絶対に別れたい妻と、絶対に別れたくない夫
「探したんだよ、フィリア!」
言いながら、エーリヒを抱き抱えたままのグレンが歩み寄ってきて、フィリアは悲鳴をあげそうになる。
「ど、どうしてあなたがここに!」
「どうしてって、決まってるじゃないか。君を迎えにきたんだよ。ああもちろん、エーリヒ、お前も──無事でよかった」
息子を愛おしそうに見つめて頬にキスをし、しかしすぐにフィリアに向き直る。
よほど馬を飛ばしてきたのか、いつも涼やかな顔をしていたグレンの額からはいく筋もの汗が伝い、髪もぐしゃぐしゃ。服も、いつもの軍服ではなく、シャツにベスト、ズボンといったシンプルな出立で。
しかしそれでも天性の美しさを損なっていないところが恐ろしかった。
グレンを半眼で眺めまわしたマリが、ボソリとつぶやく。
「……うわあ、とんでもない色男じゃん。クロだわこりゃ」
マリの存在が認識出来ないのか、グレンは真っ直ぐにフィリアだけを見つめたまま早口に捲し立てた。その顔が心なしかやつれているように見えたのは、気のせいだろうか。
「あの夜は本当にごめん。君を傷つけた。でも、お願いだ。少しだけ話を聞いてくれないか。全部誤解なんだ、戻ってくれ」
「誤解?」
フィリアはさっと眉をひそめる。
「キスをするって、どんな誤解なの? あんなに寄り添ってたのに?」
「あれは、向こうが急に」
「相手のせいにするなんて最低! もう、エーリヒに触らないでよ! 返して……!」
「フィリア……!」
フィリアは腕を伸ばしてグレンからエーリヒを取り返す。
間に置かれたエーリヒはきょとんとして、父を睨む母と、困り顔の父とを見比べる。仲の良い両親の姿しか知らないエーリヒは、初めての喧嘩を前に状況がよくわかっていなかった。
「お母さま、怒ってるの?」
「ええ。とてもね」
言ってフィリアは絶対に許さないとグレンを睨み上げる。
「でも、来てくれてちょうど良かったわ。離婚の手続きもしたかったところだし」
「離婚って、フィリア! 冗談だろ?」
「冗談なわけないでしょ。書類を用意して欲しいの。前にも言ったけど、エーリヒは私が育てるから安心してください」
「そんな……!」
グレンは見るも哀れなほど慌てふためく。自業自得じゃない、とフィリアはそっぽを向いた。その耳に、情けない声がかかる。
「ふ、普通、話し合いが先だろ? 彼女と僕はなんでもないし、僕が愛しているのは君とエーリヒだけだ!」
「口ではなんとでも言えるもの。とにかく私はもう決めたの! 別れてください」
「い、嫌だ。僕は絶対別れない。サインもしない」
「……現行犯のくせに」
「現行犯って……!」
にべもないフィリアに、グレンはそれでも懸命に食い下がる。
「…………わかった。わかったよフィリア。いや、離婚は絶対しないけど。せめて話は聞いてくれないか。──それでも万がい……億が一……気持ちが変わらないなら、僕も多分……きっと、考えるから」
「ふわっふわだな」
つい突っ込んだマリをこれまたシカトして、グレンはその場に両膝と両手を突く。エーリヒがとたん、顔を明るくした。
「おとうさま、お馬さん?」
「絶対乗っちゃダメよ。嘘つきが移るから」
「エーリヒ、フィリア……頼むから話を聞いてくれ」
打ちひしがれるグレンと、テコでも動こうとしないフィリアに、マリがやれやれと重い腰をあげた。
「あのさ、あんまり他人様のことに首を突っ込みたくはないんだけどさ。子供のこともあるし、落ち着いて話し合った方がいいよ。あんた達」
言って、マリはフィリアに抱かれているエーリヒに両手を伸ばした。
「おいでエーリヒ。おばちゃんとお外で遊ぼう」
「! はい!」
「マリさん、でも」
「子供に聞かせる話じゃないでしょ。お店使っていいからさ。あ、ただし三十分だけだからね、元・旦那さん」
「元じゃない」
四つん這いになったまま、間髪を容れず返したグレンは、けれどそのまま頭を下げる。
「でも、場を貸してくれてありがとう。助かります」
「……事情はわかりませんけどこれ以上フィリアを傷つけないでくださいね」
マリは言って、エーリヒを連れて表へ出る。
店の看板をクローズにして、扉は閉められた。
二人きりになったフィリアは、距離をとりつつ、カウンターの端に座る。
グレンは床に座り込んだまま、神妙な面持ちで口を開いた。
「えっと、まずは僕から話しても……?」
「どうぞ」
「ありがとう」
緊張を解そうとするかのようにグレンは深呼吸をした。
それから「あの夜は」と話し始める。どんな立派な言い訳を聞かされるのだろうと、フィリアは唇を噛み締めた。世界の誰よりも頼りにして信じていた人を、今は疑うことしか出来ないのが、とても悲しかった。
「……あの夜は、男友達とカードゲームの約束をしてて──これも信じて貰えないかもしれないけど──メンバーが揃うのを待ってたんだ。そしたらジニーが、えっと、ほら、君も知ってるだろう? 軍の仲間の。ジニーが、その……彼女を連れてきて、それから…………話して」
グレンがそこで言葉を詰まらせたのは、言いづらいことだからだ。
フィリアは意地悪を自覚して、グレンを見下ろす。
「それから? キスをしたの?」
「違う。……彼女とは昔、その、付き合いが、あって」
「知ってるわ、恋人だったんでしょ?」
「っどうしてそれを」
「親切な人に教えてもらったのよ」
「親切な人?」
グレンが不可解そうに眉をひそめる。
「誰だ? そいつが君に何か吹き込んだのか」
「あなたに関係ない。で? 彼女が懐かしくなったのね。綺麗な人だったものね。仕方ないんじゃない?」
「フィリア。彼女とは話をしてただけだよ、本当に。そうしたら急に近づかれて……それで……」
「キスをしたのね」
グレンは片手で顔を覆い「すぐに拒否した」と掠れた声で呟いた。被害者面が鼻をつく。
「再会は本当に偶然だったし、もう二度と彼女と会う気はない。何度でも言う、僕には君たちだけだ」
「……信じられない」
「フィリア」
「ごめんなさい、でももう無理なの」
グレンを愛していたのは事実だ。そして、その捧げた愛情の分、苦しみも増していく。
「話は終わり?」
「っ……待ってくれ。そうだ、ジニーに会ってくれないか? そうしたら偶然だったってわかるだろ?」
「彼はあなたの友人だもの。口裏を合わせられたら、私に真実はわからないわ」
ああ、どうして見に行ってしまったのだろう。
あの青年の言葉に耳を貸さなければ、あの光景を見なければ、幸せのままでいられたのに。
「フィリア、お願いだ。信じてくれ」
「エーリヒを授けてくれたことには、感謝しています」
「……! フィリア」
「お願いです。離婚してください。これ以上失望させないで」
「……」
グレンは唸り、大きく息をした。
「無実を証明出来きたら、考え直してくれるか?」
「え?」
「君が僕を疑うのは、僕のこれまでの素行に不安があったからだろ? そうならないように気をつけていたつもりだけど、足りなかったんだ。全部僕が悪い。でも、僕は勝手だから、君もエーリヒも諦めたくない。だから、必ず潔白を証明する」
凛とした眼差しに射抜かれて、フィリアは心を揺らされそうになる。
まさか、本当に彼は……
「仕事を見つけちゃったみたいだけど、当面の生活費は渡しておくよ。でも、絶対にまた一緒に暮らそう」
グレンは言って立ち上がり、ベストの隠しから取り出した分厚い封筒をテーブルに置いた。
「また来る。愛してるよ」
そのまま外に出て、そこで遊んでいたエーリヒとマリと言葉を交わし、ややあって、馬が遠ざかる音がした。
残されたフィリアは、これで良かったのだろうかともやもやを抱える。
と、表からエーリヒと共に戻ったマリが言った。
「今絆されそうになってたでしょ」
「え」
「やっぱり」
「……そんなわけないじゃないですか」
「じゃあ離婚はしてもらえるのね?」
「あ……!」
なんだかんだと、保留にされてしまったのだ。
思い出して、フィリアは頭を抱える。
次こそ、絶対に承諾してもらわなければいけなかった。