山門編-初国知らす王の章(5)-厄災のあと(5)
何者かの害意が磯城族を脅かすなか、天孫族からの使人が到着します。
翌朝、黎明に霊殿での礼拝を済ませた入彦は、白梅の木が可憐な白い花弁を広げているのに気付いた。辺りはまだ夜の暗さを払っていないが、まるで朧な白い灯りがいくつも点っているかのような光景だった。その朧な明るさは、夜気にゆらぐ芳香の粒子でもある。常であれば春の香りをしばらく楽しむところだが、今朝は風情を感じているゆとりがなかった。
宮に戻ると、大室に、磯城族の主だった面々が入彦を待っていた。
大彦、石火、石飛らは、皆、緊迫を膝の上に載せたような顔をしていた。木偶人や土偶人のような怪士が氏上の宮に現れたとあっては、仲良くはしたくない緊迫の手を引いてこざるを得なかった。
「朝曙からお呼び立ていたしました」
入彦は、わざと朗らかな声を出した。緊迫には不吉さが付きまとうものだが、入彦の明朗な声は、その不吉さを振り払った。ちょうど、開けた牖から今朝の最初の光が差し込み、室内をほの白く染めた。
(氏上は日に愛されている)
その思いが、大彦らの膝の上の緊迫をいくらか軽くした。
入彦が着座すると同時に身体をそちらに向けた石火が深々と頭を下げた。
「この度は、まことに許され難き失敗をしでかしました」
石火は瑞籬邑の邑宰に任じられているから、昨夜の騒動に重い責任を感じていた。
「戸締まりに抜かりなくとも、百足や疫病は押し入るもの。昨夜のことが、なにゆえ卿だけの責となりましょうか」
入彦は石火を気遣った。誠実で物堅いこの老臣を、父の大日は大事にした。その信頼は入彦にも受け継がれている。
「出物腫物ところ嫌わず、と申すからな」
豪快に笑った大彦は、笑いを収めると真面目な顔を入彦に向け、
「とは申せ、木偶人や土偶人などの詛戸が現れたとなれば、その導因を詳らかにせねばならぬ」
と、事の究明の必要性を訴えた。悪戯者の豊城彦たちが何やら悪さを働いたらしいが、それが原因とは到底思えない。昨夜はたまたま寝ぼけた大彦がいたから被害が最小で済んだが、大彦がいつも泊まり込んでいるわけではない。ちなみに、詛戸は呪物を指す。人を呪うことを、詛はしめるとも言う。
「偶人などという怪士は、呪いなくては自ずと生まれ出ぬものです。何人かの思惑があったとみるべきでしょう」
入彦の示した事実と推測は、不快な想像に繋がる。つまり、何者かが磯城族もしくは入彦個人に悪意を抱いているということだ。
「恨み辛みなど、つまらぬことだ」
大彦は鼻を鳴らしたが、恨み辛みの恐ろしさは承知している。
「おそれながら」
末席で畏まっていた石飛が言を挙げた。
「うん、恐れ入る必要はない。何でも話してくれ」
石火同様に、その子の石飛にも、入彦は絶大な信頼を置いている。
「実は昨夜、大彦様が砕かれた偶人の土塊、枯れ枝などを百襲姫様の御前にお持ちし、占っていただきました」
「ほう、よくいたした。それで占形はなんと出た」
大彦はじめ、列座の面々は石飛に視線を注いだ。
「偶人に言霊を与えた霊司の正体にはゆき着きませんでしたが、土塊、枯れ枝には、橿原の大地の霊が感じられる、とのことでした」
「なんだと」
刮目した大彦は、その後の言葉を苦そうに呑み込んだ。入彦は瞼を閉じ、しばし沈思した。
百襲姫の出した占形は、重要なことを示唆している。橿原は天孫族の根拠地だ。そこの大地の霊が感じられるということは、偶人を造った素はその地にあるということだ。
「これは偶然か」
大彦は入彦を見た。入彦は目を閉じて感情の色を消していたが、やがて瞼を開け、明眸を見せた。
「偶然ではありましょう。ただし、神意による偶然か、人の為したる偶然か。そこを見極めねばなりません」
入彦はそう言って、場の雰囲気が短絡的な決めつけに流れるのを防いだ。
天孫族から使人がきたのは一昨日のことだ。磐余彦狭野姫からの正使の先触れだ。入彦が大彦を邸に招いたのは、天孫族正使の応対について相談するためだ。
天孫族の使人が、狭野姫からの伝言と共に呪いを運んできたとすれば、どうだろうか。ただしこの場合、狙いが入彦や磯城族の有力者であるとは限らない。正使を狙ってのこととも考えられる。もし正使が狙われているのだとしたら、天孫族に内紛があるとの示唆になる。
いずれにしろ、呪いは誰かを狙ったには違いない。本来、そのときまで埋伏するはずだった偶人が、白銅鏡に封じられた百襲姫の呪力の甘美に誘われ、起動した。そう筋道をつけた入彦の思考は、実は豊城彦が考えたことと一致している。
それにしても、やはり豊城彦と豊鍬姫には奇譚がつきまとうらしい。入彦の邸の神倉に納められた白銅鏡が、その夜のうちに怪士を招き、その場に二人が居合わせたのは、それこそ偶然とは思えない。あるいは、二人の魂の中の御統と豊が何かを告げているのだろうか。
実子である活人の将来に不安があると言えばある。豊城彦と豊鍬姫をどこかへ連れてゆく運命の流れに、活人が巻き込まれることは十分に有り得る。しかし、それで良いのだ、とも思う。御統と豊を友にしたことで、自分はずいぶん成長できたという自覚が、入彦にはある。親の贔屓目に見ても、活人の器は決して大きくない。豊城彦と豊鍬姫を鍛え上げるであろう運命の水面に飛び込むことで、活人もまた鍛えられるに違いない。
「では、とりあえず天孫の正使を恭しく迎え、様子を探ることにするか」
大彦が、入彦の思考を本筋に戻した。
「そうしましょう。方々に集まっていただいたのは、もともと天孫族正使の扱いを話し合いたいからです。磯城族の礼で迎えることになりましょうが、昨夜のことは口に出さぬように願います」
その話柄を打ち切った入彦は、その日のもともとの議題を重臣たちに諮った。
方針が固まると、重臣たちをいったん散会させ、入彦自身は房に戻って衣帯を改めた。山藍で染めた青摺の衣褌だ。青は磯城族の象徴色である。
宮の正殿では、天孫族の正使がすでに着いていた。
「お待たせいたしました」
入彦は入室すると、胡床に腰を下ろし、天孫族の正使へ軽く頭を下げた。
板張りの床である。天孫族の正使と磯城族の主だった者たちは毛皮の敷物に正座している。
磯城族の列席者は、氏上に向けて一斉に額づいた。これが山門諸族の一般的な礼だ。天孫族は筑紫諸族に一般的な大真風の立礼だが、ここは磯城族の礼にあわせた。ただし、深々と頭を下げるが、額づくまでには至らない。そこが、今後の山門の主導者と自負する天孫族の誇りだ。
正使が面を戻すと、その艶だった顔立ちに入彦は驚いた。
切れ長の目に、すらりと描かれた鼻筋、濡れ色の唇。女人の衣装を着込めばさらに映えるであろう白い肌。髪は毛先を肩にまで垂らした下げ美豆良で確かに男子の髪型だが、どこか色を感じさせた。
「春陽の麗らかなこのよき日に、磯城県主様におかれましては、お目通りをお許し下さり、まことに光栄の至りでございます」
そう挨拶を述べた正使は、自らを、
「香魚人」
と名乗った。彼の声が男性のものであったことに、なぜか入彦は安堵した。どこか幻想的な香魚人の容姿に戸惑っていた心が落ち着いた。
「たかちはる日輪の天津磐余彦様の御専使をお迎えできますこと、嬉しく思います」
入彦は挨拶を返した。磐余彦という本来ならば武骨な響きを持つ言葉は、狭野姫の姿を重ねるとき甘美な音色にかわる。その意味で、香魚人は狭野姫の正使として相応しいように思えた。
「我が主より県主様へお伝えしたき儀があり、罷り越しましてございます」
「明上の御言であらば、慎んで伺うでありましょう」
応えながら、入彦は正使を注意深く観察している。昨夜のことが天孫族から発しているのであれば、正使にも何らかの仕掛けがあるかもしれない。何気ない素振りが印を結んでいるかもしれず、障りない言葉の中に呪いが秘められているかもしれない。女人と見紛う艶の中に、すでに謀りが潜んでいるのかもしれない。
ところが香魚人の所作に怪しさはなく、彼を捉える視覚は、ただ爽やかな誠実さに染まっただけだった。
眩いまでの香魚人の肌のなかで、右の手の甲だけが異質だった。そこに黒々と熊の意匠が描かれている。
山門の人々は文身を好む。好むというより、それは必需だった。天地山川に無数に巣くう悪霊から身を守るための呪いなのだ。入彦も右の頬に洗練された水の意匠を描いている。
山門の南方の深い山々に暮らす人は、熊を信奉している。数年前に狭野姫がその地を平定し、室と呼ばれていたその天地に熊野の名を与えた。香魚人は、その頃から狭野姫に仕えたのだろう。
御専使として香魚人が伝えた狭野姫の言葉はこうだ。
厄災から七年が経ち、山門の復興は進んだ。天孫族を中心とした新たな山門の姿を人々が見え始めたこのときに、天神地祇、天孫族と山門諸族の祖霊を合祀する大祀を挙行したい。ついてはその霊畤として、磯城の鳥見山を使用することを許可してもらいたい。話の主旨はそういうことだ。後世、天孫族の系譜が豊秋島の支配者の祖とされるに従い、天孫族の祖霊が天神と、山門諸族の祖霊が地祇と明確に区分されることになるが、この時期はまだそれらは混在している。
ともかく、大祀を挙行し、それを天孫族が主導することで、斑鳩族の饒速日にかわる新たな山門主が天孫族の磐余彦狭野姫であることを強く印象づけようとする政治的事業であることは明白だ。
七年前、同じことを目論んで大葬を挙行した人物がいた。入彦の叔父、安彦だ。その企望は頓挫し、しかも厄災のきっかけともなった。
狭野姫が挙行しようとするこの度の大祀には、もちろん政治色は濃厚だが、詐謀や野心の匂いはない。新しい山門の着実な一歩を記念しようというものだ。その事業自体に異議はない。だが、天孫族の根拠地である橿原ではなく、なぜ磯城族の勢力圏の鳥見山なのか。
狭野姫の、自分に対する厚遇に秘められた想いは自覚している入彦だ。磯城族への狭野姫の過度な傾倒を面白く思わない天孫族はもちろんいるだろうし、彼らが入彦に害意を持つことは十分にありえる。
「なにゆえ、我が領域の鳥見山を選ばれたのか」
心中のさざめきは顔色に出さず、入彦は問うて当然の部分だけを声にした。
「磯城県主様であれば、そのゆえをお察しいただけると主は申しておりました」
香魚人はそれだけを言って、深く頭を下げた。
もちろん察しはする。鳥見山で、入彦と狭野姫は初めて出会った。磐余砦の戦いの最中のことだ。入彦の父は狭野姫の放った矢に射貫かれ、命が旦夕に迫っていた。父を喪う悲しみと恨みを剣に宿して、入彦は狭野姫を襲った。入彦の剣を払った狭野姫の剣には、兄を喪った悲しみと浮浪の一族を率いる指導者の孤独が宿っていた。
最愛の人を喪った悲しみを共有した二人が見た山門の夕日は、天と地が織りなせばかくも美しい光景を生み出せることを強烈に印象づけた。
山門を主導する立場に立つことになった狭野姫が霊畤に鳥見山を選んだそのゆえは入彦にとって明白であり、なぜと問うたことが、あの日の光景を汚したことになるではないかと後悔した。
しかし、入彦にとって明白であったとしても、狭野姫の意図は、天孫族にとって暗晦の不可解さだろう。と言って、そのことを族人に説明できようはずもない。そのときを共有した者にしか理解できない想念だ。天孫族の族人の不可解さが疑心暗鬼を生み、それが入彦への敵意に変わったとしても不思議ではない。
それはともかく、入彦は磯城族の氏上として、天孫族の氏上からの申し出に対して何らかの返答をしなければならない。
「諾」
と返せば、磯城族は新たな争いの渦中に呑み込まれるかもしれない。
「否」
と返せば、磯城族は天孫族との対等の立場を捨て、山門の一隅に逼塞するだけの存在になる。
入彦は、迷わず前者を選んだ。狭野姫を天とすれば、入彦は地だ。天地が調和しなければ、美しい光景は生まれない。
入彦の返答を得た香魚人は、その夜の酒宴でもてなしを受け、翌朝、帰途についた。
入彦は大彦と石火、石飛を呼び、今後の対応を協議した。大祀の場所を提供するということは、鳥見山に数百人規模を集められる整地を用意しなければならない。入彦の別宮がある一帯を中心にして樹木を伐採し、山を削り、崖を埋めなければならない。別宮の甍を超えるような壇も築かなければならないだろう。
「意のままに答えてしまい、方々には骨を折ってもらわなければなりません」
「構わんよ。氏上というのはそういうものだ。あとは我らに任せておけばよい。なにしろ、猪口才な天孫に磯城の力を見せつけてやる骨折りだ。骨の折り甲斐があるというものよ。そうであろう、石火」
そう言って大彦に背中を叩かれては、それだけで背骨が折れそうな石火だ。苦笑しつつも、しかし唐突の事業を請け負った。邑宰は彼であるから、折る骨のほとんどを石火が受け持つことになる。
入彦は次に石飛に振り向いた。
「父上の手助けをしたいだろうが、汝には別のことを頼みたい」
「わかっています。舎人どもを集め、怪士などが一匹たりとも紛れ込まぬようにいたします。また、祝者たちに宮とむらの結界に綻びがないか見直させます」
「うん。百襲姫様のお知恵もお貸し願え」
「承りました」
一礼すると、石飛はさっそく手配に向かった。続いて、石火も房を出た。
「ところで、吾の孫はどうしておるかな」
大彦の娘が美茉姫であり入彦の妻だから、孫とは活人のことだ。
「躾に背きましたので、無目の倉で豊城彦らと共に戒めさせています」
無目とは牕のない塗り込めの部屋のことだ。囚獄ではないが、宮で働く家人などが不手際や怠業を責められた場合に、反省を促すための部屋だ。入彦の宮に仕える家人たちはみな優秀で勤勉であったから、その部屋の利用者は、もっぱら豊城彦ら三人だった。
「そうか。まぁ、悪事を働いて倉に閉じ込められるのは、磯城の氏上の子の習わしだな。汝の父もそうだった。吾の父の国牽もそうだったと聞いている。あまり厳しくしてやらぬようにな」
大彦はちゃっかりとその伝統から自身を省いていた。父の大日が幼い頃に悪戯童子だったことは知っているが、その主導者はたいてい大彦だったことも知っている。祖父に当たる国牽もそうだったとは初耳だったが、いずれにしろそんな磯城族の氏上の子の伝統は、そろそろ絶ったほうが良さそうだった。
それにしても、かつて大人たちを困らせていた悪戯童子は、いずれも身を犠牲にして磯城を守っている。大日は天孫族との戦いの中で斃れた。国牽は山門の天地を守るため、剋軸香果実の時を逆巻く渦に飛び込んだ。彼らは英雄と称えられる。飄々とみえる大彦も、磯城族のために身を犠牲にしているといえる。本来であれば彼こそが氏上だった。しかし彼は弟を支え、今は甥を支えている。大彦もまた、死後には英雄と呼ばれるだろう。
自分はどうありたいのか、と自身の内面を見つめてみても答えはない。ただ一人の自分でありたいと思う。おそらく父も祖父も、ただ一人の自分でありたかったのではないか。自分という人生を懸命に生きた。英雄という称号は、残された者の言葉でしかない。残された者に英雄と呼ばれるために自己犠牲が必要なのであれば、子どもたちにはその称号を求めてほしくない。ひとり部屋に残った入彦はそう願い、庭木にとまった小鳥の声を聞いていた。
磯城の鳥見山で山門諸族会同の大祀が挙行されることになりました。さて、平穏な開催となりますでしょうか。