山門編-初国知らす王の章(39)-出雲の荒王(10)
<これまでのあらすじ>
豊秋津島の青垣山籠もれる山門の国は、俳優の少年御統と黒衣の少女豊、そして多くの人の活躍と犠牲で剋軸香果実の厄災を乗り越えた。
天孫の磐余彦狭野姫は、磯城族の県主である入彦と共に手研の乱を鎮めるが、あえて簒奪者を演じた手研の無尽の愛情を知り、深い悔恨に陥る。狭野姫は山門を去り、出雲へ向かう。豊城彦、豊鍬姫、黒豹の如虎、熊鷹の翔、そして葛城族の剣根が旅の仲間に加わる。狭野姫は名を日照と改め、剣根には雄心の名を授ける。
日照たちは吉備の統治を巡る争いに巻き込まれる。先の吉備主の遺児である阿曽姫を擁する山門人の武彦は、吉備の支配を目論む温羅を急襲する。日照の妖艶にして荘厳な神楽舞により、温羅の呪いに誑かされていた吉備人は正気を取り戻し、武彦と阿曽姫は吉備の正統を取り戻す。
吉備を出立した日照一行は、須賀族の五十鈴依媛から、次兄の稲飯が出雲主の座を簒奪し、荒王と怖れられていることを知る。次兄の真意を知るため出雲の首邑である日隅邑に向かった日照は、肥川の渡守である秀火と若彦を心服させる。日照は、ある因縁が二人を結びつけていることを知る。
途上、日照一行は大嵐に見舞われ、日照らの呪能を嗅ぎつけた大蛇に襲われ、撃退するも天羽々切を奪われる。出雲主への目通りの口実を失った日照だが、必ずや運命が次兄のもとへ導くであろうと信じる。
出雲の首邑、日隅邑に到着した日照一行は、出雲主からの使者である韓久に案内され、客舎に入る。しかしそこは、出雲主の仕掛けた呪いの牢であった。兄に奸悪さはないとみた日照は、豊鍬姫と機織りを楽しむが、呪いを祓おうとした秀火らの試みが、予期せぬ日照の激怒を招く。
≪是非ご一読ください。ご感想、ご評価をいただけましたら幸いです。≫
<人物紹介>
豊城彦
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。
豊鍬姫
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。
入彦
磯城族の氏上。厄災を乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主。
美茉姫
入彦の妻。明るい美しさの女性。淑やかであり、闊達でもある。
活人
入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。
大彦
入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。
石飛
磯城族の青年。入彦の舎人。
百襲姫
磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。
翠雨
入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。
如虎
黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。
翔
豊鍬姫になついている熊鷹の子。
日照
旧名は狭野姫。かつて天孫族の氏上であり、磐余彦を号して山門主であった。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。
手研
故人。狭野姫の年上の甥。狭野姫が唯一甘えられた人物。入彦に狭野姫を託して逝く。
珍彦
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
道臣
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
吾曽利
天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。山門近傍に潜伏し、捲土重来を期す。
太忍
葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。
雄心
旧名は剣根。太忍の庶子。過去の所業を悔やみ、日照の従者となる。
五瀬
故人。狭野姫の長兄であり、手研の父。高千穂族とともに東の真秀場を目指し、天孫族を号する。初代の天津彦。
五十鈴媛
五瀬の後妻。出雲族の出身で、製鉄技術者集団と縁が深い。手研にとっては、同年代の継母。
香魚
両性具有の人。神々も魅了する美しい瞳を持っている。
荒王
出雲を実効支配する。元の名は稲飯。日照の実兄。
五十鈴依媛
須賀族の氏上。出雲の荒王となった稲飯を秘かに想う。
秀火
元須賀族。妖言により荒王の配下となっていたが、日照に解放される。
若彦
元須賀族。妖言から解放されていたが、稲作で荒王を支える。
<用語>
高天原:天上世界
豊秋津島:物語の舞台
葦原中国:豊秋津島の別名
山門:豊秋津島のほぼ中央に位置する地方
青垣山:山門の周囲を囲む山並み
筑紫洲:豊秋津島の西部にある大きな島で、白日、豊日、建日、日向の四地方を持つ
真:西の海の果ての大陸にある巨大帝国
氏上:一族の族長
天神地祇:八百万の神々
祖霊:祖先の霊魂 氏上は死ぬと神上がって祖霊となる
精霊:森羅万象に宿る魂
魑魅:山林の異気から生まれた邪霊
厄災:山門を呪いによって支配していた饒速日の体制を瓦解させた大災
剋軸香果実:高天原の神々が下界に投げ捨てた邪心が凝固したもの いつか高天原に帰ることを望み、時を戻す霊力を蓄えるため大地に寄生して石の花を咲かせる
その夜の食事は、ひどく緊張感に満ちたものとなった。日照は、終始にこやかであったが、その美貌に隠されているはずの憤怒の表情を思うと、秀火は旬の真桑瓜の甘い果汁さえ、喉を通らなかった。
「さて、わたくしは居明かしで縫ひものをいたします」
食事の片付けを済ませると、にべもない素振りで、日照は半壊の機殿に籠もってしまった。機殿の傾いた戸に、
「立入厳禁」
の札は掛かっていなかったが、しかし戸はその呪いを掛けられたように厳しい雰囲気を醸し出していたし、うっかり戸を開けようものなら、
「何かごようですか」
と、日照の氷刃のように美しく研ぎ澄まされた横顔を見せられることだろう。その恐ろしさを想像して、男どもは身震いした。
いつもは共に乙女の時を過ごす豊鍬姫も、この夜は母鹿からはぐれた子鹿のような心細さで、房の隅で膝を抱いていた。
日照に意識野の底に眠っていた健御子の気概を呼び起こした怒りの炎をいささかも鎮めることができなかった雄心たちは、やるかたなく囲炉裏を埋火とし、衾褥を敷いて、その中に潜り込んだ。豊城彦は豊鍬姫の隣に居て、日照の怒りの波動に触れて怯えている妹の手を握って慰めた。
豊鍬姫がようやく静かな寝息をたて始めると、豊城彦は、ふと房の隅の物音に気づいた。そちらに視線をやると、すっかり眠り込んでいる雄心の衾越しに、秀火の背中が暗がりにうっすら見えた。秀火の首がくるりと回り、豊城彦と視線が合った。このとき、秀火の目の光がことさら強く発されていたのは、彼の責任感が強く発光していたからだが、まだ幼童に過ぎない豊城彦はそこまで洞察できない。ただ、夜底に点じる獣の目のようだと思っただけだ。
その獣が、豊城彦を手招きした。外へ出よう、と手ぶりで誘った。
二人は満天の星空の下に出た。ときおり空が虹色にきらめくのは、客舎を包んだ呪幕が星明かりにさざなむからだ。
二人は韓久が仕掛けた呪術の牢屋の中にいるが、そうとは感じられないほど、夜気は清らかであった。
「汝にこれを渡しておく」
秀火が豊城彦に差し出したのは、小さな嚢だった。唐突さに思わず受け取った豊城彦の両手がほのかに温かい。
「火埋布で編んだ嚢だ。この中には」
せっかく受け取らせた嚢を取り返した秀火は、嚢の中に手を入れ、何やら小石のようなものを取り出した。
「見ておれ」
すばやくそれを虚空へ投げると、小石のようなものはたちまち発火し、しかも破裂して火の粉を散らした。
豊城彦の眼に浮かんだ小さな驚きは、たちまち無邪気な小躍りに変じた。
「どうだ。この嚢の中の小石には、火産霊の呪いを染み込ませてある。嚢の中では燃えないが、取り出せば、ほれ、このとおり」
秀火はおだてられた俳優がつい調子に乗るときのように、燃えて弾ける小石をもう一投擲して、豊城彦を喜ばせた。
なお、火埋布は、火鼠の毛を編んだもので、その中では、火は大人しく手足を納めている。
秀火は、火を呪う者のたしなみとして火埋布の嚢を所有していたが、それを一見お調子者の能楽者と思える豊城彦に託そうと決意したのには、当然、理由がある。
ひとつには、まだ年端もゆかぬ童女に、彼の呪能者としての矜持を吹き消されてしまったことだ。秀火は火を呪うについては人後に落ちぬ自信を持っていたが、童女の、無意識ながら爆炎を操る呪能の高大さに、自身の手にあったものが取るに足らぬ幻想の欠片に過ぎないことを知った。無意識であったがゆえに、なお末恐ろしい。さらにその童女に姉のようにして寄り添う女性の呪能の、なんと崇高なことか。彼の一生ではとてもその高遠にたどり着けないことに、秀火は爽やかな諦めを知った。
もう一つの理由は、豊城彦の幼さに隠された肝っ魂の強靭さである。どれだけの鍛錬を積んだ武人であっても怯むであろう若彦の勁矢に、豊城彦は数個の石礫だけを握りしめて立ち向かい、そして勝利した。
成り行きで同行者となった豊城彦と豊鍬姫の小さな身体に、秀火では窺い知ることもできない深淵で高峻な何者かの意図が宿っていることは、近頃、自身の不甲斐なさを自嘲することの多い彼にも察することができた。
いつのことかはわからないが、豊城彦と豊鍬姫は必ず大きな何事かを成し遂げる予感が、秀火の心中にある。
「汝の礫の腕前はなかなかのものだが、こいつを使えば、汝もいっぱしの戦士になれる」
秀火は火埋布をあらためて豊城彦に放り渡した。雄心や秀火に比べて非力な自分に、人知れず引け目を感じていた豊城彦は、認められたような気がして、素直な喜びを満面に表した。
(こいつ、得な性分してやがる)
苦笑いした秀火は、さっそく試し投げとばかりに嚢に手を突っ込んだ豊城彦を慌てて止めた。
「おいおい、数がそれほど入ってないんだから、無駄打ちするな」
遮ろうとする秀火の手を避けて、下手投げで鋭く火石を投げた豊城彦は、それが火花を散らして弾けるのを見ると、
「ありがとう」
と、元気に礼を言って、客舎に戻った。
「まったく、鬱陶しきことよ…」
豊城彦の小さな後ろ姿を見送った秀火は、心の底に泡沫のように浮かんだ心情に戸惑った。
日照は別格ながら、豊城彦や豊鍬姫には、何やら生まれながらに背負った宿命のようなものが見え隠れする。背負った者だけが垣間見せる天賦の資質がある。悔しいことに、雄心にも何かしらの因縁がありそうだ。情けないことに、畜生であるはずの如虎や翔にすら、常ではない気迫のようなものを感じる。
ところが己はただの見物人に過ぎない。偉人たちがいずれ成し遂げる事績をはるか後方から仰ぎ見て、遠い星影のように思うだけの人間だ。もしくは、偉人たちが編んでゆく時代という道を、ただ歩くだけの通行人なのだ。
須賀族に生まれ、多少の呪能を備えていた。小族の中ではそれでも持て囃され、自負を得た。ところが、荒王と怖れられる出雲主に良いように操られ、日照の神々しい圧倒的な呪能に解放されるまで、ただの川辺の門番として働いていた。それが秀火の半生である。
しかしながら成り行きか天命か、秀火は、日照ら時代の開拓者たちと歩みを同じくする奇遇を得た。しかも功か罪か、陥穽に嵌って停滞するに思えた開拓者たちの足取りを、どのような不格好さであれ、再び動かす切っ掛けを作ったのは彼である。
通行人風情としては、これくらいの幸運で満足するべきであろう。
明日、開拓者たちは、衣を風に吹かれるようにして再び動きだすだろう。悪風であれ、その風を招いた張本人として、その責務は果たすつもりの秀火である。
一つ宝のように持っていた火埋布の嚢を豊城彦に譲ったのは、秀火の悟りの表現だ。
通行人はただ通り過ぎるのみである。道を切り拓いていく者に、何かを託すことができれば、それは僥倖というものに違いない。
星空は優しい眼差しで秀火を見下ろしている。ときおり夜風にあおられて虹色の小波をたてる呪いの膜も、秀火には、ひどく親しげに思えた。
翌朝、快晴。空は予兆という名の箒に掃かれたように晴れ渡っており、大地からは気が満ち溢れたように、客舎を包む花の花弁や木の枝葉にまで生命力が迸っていた。
それは、この人が挑み立つからだろう。日照のいでたちを見た仲間たちは、驚きとともにそう感じた。
日照は素白の衣を身にまとっているにも関わらず、見る者には、彼女の挙止に伴って、衣が様々な光色に波打つ。その衣は麻糸で編まれた素朴な衣にすぎないが、日照の呪言が編み込まれているため、そのような呪いの輝きを放つのである。
「日女さま、戦にでもおでかけになるの」
率直に豊城彦が尋ねたほど、日照の白い肌には火照ったような赤みが差していた。久しぶりに火を入れられた彼女の心の底の健御子の魂が、彼女の肌を内から輝かせているのである。
「戦になるかどうかは、兄上との次第によります」
豊城彦を顧みず、ある一点を凝視しながら日照は応えた。日照の視線は、戸を明け放った先に、樫の戸板よりも強固に囚人の脱出を塞ぐ呪膜に注がれている。呪膜は、日照に見つめられたそれだけで、まるで烈風にあおられた木綿布のように狂おしくその身をよじった。
「さぁ、この忌々しい牢屋の戸を蹴破ってしまいましょう」
勇ましくそう言い放った日照の出で立ちは、雄々しいながらも艶やかであった。夜空を束ねて編み上げたような光沢のある黒髪を角髪に結い、細やかな輝きを織り込んだ衣の巻き上げた袖から見える細い腕、たくし上げた裾から伸びる艶冶とした足は、今にも獲物に襲いかかろうとする美しき獣のような躍動感を迸らせている。
柳腰の左に提げた韴霊剣の柄を白魚の指が断乎として握りしめ、深紅の管玉を巻いた右手は日照の強固な意志を凝固したように突き出された。
「汝、儚きもの、夕べに大地を埋め、朝に解け去るもの」
日照の苛烈な呪能を帯びた言霊が発せられるや、客舎を覆った呪膜は瞬く間に純白な結晶と化して、豊城彦らの目にも顕らかとなった。そして日照が右足を雄々しく踏み出すや、それはまるで泡雪のように砕け、崩れ、光の粒子となって、虚空に消え去った。
呪いが光の粒子となって消え去った後に、人影が現れた。
韓久である。彼はすました顔で日照へ慇懃に礼を捧げ、
「吾が主から、そろそろお迎えするように仰せつかりました」
と、白々しく述べた。
「兄上の辛抱が尽きたということですね」
日照に、彼女ら牢屋の呪術に嵌めた韓久を咎める口調はない。すべては荒王たる出雲主の戯心であり、彼女への挑戦である。
「主の辛抱が尽きたわけではございまぬが、お急ぎになっていることは確かでございます。間もなく、豊日の賊どもを懲らしめにまいられますゆえ」
と、涼しげな顔で韓久は言った。豊日には佐為族が勢力を張っており、出雲主は服わぬ彼等を討ちにいくという。
「それは、いと労かはしきことにございます。豊運の多なりしを寿ぎて、良き貢物を携えて参りましたゆえ、斎宮へお引き回し願います」
日照自は殊更に深く頭を下げた。
日照の様態を挑戦と知りつつも、うわべは礼と受け取った韓久は、答礼して、
「では、さっそく参りましょう。お供の方々もどうぞ諸共に」
と、丁寧な身振りで日照一行を誘った。
日隅邑は、にわかに沸き立った。朝の活動を始めていた人々が、朝日の帳を颯爽と押し開いて闊歩する日照の姿を見たからである。
艶やかでありながら勇壮で、猛々しくありながら洗練され、その姿は光り輝いて、まるで高天原から雷光か剣輝の天神が降臨したかのようだった。
天神を先導するのは出雲主の大夫の一人であることは邑人であれば知っているが、後ろに続く無粋な身なりの姿は、人々を多少鼻白ませた。
大陸からの使者とその従者ではないかともっともらしい推測を述べる者がおり、その言葉はたちまち多くの人を集めた。大陸からの使者が筑紫の諸族でなく、直接に出雲を訪れることなど過去になく、画期的な瞬間に立ち会う機会が訪れたと、出雲族を誤解させた。
かくして、夏の朝空のもと、多くの観衆が日照の後ろに続くという不思議な光景が現出した。
「さすがに我が妹よ」
斎庭に築かれた台の胡床に座って階下を見下ろしていた出雲主こと稲飯は、日照が大衆を引き連れてきた報告を受けて、手を打って喜んだ。
集まった邑人の数は数百になった。その数が宮処の門に至ったため、驚いた門守は門扉を閉じようとしたが、配下を走らせた稲飯は、邑人の通過を許した。
清浄にして寂静たるべき斎庭を、熱気と高揚感が満たした。この場に集まった者は、邑人はもちろん、出雲主の役人たちも皆、肩で風切って入庭した日照の照り輝く艶姿に、日常では目の当たりにすることのない神秘を目撃できるのではないかと鼓動を早打たせた。
白砂の外に豊城彦らを待たせた韓久は、日照のみ白砂の中へ進むよう指示した。また、剣を外すよう目で伝えた。日照は左腰に提げた韴霊剣を剣帯から取り外し、雄心に預けてから静々と進んだ。日照が白砂を踏む音が、鐸の音のように荘厳さを振り撒いた。
台の上の稲飯の姿が近づく。彼は微笑んでいるようにも、嘲笑っているようにも見えた。台の階下に控えている役人が手を挙げて、制止を命じた。そこからでは、稲飯の姿は、まだ高木の梢の禽鳥の遠さであった。
「久しいな、妹よ。あの夜の海のこと此の方であるな。恙なくあったか」
降りてきた声が出雲主としてでなく、兄としての声であったことに、日照の争気が少し緩んだ。あの夜の海のこととは、日照がまだ狭野姫であった頃、天孫族が天津彦五瀬に率いられ、筑紫の日向から遥かな真秀
場を目指し、孔舎衛坂で山門に敗れ、海に落ちていった夜のことである。あの夜、長兄であった五瀬は斃れ、天孫族は分裂した。その一つを狭野姫が率いて再び山門に挑み、その一つは稲飯に率いられて彼の真秀場を目指していった。流れゆく歳月に運ばれて、狭野姫は日照となって流浪人となり、稲飯は出雲主となって荒王と怖れられることとなった。真秀場に辿り着いたのは二人のうちのどちらなのか。それとも、ともにまだ至らぬ真秀場を求めて流離っているのか。
「久しき音無しをお詫び申し上げます、兄上。ここ出雲を真秀場と見定められましたか」
緩んだ争気を軽く抑えた日照は、ここは殊勝な妹となった。
「あのさがなき娘がおとなぶ言いぶりをするようになったことよ」
稲飯は愉快気に笑った。そこには兄としての純粋な喜びがあったように、日照には聞こえた。
「ここ出雲は、吾が真秀場とするには、まだちと狭い。ところで」
稲飯の口調は、出雲主のものへと変じた。
「何用で吾が元へ遥々参ったか」
日差しが雲に閉ざされたかのような寒さを、日照は兄の声の変調に感じた。兄妹の時間は、早くも終わったということである。
日照も、頬の緩みを引き締めた。
「須賀族の氏上、五十鈴依媛からの奉り物をお持ちいたしました」
日照は雄心を振り返り、目配せした。特に打ち合わせをしていなかった雄心は大きく目を見開いただけだったが、豊城彦に肘で小脇を突かれ、韴霊剣を捧げ持って、不得要領のまま白砂を踏んだ。
「ほう、色朶邑に参ったのか。あそこは良い。よく切れる剣を造る」
雄心が日照の隣に並ぶまで、稲飯は須賀族の剣を褒めたが、五十鈴依媛に言及することはなかった。
雄心から韴霊剣を受けった日照は、霊気が立ち昇るその剣を頭上高く掲げて、両膝を着いた。慌てて、雄心も跪拝の姿となった。
「五十鈴依媛からの奉り物にございます」
殊更に五十鈴依媛の名を強く言ったが、彼女のことを忘れたかのように稲飯は無反応であった。
「おお、ここからでもその剣の霊気が見えるわ。豊日の賊どもを撫で斬るのに使ってやろうぞ」
勇躍して胡床から立ち上がった稲飯は、背後に控える臣下に、妹の捧げる剣を受け取るよう指示した。今まで出雲主の陰に隠れていたその臣下は、武人であった。その武人が姿を顕したとき、台下から見上げる日照の体内に悪寒が駆け巡った。
日照の表情が硬直したのを見た雄心は、
「いかがいたされましたか、日女さま」
日照の視線が射る先に、雄心も武人の姿を見た。何か不快なものの中に浸かったように、雄心は身震いした。武具に身を固めたあれは、人の姿をしていながら、体内に無数の蛇蝎を飼っている。そんな悍ましい想像が容易だった。
常人よりもはるかに優れた呪能を持つ日照が感受した武人の禍々しさは、雄心の比ではない。
(さては、あれが兄を誑かしているのか)
日照の知る稲飯は、武骨ではあったが、人の上に立って荒王と怖れられるような暴虐さは持ち合わせていないはずであった。まして、心を寄せ合ったはずの女人を忘却するような無情さとは無縁であるはずだった。
だが、事実として、荒王として出雲主となった兄が、四方の諸族を武力で屈服させているのであり、日照の知る兄の面影との乖離に何か邪悪なものが介在しているとすれば、その邪悪こそ、あの武人であろう。日照はそう直感した。
突然、高笑いがし、稲飯はおもむろに胡床へ着座した。武人が、主へ何事かを吹き込んだらしい。
「考えてみれば、そなたらが真に須賀族の使いであるか、またそなたが真に吾が妹であるか、わからぬ。なにをもって赤き心の証とするか」
稲飯は出雲主としての威圧を込めて、台下の日照を睥睨した。武人は、須賀族の使いを名乗る者の捧げる剣が、稲飯を刺し貫く剣になりかねないことを忠告していた。
稲飯の厳しい視線を、日照は平然と受けた。
「それではひとつ、誓約をいたしましょう。それをもって、赤き心の証といたしとうございます」
斎庭の空気を清麗に震わせた日照の声音が、稲飯の武人から放たれる殺伐さを祓い清め、ざわめきのあった聴衆の心を惹きつけた。
兄と妹の、呪能勝負が始まる。
令和8年も、早くも1月が過ぎてしまいました。今年はWBCがあるので、とても楽しみにしています。Netflixにも加入して、準備万端です。
ところで、物語とは全く関係ありませんが、ロシアのウクライナへの侵攻戦争は間もなく5年目に突入しようとしています。グリーンランドを巡ってはアメリカとEUが対立していますし、ガザでの紛争もいつ果てるやもしれません。
かつて孟子は性善説を唱え、荀子は性悪説を唱えました。人は生まれながらに善なのか、悪なのか、それとも中立なのか人品によって異なるのか、人は未だに解答を導き得ないでいるようです。
私は、人は、生まれながらに愚かなのではないかと考えます。善も悪も、人の愚かさが根源となっているのではないでしょうか。愚かであるがゆえに人は善を目指さねばならず、愚かであるがゆえに悪に導かれてしまうのではないでしょうか。
世界各地、各分野を見ていると、知識も経験も豊かであるはずの指導者たちが、何百万もの人々を苦しめ、地球環境を破壊していきます。その行動が善であろうと悪であろうと、世界から紛争は絶えません。性愚説を思わざるを得ません。
愚かさから少しでも抜け出すには、学ぶしかありません。数学や語学ももちろん大切ですが、人道としての歴史、道徳、哲学を人々はもっと学ぶべきだと思います。小学校から大学までの学習で、歴史や道徳、哲学がそれほど重んじられない現状は、やはり人が愚かであることの証左だと思います。
何千年と繰り返してきた戦争と迫害の歴史を、禁忌なく、人は学ぶべきだと思います。
令和8年が、一つでも多くの戦争や紛争が終焉する年であってほしいと心から願います。あと、侍ジャパンと阪神タイガースの優勝も、




