山門編-初国知らす王の章(8)-厄災のあと(8)
神祝ぎの大祀が盛大に挙行され、人々は山門の新時代を祝福します。
松明の灯りの下で、狭野姫が形の良い眉をひそめた。
前方の森の中から、天孫族の族人の声が聞こえてくる。緊迫はしていないが、驚きが含まれた騒ぎだ。
橿原宮から鳥見山まで先頭を進んできた狭野姫だが、山中の森に入るに及んで、さすがに数名の露払いが先を進んだ。磯城族が穢れや邪霊を祓っているだろうが、夜中の樹陰にはどんな悪霊が潜んでいるか分からない。
「磐余彦様」
号を呼ばれた狭野姫は、立ち止まって族人の注進を待った。
「申し上げます」
「どうしましたか」
狭野姫は首を傾げた。その仕草だけで、魅惑の霧が振りまかれたようになる。狭野姫の前に片膝を着いた若い族人は、顔を赤くして、主を仰ぎ見ることができなかった。
「照れとる場合か。はやく申せ」
狭野姫の腹心である珍彦が若い族人を叱った。とはいえ、珍彦も狭野姫の仕草に悩殺されないわけではない。心の中で身をくねらせながら、表情には出さない技を習得しているだけだ。ちなみに、お世話役三人組のうち、手研と道臣は同道していない。
「怪しげな童がおりました」
「童だと」
狭野姫が答えれば若い族人がまたどぎまぎしてしまうので、珍彦が代わりに答えた。
「一人で山を彷徨いておったのか」
「三人です」
「おおかた魑魅の類いであろう。祓っておけ」
「いえ、生身の人でございます」
「たわけ。人の童がこんなときにこんなところを彷徨いているわけなかろう」
常識ではそうだ。だが、本当に人の子なのだとしたら、その親はどんな子育てをしているのか、と珍彦は呆れる思いだった。
「ここにお連れなさい」
狭野姫はそう言った。人の童であれば事情があるに違いなく、どこの族の童であったとしても保護してやらなければならない。
若い族人は、さっそく三人の童を引っ立ててきた。三人のうち一人は、衣の中に三羽の鳥の雛を抱いていた。
その三人の童は、もちろん豊城彦と豊鍬姫、そして活人だ。彼らは、何族かが放った刺客との戦闘の痕跡を可能な限り隠滅していた。もしもその跡をどこかの族に発見され、不吉を感じさせてしまえば、せっかくの祝典に水をさすことになってしまう。豊城彦は、そこまでの配慮ができる男童だ。あらかた痕跡を隠し終えたところで、三人は天孫族の露払いに見つかった。如虎はその前に姿を消し、三輪山の寝床に帰っていた。
「あなたがたは磯城の人たちですね」
狭野姫はそう言った。磯城族が好む洗練された水の意匠の文身が童子の肌にさり気なくあるからだ。
狭野姫に見つめられた豊城彦と活人は、あっという間に顔を紅くした。兄と弟の紅顔を見た豊鍬姫は頬を膨らませた。
「貴方様は天孫の磐余彦様ですね」
首まで真っ赤にしながら、それでも豊城彦の洞察の目は冷静だった。
「礼を弁えぬ悪童めが!」
直言を憚らない無礼を叱りつけた珍彦の片頬を強烈に捻じりあげた狭野姫は、
「わたくしを知っているのですね。ならば、あなたの名も、わたくしに教えてくれませんか」
と、微笑んだ。凶悪な指先と同じ神経で結ばれているとは思えない女神のような笑顔だった。
「私は磯城の豊城彦と申します。後に控えていますのは、弟の活人と妹の豊鍬です」
上気した顔で、しかし口調はしっかりと、豊城彦は素性を告げた。
「磯城の県主殿のお子ですね」
三人の名は入彦から聞いて知っていた狭野姫の目に慈しの光があふれた。入彦を三つに分かったような愛らしい子らだと思った。
「こんなところで何をしていたのです」
「もちろん、磐余彦様をお迎えにあがったのです」
如才なく豊城彦は答えたが、活人は戸惑った。天孫族の氏上のような高貴な人には真実を話した方が良いのではないか。そもそも、こんなに美しい人に嘘をつきたくない。口を開きかけた活人の足を、豊鍬姫が踏んづけた。悲鳴をあげた活人を尻目に、豊鍬姫は笑顔を狭野姫に向けた。兄と弟とは異なり、どこか挑戦的な笑顔だった。
いわくありげな豊鍬姫の挙措は無視することにした狭野姫は、
「衣がずいぶん汚れているようですか、三人そろって転げたのですか」
と、おかしげに笑った。慌てて衣の土を払った豊城彦は恥ずかしさのあまりにうつむいた。それ以上の詮索をするつもりのない狭野姫は、
「お迎え痛み入ります。それでは共にまいりましょう」
と、三人を誘った。
こうして豊城彦たち三人は狭野姫と一緒に霊畤に現れることになった。密かに大祀の神聖を護った三人は、怪訝な顔をして天孫族を迎えた父親の入彦に、あとでこっぴどい説教を喰らうことになる。
さて、ある三人組の活躍の甲斐もあって、神祝ぎの大祀は盛大に催された。天孫族や磯城族をはじめ、葛城族、平群族、和邇族、穂積族など山門の主だった氏族は大方参集した。かつての勢いを失ったとはいえ斑鳩族と登美族も健在だ。
鳥見山の頂を平らに均して整備した霊畤には壮大な台が築かれ、諸族の宝鏡がずらりと並べられた。それらの鏡は、やがて日の出と共に荘厳な輝きを放ち、天神地祇と諸族の祖霊が宿る神籬となる。神籬とは、御霊屋や諸族所定の霊場以外の場所で、臨時に神々を降ろす際の依り代となるものだ。
台の中央には、天孫族の八咫ほどもある大きな真経津鏡が置かれており、接待役とも言うべき磯城族の花文鏡は控えめな端に置かれていた。なお、咫とは、広げた手の中指と親指の距離を指す単位だ。
磯城族の男たちが狩ってきた鹿や猪などの肉も山のように盛られた。これらは神々への供え物ではあるが、祭事が終わった後の宴で人々の口に運ばれる。神々と同じものを食することによって、体内に聖なる霊力を宿すことになるのだ。
「たかちはる日輪の天津彦よ、明上をお迎えできることを嬉しく思います」
入彦が歓迎の口上を述べた。
「そらみつ山門の磯城の県主の入彦よ、卿に会えて喜ばしく思います」
狭野姫が返礼した。
狭野姫と入彦は、互いを褒め称えた。特に、この晴れの日に相応しい霊畤を整備してくれた磯城族に対し、狭野姫の感謝の気持ちはひとしおだった。
見つめ合う二人の記憶に鮮明に甦る光景がある。天孫族と磯城族とが磐余で激しく戦い、多くの犠牲を出した後、成ぎの盟約を結んだ。その席で、入彦の父の大日と狭野姫は今このときと同じ口上を交わしたのだ。
鳥見山の頂には多くの篝火が炊かれ、霊畤は天空に浮かび上がるがごとくだった。高天原の世界を、ここに現出させたのだ。
参集者がそれぞれの席に落ち着くと、丁度、空が白み始めた。山門の野、川、林、青垣山が白々と息づき始めた。天神地祇、祖霊、精霊がもっとも活動的になる時間だ。
狭野姫が、颯爽と台に立った。諸族の鏡が、清らかな光を放ちだす。
「この処を厳の磐境と祓い清めて神籬刺し立て招き奉り坐奉る掛けまくも畏き高天原に神留坐す皇神等の大前に恐み恐み白す。集侍氏上、神主、祝者等、諸聞食」
狭野姫の澄々とした神祝ぎの言挙げの声が、明け初めし空に滔々と立ち昇ってゆく。
狭野姫は山門の天神地祇、精霊、天孫族の祖霊、諸族の祖霊に語りかけ、この霊畤に招き、永久に尽きることのない恵みと加護を希った。
台に並べられた諸族の宝鏡が、燦々とした光を放ち始める。神々が、狭野姫の言挙げに感応した験だ。参集した人々は、跪き、深々と額づいた。
「名も名も清き明き直き正しき真心以ちて勤しみ励み互いに睦み和みつつ弥益々(いやますます)に世の人々の幸福を進めしめ給えと、乙女等が豊栄祈る舞の袖返す返すも乞祈み奉らくと白す」
狭野姫が神祝ぎを終えると、次は諸族の巫たちによる神楽舞が披露された。艶やかに化粧した乙女たちが、美しい舞で神々を喜ばせるのだ。
まず天色の衣を着た天孫族の巫たちが、霊畤に青い大輪の花を咲かせた。躑躅色、縹色、山吹色、柳色と、次々と諸族の巫たちが大輪の花を咲かせ、最後に磯城族の翡翠色が花びらを舞わせて、艶麗な群舞は閉じられた。
典礼が滞りなく執り行われると、次は祝宴となる。婉美な神楽舞に酔いしれた人々は、今度は酒に酔うことになる。
儀式のあとの饗宴を会というが、会の最中、狭野姫は終始上機嫌だった。それもそのはずで、今日この日、狭野姫は名実ともに山門主となった。天神地祇、山門の精霊、そして諸族の祖霊からその承諾を得た。燦々と昇った日の光がその証だ。認められなかったならば、空は黒雲に覆われ、風雨が僭越者の狭野姫を打ち据えたことだろう。
故郷の筑紫の日向の高千穂邑を兄とともに旅だったのが、遠い日のことに思える。長兄の五瀬は斃れ、次兄とは袂を分かち、末兄は故郷に残った。五瀬の号である天津彦を受け継いだ狭野姫は、号を磐余彦に改め、磯城族と成いだことで、山門に強固な地盤を得た。狭野姫は、五瀬が夢に見た真秀場を、とうとう手中に収めたのだ。
山門主の号を名乗るつもりはない。それは饒速日が山門を呪いで支配していた前代の悪しき象徴だ。新しい時代には新しい称号が必要だ。西の海の果ての大陸で、大真を樹立した人物が皇帝の称号を創造したように。確かに、天孫族の有力者が主張するように、新しい時代の主宰者が磐余彦では、少々野暮ったい。
新しい称号が必要であることを狭野姫は理解していたが、しかし彼女は磐余彦の号にこだわった。その号を名乗ることを約束した相手が入彦の父の大日であり、その約束は入彦と狭野姫を結んでいる。号を改めた途端、入彦が遠ざかってしまう恐怖を、狭野姫は抱いていた。そのため、この晴れの日に新たな称号を発表することなく、手研にその選考を継続するよう命じた。体よく問題を遠ざけたのだ。山門人は称号ではなく、自分自身を愛してくれるのだ、という自信もあった。
にこやかな狭野姫を盗み見る太忍の目に不快がある。彼の予想では、この日の大祀は不首尾に終わるはずだった。参集した人々の心に、黒い不安が染みを作るはずだった。ところが、典礼も会も盛況そのものだ。
報告を受けるまでもなく、剣根はしくじったのだ。
「せっかくの機会をふいにした痴れ者め」
罵りの言葉を呑み込んだ太忍は、鮎の姿焼きの頭を噛み砕いた。その機会というのは、もちろん天孫族と諸族との間に心理的な溝を作り、そこに葛城族の甘言が流れ込む絶好の機会ということだが、非公式ながら庶子の一人である剣根を側に近づけてやる機会という意味もあるにはあった。太忍とて、剣根の母を一時たりとも愛さなかったわけではない。
ひとり不興をかこっていた太忍が、おや、と興味をそそられたものがある。太忍の白んだ目が、たちまち好奇の目に変じた。
まずい酒を飲んでいたのは、太忍だけではなかったということだ。彼らは群れをなして、太忍以上の不興に包まれていた。
彼らとは、天孫族の一団だ。彼らが苦々しげな視線を向ける先に、華やかな光景がある。爽やかな風をまとったような入彦と、一笑千金の狭野姫が特別な空間を作り上げている。二人は談笑し、杯を交わしているが、祝宴では当たり前のその所為に、余人が入り込めない雰囲気がある。もしも邑の小さな祭で、若い男女がそんな空間を作り上げていたなら、周囲の大人は微笑んで見守るだろう。だが、天孫族の一団に、大人の寛容は備わっていなかった。
磯城の小僧に狭野姫が奪われる。そう嫉妬した彼らは、天孫族までが磯城族に呑み込まれるような被害妄想も抱いた。何を語らずとも、彼らの暗光の目がそれを太忍に教えていた。
酒がにわかに美味くなった。突然、眉根を開いた主人に、葛城族の面々は戸惑ったが、重い空気の共有を強いられていた彼らは、これで酒と馳走を楽しめると喜んだ。
「あの痴れ者に、機会をもうひとつくれてやれそうだ」
太忍のつぶやきは杯の酒を揺らしただけで、そのまま飲み干された。
日が中天に達した頃、会は終焉となった。参集者はそれぞれに新しい時代への希望を抱いて家路についた。狭野姫は橿原宮に帰ることを相当ぐずったが、珍彦の説得でしぶしぶ承諾した。名残惜しげな愛らしい笑顔の狭野姫と、顔を倍ほどに腫らした珍彦を見送る入彦は、複雑な感情に染められていた。狭野姫から向けられる慕情は全身をくすぐるが、同時に悪寒が背中に貼り付きもする。彼女の愛情に溺れれば、磯城族は恐ろしい災厄の波を被ることになりそうだ。入彦にはそんな予感がある。
さて、大祀と会とが成功裏に終わり、本来ありつくはずでなかったご馳走をたらふく胃に収めた豊城彦、豊鍬姫、活人の三人は、瑞籬邑に帰ってから、胃の中のものをぜんぶ戻すほどの説教を受けた。
山門を舞台にした物語は新しい幕を迎えます。狭野姫と入彦はそれぞれに企望を抱きますが、奸計もまた蠢きはじめます。