悪役令嬢の恋
ベリーズカフェからの転載です。
『悪役令嬢』だなんて、誰が言い出したのかしら?
そうだった。
確か、流行の大衆小説が貴族の間でも人気が出て――
思いだし、クロエはそっと溜め息を吐く。
こういうとき公式の場で扇を持つのが嗜みの一つであることは、たいそう便利だ。
「目は口ほどに物を言う」といわれるけれど、感情を隠すなどわけもない。
一重で切れ長の目にどの殿方が映ろうと、わかるはずもないし、そこまで近づいてくる親しい者もいないから。
(ううん、違うわね)
騒がれるような子息を見ても、胸が躍るような、また、心が華やぐような経験もない。
いつも冷めた目で相手を見極めようとしてしまう。
そして、相手のちょっとした失敗などを厳しく諫めてしまうのだ。
そう、あの人以外の男性には。
今夜の舞踏会だって――
「貴女、そう確かゲンター侯爵のご息女のブレンダ様……でしたわよね?」
「は、はい……っ、ご、ごきげんようクロエ様」
クロエに話しかけられてブレンダと呼ばれた令嬢は、強張った表情に無理矢理笑みを乗せ、挨拶をする。
「ごきげんよう」
貴族の間でも爵位による階級で、如実に身分差がある。
クロエの父もブレンダの父も同じ『侯爵』。従って対等な関係である。
だからこそ、クロエは許せなかった。
扇をひらめかせながらブレンダに近づく。ブレンダは緊張に顔を引きつらせつつも懸命に笑みを浮かべている。
クロエは嫌な相手にも笑みを作ろうという彼女の努力に敬意を表するも、気分は落ち込む。
それでも言わずにはいられなかった。
ブレンダの耳元まで顔を寄せ、扇越しに囁く。
「その手袋……夜会用ではございませんわね。袖のないドレスを着用なさるのでしたら作法にかなった物を着用なさいませ」
「……っ!? も、もうしわけございませんっ。す、すぐに替えてまいります」
自分の失態にブレンダは可哀想なほど顔を真っ赤にしたり青くしたりしながら、挨拶もそこそこに会場を後にした。
(途中までは淑女らしく頑張っていてよかったのに、あんなに動揺してしまったら今夜の噂の的になってしまうわね)
クロエは扇越しから、そっと辺りを見渡す。
周囲ではヒソヒソと声を落とし、囁いている貴族令嬢たち。
話している内容は一様に同じだ。
――まあ、また始まったわ。クロエ様の「虐げ」が。
――あらいやだ。「貴族社会の礼儀作法を指南」ですのよ。
――完璧な貴族令嬢の作法をお持ちのクロエ様ですものねぇ。
――けれど、厳しすぎではありません?お若いうちは間違いの一つや二つございますでしょ?
――間違いを起こすようでは社交界に出る資格はない、というのよきっと。
そして、最後にはこう侮蔑と憎しみを籠めて言い合うのだ。
――さすが『悪役令嬢』様よね、と。
クロエはまた扇越しにそっと溜め息を吐くと、それは優雅に淑やかに、一人になれるバルコニーに向かった。
◇ ◇ ◇
いつもこう。
どこへ行っても、ついつい人のあら探しをしてしまう。
そしてお節介。
最初は『礼儀に厳しい侯爵令嬢』や『お節介な方』悪くて『ありがた迷惑』なんて囁かれていた。
それでも指摘は的を射ているので皆、注意を受け入れてくれたと思う。
おかしくなったのは――
「クロエ様」
せっかく悪口から逃げてきたというのに、わざわざ自分を見つけて声をかけてきた令嬢にクロエは笑みを浮かべ振り向き、ドレスの裾をもち最上級の挨拶をする。
相手は侯爵令嬢より格上の王太子妃となる令嬢だ。
「ソレンヌ様、お声かけいただき光栄に存じます」
「私たちは親友同士。どうか楽になさって」
確かに王立学園に通っていた頃は、彼女と学友だった。そして同じ親友のアロイス王太子との婚約が決まるまではそうだった。
今は二人、王族であり、クロエは臣下として礼儀を尽くさねばならない。
「しかしながら……」
そう躊躇っていると「お願い」と哀しい声が落とされる。懇願されると弱い。
では、とクロエは顔を上げる。
会場の明かりが逆光になっていてソレンヌの姿が一瞬、影のように見えたが目が、慣れてくると相変わらずの彼女の美しさに目を奪われる。
暮夜の時なのに、腰まで流れる金の髪は光がこぼれ落ちているように思える。
白地にピンクの薔薇が飾られたドレスはシンプルだが、彼女によく似合う。
蒼穹の瞳に通った鼻筋。そして潤いのある薄桃色の唇。
『妖精姫』と通称されるだけあり、儚げな美しさなのに存在感がある。
「存在感」はきっと、王太子に選ばれたという自信から生まれたのだろう。
半年ほど前の彼女も美しかったけれど、今のような高尚なイメージはなかった。
どちらかと言えば、可愛らしさが上回っていた。
ソレンヌはクロエの横に並ぶと扇をたたみ、王宮のバルコニーから望める景色を眺める。
クロエもそれに習う。
月が高く上がり、白々としたほのかな明かりで城下町を照らしている。
右には河川があり、それも月明かりを受け燻し銀に光っている。
キラキラとこの国はおとぎ話のように美しい、クロエはそう思う。
「美しい国よね、そう思わない?」
「ええ、本当に」
ソレンヌの感極まった言葉にクロエも同意する。
「この国の王太子妃になっていずれ王妃になる……憧れていたけれど、わたくしがなるとは思わなかったわ。もっと相応しい方が大勢いたでしょうに。――貴女のように」
「冗談が過ぎますわ」
クロエは驚きつつ、否定する。
「アロイス王太子様は、わたくしのことは親しい友人の一人でございました」
そう、友人の一人だった。ソレンヌといるといつも声をかけてきて、二人の間に入ってきたアロイス。
自分とアロイスは幼なじみで、小さい頃から顔見知りでよく遊んだ仲だ。だからその延長線沿いで話しかけてきてもおかしくはない。
けれど――思えば、彼が学園内でしょっちゅう声をかけてきたのはソレンヌと話したかったのだろう。
花園の乙女とも月の女神とも呼ばれた彼女とお近づきになりたい者は、男女問わず大勢いた。アロイスは自分にも平等に話しかけてくれたが、それは王族の一人としての、臣下の娘の一人として接していたのだろう。
「貴女はこの国の作法も完璧で、語学も堪能、王家の補助をするための勉強も完璧だったわ」
「そのようなことは、やる気さえあれば後からでも習えばできることです。ソレンヌ様だってこの国にいえ、アロイス様に相応しい妃になろうと努力なさっている。今のソレンヌ様は努力がその身について誰よりも輝いて見えます」
「貴女にそう言われると頑張ったかいがあったわ」
ソレンヌが扇を広げ嬉しそうに笑う。
「だってわたくし、クロエ様に散々作法について注意を受けたもの。だから『負けるものか』って思って最上級の作法を身につけたのよ。おかげでアロイス様に情けをかけてもらえるようになって、親しくなったわ」
「それはソレンヌ様の懸命に習う姿にアロイス様が心を打たれたからです。すべてソレンヌ様の地道な努力が実を結んだ結果ですわ」
そう、彼女は男爵令嬢として貴族の一員であったが、金にあかせて爵位を買い取ったのだ。
だから学園入学時は目も当てられないとまではいかないが、なかなか酷いマナーだった。
(そういえばそこで注意をして、ソレンヌに懐かれたのが友としての始まりだったわね)
そう昔を懐かしみながら楚々と答えるクロエに、ソレンヌは面白くなさそうな顔をして扇を仰ぐ。
「……つまらない方ね。でもわたくしは王太子の婚約者になった。わたくしの勝ちだわ」
「『勝ち』……?」
疑問詞を浮かべて見つめてきたクロエに、ソレンヌは勝ち誇った笑みを見せ、会場へきびすを返す。
バルコニーのガラス戸前でいったん止まり、ソレンヌは口を開いた。
「知っていて? 『悪役令嬢』は誰が言いだしたのか?」
「それは大衆で人気の小説の話ではありませんか?」
「そうよ。今では貴族の間でも流行っていますでしょう? ……あれね、わたくしが『この話の令嬢はクロエ様と似ておりますね』って口を滑らしてしまったの。だってとても似ているのですもの。挿し絵もさることながら『人の欠点を上げつらねして周囲の笑いものにする』っていうところが」
「……存じておりました。なのでご心配なきよう」
驚くのだろうと思っていたのか、それとも動揺するのかと。
けれどクロエはすべてを悟っているかのように淡々と返してきたのにソレンヌは腹立たしかったのだろう。
『美しく優しくかつ気高く』と繕っていた仮面が剝がれた。
振り返りきつい眼差しをクロエに向ける。王太子妃になる前によく見た顔だわ、とクロエはソレンヌに上品に微笑んで見せた。
「そのような俗悪な表情はお隠しなさいませ。いつどこで足を引っ張られるかわかりませんから」
「……心にとめておきましょう」
ソレンヌは忌々しそうに言うと、会場に戻っていった。
◇ ◇ ◇
ちょっと荒々しくガラス戸を閉めたけれど、以前よりも八つ当たりが少なくなったようでよかったとクロエは思う。
(それにしてもどうして私が、王太子妃候補だったような言い方をしたのかしら?)
確かに自分の父は現国王陛下の重鎮で門閥貴族だ。閥族のクロエと彼とは幼い頃から顔見知りで、兄妹のような関係だ。まだ彼の婚約者が決まっていなかった頃、代理でパートーナーをしていたくらいで恋愛関係になったことなどない。
(もしかしたら陛下と私の両親との間で、そのような話があったのかしら?)
自分が王太子妃に選ばれたら、おそらく家門と国の名誉にかけて王太子妃としての責任を全うしようとするだろう。
けれど――アロイスとの間に愛が育まれるといったら首を傾げてしまう。
今の今まで、二人の間に婀娜めいたやりとりなど発生したことなどないからだ。
(……それに、私の容姿は見栄えがよくないもの)
クロエは扇を閉じ、そっと自分の頬を撫でる。
祖母似の、烏の濡れ羽色の髪とこの国で降ることのない雪という真っ白な肌は賞賛に値するものだという。
しかし、一重の細い瞳とそれに見合うような小さな瞳に、低い鼻は顔を扁平に見せ印象が薄かった。
クロエは遠い東国の血を引いていた。
祖母が留学でこの国に来て、祖父と恋に落ちたのだ。
国交を結んでいた国同士なので、結婚はすんなり決まったと聞いている。
問題はその後。
祖母の国とこの国の礼儀作法は、天と地ほどの違いがあったらしい。
言葉の違いもさることなら、お辞儀一つとってもやり方が違う。食文化も違うのでマナーも違う。
身に羽織る衣装一つさえまるで違い、着替えにも苦労したのだ。
祖母は当時の姑である祖父母と、まだまだお元気な曾祖母二人に徹底的に貴族マナーを教え込まれたという。
それは時に厳しく……というものではなく、何もかも厳しく一度たりとも褒められたことなどなかった。それでも祖母は挫けなかった。
『全く違う生活習慣の中に飛び込んでいったのですもの。覚悟はしていたわ』
と、当時を振り返りながら祖母は物静かに話す。
覚悟をしていた祖母は、二人の厳しい教えに負けなかった。
結果、完璧に言語を覚え、マナーも覚え、国の貴族としての誇りも身につけた。
細い腰と背筋の伸びた美しい立ち振る舞いは当時の社交界で注目を浴び、時の人となった。
――だからこそ、孫のクロエにも相当厳しくマナーを教え込んだ。
それは孫の将来の為を思ってのこと。
(……お祖母様、不安だったのでしょうね。わたくしがお祖母様似だったから)
醜女ではないが、どうしても見劣りしてしまう顔立ちに。
だからこそ、他に取り柄ができるよう習い事や作法にダンス、ありとあらゆるものを習い、完璧に習得した。
そして「開かれた教育を」と、新しく開校した学び舎にも入学した。
そうなると、どうしても周囲の令嬢の足りない部分が気になってしまう。
「こうすればもっと綺麗な立ち姿になるのに」
「あの方は歩き方を変えれば、歩く音が五月蠅くなくなるのに」
「髪飾りのあの色は今日の会食では禁色のはず」
等など……
別に自分が恥になるわけではない。
(だって、ねぇ……勿体ないのよ。皆さん恵まれた顔立ちをしていらっしゃるのに、いえ、そうでなくても所作一つで美しくなるご令嬢たちがたくさんいらっしゃるのに)
こう考えて、また一つ溜め息を吐く。
(こういう小姑ぽいところがなのに、いけないわ)
でも『人の欠点を上げつらねして周囲の笑いものにする』というのは、全くのでたらめだ。
注意はしたけれど笑いものにした覚えなどない。むしろ周囲に悟られないようにソッと言うことのほうが多かった。
結局、相手が大げさに頭を下げるものだからばれてしまうのだけれど。
ふぅ、とまた溜め息。
「溜め息ばかり吐いて、幸せが逃げてしまうよ」
「ルイス様」
つらつらと考えに耽ってしまっていて、傍にまで近づいていた彼に気づかなかった。
淑女らしくない失態に、クロエは慌ててお辞儀をする。
ラングフォード公爵ルイス。彼は現国王の末の弟だ。
王弟だが後継者争いを起こさないために自ら辞退し、公爵の爵位を授かり今は王室属領だった島々を受け取っている。
ルイスは側室である妃の息子で、少しでも争いの種にならぬよう考え、国王に十八の歳に申し出たのだ。
王弟といっても国王と十八の年の差があるため、まだ二十八。男としてまだまだ盛りだ。
顔立ちは国王やアロイスに似ており、母である赤みのある金髪を受け継いでいる。
自分と九つほどの年の差なので、クロエにとって兄代わりと言っても過言ではなかった。
「そんなに溜め息ばかり吐くなら、アロイスのこと、諦めなきゃよかったのに」
ルイスが持ってきた飲み物をクロエに渡す。クロエはありがたく受け取る。
けれど、クロエの顔は困ったように眉を下げるだけだ。
「そう申されても、これだけは仕方がありませんわ。わたくしは選ばれなかった。そして選ばれようとも思っておりませんでしたから」
「……君とアロイスは物心ついた頃から一緒だろう? 私はてっきり王太子妃は君だと思っていたよ」
「アロイス様の心を射止めるご令嬢が現れなかったら、そうなっていたと思います。しかし、彼は自分の意思で伴侶をお決めになった。わたくしはそれでいいと思います」
「クロエは、アロイスのことをなんとも思っていなかったのかい?」
ルイスの問いに、クロエはさらに眉尻を下げる。
それを見てルイスは、自分はこの質問をするべきでなかったと謝罪する。
「すまない、あまりに失礼な問いだったね」
「いえ、ルイス様の他にもそう問いかける方々が大勢いて……少々辟易しておりました。確かにわたくしはアロイス様を囲む友人中では異性で一番近い位置におりましたから、『王太子妃候補』と思われても仕方がありません。でも、信じていただけるかわかりませんが、わたくしとアロイス様との間は『兄妹』といってもいいくらいの気持ちでございましたの」
――だからわたくしは貴方に誤解された。
クロエはその言葉を飲み込んだ。
「そうか……クロエがそう言うのだから、そうなのだろう」
ルイスは軽く頷く。
「ルイス様だけでも納得いただけてよかった。わたくしが何度もそう申しても皆様、信じていただけなくて。それも何度も吐く溜め息の要因ですの」
「そうだったのか。いや、クロエも大変だったね。でも、アロイスが選んだ婚約者を心配する声を多いんだ。それは知っているかい?」
クロエは扇を広げ、頷く。
「それは杞憂となりましょう。ソレンヌ様――彼女は、ああ見えて大変な努力家です。きっとアロイス様の助けとなり、この国の素晴らしい国母となりましょう」
「ふむ、クロエがそう言うのなら大丈夫だろう。君は彼女の学友だったし。ただ今はアロイスに夢中だからそうだろうが、いずれ我が出てこないかと案じている」
「まあ……人は変わっていくものですから。これからソレンヌ様がどう変わっていくかは彼女とその周囲次第でしょう」
クロエは、その辺りは断言できず言葉を濁した。
「おそらくこのままだと君は、ソレンヌ様の唯一無二の親友として彼女を支えていく役割を担うことになる。――できるかい?」
ルイスの言葉にクロエは答えることができない。
おそらく周囲からそういう役割を背負わされ、彼女の友人として陰日向支えていくことになるだろう。
けれど、ソレンヌはそれをどう思っているのか?
ただでさえ『小姑』扱いのポジションで今では『悪役令嬢』という不名誉な名も付けられている。
その異名を付け広めたのは、他でもないソレンヌだ。
学生時代にああだこうだと礼儀に関して口うるさく言ったのが「感謝している」と言いながらも、内心は気にくわなかったのだろう。
現国王も王妃も、またアロイスもおそらく、慣れない王宮の規則に戸惑うソレンヌのために自分を傍に付けようと考え、またそれを実行しようと考えるだろう。
しかし、それを反対する者も出てくる――この『悪役令嬢』という噂を気にかけて。
新しい王太子妃の周囲も不名誉なことがあってはないらない。蔑称がついている自分を外すだろう。
ソレンヌは意趣返しと同時、自分が王太子妃となったときクロエが近づかないように裏で手を回していたのだ。
「それに関しては既に父がお断りをしておりますし、わたくしもそうお願いしました。ソレンヌ様は対話の能力が高うございます。きっと新しい環境の中でも自分を見失わずにやっていけましょう」
「……そうか、そうなのか……しかし、クロエ。君はそれでいいのか?」
ルイスが神妙な顔をする。
「何がです?」
「その……君が陰でなんと言われているか知っている……。その出元も私は把握している。せめてそれだけでも払拭すべきだと思うが」
「いいのです。わたくし、王宮の中枢にいたくありませんから」
「そうなのか?」
そう尋ねるルイスにクロエは口角を上げる。
「だって中枢にいたらまた余計なお節介をやいて、今度は『悪役侍女』とか『悪親友』とか囁かれそうですもの」
「なるほどな」とクロエの言い分に、ルイスは快活に笑った。
「それに、わたくしも普通の女性として……」
クロエが恥ずかしそうに口ごもる。それはあまりにの小さな消え入りそうな声でルイスは「ん?」と耳に手を当てた。
「何を照れているのかな? 私には恥ずかしくて言えないこと?」
「あの」「その」と何度も同じ言葉を吐き出していくうちに、クロエの顔は真っ赤になっていく。
「……わたくしだって、もう十八……その、恋を、したいのです」
「あっ」と声を上げルイスは気が利かなくて済まないというように頭に手を当てた。
そんな何気ない動作も、クロエにとっては胸をときめかせるばかりだ。
――ここで言わなくては。今がいい機会だもの。
二人っきりのバルコニー。舞踏会の喧噪はガラス戸に締め切られている。向こうの声もこちらの声も聞こえない。
「だ、だからわたくしも……ソレンヌ様のことばかり、気にかけていられない、と……」
――どうか、気づいて。
クロエは心の中で願う。
「そうだったね、クロエだってもう婚約者くらいいたっておかしくない。お相手は父上であるエイブリング侯爵が探しているのかな?」
「おそらくは……でも、私残りの人生を添い遂げられる方は……自分で、選びたい……」
「さすがクロエだ。自分の意見をしっかりと持っている」
――遠回しでは駄目。
――彼は私は、自分の意見を言える令嬢だと思っている。
(なら……)
クロエは思い切って扇を外し、赤く火照った顔でルイスを見上げた。
細い目だって小さな目だって言われて蔑まれても、彼は「個性」だと言ってくれた。
祖母似の華やかさに欠けるこの容姿を前にしても彼の態度は変わらなかった。
いつもいつも「可愛いお姫様」と私の手を取ってくださった。
私の努力は王太子妃になるためじゃない。
あなたの――妻に相応しくあれと。
「……あっ、あの……っ」
「ルイス様、ここにいらっしゃったのね」
ガラス戸が開いて、一人の令嬢がやってきた。クロエの知らない女性だ。
彼女は当たり前のように、それが当然のようにルイスの腕を取る。
「急いで、貴方に紹介したい方がいるの」
と、ぐいぐいと会場へ戻そうとする。
クロエと彼女が目が合う。
彼女は「無作法でごめんなさい、でも急いでいるの。あとで改めて謝罪に伺うわ」とだけ告げる。
クロエは突然の彼女の登場に口を挟めなかった。
いつものクロエだったら、こんな無作法な登場をしてきた彼女についつい礼儀を教えるだろう。
けれど石のように固まってしまい、口も身動きもとれなくなってしまった。
ただ、親しげにルイスの腕を掴んでいる箇所に釘付けになっていたのだ。
「ちょっと待ってくれ! 私の要件が済んで……っ!」
「そんなの、あと!」
令嬢はよほど焦っているのか、鬼気迫る表情でルイスを引っ張っていく。
「クロエ、済まない。また改めて……!」
「……はい」
クロエはそう返事をするだけで精一杯だった。喉が震えて気の利いた言葉なんて出せようもなかったから。
二人が会場に戻って、クロエは一人きりでバルコニーに佇む。
腰が抜けてその場に座り込んでしまいそうになるのを必死に耐え、柵に体を預ける。
気がつけば、金色の輝きで辺りを照らしていた月は薄雲に隠れていた。
今はキラキラ棚引かせる波も闇に染まり、なんとも心細い光景が広がる。
まるで今の自分の心のようだ――
クロエたった今、自分を優しく照らしていた月を無くした。
ルイスを――
力強い日の光で人々を照らす太陽のようなアロイスより、包み込むような柔らかな光の月のようなルイスがクロエは好きだった。
(思えば当たり前だわ。ルイス様は誰にでもお優しい。それはわたくしにだってそう。ルイス様にとってわたくしは他の令嬢と同じ存在なのだわ)
数ある女性の中で彼は見つけたのだ。自分が照らし続けたい女性を。
それが今の令嬢なのだ。
視界がかすみ、それが大きく揺れるとポロリと滴が頬に流れる。
「いけな……っ、お化粧が崩れて……っ」
ハンカチを出すも、もう限界だった。
今は薄闇だ。自分に気をかける者は誰もいない。
だって自分は『悪役令嬢』だから。
クロエは空に向かって泣く。
「……っふ、うっ、ぅう……っ」
こんな冴えない顔の令嬢なんて
お小言ばかりの、小姑みたいな令嬢なんて
流行の悪役令嬢のような令嬢なんて
――ルイス様に好かれるはず、ない。
(わたくしが可哀想だと思って、こうして声をかけてくださるだけ)
ぽろぽろと細い目から流れる滴の、なんて多いことか。細かろうがなんだろうが流す涙の量は誰も同じなのだろうか?
これだけ涙を流すのは初めてで、クロエもよくわからない。
完璧じゃない、どこか抜けている令嬢の方がきっと目を引いてくれる。
だけど、それはできない。
できるのは、それを許され、守ってあげたくなるような可愛い容姿の女性だ。
自分には似合わない。
一層のこと、王太子妃の側付きを承諾しようか?
そしてソレンヌ含む、彼女の周りの令嬢たちを徹底的に絞って、本当にあざ笑って『悪役令嬢』と呼ばれるに相応しく演じてみようか?
「……ふっ、ふふふ……っ。それも一つの生き方よね……」
泣き笑いする。
投げやりになっている自分に驚き、そしてそれも勇気がでなくてできないだろうという結論にいたる自分がとことん嫌になる。
いざとなったら何もできない気弱な自分。
「もう、いやだぁ……」
初めて弱音を吐いた。
こんな容姿も嫌い。
こんな性格も嫌い。
わたくしの全部が大嫌い。
このまま消えてしまいたい――
「クロエ……?」
「……えっ?」
いつの間にかルイスが戻ってきていた。
驚いて泣きはらした顔をさらしてしまう。
それを見てルイスは何故か、怒りの色を顔に出した。
いつも穏やかな表情でいる彼の変化にクロエはたじろぐ。
「誰だ?」
「えっ?」
「誰に泣かされた?」
そう憮然としながらクロエに近づき、ハンカチで彼女の頬や目尻を優しく拭ってくれる。
怒りを露わにした表情と裏腹に、自分に接するその手は相変わらず優しくて、クロエはその対比に戸惑う。
「あ、あの……こ、これは……」
「やはり、ソレンヌ様の悪意のことが嫌だったか?」
「い、いえ……」
「では、他の子息に嫌な目に遭わされた?」
「そ、それも……」
「クロエ、君は相手を思いやれる人だ。でも、自分がつらい目に遭ったらそれを堪えなくていいんだ。君は優しすぎる」
「……でも」
この涙の原因はルイス、貴方だと言いづらい。
そう口ごもらせていたら、違う方向に勘違いしたのかルイスはさらに剣吞な顔をした。
「クロエさえ言えない者の仕業か……だとしたら君より身分の高い者なのだろうね」
「えっ、ええ……まぁ……そう、です」
濡れた頬を拭う丁寧さと差のある表情に、クロエは思わず後ろに引いてしまう。
かなり怒っている。
「クロエ、大丈夫。私がその者に異議を申し立て謝罪をさせよう」
「い、いえ……そんなことまでは」
「いや、駄目だ。大人しく黙っていなくてもいい。君を泣かせるなんて万死に値する」
(ええ……貴方を想って涙を流したなんて……い、言えないっ!)
「さあ、誰のか話してほしい。一体どんな酷い言葉を浴びせられたんだ?」
矢継ぎ早に「泣かした犯人を」述べるように言われ、クロエは混乱しどうしようもなくなって俯いてしまった。
ルイスには、それが誰かを庇いたてているように思えたのだろう。
それとも、身分の差で言えなくて口を閉ざし震えているように見えたのかもしれない。
「私のクロエに……許せない……!」
――えっ?
「今、なんて?」
クロエは顔を上げ、迫る。
ルイスは自分の失言にようやく気づいたようで、瞬時に顔を赤くした。
「いや、その……」
「誤魔化さないでください。はっきりとこの耳に聞こえました。それはどういう意味ですの?」
クロエは、今までにしたことのないほど積極的にルイスに迫った。
もしかしたら――という期待に体は抗えなかったから。
「んん」とルイスは顔を朱に染めながら咳払いをすると、深呼吸をする。
幾分落ち着いたのか、いつもの穏やかな目つきに戻っている――まだほんのりと顔が赤いが。
そうして決意を乗せた表情でルイスは、真っ直ぐとクロエを見つめた。
「それは、クロエ。貴女が私の心をとらえて離さない唯一の女性だからだよ」
ルイスの告白に、先ほどのは違う衝撃がクロエを襲う。
固まってしまうのは同じだが、哀しみや痛みはないし、それどころかふわふわして一歩踏み出せばその場にしゃがんでしまいそうになるものだ。
心が騒いでいる。まるで体中から花が生まれ咲き乱れている気分になる。
たったこれだけの台詞で今までの哀しみがどこかへ飛んでいってしまったが、まだ聞きたいことがある。
その返答次第でまた奈落の底へ落ちてしまうのだ。素直に喜ぶのはまだ早い。
「で、でも、先ほどの女性ととても仲のよいご関係に見えました」
「ああ、ネムローズのことだね。あの子は私の母の親戚なんだ。領地で、ある騎士に恋をしたのだけれど、すぐに王宮へ戻ってしまったそうだ。それで泣きつかれて今夜の舞踏会に連れてきたんだ。もしかしたら警備として配置されているかもしれないし、また招待されているかもしれない。そうしたら見つけたようで、未婚の女性が自ら自己紹介なんてしたらはしたないと嫌われそうだからと、急いで私を引き連れて言ったという訳なんだ」
「まあ……そうでしたの」
本当にタイミングが悪かった、と肩を竦めるルイスにクロエは頬を緩める。
「それで、クロエを泣かしたのは誰?」
今なら言えるだろうと踏んだのか、ルイスは再び追求を始めた。
自分も言うべきだろう。クロエは扇を握りしめありったけの勇気を籠め、告白した。
「ル、ルイス様です」
「私が?」
目を大きく開いて驚いているルイスに、クロエは言葉を繫いでいく。
「ネムローズ様と仲のいい様子を見て、わたくし……哀しくなってしまったのです。ルイス様のわたくしに向ける優しさは誰にでも向けるもので、わたくしだけではなかったのだと改めて思って……。ネムローズ様こそルイス様のお相手なのだと……」
「クロエ」
「――っ」
ルイスが近づいたと思ったときには、温かな感触が頬に当たった。
彼の唇の感触だった。涙で冷たくなっていたせいかそれが殊の外温かく感じる。
今度はしっかりと両肩を掴まれ、自然に目を合わせる。
こんなに近い場所で見つめ合ったのは初めてで、クロエは緊張する。
彼の整った顔立ちと自分だけを見つめる瞳に、もう哀しみの底に沈まなくてもいいのだとクロエはまた泣きそうになる。
「それは、私のことを憎からず想っていてそれで泣いたということでいいんだね?」
「はい……ずっとずっと、お慕い申し上げておりました」
「クロエ」
ルイスが名を呼びながら一歩下がると、その場に片膝を立てしゃがむ。
そうしてクロエの手を取った。
「愛している。一生貴女だけを愛すると誓おう。どうか、私と共に人生を歩んほしい」
「……はいっ、どうかよろしくお願いします」
ルイスの顔がくしゃりと歪む。緊張から解き放たれて心の底から安堵したような、そんな顔だった。
「ああよかった。私の一世一代の求婚がうまくいって」
立ち上がり、ルイスはクロエを抱きしめる。急な展開におたつくクロエだったが、彼の温もりと匂いに包まれ、その心地よさにそろそろと彼の背中に腕を回す。
「本当にわたくしでいいのですか?」
「貴女でなくては駄目なんだ」
「こんな口うるさい、冴えない顔のわたくしでも?」
「クロエの言うことは真っ当で口うるさいとは思わない。それに冴えない顔だなんて誰が言ったんだ?」
ルイスの大きな手がクロエの両頬に触れる。もっともっと近い距離にクロエの胸は早鐘をうち過ぎて壊れそうだ。
でも、彼から目が離せない。きっと自分は、ほろ酔いしたような表情で彼を見つめているに違いない。
彼もそんな顔をしているから。
「クロエは可愛いよ。特に私に向ける笑顔といったら最高で、誰にも見せたくないくらいだ」
「本当に?」
「ああ、これからは妻としてずっと私と笑っていてほしい」
「……わたくしの顔にも長所があったのですね」
「お馬鹿さん。クロエはもっと自分の魅力を知るべきだ。――まあ、私が知っていればいいことだけど」
顔が近づいてくる。クロエはそっと瞼を閉じる。
初めての口づけはほんの少し、涙の味がして、
「しょっぱい」
と、思わず口走ってしまった。
目を瞬かせルイスと目が合い、自然に笑いが零れる。
その後、エイブリング侯爵家息女クロエは王太子妃ソレンヌの側付きや王宮の教育係としての執拗な勧誘をすべて断り、ラングフォード公爵ルイスの元へ嫁ぎ、彼の領地で生涯を過ごした。
たまに夫婦そろっての王宮へ出向いたときには皆、彼女の完璧な礼儀作法と、立ち振る舞いに感嘆の息を漏らした。
特に時々見せる幸せそうな笑顔は夫への愛が感じられて、皆が皆自分たちの夫婦関係を見つめ直すきっかけとなり、貴族間で「おしどり夫婦」という言葉が流行った。
なお王太子夫妻結婚後、王太子妃の細かな悪事が露見し一時期険悪だったが、今はラングフォード公爵夫妻に負けまいと――いや、触発されてたいそう仲睦まじくなっているそうだ。