長い夜
どうして、こんなところに。
「フィリ」
「離婚してください。エーリヒは私が育てます」
名も呼ばれたくはないという風に冷たく言い放ったフィリアは、グレンが今まで見たこともないほどの機敏な動きで踵を返した。
そのまま、逃げるように去っていく。
「ちょっ! 待ってフィリア!!」
高級クラブにそぐわない大きな声に、周囲が怪訝な視線を向けてくる。
構わずグレンはフィリアを追おうと立ち上がる。が、エリザベトに腕を掴まれ、引き止められた。
「離してくれ」
「待ってグレン、私たち、次はいつ会えるか分からないのよ? 夫の監視が厳しくて……」
「ああ、それなら心配いらないよ。もう君と会う気はないからね」
言って、エリザベトの手を振り払いグレンは出口を目指した。背後でエリザベトが叫ぶ。
「グレン! 待って……!」
くそ。
絶対見られた。
だからあんな反応を。
フィリアの怒りに満ちた眼差しを思い出して、グレンは急ぎ長い廊下を駆ける。
軍の任務でだって、こんなに焦ったことはなかった。
秘密の会合や政務にも使用される館は迷路のように複雑に入り組んでいて、グレンの瞬足を鈍らせる。
「あら、グレン様。もうお帰りに?」
「一杯付き合ってくださいな」
到着したばかりの知人女性に呼び止められるが、構ってなどいられない。
視線すら合わせず、グレンは真っ直ぐにエントランスへ向かった──が、時すでに遅く。
深夜の街を、黒い一台の辻馬車が影のように走り去っていくところだった。
「はあ……」
帰路に就く馬車の中で、グレンは頭を抱えていた。
最悪だ。
フィリアを傷つけた。
たかだか、昔の女のことで。
フィリアにどう弁解しようかと、あれやこれや言い訳を考える。
しかし、キスを見られたことがどうしても仇となり、思考が詰まった。
「くそ」
だいたい、どうしてフィリアがあんなところに……
記憶は曖昧だが、フィリアのそばには侍女も従卒もついていなかったと思う。
──だとしたら、フィリアは一人きりであのクラブにやってきたということだろうか?
こんな時間に?
思って、グレンは別の問題に頭を悩ませた。
危機感がなさすぎる。
平民育ちのフィリアは、以前から事ある毎に「大丈夫ですよ」となんでも自分でやろうとする節があったが。今夜は夫の──自分の浮気を勘繰り、ここまでやってきたのだろうか。
「……」
しかしそもそも、どうして浮気を疑われたのだろう。
エリザベトと再会したのは偶然だったし、思い返せば、タイミングが良過ぎた気もする。
確かに、グレンは女友達の多い方だったが彼女たちとは食事を共にしたり、夜会でダンスやゲームに興じたりするくらいで、そんなのは社交の範疇だった。それはフィリアも理解しているはずだ。
──フィリアと結婚する前は、恋人がひっきりなしだったこともあったけれど、彼女と一緒になってからは誓って不貞は働いていない。
グレンは、胸が躍るような恋も、ヒヤヒヤする駆け引きも、とっくに知り尽くしていた。
あれはもういい。
今はただ安らかで平凡な、フィリアと息子との生活を心から望んでいた。
なのに。
「……誰かが、彼女に吹き込んだな」
自分に恨みを持つ者の犯行か。
あるいはエリザベトの手先か。
既婚者になり、子供をもった今でも、グレンを火遊びに誘う女性は絶えなかった。それをグレンは難なく躱してきたわけだが。──今夜は相手がエリザベトで、油断した。
屋敷が近づいて、馬車の速度が落ちる。
いや。今はともかく、謝らないと。
世界一心安らぐ場所だった屋敷が、今はまるで戦場のようだった。
居住まいをただしたグレンは、従卒が扉を開けるのを待って、馬車のステップを降りた。
──しかし、またしても時すでに遅しで。
「ただいま……フィリアは、帰っているか?」
恐る恐る尋ねたグレンに、出迎えた老齢の執事とフィリア付きの侍女が蒼白になって告げる。
嫌な予感は、的中した。
「それが」
「先ほどから、奥様とおぼっちゃまの姿が見当たらなくて」
「……は?」
頭が真っ白になるグレンに、フィリアのものと思われる走り書きが手渡される。
奪うようにひったくったグレンは、その冷たい文字に、心臓を捻り潰されそうになった。
〝グレン様。
今までお世話になりました。慰謝料も財産の分配も結構です。ですから、二度と私たちに関わらないでください。これからはエーリヒと二人で生きていきます。ありがとうございました。 フィリア〟
「そんな……」
あんなことで、と一瞬思ってしまった自分を恥じる。
フィリアにとっては、あんなことではなかったのだ。
グレンと違って、フィリアは自分以外の男を知らない。
下町で育った平凡な娘で、騎士団の食堂で働いてさえいなければ、出会うこともなかった。
エリザベトとの恋に敗れ、やさぐれていたグレンを癒し和ませ、家族という幸せをくれた娘。
『グレン様』──と。
どんなに遅くなっても起きて待っていてくれたフィリアの笑顔が脳裏に浮かぶ。
一人息子のエーリヒにも惜しみない愛を注ぎ、グレンの仕事にも理解を示してくれていた、真面目で勤勉で、誠実な娘。
そうして、真面目で勤勉で誠実過ぎたからこそ、グレンとエリザベトの距離が許せなかったのだろう。
あるいは、エリザベトとの過去も知っていたのかもしれない。
「いつ、いなくなった?」
執事と侍女長に唸るように尋ねる。
「この時間だ。そう遠くは行っていないと思う。探してくれ」
屋敷中の召使いを総動員し、持てる人脈を使い、捜索に当たる。
自分以外に身寄りのないはずの彼女は、どこへ行ったのか。
無事でいてくれと柄にもなく神へ祈る。
いつになく夜を長く感じた。
けれどそれは、グレンの帰りを待ち侘びるフィリアの、いつもの夜なのかも知れなかった。