山門編-初国知らす王の章(9)-騒ぎ立つ木の葉(1)
神妙な面持ちで狭野姫と対面する手研。狭野姫は予想外の言動で、手研を困惑させます。
風光に春の朗らかさがある。
手研は歩みを止めて、空を見上げた。橿原宮の甍のはるか上を、白雲の群れが流れてゆく。秩序正しく進んでいくかと思われたが、やがて、一片の白雲が群れからはぐれてゆく動きを見せた。
深く吸った息をゆるやかに吐き出した手研は、視線を戻した。
磐余彦狭野姫の宮室に面した中庭を渡る外廊だ。新材の木の香りが柱の間にたゆたっている。
ここまで歩いてきた手研の足が重くなった。狭野姫に伺候することに気重さがある。狭野姫に会うたびに、彼女との距離の広がりを感じてしまう。ずっと昔には、小さな手をつないでいたはずの狭野姫だ。その手だけでなく、心までが離れていくことを知る時間に、手研は痛みを感じ始めていた。
宮室の扉の前で、伝奏の者が困惑した顔を向けている。来るのか来ないのか、と目で問いかけている。
(あの雲のようなものだ)
手研はもう一度、空を見上げた。はぐれた雲は速さを増している。雲の行方を制することなどできるはずはなく、地をゆく者は、ひたすら雲の影を追うしかない。やがて見失うこともあるだろう。そのときの訪れを少しでも先延ばしにしたいなら、懸命に足を動かすことだ。
手研は再び歩を進め、伝奏の者は、宮室内に手研の来室を告げた。
手研を迎えた狭野姫は笑顔だが、どこかに硬さがある。無邪気さが失われている。それを大人の女性への成長と割り切るには、寂しすぎる変化だった。
(日女様は、吾を避けたいのだろう)
手研は心の中で苦笑した。狭野姫にとって、自分が、山門の煩わしい事柄と小言を運ぶだけの存在になりつつある自覚を手研は持っている。そういえば、日女と呼んでも反発しなくなった。かつては、
「日子と呼びなさい」
と、喧しくも愛らしい声で怒ったものだ。珍彦などは、それがつまらぬと愚痴をこぼしている。
室内には狭野姫と手研以外には、狭野姫の身の回りの世話をする仕女しかいない。ここは、いわゆる朝廷ではなく、狭野姫の私的な執務室だ。狭野姫が座る台座の右後ろの扉は、狭野姫の寝殿である内裏に通じている。
「わたくしの尊称が定まりましたか」
山門主や磐余彦に替わる新たな人主の呼称の件だ。切り出しておきながら、興味のないことは明らかだ。
「その件は、またおって言上いたします」
「そうですか。では、今日はどのような」
気だるげに小首を傾げる仕草だけで、多くの人が心を蕩かされるが、狭野姫の本当の美しさを知る手研の心には寂しさが募っただけだ。
「日女様から仰せをたまわるべき種々(くさぐさ)の事柄でございます」
特に喫緊の課題は、山門の食糧問題だ。これは前時代から引き継いでいる課題で、狩猟と漁労を生活の糧の主な獲得手段としている山門諸族は、獲物の減少に頭を悩ませている。饒速日の御言持であった大日が取組もうとして、頓挫した課題でもある。その頓挫を招いた者は、他ならぬ天孫族だ。天孫族の山門侵攻が、そのあとの争乱を引き起こし、厄災のきっかけとなった。
先の神祝ぎの大祀で山門の人々の心は潤っただろうが、施政者として、次は人々の腹を満たさなければならない。
問題解決の特効薬は、実はある。
農業だ。
山門は水が豊富だ。土もよい。天孫族の水稲技術が地を耕せば、この秋から山門の諸族の懸念は払拭されるだろう。
しかし、天孫族は、秘術ともいうべき彼らの技能を他に伝えることを頑なに拒否している。橿原の周辺にはすでに水田を拓いており、したがって天孫族のみは食糧不足の課題に切迫していないが、他族を助けてやろうとする意気はなかった。山門の諸族にしても、原生している陸稲を殖やす程度の原始農業を始めている族もありながら、全体としては農業を忌避している。
鳥獣にしろ、魚介にしろ、陸稲や木の実にしろ、糧はすべて天神地祇や祖霊の恵みと考える彼らにとって、大地に人の手を加えて改良するなどという行為は森羅万象への挑戦であり、冒涜であった。そもそも、山門の諸族が天孫族を受け入れず、孔舎衛坂の戦いを惹起した根本には、農業への忌避がある。
再び山門は原点の問題に回帰した。大日が悩んでいた同じ立場に、今度は手研が立つことになった。
頑なに独尊の姿勢を崩そうとしない天孫族の心を溶かすには、狭野姫の魅力に頼るしかない。だが彼女の心は別のものを見つめている。そのことも、天孫族に耐え難い失望を与えている。狭野姫だけが、そのことに気づいていない。
人払いを求め、室内に狭野姫と己以外の気配が消えるのを見定めると、手研は、
「どのように思し召しか」
と、狭野姫の存念を質した。狭野姫は表情に苦悩を浮かべ、その花顔を手研の視線から逸らした。
「女童さえ、佼童を見ては心を浮き立たせます。わたくしだけがそうしてはならぬと言うのですか」
狭野姫は、手研にしか聞かせたことのない甘え声でそう言った。狭野姫が甘えた時、手研という年上の甥は必ず彼女の願いを聞き届けてくれた。狭野姫としては、その経験に縋るしかなかった。
だが手研は、狭野姫の甘えを受け止める人物としてこの場に立っているわけではなかった。
「日女様は、建御子たらんと欲しておられたはず。ひとたびその道に踏み出した者は、斃れるまでそこを目指さねばなりません」
まして、後ろに続く者たちがいればなおさらだ。天孫族の夢が崩壊しかけたあの夜、波間の上で狭野姫は神々しさの中で指導者たることを誓った。あるべきところへ天孫族を導き終わるまで、人ひとりとしての感情などに染まっていてはならないのだ。
それとも狭野姫は、橿原に根拠を構え、山門の諸族の精神的な統合者となりえただけで満足したのか。それであれば、彼女は、手研の父である五瀬の後継者とは到底言えない。五瀬の大志はもっと高みを目指していたはずだ。
「日女様が磯城の県主殿を慕っておられることは存じております。しかし、その感情はまだ日女様のお心の底に沈めておいて頂かねばなりません」
手研とて、施政者として、己のことなどを顧みている余裕はなく、三十歳を過ぎても妻帯はしていない。同志と呼ぶべき道臣と珍彦はすでに妻を娶っているが、手研は狭野姫を父が目指した高みに押し上げるまで、己の幸福を考えないことに決めている。
「わたくしは、いつまでわたくしの心を沈めておかねばならぬのですか」
狭野姫は拗ねてみせた。表情を見せた。それも、手研にしか見せない表情だ。
「いつまでとは申せません。しかし、磯城の県主殿はすでに妻を娶っておられる」
狭野姫にとって耳を塞ぎたい事実を、手研は突きつけた。
「それがなんですか。人の夫を慕ってはならぬという定めはありません。県主の立場なら、幾人かの妻がいて当然です。位の高い後妻が后となり、位の低い前妻が妃となるのは当たり前のことです」
「日女様は、県主の后となるのがお望みですか。それでは波濤を超え、孔舎衛坂や熊野や磐余で多くの族人を倒れさせる必要はなかった。日向の高千穂におれば、県主風情の妻となることになんの支障もありませんでしたでしょう」
手研も感情を抑えきれなくなった。甥の心の棘を向けられた狭野姫は、初めての体験に戸惑い、かっとなった。
「さがりなさい、手研」
戸惑いを怒りに変換して手研にぶつけた狭野姫は、自らの声に怯えたように下を向いた。狭野姫の癇癪を浴びせられた手研は、それを彼女の幼さと理解して、深々と頭を下げてからさがろうとした。
「お待ちなさい」
呼び止める声に謝罪の言葉が続くかと手研は期待したが、それは外れた。
「纏向に新たな邑を築いていることは知っていますね」
むろん知っている。建造を命じられたのは珍彦だ。その任務を授けられるに当たり、珍彦は、倭の県主に任じられている。纏向は、橿原と磯城のちょうど中間に位置している。纏向川が流れており、その流れを巻き込むように、邑は建造されつつある。
「わたくしは、そこに遷ります」
突然の遷都宣言だった。手研の顔も眉も跳ね上がった。手研の直言への意趣返しにしても度が過ぎている。そもそも、纏向は整地がやっと終わり、ようやくいくつかの高床が建ったばかりの段階ではないか。邑と呼ぶより、ようやく鄙と呼べる程度のものだ。
「卿の言葉は求めていません」
手研の諌言を狭野姫は鋭く拒否した。
「とはいえ、大夫らの声は聞かねばならぬでしょう。」
明日の朝庭に大夫を召集するよう命じた狭野姫は、裳を払って立ち上がり、衣を翻す音を残して内裏に入った。
室内に影を一つだけ落とした手研は、心に石を括り付けられたようにしばらく沈思し、仕女が戻ったときには、いつの間にか姿を消していた。
翌日の朝まだき、突然の召集に応じた大夫たちが朝庭に並んだ。ちなみに、朝に集う庭であるから朝庭という。庭は後に室内に移り、政務や裁判を行う場所を意味する廷となった。
大夫たちの顔よりも、篝火のほうが多い。夜明け前の星が見えないということは雲が多いということであり、集った大夫たちは一様に不吉を感じていた。
炬火に先導されて、狭野姫が朝庭に面した壇に登った。手研は一段下に立った。諸族の大夫たちが、朝庭の白砂に一斉に額づいた
天の日よりも、先に地の日が昇ったのかと錯覚するほど、狭野姫の美しさは皎々としたものを放っている。表情はどこかしら強張っていたが、そのことに気づいた大夫はいない。
「卿らに集ってもらったのは、ほかでもありません」
そう切り出した狭野姫が、一息に巻向遷都を告げると、湖面のように静かだった朝庭が、鼎の湯のように沸騰した。青天の霹靂に打たれた人々はこうなる、という模範のような大夫たちの反応だった。
大半は動揺する声だ。諸族の大夫たちはそれぞれの族の氏上でもあり、どの族も橿原宮という山門の新しい首邑を自族の発展の礎として想像を描いている。それが砂上の楼閣のように崩れ落ちようとしている。まして、巻向など、鳥獣が跋扈する未開の地ではないか。
朝庭の響めきには怒声も混じっている。その発生源は、他ならぬ天孫族の大夫が発したものだった。
天孫族は狭野姫と手研が山門の主宰者として登壇しているため、別の人物が大夫を務めている。彼は五瀬の側近を務め、そもそもの天孫族東征の計画にも参与していた最古参だ。名を吾曽利という。天孫族に、真秀場へ続く波濤の道を指し示した最初の天津彦である五瀬の最初の妻、吾平津媛の兄だ。彼は、義弟に当たる五瀬が吾平津媛を日向高千穂に残し、東征の途中、出雲の事代主の娘の五十鈴媛を後妻に迎えたときも、それが天孫族の新しい天地のためなればと我慢した。五瀬が斃れ、狭野姫が天津彦を継いだときも黙ってついてきた。狭野姫が天津彦の号を捨て磐余彦を名乗ったときも、怒りを胸の奥に沈めた。しかし、もはや忍耐の限界だった。
吾曽利は、狭野姫と手研に次ぐ天孫族の実力者だ。彼の下に、彼と同じような不満と怒りを抱く族人が徒党を組んでおり、その勢力は、今や天孫族の主流になりつつある。その男が巻向遷都に異を唱えたのだから、朝庭の紛糾が鎮まるはずはなかった。
いつもであれば、ここらで手研が当意即妙の妥協案を出して、大夫たちをまとめるのが常だ。磯城族の地を借りて大祀を挙行すると狭野姫が言い出したときもそうだった。しかしこの度は、手研は黙って朝庭の響めきを眺めていた。
狭野姫も微笑みを浮かべたまま、あえて手研に助け船を求めようとしなかった。
狭野姫と手研の我慢比べだ。先に声を挙げた方が、相手に妥協するということになる。それが手研であってほしい。妍艶な微笑みの下で、狭野姫はそう願っていた。
突如、朝庭に大きな声が挙がった。狭野姫でも手研でもなく、吾曽利でもない。
太忍だった。葛城族の大夫として出席していた彼にとっても、狭野姫からの遷都の宣言には驚かされたが、彼の嗅覚は千載一遇の機会の臭いを逃すことはなかった。
「名も名もお鎮まりなされ。宮処を遷すような大事は、天神地祇、祖霊の御稜威なるお言葉に従わねばなりますまい。人の身で何も言うてもはじまりませぬ」
声の大きさは場の掌握に有利だが、このときの太忍の言葉には正しさもあったから、朝庭の響めきは瞬く間に鎮まった。
「太占でもいたそうと申すのですか」
思いも寄らぬ方向から流れてきた船が助け船かどうか見定めるような表情で、狭野姫は言った。太占とは鹿の肩の骨を焼いてできた裂け目で吉兆を占う手法だ。
「宮処を遷すような大事には、誓約がよろしゅうございます。鏡猟は先ごろ行ったところですから、天神地祇も厭いておられましょう。馬合せを催されてはいかがですか」
三十人対三十人の模擬騎馬戦が馬合せだ。鏡猟と同様に、諸族は馬合せ専門の集団を養っている。定期的に他族と試合をし、民衆にも解放して、大きな娯楽となっている。馬合わせで誓約を行うとなれば、もっと大規模かつ荘厳なものとなる。
大夫たちの間に、太忍の提案に賛同する声があがった。霊的な存在の声を何よりも尊重する。山門の諸族だけに限らず、それが豊秋津洲に生きる人々の通念だ。誓約の結果、占形が巻向への遷都を言祝ぐものであれば、その日から材木を担いででも諸族は巻向に移動する。
「よろしいでしょう。誓約の馬合わせを行います」
そう決断を下した狭野姫の胸中には、不満があった。自分の一声で、朝庭の声が一斉に遷都に向かう自信があった。大夫たちの心を蕩かし、その魂を握っていたつもりだった。まずはひとさし神楽を舞うべきであったか、とも悔やんだが、神楽は天神地祇や祖霊を愉しませるもので、大夫たちを愉しませるものではない。
結局、狭野姫は、大夫たちに妥協することになった。自身の魅力が、まだ天神地祇や祖霊を超えていないことを苦みと共に認識させられた。彼女の魅力が、なぜ霊的な存在に打ち勝てないのか、その理由を手研は弁えているが、狭野姫は理解していない。
馬合わせの詳細はおって沙汰するということで、朝庭は散会となった。
朝庭に人の影が尽きるまで、終始、手研は無言を貫いた。
遷都の吉凶を占う馬合わせが挙行されます。山門の神々は、人々に何を告げるのでしょうか。