鳥籠からの脱出
そのまま軍で丁寧に手当てされ、骨にも異常はないと診断されたフィリアを、けれどグレンは解放してはくれなかった。
「送っていく」
そう言って、当時フィリアが住んでいた部屋まで護衛された。その道中もずっと手を握られていて、とても恥ずかしかったのをよく覚えている。
「あ、ありがとうございました」
助けてもらった上に、遅くまで付き合わせてしまった。
グレンにとってはなんてことはない、仕事の一部に過ぎない事案なのだろうけど、やっぱり申し訳なくて、恐縮する。
と、部屋に灯りもついておらず、静かなのを訝しんだグレンが言った。
「……ご家族は?」
「いません。今は一人暮らしです。祖母が去年の夏に亡くなって……」
両親は物心ついた頃には亡く、幼い頃から祖母と二人暮らしだったのだと告げると、グレンは秀麗な顔をしかめた。
「危なくはないのか? 何か、困ったことは」
「今のお仕事に就いてからは収入も安定していますし、友達もいますから、平気ですよ」
だから大丈夫です、と繰り返しても、グレンはひそめた眉を元に戻してはくれなかった。
「大丈夫って言う子はだいたい大丈夫じゃないんだ。これも何かの縁だし、僕が非番の時や時間がある時は送るよ」
「そんな……ほんとうに大丈夫ですから」
今までもずっと一人で暮らしてきたのだ。
グレンは普段、貴族の御令嬢や奥方と接する機会が多いから、女の一人暮らしを心配しているのかもしれないけれど、フィリアはそんなにヤワじゃない。
そう訴えても、グレンはちっとも聞き入れてはくれなかった。
せめて顔の怪我が治るまでとか、女性が遭遇する犯罪率の話だとか、色々なことをそれらしく言いくるめられて、フィリアは仕方なく折れた。
でも、それが間違いだったのかもしれない。
騎士団の食堂では噂になり、からかわれ、送り迎えをされる時は「寄り道をしよう」と誘われて素敵なレストランやカフェに連れて行かれるようになった。
数多くの女性を虜にしてきた百戦錬磨の男を相手に、初恋もまだだった小娘がぐらつかないわけがなく──フィリアがしっかりと恋に落ちるのに、そう長い時間はかからなかった。
優しくて、色んなことを知っていて。さらに甘い瞳で見つめられては、もう駄目だった。
フィリアは日に日に増していく恋心を懸命に抑えつけ、グレンとの適切な距離を測っていた。
そうしてぐらぐらと心を揺らされ、惹かれながらも、告白しようなどとは微塵も思わなかった。
身分が違いすぎたし、何よりグレンは貴族と思われる女性と一緒にいることが多かったからだ。
「恋人が長続きしない」「フィリアちゃんも遊ばれないように気をつけろよ」なんて周りの騎士たちもよく騒いでいて、──しかしそれさえ、グレンに恋するフィリアは、彼が魅力的すぎるからだなんて、盲目的に思い込んでいた。
なにも見えていなかったのだ。
彼の隣に立つことは叶わないだろうけれど、ほんのひととき、──今日の天気や、美味しいご飯屋さんが出来ただとか、そんなたわいない話を出来るだけで、満足だった。
けれど、何がどう間違ったのか。
ある夜、フィリアはグレンから愛していると告白された。最初は戸惑い、からかわれているのだとわかって笑い払おうとすれば、真剣な瞳で「真面目に聞いて」と返された。
「身分が違う」「私とあなたじゃ釣り合わない」「そもそも、好かれる要素がわからない」
そう言って断ろうとしたけれど、グレンは送迎を言い出した時と同じで、ちっとも引いてくれなかった。今思えば、口説き慣れていたのだろうと思う。
「身分なんてどうにでもなる」「僕は君が好きだ」「勇敢で一生懸命で真面目な君が。──一緒にいたい」
もともと、告げるつもりのない恋だった。
けれど、好きな相手にこんなにも求められて、揺らがないでいられる人がどれだけいるだろうか。ましてやフィリアは、初恋だった。
「少しだけ、時間をください」
それでもフィリアは返事を保留にし、何日も迷って、長期任務から戻ったグレンが自分を見てほっとしたように微笑んでくれたのを見て────付き合う決断をした。「よろしくお願いします」と頭を下げれば、グレンは大袈裟に「一生大切にする」と言ってフィリアを抱き上げた。
それからは夢のような日々が続いた。
もともとフィリアの一人暮らしによくない顔をしていたグレンは、フィリアが風邪を引いたのをきっかけに自分の屋敷に住まわせ、まもなくしてフィリアはエーリヒを懐妊した。
どうしようと戸惑い泣きじゃくるフィリアを宥め、グレンはすぐに籍を入れてくれた。フィリアの体調を気遣いつつ、食堂の常連だった騎士や友人を集めて結婚式まで挙げてくれて。
それからずっと、最初の誓い通り、グレンはフィリアを、そしてエーリヒを大切にしてくれた。
仕事で帰りが遅いこともあるけれど、帰宅すれば一番にフィリアのもとへ来てくれたし、
時折、彼にまとわっていた女性物の香水の匂いに不安そうにすれば、時間をかけて仕事の相手だと説明してくれた。
「僕には君だけだ」
過去にはたくさんの恋人がいたけれど。
これから先の未来は全て君だけのものだと、フィリアは熱心に告げられた。
だから信じていた。
あの夜までは。
「おめでたいことですね。何も知らず、知らされず、知ろうともせず」
数日前のことだ。グレンに同伴した夜会で、フィリアは見知らぬ男にそう声をかけられた。なんのことだろうと首を傾げれば、「見た目通り、頭が悪いんですね」と嘲笑される。
グレンは飲み物を取りに行ったきり話しかけられ、足止めされていた。
この青年は誰だろう、失礼があってはいけないと困惑するフィリアに、彼はなおも言った。
「無知なあなたに教えて差し上げましょう。ご主人はね、昔別の女性と結婚する予定だったんです。でも、あなたが懐妊したせいで、話は流れた。相手の女性は、今もグレンさんを想っています。もちろん、グレンさんもね。そして二人は今あなたに隠れて会っている──」
フィリアは咄嗟に言い返した。
「……っ。そんなわけない。グレン様に聞けばわかることだわ」
「ええ。どうぞ。本当のことを言うとは思えませんけどね」
嫌な人。
フィリアは不快になって、一歩退いた。
「失礼いたします」
グレンのところへ行こうと歩きかけたフィリアに、青年は近すぎる距離で、頼んでもいないのに、次に二人が会う予定の場所と時間を告げてくる。
「信じているのなら行く必要はありませんが、──信じているのなら、行けますよね?」
「……あなたは誰? 何がしたいの?」
「別に。お相手の女性が可哀想でならないのです、それだけですよ」
フィリアは男の話を信じていなかった。
でも、場所と時間が嫌にリアルで、胸がざわめく。
今言われたことをグレンに相談すれば、彼はきっと、いつもみたいに時間をかけて説明して、フィリアを安心させてくれるだろう。
(いつもみたいに……?)
──何も知ろうとしていない。
突然、青年に言われた言葉が棘のように胸に突き刺さった。
少し、見るだけ。
そこが会員制の店だと知らなかったフィリアは、入り口で揉めてしまったけれど。店の奥でくつろぐ夫を見つけ、その隣にいた女性の存在を見つけた時、頭は真っ白になった。
グレン様は、私とエーリヒを裏切っていたの?
いつから……?
とたん、思い出の何もかもが色褪せてしまった。もう何も信じられない。フィリアは眠るエーリヒを抱き抱えると、着のみ着のまま鳥籠のような美しい屋敷を飛び出した。
そして誓った。
もう二度と、絶対に──絆されたりなんかしないと。
◇ ◇ ◇
「でもさあ、真面目な話、どうすんのこれから。まさかこのままってわけにはいかないでしょ」
昼のピークを過ぎ客のいなくなった店内で、カウンターに腰掛けたマリが言った。
グレンの素性はぼかし、簡単にこの街に流れ着いた経緯を話し終えたところだった。
マリは店先で蝶を追いかけるエーリヒを見やる。
「あの子のことだってちゃんとしなきゃだしさ。あんたのことだから慰謝料もいらないとか言い出しそうだけど、いい? 生活費は別よ? 貰えるものはちゃんと貰っておかなきゃ」
「ええ、そうですよね」
フィリアも言って、我が子を見つめる。
これからはあの子と二人で生きて行かなくてはいけない。そのためにもお金は必要だ。会いたくないなんて言ってられない。
「次のお休みにでも、きちんと話しに行こうと思います」
「随分口が立ちそうな男みたいだけど、今度は絶対流されちゃ駄目よ? なんなら私もついて行こうか?」
「大丈夫ですよ」
自分はそんなに気弱に見えるのだろうか。
だとしたら、もっと気を張らないと。
もう二度と、グレンの口車には乗らない。
決意したフィリアの耳に、エーリヒの愛らしい笑い声が聞こえる。
「おとさま……!」
え?
おとう、さま?
「おむかえまってました!」
店先で歓声をあげる息子を、抱き上げる男がいた。
フィリアは愕然として、その背の高い男を見上げる。
どうしてここに。
「フィリア、やっと会えた……!」
馬から降りたばかりなのだろう。
髪を乱したままのグレンが、感極まったように瞳を潤ませていた。