8月6日
1945年8月6日、午前8時15分。
アメリカ軍、B-29は日本の広島上空から新型爆弾を投下した。
それが今でいう核兵器、原子爆弾であることは、すでに周知の事実である。
アメリカ大使館ノートン大使は、毎年のように広島の追悼式典に参加していた。初めて日本に来た時から、毎年、季節こそ異なれども広島を訪れる事にしている。今回は、例年の追悼式典であり、きちんと送迎も手配してくれるという手筈であったが、ノートンはいつもの癖というように、JRの横川駅を降りて、ぶらりぶらりと一人で街を歩くのを望んだ。
路面電車が走る広島の街並みは、ノートンにとってどこか懐かしさを感じさせた。
その街並みを歩く中で、かつて、自分の国が、この広島にしたこと、それが正しいのか、間違っていたのか。
思いがグルグルと頭の中でめぐっていく。
それがノートンにとっての常であった。夏の日差しが、しゃっとノートンに照りつける。
「あの、アメリカ大使ですよね」
式典会場が近付いたとき、複数人の集団がノートンに声をかけてきた。
ノートンは、何も答えずにいると、集団の中で一番迫力のある女性が、チラシを手渡してくる。
原爆被害者の会。
日本語から始まって、アラビア語までそう書かれたチラシであったが、ノートンは訝しんで眉を顰めた。というのも、その集団にいる人はどうみても30歳くらいの人たちであり、その迫力ある女性というのが、50代くらいに見えて一番年上そうであった。
「私たちは、原爆被害者の会と言います。私たちは、アメリカ大使にお願いがあってきました」
拙い言葉遣いで、女性は言ってくる。
「原爆被害者は平均年齢が、初めて86才を超えました。原爆被害者は、高齢化が深刻です」
耳にタコができるほど聞いた言葉。
確かノートンの記憶に間違いがなければ、令和3年には平均年齢は83才を超えており、当然ながらその年齢は高くなる一方である。戦争を体験した人間というのは、日本には少なくなりつつあり、そして、原爆被害者というのも日本から少なくなる。言ってしまえば、平和なことではあるのだが、悲惨さを知らない事にもなる。
この被害者の会も、そういう懸念を抱き、ノートンに直訴しに来たのだろう。
「私たちは、アメリカに要望します」
と、女はノートンに手紙を渡した。
「原爆被害者の平均年齢を下げるため、日本にもう一度、原爆を落としてください」
「なんでそうなるねん」
ニュースで「被爆者の平均年齢が初めて85才を上回った」ということで、若返ることがあるのかと思い書きました(言い訳)