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ひとりでも


 ◇



 夫の元から飛び出して、二週間。



 フィリアは、ようやく仕事にありつくことが出来ていた。


「今日もよろしくね、フィリア」

「はい、頑張ります!」


 そこは、帝都から馬車を乗り継いでたどりついた街にある、小さな料理店だった。


 店の主人──マリはとても明るい女性で、フィリアが子連れと知るや否や「ワケありなんだね」と住む場所まで紹介してくれた。

 現在フィリアは、エーリヒと二人で小さな家を借りて暮らしている。   


 以前と比べれば生活は雲泥の差だけれど、あのままグレンと暮らし続けることはどうしても出来なかった。顔を見るのも辛かった。グレンがあの、綺麗な女性とキスをしていた瞬間が忘れられなくて。

 薄暗がりの店の中。

 お酒と香水の匂いが充満していた大人の空間で、二人は、とても絵になっていた。


「……」


 その光景を思い出しそうになるたび、フィリアは思考を懸命に切り替えた。

 彼とは別れる。

 もう決めた。

 ここでの生活基盤を整えたら、離縁状を貰いに行って、終わりにする。

 彼がなんと言ってもだ。

 フィリアはそう決意し、店の隅に目を向ける。


(あの子からは、父親を奪ってしまうことになるけど……)


 仲の悪い両親がそばにいるよりは絶対にいいはずだ。


「マリさん、これ誰かわかりますか?」

「ええー、難しいね」


 ようやくマリに慣れてきたエーリヒが、描いた絵を彼女に見せているところだった。どう見ても犬にしか見えない動物を、マリだと言い張っている。フィリアは苦笑しながら二人に近づいた。


「こら、エーリヒ。マリさんを困らせちゃダメよ」

「はあい」


 この子を守るためにも、自分がしっかりしなくては。


 グレンに似たクセのない黒髪を撫でながら、そっとため息をこぼす。将来、性格まで父親に似るのだろうかと思うと、少しだけ気鬱だった。


 

 二週間前までは、こんなことになるだなんて思いもしなかった。

 フィリアはただただグレンに愛されて、幸せだったのに。


 優しく大人で包容力があって、騎士団でも頼られている、誰からも羨ましがられる素敵な夫。

 でも、だからこそ女性からの人気は絶えなくて、愛されているとわかっていても、いつだって不安は拭えなかった。


 思えば、グレンは独身の頃からとてもモテていた。


 それなのに貴族でもお金持ちでも美人でもなく、平凡な自分と結婚してくれたのはきっと


 と思い、フィリアは次は何を描こうかとマリに相談している我が子を見つめた。

  

 ──この子が出来てしまったからだ。


 そうでなければフィリアは数多くいた彼の恋人の一人で終わっていたことだろう。

 


 グレンと出会った3年前。

 フィリアが17になったばかりの、あの時に。





 ◇ ◇ ◇



 騎士団の食堂での仕事は、職業斡旋所から紹介されたものだった。

  

「割りがよくて人気なんですよ」


 そう職員に言われた通り、食堂での仕事は勤務時間に対して確かにお給金が高く、祖母を亡くし、かつかつの生活を送っていたフィリアは、ようやく人間らしい生活に戻ることが出来た。本当にありがたかった。


 客である騎士団員も気さくな人たちばかりで、勤めだして半年も過ぎた頃には、冗談を言い合えるような知り合いも出来た。


 グレンとは、その頃知り合った。


 彼は当時から騎士団の中でも一際目立っていた。

 と言うのも、背は高いし、顔は美術品みたいに綺麗だし、しかも任務では功績を挙げ続けていたしで、皆が注目するのも無理はないことだったのだ。


 フィリアも週に二、三度訪れるようになったグレンを接客する時、あまりの綺麗な顔に、ドキドキしていた。

 注文をとったり、食事を提供して「ありがとう」と微笑まれると、その一日幸せな気分になるほどだった。


「毎日頑張ってるね」

 

 そんな風に褒められて、嬉しかったこともよく覚えている。


 その仄かな憧れがはっきりとした恋に変わったのは、フィリアが暴漢と遭遇してからのこと。勤務中だった彼に助けられたことがきっかけだった。

 後にも先にも彼に怒鳴られたのは、あの一度きりだったと思う。

 本気で怒ったグレンは、とても怖かった。



 ──下町の裏路地は、近道にはなるけれど人目が少なく、犯罪の温床にもなっていた。


「最近事件が多いからフィリアも気をつけてね」


 食堂でグレンにそう忠告されていたにもかかわらず、その日残業したフィリアは、勝手知ったる狭い路地に入った。暮れかかってはいたがまだ陽は残っていたし、前方には子連れの女性も歩いていて大丈夫だと思ったのだ。

 しかし。


「……っきゃあ!」


 フィリアを後ろから追い越した男の影が、真っ直ぐに子供を連れた女性を襲い、女性と子供は転倒した。その隙に、男は子供の腕を掴み、担ぎ上げる。

 母親は半乱狂になって叫んだ。

 連れ去りだ。


 助けなければと、フィリアは咄嗟に男に覆い被さっていた。


「離しなさい!」

「……っ! なんだ、お前!」


 男の振り払った肘がフィリアの頬に当たり、はじき飛ばされそうになる。けれど絶対に離してなるものかと、フィリアは男に食いかかった。


「その子を、離しなさい!」

「くそ!!」


 激昂した男が懐から刃物を取り出すのが見えて、流石に怯んだ。その時。


「フィリア!!」


 名を呼ばれたとたん、強く腕を引かれ、男から引き離される。

 代わりに、大きくて広い胸に背中ごと包まれた。


「確保しろ」


 すぐ頭上から鋭い声がして、顔を上げる。

 と──


「君の耳は飾りか? 危ないからここは通るなとあれほど言っただろう!!」


 食堂では見たこともない厳しい顔つきをしたグレンが、フィリアの両肩を強く掴んで振り向かせ、大声で怒鳴った。

 フィリアは怖くなって、涙しそうになる。


「ご、ごめんなさい。でも、子供、子供が──」

「……っああ、わかってる。大きな声を出して悪かった」


 グレンは言って、フィリアを抱きしめた。もう怖くないと諭すように頭を撫でられる。


「……でも、君は、見た目よりずっと勇敢なんだな。肝が冷えたよ」


 周りでは、グレンの部下が男を縛り上げ、連行している。

 慌ただしい視界の端で、子供の無事を確認し、フィリアは安堵した。母親に泣きつく少女には、怪我もないようだ。

   

「よかった」


 呟いたフィリアに、グレンの不満そうな声が被さる。


「よくない。──軍に来てもらうよ。せっかく可愛い顔をしてるのに痣になってしまう」


 男の肘鉄を食らった頬が、今更のように痛み出して、フィリアは慌てた。


「だ、大丈夫です。これくらい」

「駄目だ。うちの軍医は優秀だからちゃんと診てもらおう。おいで」


 有無を言わせずグレンはフィリアの手を引く。綺麗な顔に似合わない、骨ばった大きな手をしていた。


 

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