理由
それからグレンは当然引き止められることもなく、ひとり帰路についた。
道すがら流れる風は冷たく、夜空に浮かんだ月さえ陰っていた。
「お前もごめんな」
ここずっと無理をさせている愛馬の首を撫で、急ぐ必要もないのだしと、今夜はゆっくり走らせる。
思った以上に、堪えていた。
「よぉ、お帰り」
「……来てたんだ」
帰宅すると、客間でダンが待っていた。
家主に断りもなくボトルを開け、既に出来上がっている友人を見下ろしつつグレンは向かいに腰を下ろした。
「動きがあったのか?」
「とりあえず、弟の動向は掴んだ。明日接触しようと思う」
「さすがだな」
仕事が早い。
眉を上げたグレンに、ダンは当然だと胸を張る。
「軍部のガキの一人や二人、どうとでもなる」
「それで、証拠も掴めそうなのか?」
「ああ。明日の夜、弟は軍の任務で外出する。──フィリアの住んでる街にだ」
腰を浮かしそうになった。
「……なんだって?」
「偶然じゃないだろうな。たぶん、もう一度フィリアに揺さぶりをかけるつもりなんだろ、姉貴に代わって。俺はその現場を押さえようと思う」
「……っ」
(よりによって明日だなんて)
どこまでも姑息な姉弟に、グレンは割れそうなほど奥歯を噛み締めた。
明日は、グレンが絶対に外せない任務、王侯貴族の護衛に当たる番だった。それを見越しての計画なのだろう。
「明日だけでも、フィリアを呼び戻せないかな」
これ以上あらぬ疑いを吹き込まれてはたまらない。
エリザベトの弟が街にいる間だけでもフィリアを屋敷に連れ戻せないか。考えるグレンに、ダンは難しそうに眉根を寄せた。
「戻ってくれそうなのか?」
「う……」
先ほどのフィリアの態度を思い出し、グレンは息を吐くように言った。
「無理だと思う……」
「だろうな。ま、フィリアのことは俺に任せとけ」
「いいのか?」
「高くつくけどな」
ダンの冗談に、グレンはほんの少し表情を緩める。
「ありがとう。助かるよ」
言いながら、空になっていた親友のグラスを高級な酒で満たした。
ダンが味方でいてくれて良かったと安堵しながら、けれど同時に、このままでいいのかとも悩んでしまう。
「……なぁ、ダン」
「ん?」
「僕はやっぱりフィリアと別れた方がいいのかな」
「は? 嫌だって言ってたじゃねえか」
「僕は嫌なんだけど」
グレンは酒の瓶をテーブルに置くと、ひとつ息をついてから、新しい生活に馴染んでいた妻と息子の様子を打ち明けた。
「フィリアもエーリヒも、普通に幸せそうなんだ」
不便を感じているふうでもなく。エーリヒは街の青年に懐いていたし、フィリアには知人や友人が出来始めている。
屈託なく笑うあの笑顔が好きだったのに。グレンに向けられるのは、もうここずっと、冷たくて、警戒するような眼差しばかりで。そしてそれは。
「こうなったのって、僕がエリザベトとキスしたから、だけじゃないんだよなぁ」
──疑ってたから見にきたのよ。
エリザベトの一撃は、じわりじわりと時間差でよく効いていた。
彼女の言う通り、グレンは信用されていなかったのだ。当たり前だと、今はわかる。
「ダンも言ってただろ。エリザベトとの誤解が解けたって、フィリアが戻ってくるとは限らない。そもそも、僕の生活態度が原因なんだって」
やましいことはないとは言っても、異性問わず友人の誘いは断らず、社交も仕事の一環だと、遅くまで家を空けていた。さらに悪いことに、グレンの中でそれは大した意味を持たず、ただの遊びで──そしてその認識の違いこそが、フィリアとの仲に決定的な亀裂を生んでいたのだ。
深夜、帰宅した時。
グレンから女の人の匂いがすると、不安そうにしていたフィリア。
彼女の寂しさや心細さをもっと真剣に大切に考えなければいけなかったのに。グレンは、無駄で可愛いヤキモチだとしか捉えていなかった。
自分はフィリアとエーリヒから知らない匂いがしただけであんなに動揺したくせに。
あれがもし、ほかの男の匂いだったら──グレンはきっと冷静ではいられなかっただろう。
ダンがそっとグラスをテーブルに戻す。
「ああ、言ったな。けど、それでもお前はわかってもらうつもりだったんだろ?」
「……」
「まさかエリザベトに突かれたくらいで弱気になったのか? あんなにヤダヤダってだだこねてたのに。それこそ向こうの思う壺だろ。馬鹿じゃねえの」
「違うよ。僕がフィリアの気持ちをなんにもわかってなかった、ってわかったからだよ」
彼女を好きになってからずっと、守っていたつもりだった。安全な屋敷で囲って、贅沢で満たして。幸せにしていた、そのつもりだった。
「独りよがりだったんだ」
いまさら生活を改めるからと復縁を懇願したところで、フィリアの心が戻ってくる可能性は低い。
グレンはゆっくりと口を開いた。
「ダメ元だけど……もう一度だけフィリアと話し合おうと思う。離縁状があれば、フィリアも時間をくれるかもしれないし。根が、優しい子だから」
「グレン」
「独身に戻っても、友達でいてくれよ」
明日にでも執事に言って、離縁状を用意しよう。
胸が軋むような痛みを堪えながら、グレンはソファに背を預けた。何にもやる気が起きない。
ダンが、ぽつりと言った。
「なんでこんな男がモテるのかね」
「……知らないよ」
「否定しないのかよ」
「ダンが言い出したんだろ」
「少しは謙遜しろ」
ダンが酒を一息に飲み干して、立ち上がる。
「帰る」
「もう?」
「明日は弟より先にフィリアに会わなきゃいけないからな」
「頼むよ」
「任せろ」
それから客間を出ていく手前で、ダンはこちらを振り返った。
「なあ、グレン。どうして俺がお前の味方をするか、わかるか?」
「……実は僕が好きとか」
「ばか」
ダンは呆れたように眉を寄せた。
「フィリアのことだけは本気だって、知ってるからだよ」
かつてのグレンは、ふらふらと、色んな女性のもとを渡り歩いていた。昨日と今日の恋人が違うなんてザラで。どっちが本命なの! と問い詰められることもしばしば。付き合った女性は一人一人違った魅力を持っていて、誰とも決められなくて、だから長続きしなかった。
家の存続のためにもいつかは結婚しなければならない。そうとはわかっていても、この人と思う女性を見つけられなかった。
その頃だった。
エリザベトと出会い、意気投合したのは。
知識豊かで、異国語をいくつも操り、よく口の回る彼女が珍しかったのだと思う。グレンとエリザベトは急速に近づいた。しかしそれだけなら過去の恋人と同じだった。そのうち、普通に別れていたことだろう。
──グレンがエリザベトのことをはっきりと覚えていたのは、その去り際が誰よりも最悪だったからだ。
デートの待ち合わせをすっぽかし、突然連絡が取れなくなり、かと思えばルノアと結婚していた。意味がわからなかった。
その後、実家の経済状態が悪いと聞いたけれど、それならまず自分に相談して欲しかったし、結婚するにしたってせめて一言あるべきだろうとグレンはひどく憤慨した。──調べれば調べるほどわかった。エリザベトが選んだのは、結局は金だった。エリザベトは青二才のグレンより、大人で当時は経済力が上だったルノアを選んだのだ。
エリザベトが結婚したあと、グレンは一度だけ彼女に会っていた。
夜会で、偶然のことだった。
その時の彼女の気まずそうな表情は忘れられない。嫌な相手に会ってしまったとばかりに顔を歪められ、視線をそらされた。グレンはさすがに不愉快になって、こんな女のことはさっさと切り捨ててしまおうとした。しばらく、女はいいと。
幸いなことにそれから仕事が忙しくなり、その分、階級もどんどん上がっていった。
さまざまな任務を請け負い、その任務の一つとして帝都の治安維持も任された。そしてグレンは、騎士団の食堂で働いていたフィリアと知り合ったのだった。




