山門編ー初国知らす王の章(4)ー厄災のあと(4)
神倉に納められた白銅鏡は、探検好きの三人の童子のほかに、怪士まで招いていました。
人にとっては忌み怖れるものであっても、生まれながらに不思議さに包まれた人間には親密を感じさせるものらしい。神倉の中を飛び回る発光体を見て、豊鍬姫は喜びの声をあげた。彼女ほどではないが、豊城彦にも、すり寄ってくる人魂とも鬼火ともつかない発光体を受け入れる余裕があった。震え怯えているのは活人だけで、彼は懸命に自分こそが常識人なのだと自身に言い聞かせ、劣等感に耐えていた。
「産霊たちがこんなに」
豊鍬姫にかかれば、人が物怪と怖れる霊魂も小鳥のようなものだ。
「こいつらは白銅鏡からにじみ出てきているようだ。こいつらを呼んだのは、妹よ、どうやら汝のようだ」
豊城彦は冷静に観察した。
木、火、土、金、水。この世界を構築する元素を産み出す霊魂が、神倉の中を飛び交っている。これらは百襲姫によって白銅鏡に封じ込められた精霊たちで、自分たちを鏡から開放し、力を奔放に発揮させうる呪力を持った人物の気配を悟り、たまらす先走り、ほとばしったのだ。
「さてさて、鏡が豊鍬を呼んだのか、豊鍬が鏡を誘ったのか」
産霊をひとつ手のひらで遊ばせつつ、豊城彦は哲学者ぶった。
「そんなことより、これはいったい何なのさ」
腰が抜けたような格好ですり寄ってきた活人は、息も絶え絶えにそう言って、兄の衣の裾を引いた。もう帰ろう、という願いを言外に込めたが、直接そう言わなかったところに、五歳ながら活人にも男子としての矜持があった。
「案ずるな。これらは悪いものじゃない。木火土金水、この世を形づくっている素の霊だ」
活人の言外の願いは、兄によって素気なくあしらわれた。豊城彦が披露した知識は大真のものだが、実は活人もそんな問答に興味を持っているから、
「風や雷は含まれないの」
と、つい尋ねてみた。
「うん、風は木と火から相生まれ、雷は土と水から相生まれるんだ」
木火土金水が互いに作用し、相剋、相生して万物を成すという思想は、大真において五行説として体系化された。豊城彦たちが暮らす豊秋島でも、はるかのちに陰陽の要素を加え、陰陽五行説という一大思想となるが、今の時点で豊城彦にそこまでの認識はない。
「じゃあ、あれも悪いものじゃないの」
活人が何気に指差した方を見て、豊城彦の表情が強張った。
「あら、木偶人と土偶人ね」
知り合いを見つけたような豊鍬姫の言い草だが、そんな長閑な反応で済む相手ではない。屋舎の甍から生気のない顔を見せているのは、言霊で生命を吹き込まれた怪士だ。ことの原理としては小枝を松明と信じさせる豊鍬姫の言霊術と同じだが、相当な力量の霊司でなければ生み出せない代物だ。
「どこに潜んでいたのか」
豊城彦は前に出て、勝軍木の剣を一振りした。木偶人と土偶人は明らかに人に仇なす存在だが、脅威を前にして、豊城彦は怯えよりも闘志が沸き立つ質だった。しかもここには妹と弟がいる。童子であろうとも、守るということを豊城彦は知っている。
「どこにでも潜むのよ。素は木の葉や泥なんだから」
豊鍬姫は素の顔で兄に教えた。
「うん、そうだな」
と、豊城彦は返したが、肝心なことは、強力な呪飾が施されているはずの邸の塀を、どうやって乗り越えてきたのか、ということだ。相当な呪力を帯びた怪士と考えるしかない。
「なんでそんなに落ち着いてるのさ」
活人にとっては、木偶人と土偶人の出現よりも、そのことのほうが驚きだった。
「世の中いろいろあるもんだからな」
「現世は、春山ほどの賑やかさ」
同時にそう教えられた活人にはちゃんと聞き取れなかったが、兄と姉は、とても齢七つとは思えない人生観を唱和させた。
次の瞬間、豊城彦は跳躍していた。木偶人が三人めがけて襲いかかってきたからだ。
夜の空中で、豊城彦が一閃させた勝軍木の剣が木偶人を激しく打ち、元の枝葉に還したかに思われた。だが四散した枝葉を再び結集した木偶人は、そのまま枯れた腕を豊鍬姫に振り下ろそうとした。腕は枯れてはいるが、先端には鋭い鉤爪がある。
「霊響、霊響、燃え上がれ」
豊鍬姫が手にした松明もどきの小枝を杖のようにして一振りすると、仄かだった火がにわかに炎となって燃え上がり、木偶人を焼き尽くそうとした。その炎を、土偶人が泥を投げつけて消し去った。
木偶人の鋭い鉤爪が豊鍬姫に振り下ろされた。間一髪、活人が姉に突進するような格好で横っ飛びにぶつかり、凶手を避けた。活人と豊鍬姫は突進の勢いのまま、神倉の中にもんどり打って転がった。その弾みで神倉内の棚が倒れ、宝物が落下した。
「よくやった」
着地した豊城彦は活人を褒めたが、一件落着後、活人は姉からこんこんと説教を喰らうはめになる。
豊城彦は、今度は土偶人に狙いを定め、渾身の力で突いた。勝軍木の剣は土偶人を激しく貫いた。だが、まさに泥を突き刺したような手応えのなさで、いささかの損傷も与えていないようだった。
土偶人がにたりと笑った。たちまち、体を強張らせると、今度は岩のように固くなり、豊城彦は剣を引き抜くことができなかった。彼の頭部を、岩石の硬さに握り込んだ土偶人の拳が襲った。咄嗟に剣の柄を離した豊城彦は、転がって攻撃をさけた。
距離を置いて立ち上がった豊城彦は、
「なかなか手強いな」
と、さして慌てもせず、衣の汚れを払った。
「ところで、汝らはなぜここにいるんだ」
激しくやり合っておいて、今さら聞くべきでもないことを、平然と豊城彦は口にした。確かに豊城彦としては、襲いかかってきたから応じただけであって、怪士といえど、それだけで敵意をいだくことはない。お互いに誤解があるなら解いておきたい、というのが豊城彦の真意だ。
木偶人と土偶人は豊城彦へは答えず、じりじりと迫ってきた。
「うん、やっぱり、そういうことか」
水精や木精といった精霊とは異なり、偶人などというものは人の害意や悪意がなければ生まれ出ない代物だ。邸に迷い込んだのではなく、明確な意図があって送り込まれたのだ。その意図を知りようはないが、友達になりたがっているわけではなさそうだった。
木偶人と土偶人が攻撃態勢に入った。鋭い鉤爪と岩石の硬さの拳とが豊城彦めがけて振り上げられた。豊城彦は二つの怪士の動きをじっと見定め、好機をうかがっている。このとき、空気を切り裂く音がして、土偶人が青い炎に包まれた。無言ながら苦痛の表情を浮かべた土偶人は身を崩して泥に戻り、炎を怖れた木偶人は飛びさがった。
「妹よ、助かった」
青い炎を放ったのは豊鍬姫だ。彼女の手には白銅鏡がある。活人と一緒になって神倉に転がり込んだとき、幾つもの棚を倒壊させて落ちてきた宝物の一つに、白銅鏡があったのだ。
豊鍬姫は続けて白銅鏡から青い炎を放った。木偶人は慌てて逃げた。
「おお、あれは青鷺火だな」
感心しつつ、豊城彦は泥に還った土偶人から解放された勝軍木の剣を拾い上げた。青鷺火とは、山門の山奥に棲息する山鳥の霊だ。地祇ではないが、それなりの霊力を秘めている。百襲姫がその力を白銅鏡に封じていたのだろう。その青鷺火が豊鍬姫の言霊に感応して現れたのだ。
青鷺火は土偶人を瞬時に崩壊させる威力だが、豊鍬姫の今の呪能では二発を放つのが精一杯だった。呪力を使い果たした豊鍬姫は気を失ったように倒れ込み、活人がとっさに姉の身体を支えた。
霊司の脅威がなくなったと見た木偶人が意気軒昂と戻ってきた。さらに悪いことに、泥に還っていた土偶人も再び形を整えて立ち上がった。
「いやはや、いやはや」
豊城彦が嘆いたのは二通りの意味がある。一つは怪士の退治が思った以上に面倒であったこと。もう一つは、騒ぎを聞きつけた邸の舎人たちが集まってきたことだ。父から説教を受けることが、これで確定した。
人が増えたことで興奮したのか、焦ったのか、木偶人と土偶人は凶暴さを露わにして、舎人たちに襲いかかった。舎人たちは剣や矛、呪術で対抗したが、なにぶんにも不慮のことであり、組織的な連動で対応することができず、個別に対峙しては劣勢に追い込まれた。
豊城彦は取り急ぎ、活人と豊鍬姫のもとに駆け寄った。豊鍬姫は脱力しているが目は開けており、呼吸も安定していた。安堵した豊城彦が振り返ると、舎人を蹴散らした木偶人と土偶人とが、月光の下で勝ち誇っていた。
「あっ」
と、豊城彦がぎょっとした声を出したのは、木偶人と土偶人の背後に大きな影が立ったからだ。木偶人も土偶人もそれなりの身長をしているが、現れた影はそれをゆうゆうと見下ろせる大きさだった。
「ぬんっ」
木偶人と土偶人に聴覚があったとすれば、それが現世で聞いた最後の音になった。
頭上に巨石の衝撃を受けた木偶人と土偶人は、微塵のかけらとなって消え去った。
「ったく、いい夢をぶち壊しおって」
岩石のように怪異な拳を振るって、大彦は大あくびをひとつすると、何事もなかったように自分の房に戻っていった。
そういえば、今日から大伯父の大彦が邸に泊まっていることを豊城彦は思い出した。
「怪我はないか」
声を掛けられた豊城彦が振り向くと、大舎人の石飛が立っていた。
「何やら怪士が忍び込んでいたようだが、あの人がいたのが運の尽きだったな」
石飛はそう言いながら周囲を見渡した。
石飛は舎人の長というべき大舎人で、騒ぎにいち早く跳ね起きたが、まずは入彦と美茉姫の安全を確認した上で、現場にやってきた。
一目で事の状況をあらかた把握した石飛は、
「どうやら、汝らが一枚噛んでいるようだな」
と、嘘を許さぬ鋭い眼光で、豊城彦、豊鍬姫、活人を射すくめた。石飛は入彦に仕える従者だが、主の子という理由で甘くなる男ではない。豊城彦が怖れる磯城族内の数少ない人間の一人だ。
「違います。いえ、違いませんが、吾たちがあの怪士を招き入れたのではありません。あれは、はじめからここに潜んでいたのです」
豊城彦は抗弁した。
石飛は頷いた。豊城彦の言葉に嘘はないことはわかる。残留する霊気を感知すれば、現れた怪士が、たとえ生まれに奇譚が伴う豊城彦や豊鍬姫であったとしても、招き寄せたり、ましてや生み出すことなどできない代物だとわかる。
三人を鋭い眼光から解放した石飛は、舎人の一人を入彦への報告へ走らせ、数人に邸内の巡察を命じ、残りの舎人を房に帰らせたあと、枝葉と泥に還った怪士の残骸の側にしゃがみこんだ。霊気は薄まっているが、そのなかに不穏な匂いが残っている。
「神倉の中をきちんと片付けておけよ」
豊城彦たちにそう命じ、枝葉と泥を一掴みずつ握り取ると、石飛は霊殿がある方へ向かっていった。
「父上に叱られちゃうよ」
神倉に散乱した宝物を片付けながら、活人が嘆いた。彼の父は声を荒げたり、拳骨を落としたりすることはないが、静かな目でじっと見つめるのだ。活人にはそのことの方が怖かった。父に嫌われてしまわないかと心配になるのだ。
「一緒に謝ってあげますよ」
「そりゃ心強いって、僕を誘ったのは豊姉と豊兄だろ」
思いやりがありそうでそうでもない、と活人は毒づいたが、当の豊鍬姫は神倉の床に座って平然としている。彼女は一時は失神しかけたが、いまは少し気力を回復して自力で座ることができている。おかげで神倉内の片づけの負担は増えたが、姉が元気を回復したことを素直に喜べるところが、活人の優しいところだった。
ともかく、今夜に凝りて、兄と姉が無謀な遊びに自分を誘うこともなくなるだろう。その活人の期待は、あっさりと裏切られることになる。
「やっぱり、そうに違いない」
綾布の嚢を被せた白銅鏡を神倉の奥の棚に戻した豊城彦は、確信したとばかりにそう言った。
「なにが違いないの」
「うん、妹よ、考えてみろ。この邸の外塀は百襲姫様の祓除の呪いが施されているから、偶人などは入り込めない」
「でも、いたわ」
「うん、そうだ。だれかが、呪いに浸した枯れ枝や土を邸に持ち込んで、秘かに言霊を与えておいて誰かを襲わせようとしたんだ。ところが、この夜、汝に誘われた白銅鏡の精霊たちの霊力に触れて、呪いが発動してしまったんだ」
「だれが、だれを襲わせようとしたの」
「それはわからない。だから、突き止めなければならない」
父や母や妹、弟、舎人や家人たち。この邸には大事な人がたくさんいる。誰が狙われたにしろ、守らなければならない。
兄と姉の会話がきな臭くなったと察知した活人は、神倉の片づけに精を出し、極力ふたりから離れようとした。
「おい、活人。明日からさっそくとりかかるぞ」
豊城彦と豊鍬姫の次なる任務に、活人もしっかりとその頭数に含まれていた。
木偶人と土偶人は退治されましたが、何者かの陰謀を嗅ぎつけた豊城彦たち三人は、次なる探検のネタを見つけました。