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どうしても

 ◇ ◇ ◇


「なんですって? ダンが?」

「はい。ずっと家にいて、フィリアさんには近づけませんでした。……すみません」


 そう言ってうなだれた弟──ポールを振り返って、エリザベトは秀麗な顔を歪めた。早朝、私室で身支度を整えているところだった。


 手に持っていた口紅を膝の上におろして、悔しさに歯噛みする。


「グレンが手を回したのね」


 せっかく彼が絶対に仕事を抜け出せない日を選んで、あの女に弟を近づかせたのに。



 どうして上手くいかないの。



 ポールも険しい表情を浮かべて、敬愛する姉を見下ろした。家を守ってくれた姉は、ポールにとって誰よりも幸せになって欲しいと願う相手だった。


「まずいです、姉様。グレンさんもダンさんも僕の存在に気づいています。昨夜ゆうべはダンさんの部下に捕まる前に逃げることは出来ましたが……もし、フィリアさんが本当のことを知ったら、戻ってきてしまうんじゃ」


「落ち着いて。今考えるから」


 エリザベトは痛む頭に手を当て、思考を巡らせた。


 あの女は変わらずグレンを拒否しているようだし、一番の難関である夫もここ数日は大人しくしている。


 となれば、真実があの女に伝わる前にグレンがさっさと自分を選んでくれればいいのだ。思って、エリザベトは自信を取り戻した。


 そうよ。あんなキスくらいでグレンを捨てる女より、私の方がよっぽど彼に相応しい。私の方がずっと彼をわかってあげられる。だって私たちは付き合っていたのだから。


 グレンとの楽しかった過去を思い出して、エリザベトの胸は高鳴った。身分も釣り合い、気が合って、色んなことを知っていて、なんでもそつなくこなすグレン──。


 誰と比べても、あんなに素敵な男性はいなかった。


 だからエリザベトはどうしてもグレンと縒りを戻したかった。


 彼と結婚出来れば元の貴族身分を取り戻せるし、なによりきっと彼との生活は楽しい。少なくとも、夫との退屈な暮らしよりは確実に。


「大丈夫よポール。姉様に任せて」


 エリザベトは蠱惑的な笑みをこぼす。


 ──ひと月前。新しく任命された第一騎士団の団長がグレンだと知った時、エリザベトはひどく後悔した。どうして三年前のあの時、彼を選ばなかったのかと。


 実家の救済は必要だったけれど、グレンだって高位貴族には違いなかったのに。エリザベトはグレンを捨てて、ルノアを選んでしまった。


 あの時は、ルノアの莫大な資産に安心を感じてしまったのだ。


 けれど、いざ始まったルノアとの結婚生活は退屈以外のなにものでもなく、エリザベトはグレンを選ばなかったことを何度も何度も後悔していた。彼が騎士団長となってから殊更だった。


 大丈夫。計画はきっとうまくいく。

 なぜならグレンは恋多き男性だからだ。常に刺激を求めていて、新しい世界を望んでいる。エリザベトと、同じだ。


 それなのにあんな平凡な娘と結婚してしまったのは、彼を捨てたエリザベトへの当て付け、あるいは子供が出来てしまったからだろう。


 昔からグレンは、他人の恋人には手を出さないなど変なところで義理がたい男だった。だから、身寄りもなく身籠ってしまったあの女を放っておけなかったのだ。そうに決まっている。

 

 エリザベトは正義にも似た想いで、フィリアから解放してあげようとグレンに近づいた。


 そうして計画通り、フィリアは家を出て離縁を迫っているというのに。


 ──どうしてまだ別れないのよ。 


 エリザベトは、何通も送っている恋文の返事が来ないことにも焦り始めていた。グレンに振り向いて欲しかった、どうしても。


 彼が頑なに離縁を拒んでいる理由を考え、エリザベトはひとつの答えに辿り着く。


「……もしかしてグレンは、子供を手放したくないのかしら」


 だとしたら。方法はある。グレンの未練を完璧に断ち切る方法が。

   

 エリザベトは悪魔みたいなアイデアに満足して、さっと口紅を塗り上げた。ドレスも化粧も髪型も完璧。これで、誰よりも美しく見えるはずだった。




 ◇ ◇ ◇


 明け方の公園でダンと別れた後。邸宅に戻ったグレンは湯を使い、そのまま仮眠を取るためにベッドに入った。


 徹夜の仕事は珍しくもなかったけれど、心は思った以上に疲弊していたらしい。やわらかなベッドに上掛けもかけず寝転がったとたん、グレンは意識を手放していた。



 しかしその数十分後、眠りは妨げられた。

 執事が、フィリアとエーリヒが戻ってきたと告げにきたからだ。



「フィリア!」


 寝巻き姿もそのまま、ベッドを降りたグレンは、フィリアの待つ彼女の私室へ駆け込んだ。


「……寝てたの?」

「っごめん、朝まで仕事だったから」

「……そう」


 夜遊びかと。

 もう疑うことさえしないフィリアは、彼女が気に入っていたソファに浅く腰掛けていた。そっけない言葉も視線も、家の中だとより壁を感じてしまい、グレンはそれ以上近づけなくなる。



 フィリアはいつもそこでくつろぎながら、エーリヒに本を読んであげていたのに。



 執事も侍女も下げた二人きりの空間で、グレンは片手で寝癖を整えながら、向かいに腰を下ろした。空気からして戻ってきてくれたわけではないのだろう。だとしたら、離縁の話に違いない。


 エーリヒは乳母に託していると言ったフィリアは、グレンを真っ直ぐに見つめてきた。


「急に押しかけてごめんなさい。でも、ちゃんと話したいと思って。これからのこととか」

「うん、来てくれてありがとう。本当は僕から行かなくちゃいけなかったのに」

「……グレン?」


 いつもの勢いがないグレンを不思議に思ったのか、フィリアが首を傾げる。グレンは少しだけ微笑むので精一杯だった。


 こうして目を合わせて話せば、やっぱり好きだと思うし、安堵してしまう。そばにいたいし、いて欲しい。けれど、だからこそ彼女の希望を叶えなければいけないと思った。先延ばしにするべきではない。

 グレンはゆっくりと口を開いた。


「フィリア。あれからもたくさん考えたけど、やっぱり僕の考えは変わらなかったよ。僕は、君ともエーリヒとも離れたくない」


 開いた膝の上で握り合わせていた手に、知らず力が入ってしまう。フィリアの視線が、そこに注がれていた。


 ──前に言ったね、無実を証明出来たら考え直して欲しいって。

 ──だから、ダンに協力してもらって、君に〝親切に〟話しかけてきた男の正体を突き止めたよ。エリザべトの弟だった。

 ──最初から仕組まれていたんだ。


 そう打ち明けたい気持ちを堪えて、グレンはフィリアに尋ねた。


「君は? 君の考えも変わらない?」

「……私は」


 見知らぬ子供を助けようとするような情に厚い子だからか。

 フィリアはここまで来て迷い迷い、けれどきっぱりとグレンを拒絶した。


「ええ。私の考えも変わっていません。今日はそれをお伝えするために来ました」


 

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