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山門編-初国知らす王の章(38)-出雲の荒王(9)

<これまでのあらすじ>


 豊秋津島とよあきつしまの青垣山籠もれる山門の国は、俳優わざをきの少年御統みすまると黒衣の少女とよ、そして多くの人の活躍と犠牲で剋軸香果実ときじくのかぐのこのみ厄災まがごとを乗り越えた。


 天孫あめみま磐余彦狭野姫いわれひこさのひめは、磯城族の県主あがたぬしである入彦と共に手研たぎしの乱を鎮めるが、あえて簒奪者を演じた手研の無尽の愛情を知り、深い悔恨に陥る。狭野姫は山門を去り、出雲へ向かう。豊城彦とよきひこ豊鍬姫とよすきひめ、黒豹の如虎にょこ、熊鷹のかける、そして葛城族の剣根つるぎねが旅の仲間に加わる。狭野姫は名を日照ひなてると改め、剣根には雄心をごころの名を授ける。


 日照たちは吉備の統治を巡る争いに巻き込まれる。先の吉備主の遺児である阿曽姫を擁する山門人の武彦は、吉備の支配を目論む温羅を急襲する。日照の妖艶にして荘厳な神楽舞により、温羅の呪いに誑かされていた吉備人は正気を取り戻し、武彦と阿曽姫は吉備の正統を取り戻す。


 吉備を出立した日照一行は、須賀族の五十鈴依媛いすずよりひめから、次兄の稲飯いないが出雲主の座を簒奪し、荒王すさのおうと怖れられていることを知る。次兄の真意を知るため出雲の首邑である日隅邑ひのすみむらに向かった日照は、肥川の渡守である秀火と若彦を心服させる。日照は、ある因縁が二人を結びつけていることを知る。


 途上、日照一行は大嵐に見舞われ、日照らの呪能を嗅ぎつけた大蛇に襲われ、撃退するも天羽々あまのはばきりを奪われる。出雲主への目通りの口実を失った日照だが、必ずや運命が次兄のもとへ導くであろうと信じる。


 出雲の首邑、日隅邑ひのすみむらに到着した日照一行は、出雲主からの使者である韓久に案内され、客舎むろつみに入る。しかしそこは、出雲主の仕掛けたまじないのひとやであった。



  ≪是非ご一読ください。ご感想、ご評価をいただけましたら幸いです。≫



<人物紹介>


 豊城彦とよきひこ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。


 豊鍬姫とよすきひめ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。


 入彦いりひこ

 磯城族の氏上このかみ厄災やくさいを乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主あがたぬし


 美茉姫みまつひめ

 入彦の妻。明るい美しさの女性。しとやかであり、闊達でもある。


 活人いくめ

 入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。


 大彦おおひこ

 入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。


 石飛いわたか

 磯城族の青年。入彦の舎人とねり


 百襲姫ももそひめ

 磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。


 翠雨あおさめ

 入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。


 如虎にょこ

 黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。


 かける

 豊鍬姫になついている熊鷹の子。


 日照ひなてる

 旧名は狭野姫さのひめ。かつて天孫族の氏上であり、磐余彦いわれひこを号して山門主であった。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。


 手研たぎし

 故人。狭野姫の年上の甥。狭野姫が唯一甘えられた人物。入彦に狭野姫を託して逝く。


 珍彦うずひこ

 狭野姫の忠臣。手研の盟友。


 道臣みちのおみ

 狭野姫の忠臣。手研の盟友。


 吾曽利あそり

 天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。山門近傍に潜伏し、捲土重来を期す。


 太忍ふとに

 葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。


 雄心をごころ

 旧名は剣根つるぎね。太忍の庶子。過去の所業を悔やみ、日照の従者となる。


 五瀬いつせ

 故人。狭野姫の長兄であり、手研の父。高千穂族とともに東の真秀場まほろばを目指し、天孫族を号する。初代の天津彦あまつひこ


 五十鈴媛いすずひめ

 五瀬の後妻。出雲族の出身で、製鉄技術者集団と縁が深い。手研にとっては、同年代の継母。


 香魚あゆ

 両性具有の人。神々も魅了する美しい瞳を持っている。


 荒王すさのおう

 出雲を実効支配する。元の名は稲飯いない。日照の実兄。


 五十鈴依媛いすずよりひめ

 須賀族の氏上。出雲の荒王となった稲飯を秘かに想う。


 秀火ほひ

 元須賀族。妖言により荒王の配下となっていたが、日照に解放される。


 若彦わかひこ

 元須賀族。妖言から解放されていたが、稲作で荒王を支える。



<用語>


 高天原たかまがはら:天上世界


 豊秋津島とよあきつしま:物語の舞台


 葦原中国あしはらのなかつこく:豊秋津島の別名


 山門やまと:豊秋津島のほぼ中央に位置する地方


 青垣山あおがきやま:山門の周囲を囲む山並み


 筑紫洲つくしのしま:豊秋津島の西部にある大きな島で、白日しらひ豊日とよひ建日たけひ日向ひむかの四地方を持つ


 しん:西の海の果ての大陸にある巨大帝国


 氏上このかみ:一族の族長


 天神地祇あまつかみくにつかみ八百万やおよろずの神々


 祖霊おやたま:祖先の霊魂 氏上は死ぬと神上かむあがって祖霊となる


 精霊すみつたま:森羅万象に宿る魂 


 魑魅すだま:山林の異気から生まれた邪霊


 厄災まがこと:山門を呪いによって支配していた饒速日にぎはやひの体制を瓦解させた大災


 剋軸香果実ときじくのかぐのこのみ:高天原の神々が下界に投げ捨てた邪心が凝固したもの いつか高天原に帰ることを望み、時を戻す霊力を蓄えるため大地に寄生して石の花を咲かせる

 あっけなく、客人まろうどは籠の中の鳥となった。茅葺き屋根の、飾り気はないが小粋な造りの客舎に閉じ込められたのは、美しい羽根を持つ一羽と、愛らしい羽毛に包まれた雛鳥と、本物の翼を持つ一羽のほかは、黒毛の獣が一体と、鳥というよりはましらの悪党とでもいうべき風体が三匹、悪態をついていた。


 まんまとまじないの籠に閉じ込められた日照だが、怒りはさほど沸かなかった。


「さしったり」


 などと、狭野姫であったときの粗野な文句がつい口を出たが、日照の優雅さしか知らない雄心らを軽く驚かせただけで、すぐに気品のある落ち着きを取り戻した。


「まずは寛ぎましょう」


 気持ちを改めた日照は、そんな気になれない仲間たちを宥めるような微笑みをみせて、土間から一段高くなった房に導いた。


「われらは謀られたのですぞ」


 房の一隅に座った日照に、秀火が食ってかかった。


「わたくしの兄は、それほどあくどくはありませんよ」


 日照に見つめられると、どんな憤慨も朝日に射られた霧のように消え去ってしまう。秀火は黙然と腰を下ろした。


「しかし、兄君は、外では荒王すさのおうと呼ばれています。それには由があるのではありませんか」


 雄心が日照の楽観の再考を促すような言い方をした。日照は、目元に笑みを浮かべた。


「兄はあくどくはありませんが、悪のりが過ぎることがあります」


 確かに、遠来の来訪者をいきなり軟禁するようなやり方は親しみやすい応対とはいえないが、兄らしい諧謔ではある。日照のその得心は、噂以外に彼を知らない雄心や秀火には、盗人に母屋を貸すような、度を越した寛容に思えた。


 日照とて、けっして呑気を膝に抱えて座っているわけではないが、慌てても詮無きことと腹を据えることにしたのである。


 兄がそれほど悪辣でない証拠に、結界で塞がれた客舎は、綺麗に清掃が行き届いているし、居心地は良さそうだ。ここはすでに、如虎と翔を手下にして、客舎の探索に取りかかっている豊城彦と豊鍬姫とを見習うべきだろう。


日女ひめさま」


 探検隊が吉報を携えて戻ってきた。

 

「食べ物がたくさんあるよ」


 これは豊城彦の報告だ。まめ乾飯ほしいいだけでなく、芋や果物、そして地下に掘られた氷室には、鹿や猪の肉が保存されているとのことだ。果実酒の瓶も見つけたらしい。


 しかし、食欲に駆り立てられている豊城彦よりも興奮しているのは豊鍬姫だ。


相参あいまいられませ」


 彼女は紅潮した頬をして、小さな手で日照の手を取り、我慢しきれないとでもいうように、急き立てた。


「まぁまぁ、何を見出されたものやら」


 豊鍬姫の高揚を楽しげに受け入れた日照は、彼女自身、常には見せぬ無邪気さを目容に昇らせた。


 豊鍬姫に連れて行かれたのは、機殿はたどのであった。そこには、それ自身、芳しい香りをたてる檜で作られた織機はたが置かれており、同じく檜作りで流麗な文様が彫られたが添えられていた。そしてそれらに増して豊鍬姫を高揚させているのは、織房の隅に積み上げられた麻糸の山だ。様々に色づけられ、この糸で布を織れば、光り輝くような和妙にぎたへが生れ出るだろう。その布で作った衣を身に着けた自身を想像して、豊鍬姫の頬は紅潮するのである。日照は鈴のような音で喉の奥を笑わせ、


「それではひとつ、天の衣を織ってみましょう」


 そういって、杼を持ち、機織の前に座った。


 日照と豊鍬姫は、まるで音楽を奏でるように、糸を和妙に転生させてゆく機織の音をたてた。ときおり、合いの手のような笑い声が混ざった。


 男どもは手持ち無沙汰だった。何事にものんびりと構える如虎は庭の一番日当たりの良い軒下で、さっそく居眠りを決め込んでいる。翔は上空ならば呪いの壁もなかろうと飛翔をしてみたが、やはり見えない結界に頭をぶつけた。何度か挑んでみたが、やがて諦めて、如虎の背中の上で不貞腐れた。


 雄心と秀火、そして豊城彦は誰ともなく房の中央に集まって、しばらくは騙し討のような出雲主の所業を罵り、応接係を装いながら実質的な詐術の実行者である韓久を、初めから胡散臭いと思っていたなどと負け惜しみを腹立ち紛れに撒き散らしていたが、やがて旅の疲れが睡魔を連れてきた。なにしろ、新築のような木の香りが良いし、時折聞こえてくる日照の清らかな笑声が男どもの曲がったへそを蕩かした。


 男どもの眠りは、炊飯の匂いで終わった。襷をかけた日照が、男どもを優しく揺り起こした。まめを彼女が炊いたらしい。美しい布を織るという純粋な乙女の時間を過ごした彼女の機嫌は上々であった。


 日照にその意識はないが、彼女に仕えているつもりの雄心は、真珠のように白い指で眼の前に菽がよそわれた土器かわらけを置かれると、目に見えない巨人に握られたように小さくなった。その心境を愛おしんだ日照は、


「わたくしとて、このくらいのことはするのですよ」


 と、目が眩みそうな笑みを雄心に向けた。


「いい布は織れたの」


 恐縮という言葉を知らない豊城彦は、すでに菽を掻き込んでいる。日照は豊鍬姫と瞳を見合わせて、軽やかに笑い、


「それはまだお楽しみです」


 と、答えた。さほど楽しみでもなさげな豊城彦は、土器を差し出して、二杯目の菽を所望した。


 夕餉を終えると、日照と豊鍬姫はしとねに就き、すぐに寝息をたてた。夕刻に一眠りして眠気から遠ざかっていた男どもは房の隅に集まって、明日からのことを話し合った。秀火の言霊が呼び出した穂火ほほがあれば、互いの顔色をうかがえるだけの灯りはある。


 翌日、六連星むつらぼしもまだ消えやらぬ朝月夜に、日照と豊鍬姫は、もう機織の音をたて始めた。この客舎むろつみひとやの呪いをかけた韓久の言霊が、和衣にきたえ深雪みゆきのごと棟木に積み上がるまでと唱えたその条件を、日照と豊鍬姫は満たそうとしているのだ。


 宵っ張りの朝寝坊の語源になったような男どもは、また香しい匂いに誘われて惰眠の世界から舞い戻った。日照が不甲斐ない男どものために、団栗のパンを焼いたのだ。雄心と秀火は面目なさげにパンを額に押しいただいてから口に運んだが、相変わらず無遠慮な豊城彦はすでにパンを平らげて、枇杷をかじっている。


 日照は、まさに良妻賢母の模範のような甲斐甲斐しさで朝餉の土器を片付けると、豊鍬姫と二人、まるで女子同士の秘密の園に向かうような夢見心地で機殿に籠もった。


 さすがに不甲斐なさに苛まれた雄心と秀火は、何やら今日の暇つぶしを考えているらしい豊城彦の首根っこを引っ張って、昨夜遅くまで話し合った段取りを実行に移すことにした。


 出雲主の悪巧みを実施した韓久は、稲穂のいちさかきのごと八千穂に実るまでと、言霊を言挙げた。それにより発動された呪いの格子を客舎の周囲から消し去るには、日照が織った和衣を棟木の高さまで積み上げようとしているのと同じように、稲穂を柃のように実らせるしかない。男どもは、庭にある狭田さなたで青い小波のように揺れている稲に、黄金色の米を数多実らせようというのである。


 とは意気込んだものの、男どもに水田稲作の技能が備わっているわけではない。雄心は、まだ彼が剣根と名乗っていたいた頃、故郷の葛城で畑作の芋を栽培した経験があるにはある程度だ。豊城彦は専ら食う専門だから、まったく当てにならない。曲がりなりにも水田に携わったことがあるのは、その友人が水田技術者である秀火しかいない。


 自然のなりゆきとして、段取りは秀火が主導することになったが、耳学問程度の知識しかないため、作業を指南する秀火の指示がひどく曖昧で、雄心と豊城彦は、さて鍬を持つべきか、鋤を持つべきかもわからなかった。


 ともかくも稲や畑を見ればやるべきことも見当がつくだろうという行き当たりばったりで、男どもは水田の前に当惑顔を並べた。


 夏の強い陽射しが降っている。その雫を大いに浴びて、稲穂は青々と背を伸ばしている。風がそよぐと、海原のようにうねった。畑に植えられた芋や菽も蔓を畝の血管のように太々と張り、どうやら養分を活発に巡らしているようだ


 今は遠来の客人まろうどを謀る呪いの牢となっているが、常日頃からこの白舎と青い農園に悪意が寝そべっているのではなく、この水田と畑を整備している者には、天地を敬う清き心があるように思えた。そうでなくては、作物は瑞々しく育たない。


 雄心は水口の堰板を開き、乾きの見える田に、外濠から引かれた細い流れを注ぎ入れた。秀火と豊城彦は畔や畑の畝の雑草を取り払っている。


 このまま放っておいても、秋になれば稲穂は黄金色に輝き、畑は実りで埋め尽くされそうになった思えた。韓久の呪言に言う稲穂の柃が千穂に実るのはそのときに成就されることになるだろう。


 だが実りの季節まで、この牢で待つわけにはいかない。あの美しい日照と共に一つ屋で暮らす日々に甘美をそそられることは確かだが、さすがにそれを求めては男が廃る。ここはなんとしても瞬く間に稲穂を柃とし、日照の清らかな声で褒めてもらわねばならない。


「おい、吾らは秋を待つわけにはいかぬのだぞ。吾らを謀った痴れ者をぎゃふんと言わせる術はないのか」

 

 雄心はもどかしさと腹立たしさを秀火に投げつけた。肩のあたりでその不機嫌を受け止めた秀火は、畔に屈んでいた身体を起こし、凝った腰を擦りながら、


「若彦のやろうの物好きを少し思い解いてやろうとしただけよ。吾とて、なれらと秋まで過ごすつもりはない」


 と、強がりを投げ返した。


「ではどうするというのだ」


「まず、汝の鏡を貸せ」


 秀火には目算があるが、彼とて己の呪能に自負がないわけではないが、先日、まだ年端の行かぬ女童に完敗したところであるし、これから試みようとすることに、ちょっと自信がない。だから、鏡の呪力が必要なのだ。


 雄心の鏡を受け取った秀火は、まずはその磨かれた鏡面をじっと見た。迸るような呪力が、鏡面にさざ波を立てている。


 秀火は、雄心の顔をじっと見た。


 雄心は、古い名を剣根と言い、落し子にはなるが、山門の有力豪族の氏上このかみの血を引いている。それだけに、良い鏡を持っている。剣根が雄心となった経緯を雄心は詳しくは語らなかったが、呪能に乏しくとも有力者の血を引けば上質の鏡を持てることは羨ましい。


「どうした、吾の顔も貸せというのではあるまいな」


「いや、それは間に合っている」


 その返答の意味が秀火自身よく分からなかったが、ともかく、彼は鏡を狭田の中央付近に置いた。


「いいか、若彦の野郎の話では、海の果ての大陸ひろきくがでは、農業なりわひししを使うらしい。それに、作物はたつものを柃のごとく実らせるには肥料こやしを用いるのだ」


 それほどでもない知識を、秀火は鼻息とともに吐き出した。


「それはどこにあるのさ」


 辺りを見渡してから、至極当然を問うたのは豊城彦だ。


「まぁ、見ていよ」


 農業たつくりわざを持たない秀火としては、一朝一夕に柃の実りを得るためには、雄心の鏡を使って己の言霊の力を増幅し、田や畑の土の下に宿る地祇や、空からこの地を見下ろしている天神の力を借りるしかない。


「この処をいつ斎庭ゆにわと祓へ清め、秋にはあらねど秋の稔をふすさに得さしめ給ひへと、掛けまくも畏き保食魂うけもちのみたま豊受魂とようけのみたま宇迦御魂うかのみたまかしこみ恐みも白す。顕現みあれ大口のもの、玉響たまゆら、顕現れ四つ足のもの、玉響」


 若彦ほど農業を知っている男の呪言であれば言霊も活力を持ち、天神地祇もその響きに応じただろう。だが秀火は元来、日々の糧は獣を狩り、木の実を採取すれば足ると考えている男だ。自然、呪言に混じり気があり、言霊は順良でない。そのうえ、農業に使役する獣が馬や牛であることすら知らず、大口を持ち四肢で野を駆けるあらものであればよかろう、と適当だった。その怠慢が仇となった。


 確かに雄心の鏡は、秀火の言霊に応じはした。しかしどこか首を傾げているような素振りで、鏡面に生じた波も、どこか隠れ沼のような不気味さがあった。


 まず降ってくるものがあった。豊城彦がそれを手のひらで受けとると、種籾だった。種籾の二度撒きは農業の禁忌であったが、幸い豊城彦たちはそんなことを知らない。


 次からが問題だった。


 結果として、秀火の言霊を受けた鏡は、馬なのか、牛なのか、鹿なのか、いのこなのか区別できぬ物体を吐き出した。しかもそれは生体として不完全で、醜悪なものだった。しかも悪いことに、鏡には先住者がいた。


 あざれである。この四腕の猩々に似たあやかしは、長閑な昼寝を楽しんでいるところだった。そこへ化け物じみた何かが突如として同居人となったことに仰天し、共に顕現するや、それを思い切り放り投げた。


 放り投げた先が、最悪なことに、日照と豊鍬姫が仲良く機を織っている客舎の別棟だった。


 別棟の屋根に大穴を開けたそれは、その衝撃で光を四散させて消え失せたが、驚いた日照は杼を放り出してひっくり返った。 


 さらに追い打ちをかけたのは、馬尾藻なのりそが辺りに時雨のように降り注いだことだ。馬尾藻は海藻のほんだわらのことで、食用にもなるが肥料にもなる。   


 それは田畑や秀火らの頭の上にはもちろん、あろうことか目にも麗しい日照の玉体や黒髪にも、ぬめぬめと磯臭い海産物を無遠慮に貼り付けた。


 辺りは静寂に包まれた。戦慄するような時の流れであった。微かにそよぐ風の音さえ、秀火には魑魅すだまの嘲笑のように聞こえた。


 うそが気の毒がったような声でひと声鳴き、はしばみの枝から飛び去った。


 地中深い根の底から瘴気が沸き起こり、人の形をなしたかのように、日照がゆっくりと立ち上がった。側にいた豊鍬姫は、たまらず房の隅に避難した。日照の心骨から放たれる赫怒の波動が、大穴の開いた房の壁に亀裂を走らせた。


「やってくれましたねぇ、兄上」


 日照は壁を睨みつけた。無実であるはずの気の毒な壁は、身震いに耐えかねて崩れた。それから、日照は、静かな、しかし不気味な笑いを口元に広げた。


 日照の静かな笑い声は、秀火には冥路よみじから這い上がった悪霊の呪言のように聞こえた。震え上がった彼は壁のように崩れはしなかったものの、心は崩れ落ちる寸前だった。だが、幸いにして日照は、この仕打ちを兄である出雲主の仕業だと勘違いしている様子であった。


「さぁ、豊鍬、織った布で、そろそろ衣を仕立てましょう」


 頭から馬尾藻を垂らしたまま、にっこりと微笑みかける日照に、豊鍬姫は凍った笑みで頷いた。


「良い衣にいたしましょうねぇ」


 日照に手を引かれた豊鍬姫は今にも泣き出しそうであった。


 その不幸な一幕の外に居並んでいる三人も生唾を飲み込んでいる。


「たのむ。吾のしたことは隠しておいてくれ」


 秀火は目線を凝固させたまま、雄心と豊城彦に哀願した。二人は恐怖に縛られた身体でかろうじて頷いた。彼らとて、とばっちりは避けたかった。

 日本書紀の神代前半のクライマックスは天照大神と素戔鳴尊の子産みの誓約と岩戸隠れですね。この一幕では神にして神ならぬ人臭さが生き生きと描写されています。


 日本書紀の神代の叙述では、『一書に云う』の手法で幾つかの説が並列されているのですが、大筋としては、


 ① 素戔鳴尊が姉へ挨拶にきたのに、天照大神が変に勘ぐって喧嘩腰で弟を迎える

 ② 子産み誓約合戦で、素戔鳴尊が悪心のないことを証明する

 ③ 挨拶だけのはすが高天原に居座った素戔鳴尊が様々な悪戯を仕掛ける

 ④ キレた天照大神が天岩戸に引き篭もる

 ⑤ 神々が手を尽くして天照大神を天岩戸から連れ出す

 ⑥ 神々が素戔鳴尊に罪を負わせて、高天原から追放する。


 という流れです。


 一書によっては、若干内容が異なるものの、③→④→⑤→⑥→①→②となっているものもあり、全体の流れとしてはこっちのほうが良いような気がします。


 さて、今回のお話は、上の③を参考にしたのですが、日本書紀で登場する人肥は、さすがにそれでヒロインを汚すのは憚られたので、田畑の肥料としても使われた馬尾藻ほんだわらを使うことにしました。日本書紀の記述にも馬がでてきますし。

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