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危機との遭遇

 妻子に不満はない。


 従順で大人しく自分にベタ惚れの妻は可愛いし、愛している。

 三歳になったばかりの息子も言葉を覚え意思疎通ができるようになってきた。


 ひと月前にはこの国のエリート職である第一騎士団の長も拝命し仕事も順調。


 加えて貴族としての領地収入もあり金にも困ることはない。



 つまり男の人生は順風満帆だった。

 

 その夜までは。


  


「……グレン?」


 友人に紹介された女が、大きな瞳をこれでもかと見開いて男の名を呟く。


 男──グレンは、その懐かしい顔に、はっとして席を立った。


「エリザベト」


 忘れない、忘れられるわけもないかつての恋人を前にしてグレンの記憶は過去へと遡った。

 自分を裏切り他の男のもとへ走った女。

 今まで付き合った女性の中で、これほど恥辱を味わわされたことはなかった。

 だからこそ記憶にこびりついていた。


「なんだ、知り合いだったのか」


 友人が笑って、エリザベトとグレンに席に着くよう促した。

 帝都の一角にある高級な会員制バーでは、気心の知れた友人たちがそこかしこに集まっていた。

 真面目な仕事の話からくだらない噂話まで多種多様に話題を巡らせながら、情報交換に勤しむ場でもあった。


 そこに女性が同伴するのも珍しいことではない。特にエリザベトのような外交にも通じている職業婦人は。


 けれどエリザベトも、ここにグレンがいるとは思いもしなかったのだろう。思わぬ再会に戸惑い目を泳がせていた。

 

 変わらない。

 昔と変わらない美貌と知的な瞳をそのままに、エリザベトは空いているグレンの隣の席に座った。とたんタイミング悪く友人は他の席に呼ばれてしまう。

 並んで腰掛けたグレンは、さてどうしたものかと頬杖をついた。


 バーテンにカクテルを頼んだエリザベトは、細い指を膝上で組み合わせながら、ぽつりと言った。


「……怒ってる?」


 自分を裏切ったことをだろうか。グレンは淡いため息をついた。


「まさか。今の今まで君のことなんて忘れていたよ。思い出したこともなかった」


「嘘」


 エリザベトは恨みがましそうにこちらを向く。


「あなた嘘をつく時いつも早口になるもの。私覚えてるわ」

「あれから何年経ったと思ってるんだ? 人は変わるよ」


 そう。あれから3年も経ったのだ。


 エリザベトは別の男と結婚して、グレンはエリザベトと似ても似つかない普通の女と結婚した。


「僕には今妻子がいる。君のことを思い出す暇なんて一秒もなかったよ」

「……やっぱりまだ怒っているのね」


 エリザベトがため息をこぼす。グレンは酒を口にしつつ「怒ってはいない」とぼやいた。


「じゃあ思い出してはくれてたのね?」

「相変わらず鋭いな」


 頭のいい女。

 そう思っていた、あの頃も、今も。

 グレンは酒をテーブルへと置いた。そのまま指先で硝子の厚い縁を遊ぶようになぞる。


「確かに別れた時は君のことばかり考えてたよ、悔しかったから」

「……ごめんなさい。どうしても家を捨てることができなくて」


 伯爵家の娘として責務から逃げられなかったのだと、今のグレンには理解できる。

 でも当時は苦しくてたまらなかった。


 しかし全ては過ぎたことだ。


「もういいさ。友人に戻ろう」

「……グレン」


 酔っ払いが暴れたのだろうか。

 珍しく入り口がざわついていた。

 しかしかつての恋人とともにいるグレンの耳には上手く届かない。


「ねえ、グレン」


 エリザベトの細い身体がすっと近づく。

 膝に彼女の冷たい手が乗せられた。

 これはまずい距離だと理解しつつも、飲み過ぎたのか、それとも懐かしいエリザベトの匂いに当てられたのか思考が回らない。


「私たち、やり直せない?」


 何を今更。

 身を引こうとした瞬間、エリザベトに口付けられる。


「……っ」


 グレンは身体を戦慄かせ、エリザベトの肩を掴んで引き離した。


「エリザベト、ダメだ。君には夫がいるし、僕には」

「わかってる。でも、今夜だけ一緒にいて……──苦しいの」


 夫との生活が。とエリザベトが涙ぐむ。


「……エリザベト?」 


 夫と上手くいっていないのだろうか。

 そう、困惑した瞬間だった。



「……最低」


 耳慣れた、けれど今までも一度も聞いたこともないような、低い声がそばから響く。

 え?

 グレンは心臓をどくりと波打たせた。


 なんで、ここに。


 振り返った、そこには。


「信じてたのに」


 邸宅で息子とやすんでいるはずの妻──フィリアがいた。

  

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