、あの違法ハーブ……
2010年代に酷く世間を騒がせて以来、何度か呼び方が変わったけれど、今は何て呼ぶんだろう?
六年前、秋葉原の裏路地で買った時、ここまで恐ろしい代物だと思わなかった。
何せ、あの時は自販機のカプセル、あのガチャガチャって奴で堂々と売ってる店まであったんだから……
「う~ん、この手のお薬って、古いタイプだと効き目が弱いのかしらね? ま、良いわ。あたしの邪魔をできる程、あなた、元気じゃないから」
妻の右手には、伸二愛用の百円ライターが握られている。
おもむろに火をつけ、蹴倒した石油ストーブの上へかざした。
怖い。意外にはっきりしている意識が、こうなると却って恨めしい。
「さぁて、旦那様。お名残惜しいけれど、そろそろお別れの時間みたい」
ただ呻く事しかできない伸二の頬を清子は撫で、テーブルの上から汚れた布巾を取って、口元の涎を拭う。
「でも、全部あなたがいけないんですよ。あたしを騙したりするから」
おい、俺が何時、お前を騙した?
必死の問いかけは、意味が無い音の羅列となり、ライターを床へ近づける素振りにその呻きさえ凍りつく。
「……これはね……そう、復讐なの。あたしは全然悪くない」
自然に漏れ出す軽やかな鼻歌を聞き、亭主の怯えを清子が心から楽しんでいる、と判った。
恨みを持たれる覚えは無い。
そもそも、それ程の時間を二人は共有していない筈だ。でも、妻の瞳の奥で確かに強い憎しみが燃えている。
とても、とても長い期間……そう、千年にも及ぶ年月を跨ぎ、じっくり熟成させた密やかで果てしなき怨念……
百円ライターを掌で弄び、何度も着火しては、消す。
その繰返しの中、揺らめく炎の背後で笑う清子の舌が見え隠れした。
薬物による幻覚だろうか?
見慣れた妻の唇がいつの間にか耳まで裂けている。糸の様に細く、先端が二股に分かれた舌の先が赤く、長く伸びて……
あれは蛇の舌だ。
身の毛がよだつ光景なのに、何故だろう?
懐かしい。昔、何処かで見たような、そんな気がしてならない。
気化する油が目に染み、目蓋を閉じた瞬間、伸二の脳裏へ去来したのは、山村で僧侶や農民が逃げ惑う、遥か昔の光景だった。
広大な規模での山火事が起きている。
燃え盛る紅蓮の炎と黒煙の真っただ中、村外れにある古い大きな寺院の山門がゆっくり焼け落ちていく。
そして、迫って来る巨大なうねり。
火元と思われる圧倒的な熱量を全身から迸らせ、怒りと憎しみと、そして何処かしら哀し気な眼光を放つ大蛇が迫って来る。
俺は……街道を駆け抜け、大きな川を渡り、逃げて、逃げて、逃げ続けて、やっとここまで辿り着いたと言うのに……
幻想と現実、その両方で蠢く長い舌。
自分自身にも全く意味不明なデジャブが反復し、戸惑う伸二の中で恐怖や怒りと共に奇妙な感情が溢れ出した。
目の前で揺らめく舌に見惚れたのだ。
美しい。そう感じる。
何故だか、そう感じる自分を止められない。
「観念なさい。炎でこんがり焼かれるのが、あなたにはお似合いよ」
理不尽な幻想は清子の言葉と共に薄れ、狡猾な人間特有の笑みを浮かべて囁く妻の表情に一切の迷いは無い。
現在、四十八才になる清子と初めて会ったのは、200万の会員数を誇る婚活サイトのクリスマス・パーティ席上だ。
初回登録料十五万とパーティ参加費一万円を支払い、会場である赤坂のシテイホテルで会って一目惚れした。
担当係員によると、こんな幸運は滅多に無いそうだ。会費月額一万五千円、一人の異性を紹介される毎に別料金。一年辺り百万円近く費やすケースもざらだと言う。
でも、色事に疎い伸二には幸運とやらが、今一つピンとこなかった。
薬剤師の資格を活かし、大手ドラッグストアの支店を任されていた頃、アルバイトの女性と付き合って結婚寸前まで行ったが、深い付き合いと言えるのはその程度。
彼のそんな淡泊さは、家庭の事情も少なからず影響している。
幼い頃、父が癌で早逝。
母は六十代で若年性痴呆を発症し、介護に専念する必要からドラッグストアを退職した為、婚約中の彼女とも別れている。
木造一戸建ての住処の他、古いアパートを二軒所有していたから、不動産収入と過去の蓄財で何とか食っていけた。
徘徊中、交通事故に遭い、呆気なく母が死んだのは七年前の事である。
自分でも薄情だと思うが、内心ほっとしていた。でも、慌ただしく葬儀を終えた一か月後、いつの間にか心の真ん中に、黒い空洞がポッカリ開いているのに気付く。
酒やギャンブルに溺れ、酔っ払って夜の街をうろつく内、違法ハーブへ手を出したのもその頃だ。
帰宅後に一錠試してあっさり前後不覚へ陥った。挙句、彷徨い出た路地にて昏倒。駆けつけた警官の聴取を受けている。
何とか起訴を免れたものの、留置中に受けた医師による診断は自傷傾向を伴う鬱というもの。
それからのリハビリは結構ホネだった。アル中が特に重く、禁断症状も思っていた以上にきつかった。
半年間の入院を経、退院後、やっと生活の立て直しを目指す気になったものの、医師から処方された向精神薬の影響もあるのだろう。
今度は躁に近い状態へ陥ってしまう。
今、思い起こせば、前のめり気味のポジティブ思考に駆られるハタ迷惑な暴走オヤジと言う感じだ。
動き出したら、もう止まらない。
久々の職安へ行ったのを皮切りに、アレコレ手を出しまくった末、軽い思い付きで婚活サイトまで登録してみたのだが……
読んで頂き、ありがとうございます。
今回はジャンルに迷いました。
事件を題材にしているのは確かなのですが、全体としては幻想譚を目指しています。
やや邪道のサスペンス、楽しんで頂けたら嬉しいです。