譲らない二人
◇
「こんにちは、フィリアさん」
そんな明るい挨拶と共に現れたのは、ぼさぼさの薄茶色の髪をした、けれど優しげな顔をした街の青年──アレフだった。フェルト生地のベレー帽を下ろして胸に当てつつ、店に入ってくる。
「いらっしゃい、アレフさん。空いている席にどうぞ」
「はい」
フィリアが促せば、アレフはにこりと微笑んでカウンターの隅に座った。
もともと店の常連だった彼とは、その人当たりの良さも相まって、この数日ですっかり仲良くなっていた。
今では、世間話を出来る仲でもある。
「今日はなににします?」
「えーっと、シチューと、パンをお願いします」
「かしこまりました」
今日もおんなじメニューだわとフィリアは微笑ましい気持ちになった。よっぽど好物なのだろう。彼はほとんど毎回、同じ料理を食べて帰っていく。
早速注文をマリへ通し、フィリアは別の客人に食事を運んだ。
と、店の隅で絵本を開いていたエーリヒと目が合い、その物言いたげな表情を見てフィリアは歩み寄った。
「エーリヒ」
「お母さま」
そうして、見上げてきたエーリヒと視線を合わせるようにしゃがむ。
アレフに新しい本を借りたいのだろう。
アレフは、店の近所で小さな貸本屋を営んでおり、フィリアもエーリヒのために利用させてもらっていた。
〝あの夜〟は気が動転していたため、数着の服と幾らかのお金しか持ち出せず、エーリヒの玩具は今、ぬいぐるみひとつだけだった。だからフィリアはせめてと、アレフの店で絵本を借りてエーリヒに渡していたのだ。
「アレフさんのお食事が終わったら頼みましょうね」
そう小さく声をかければ、エーリヒはぱっと顔を輝かせる。その愛らしい笑顔が、今はとても切ない。
──この子には、寂しい思いをさせているに違いない。
そう思い、フィリアは落ち込む。エーリヒはグレンにとても懐いていた。
けれどこれからは、父親と離れ離れの生活になる。
生まれてからずっと当たり前のようにいたお手伝いさんもいなくなって、食事も着替えもお風呂も全て自分でしなくてはならなくなって──家族は、フィリアだけになった。
その生活の変化が、フィリアは心配だった。
今は新しい生活を物珍しそうに楽しんでいるけれど、この先もそうだとは限らない。
フィリアは、もっと深く慎重に息子の未来を考えなければいけないのだ。
「なにか、悩みごとですか?」
ふと声をかけられ、フィリアははっと顔を上げた。
気づけば、アレフが心配そうにこちらを見上げている。
「すみません。難しそうなお顔をされていたから」
「いえ、ちょっと考え事をしてて……」
愛想笑いをすれば、アレフが意を決したみたいに言った。
「あの。俺じゃ頼りにならないかもしれないですけど、街の案内とか、エーリヒ君の遊び相手くらいなら出来ると思いますからいつでも言ってください」
「そんな、ありがとうございます」
「そうだ、良かったらこの後新しい本を持ってきましょうか? 今エーリヒ君が読んでるの、もう読み終わっちゃったでしょう」
「でも、ご迷惑じゃ」
そんな問答をしている最中だった。
「フィリア」
背中に届いた聞き知った声に、フィリアの動きが止まる。
「遅くなってごめん。今日は急な会議が入っちゃって」
振り返るまでもない。グレンだった。
「おいでなすった」とマリが厨房でぼやき、エーリヒが走ってくる。
「お父さま! いらっしゃいませ!」
「いらっしゃいませって…………ああ、エーリヒ。今日もかわいいね。お昼はもう食べた? お母さまが休憩になったらアイスを食べに行こうか」
「アイス!」
「食べ物で釣らないで」
フィリアは言って、グレンを振り返る。
「やっとこっちを向いてくれた」
とたん、迫るように距離を詰められて、フィリアは後ずさる。
「あ、あなたね、毎日毎日、こんな遠くまで来て暇なの? お仕事があるんじゃないの?」
「全部終わらせてきた。問題ないよ」
春の風のようににこやかに微笑まれ、フィリアは唇を噛み締めた。この男の押しの強さは、人一倍だったと思い出す。
けど、もう絶対騙されたりしない。
警戒心全開で、フィリアはグレンと間合いをとった。
──先日、居所を突き止められてからというもの、グレンはこうして毎日店に顔を出していた。
帝都からこの街までは馬で駆けても二時間はかかる。にも関わらず、グレンは一日も欠かさず店にやってきては、「そろそろ帰る気になった?」とフィリアとエーリヒを迎えにきていた。
どれだけ謝ったって、絶対戻らない。
フィリアは今日こそ離縁を承諾してもらわなければと、グレンに囁く。
「後少しで休憩だからそこで待ってて。……書類は持ってきてくれた?」
「まさか」
と、その光景を眺めていたアレフが、不思議そうに首を傾げる。アレフとグレンは、初対面だった。
「あの、フィリアさんこの方は」
「夫のグレンです。初めまして」
グレンが遮るように言って、アレフはさらに目を丸くした。
「え? あなたがフィリアさんの?」
「ええ。妻と息子がお世話になっております」
他所行きの笑顔を浮かべながら、グレンはアレフの手を取り、半ば無理矢理握手をした。アレフは、されるがままだ。フィリアは慌てて、グレンの腕を引っ張りアレフから遠ざける。
「ちょっと、お客さんに変なことしないで」
「挨拶をしてただけだよ。──そうだ、フィリア」
グレンは言いながら、エーリヒを抱き上げる。
「今日は馬車でエーリヒの玩具も持ってきたんだ。君の今の家に運んでおいてもいいかな」
「え……」
「もちろん戻ってきてもらうつもりだけど、その間エーリヒの玩具がぬいぐるみひとつだけじゃ可哀想だからね」
「……そう、ね」
「決まりだ。ああ、家には上がったりしないから安心して。玄関のところに置いておくよ」
「……ありがとう。でも、よりは戻さないから」
「……」
「……」
沈黙する二人は見つめあい、グレンから折れた。
「……玩具を届けたらエーリヒとアイス屋さんで待ってる」
「……ええ」
そろそろ仕事に戻らなくちゃと言いかけたフィリアに、グレンは少しだけ寂しそうに言う。
「それと、ごめんねフィリア。明日は仕事で来られそうにないんだ」
「別に、来てなんて頼んでないわ」
「……そうだったね」
これも同情を引こうという作戦かもしれない。
フィリアはその手には乗らないとグレンから目を背けた。