ほんのひととき
「どれだけショックだったかわかる?」
グレンの不機嫌にも気づかず、エリザベトの告白は続いた。
「私は、ずっとあなたが好きだったのに」
どの口が、と返そうとして、まともな会話をするのも馬鹿馬鹿しくなったグレンははっと笑った。
「ああそう。ところで早く戻った方がいいんじゃないか? 旦那様に怒られるよ」
夜会はそろそろお開きになる。
酒と雰囲気に酔った人々は、他人のことなんてほとんど気にしていない。とは言っても、こうしてエリザベトと話しているところを見られるのは危険だった。
場を離れようとしたグレンを、挑発するようにエリザベトが引き止める。
「子供が出来たからでしょ?」
「……は?」
「子供が出来たから、仕方なく結婚したんでしょ?」
聞き捨てならないセリフに、グレンの血は一気に頭へとかけ登った。声を荒らげないよう必死に自分を抑える。
「そんなわけないだろ。彼女を好きになったから結婚した。それだけだ」
「嘘よ。あのまま別れなかったら、あなたは私と結婚していたわ」
グレンは思わず後ろを振り返り、エリザベトを睨み下ろす。
「いいか。僕が結婚を考えたのも、妻にしたいと思ったのもフィリア一人だけだ。彼女と別れる気も、君なんかと一緒になる気もない」
「あなたはそのつもりでも、奥様はどうかしら」
グレンは強く眉を寄せる。
「フィリアに会ったのか?」
「出て行っちゃったみたいね。私だったら、あなたを信じるのに」
「フィリアは僕を信じてくれていた。だから傷ついて出ていったんだ」
「違うわ。疑ってたから見にきたのよ」
言い切ったエリザベトの視線がちらと、会場の奥へ走る。軍幹部との談笑を終えたルノアが、エリザベトを探し始めたのだ。
エリザベトは悔しげに顔を曇らせると、グレンから離れた。
「断言してあげる。奥様はあなたを愛してない。私ほどには。だからお願いグレン、私を選んで」
エリザベトは小さな声で言い捨てると、足早に去っていった。
(……フィリアが僕を愛していないだって?)
痛いところを突かれたグレンは、苦々しい思いでエリザベトの背を見送った。言われるまでもない。そんなことは、とっくに分かりきっていた。
「旦那様? こんな時間にどちらへ」
「少し出かけてくる」
夜会を終え、一度帰宅したグレンは、馬に乗って夜道を駆けた。
目指したのはフィリアたちのいる街だ。
こんな時間に行ったって、規則正しい生活を送るフィリアとエーリヒは眠っている頃だろう。温かなベッドで、身を寄せ合って。その健やかな寝顔が、今はひどく遠い場所にある。
真夜中。到着した街の入り口で馬を繋ぎ、グレンは徒歩でフィリアの家へ向かった。馬の足音で、エーリヒが起きてはいけないと思ったからだ。
そしてたどり着いた家の灯りは、やっぱり消えていた。
「……だよなあ」
諦めたように呟いて、グレンは煉瓦と木組みで出来た小さな、それでいて温かみのある家を見上げた。
綺麗に片付けられた玄関には、今は閉じている花々が植っている。
フィリアたちが植えたのだろう。
土にまみれて。
並んで苗を植え付ける仲のいい母子を思い浮かべれば、グレンの心臓は押しつぶされそうになった。
(会いたいなあ……)
開くことのない扉を前に、切実に、思った。
◇ ◇ ◇
けれど、落ち込んでばかりはいられない。
身を切るような思いでフィリアの家を立ち去ったグレンは、翌日、ルノアへ極秘裏に連絡をとった。
押しの強さと図々しさ。
それから諦めの悪さだけは人一倍だと自覚していた。
『エリザベトの件でお会いしたい、早急に。』とルノアを呼び出せば、相手はすぐに返事を寄越した。
ルノアの方も、妻の心を取り戻したかったのだろう。
その昼。待ち合わせた個室のレストランで、人払いをしたグレンとルノアは向かい合った。
「最初に、僕の話を聞いてください」
運ばれてきたコーヒーにも手をつけず、グレンは身を乗り出した。この機会を逃してはならないと切羽詰まっていた。
まずはエリザベトとの誤解を解こうと、ことの委細をルノアに説明する。語られる事実に、初めは半信半疑だったルノアも、グレンの論理的、かつフィリアへの執着にまみれた鬱陶しいほどの「妻子と別れるつもりはない」アピールに、最後は「なるほど」と頷いていた。
「……つまり、エリザベトがあなたを忘れられず横恋慕した、という訳でしょうか」
ルノアはしょんぼりとして言った。
「だってあなたとエリザベトは昔、お付き合いをしていたんでしょう?」
「それは……」
言いかけたところでグレンはぎょっとした。
(え、うそだろ)
震える声に、相手をよく見れば、十も歳の離れた大の男が、唇を震わせて泣き出しそうになっていた。
グレンはさすがに哀れになってきて、言葉を濁した。
「いや、その、横恋慕というか。僕が団長になったと聞いて、昔が懐かしくなっただけじゃないでしょうか」
よくあるお話ですよ、とグレンはルノアを励ます。内心、なんで僕が励まさなきゃならんのだと思いながら。
ルノアは握り締めたハンカチを目元に当てながら言い募った。啜り泣きさえした。
「わ、私は! 本当に妻を愛しているんです……っ! でも彼女は違う。実家を助けたかったから、仕方なく私なんかと一緒になってくれたんです。こんな、好きでもない男と」
「ルノアさん……」
「まるで生贄……そう、エリザベトは、家族への情に溢れた優しい女性なんですよ」
(そうかなぁ)
計算高く欲にまみれた女、の間違いじゃないだろうか。ルノアは、すっかり騙されている。
「でもエリザベトは、本当はあなたのような男性と一緒になりたかったのですよね……はは、当然だ……私みたいな、金だけが取り柄の男なんて」
「ちょっルノアさん、諦めちゃダメです」
自暴自棄になりかけたルノアを、グレンは必死に押し留める。彼にはなんとしてもエリザベトを捕まえていてもらわなくてはならなかった。
グレンがフィリアと復縁するために。
「エリザベトと別れたくなんてないんでしょう?」
「それは……もちろん。でも、彼女の方は」
「いいですか。大切なのはあなたの気持ちです」
「え? 私の……?」
「そうです」
グレンは強く肯定した。
「仮令あなたが身を引いて、エリザベトと別れたとしても、僕が彼女と一緒になることは絶対に有り得ません。……だとしたら?」
「だと、したら……?」
「エリザベトを本当の意味で愛し、守ってあげられるのはあなただけということになります」
「……っ」
ルノアは、感銘を受けたように口と目を開き、頷いた。
「た、たしかに」
「でしょう? だから僕たちは啀み合わず、手を取るべきなんです。お互いの家族を守る為に」
「家族を守る為に……」
じーん、という音さえ、どこからか聴こえてきそうだった。
テーブルの上でルノアとグレンは手を取り合い、結託を約束する。
「団長殿。どうにも私は、あなたのことを誤解していたようです。その、浮名が多くてたくさんの女性を泣かせたなんて話を聞いていましたから」
「……そうでしたか。誤解が解けてなによりです」
「はい。これから共に頑張りましょう」
ひと息ついたルノアは、涙目で微笑んで、ようやくコーヒーを口にする。
「しかし、エリザベトが本当に申し訳ないことをしました。団長殿の奥様も早くお戻りくださるといいのですが」
「ええ。本当に」
本当にね、とグレンは時計を見やる。今日の予定をこなせば、夕刻には会いにいけそうだった。




