山門編-初国知らす王の章(37)-出雲の荒王(8)
<これまでのあらすじ>
豊秋津島の青垣山籠もれる山門の国は、俳優の少年御統と黒衣の少女豊、そして多くの人の活躍と犠牲で剋軸香果実の厄災を乗り越えた。
天孫の磐余彦狭野姫は、磯城族の県主である入彦と共に手研の乱を鎮めるが、あえて簒奪者を演じた手研の無尽の愛情を知り、深い悔恨に陥る。狭野姫は山門を去り、出雲へ向かう。豊城彦、豊鍬姫、黒豹の如虎、熊鷹の翔、そして葛城族の剣根が旅の仲間に加わる。狭野姫は名を日照と改め、剣根には雄心の名を授ける。
日照たちは吉備の統治を巡る争いに巻き込まれる。先の吉備主の遺児である阿曽姫を擁する山門人の武彦は、吉備の支配を目論む温羅を急襲する。日照の妖艶にして荘厳な神楽舞により、温羅の呪いに誑かされていた吉備人は正気を取り戻し、武彦と阿曽姫は吉備の正統を取り戻す。
吉備を出立した日照一行は、須賀族の五十鈴依媛から、次兄の稲飯が出雲主の座を簒奪し、荒王と怖れられていることを知る。次兄の真意を知るため出雲の首邑である日隅邑に向かった日照は、肥川の渡守である秀火と若彦を心服させる。日照は、ある因縁が二人を結びつけていることを知る。
途上、日照一行は大嵐に見舞われ、日照らの呪能を嗅ぎつけた大蛇に襲われ、撃退するも天羽々切を奪われる。出雲主への目通りの口実を失った日照だが、必ずや運命が次兄のもとへ導くであろうと信じる。
≪是非ご一読ください。ご感想、ご評価をいただけましたら幸いです。≫
<人物紹介>
豊城彦
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。
豊鍬姫
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。
入彦
磯城族の氏上。厄災を乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主。
美茉姫
入彦の妻。明るい美しさの女性。淑やかであり、闊達でもある。
活人
入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。
大彦
入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。
石飛
磯城族の青年。入彦の舎人。
百襲姫
磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。
翠雨
入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。
如虎
黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。
翔
豊鍬姫になついている熊鷹の子。
日照
旧名は狭野姫。かつて天孫族の氏上であり、磐余彦を号して山門主であった。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。
手研
故人。狭野姫の年上の甥。狭野姫が唯一甘えられた人物。入彦に狭野姫を託して逝く。
珍彦
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
道臣
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
吾曽利
天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。山門近傍に潜伏し、捲土重来を期す。
太忍
葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。
雄心
旧名は剣根。太忍の庶子。過去の所業を悔やみ、日照の従者となる。
五瀬
故人。狭野姫の長兄であり、手研の父。高千穂族とともに東の真秀場を目指し、天孫族を号する。初代の天津彦。
五十鈴媛
五瀬の後妻。出雲族の出身で、製鉄技術者集団と縁が深い。手研にとっては、同年代の継母。
香魚
両性具有の人。神々も魅了する美しい瞳を持っている。
荒王
出雲を実効支配する。元の名は稲飯。日照の実兄。
五十鈴依媛
須賀族の氏上。出雲の荒王となった稲飯を秘かに想う。
秀火
元須賀族。妖言により荒王の配下となっていたが、日照に解放される。
若彦
元須賀族。妖言から解放されていたが、稲作で荒王を支える。
<用語>
高天原:天上世界
豊秋津島:物語の舞台
葦原中国:豊秋津島の別名
山門:豊秋津島のほぼ中央に位置する地方
青垣山:山門の周囲を囲む山並み
筑紫洲:豊秋津島の西部にある大きな島で、白日、豊日、建日、日向の四地方を持つ
真:西の海の果ての大陸にある巨大帝国
氏上:一族の族長
天神地祇:八百万の神々
祖霊:祖先の霊魂 氏上は死ぬと神上がって祖霊となる
精霊:森羅万象に宿る魂
魑魅:山林の異気から生まれた邪霊
厄災:山門を呪いによって支配していた饒速日の体制を瓦解させた大災
剋軸香果実:高天原の神々が下界に投げ捨てた邪心が凝固したもの いつか高天原に帰ることを望み、時を戻す霊力を蓄えるため大地に寄生して石の花を咲かせる
にわかに機嫌を損ねた夏空が雷雲を呼び集め、癇癪のような雷雨を大地に叩きつけたが、ひとしきり暴れると気が済んだのか、雷雲の切れ間から目映い陽光を幾つも射し、濡れた草原を輝かせながら、やがて雷雲を追いやって、夏らしい青さを果てしなく広げた。
夏という季節にありがちなその気象の輪舞を、人とは異なる感性で捉え、人には見えぬ光景を見るのが呪能者である。
「汝妹よ、ここへ参るか」
そう呟く稲飯は日隅邑の宮処の高楼の露台に立ち、眼下に広がる草の海原を見晴かしていた。
「何かおっしゃられましたか」
背後に控える従者が主の言葉を確かめようとした。
「いや、なんということでもない。余の妹が、ここに参るということよ」
稲飯は、どこか楽しげに天空を仰ぎ見た。
ここでの稲飯には、世の人々が荒王と怖れる険しさがない。実は稲飯は、宮処での佇まいはいたって円やかであり、従者にとっては仕えやすい君であった。ただし、服わぬ勢力に対する決断は苛酷であり、戦となれば狂気すら感じさせる激烈な陣法を用いた。無論、敵対した勢力には根絶やしにするほどの酷烈さを示すが、降伏者には、人が違うのかと疑うほどの寛容を見せた。まるで、一人の肉体の奥深くで二人の人格がせめぎ合っているような複雑さが、稲飯にはあった。
「御妹君がお見えになられるので」
従者は驚きを見せた。
「うん、妹…、いやあれは、弟であったやもしれぬ。なにしろ、建子を気負って憚らぬやつであったからな」
高千穂の邑で、手を焼かされたある日を想い、稲飯は軽く笑った。
「お勇ましい妹君なのでございますな」
従者は、勝手にその姿を想像した。彼の主君の前では、率直な感想が許される。
ふと、従者は、こうしてはいられないとばかりに腰を浮つかせた。出雲主の妹が来るのなら、歓迎の準備をせねばならない。
「いらぬいらぬ、あれは饗されたとして絆されるような、たわいない手合ではない」
稲飯は従者を振り返って、大仰に手を振った。
「絆されると申されますと…」
「ふん、おおかた、あれは余を窘めに参るのよ」
稲飯は、自分が人々に何と呼ばれているかを知っており、またその謂れにも自覚がある。しかしそれは彼の信念がそうさせるのであり、だれに憚ることでもない。そのあたり、確かに日照と稲飯は兄妹であった。
「はぁ…」
従者はまごついた。
「…饗すには及ばぬが、饗し方というものもある」
従者はますます混乱した。
「まぁ、こういうことよ」
稲飯は従者に指図を与えた。従者は不得要領の顔で高楼を下りた。
稲飯が心眼で見た通り、草の海原を渡るようにして、日照一行は、日隅邑の五重の濠が見えるところまで来た。無論、道は外門まで続いているが、生命力に溢れる夏の草花は、その道を覆うようにして伸びている。
「やぁ、さすがにおびただしきものよな」
額に手を当てて日隅邑の偉容を眺めた雄心が驚嘆の声を上げた。かつて山門の首邑であった山門大宮も五重の濠を備えていだが、濠の幅も、外塀の高さも、邑の広さも高楼の多さも、圧倒的に日隅邑が勝っている。もっとも、既に山門大宮は消滅しており、比較する姿は雄心の記憶のものである。
一行の左手は土手になっており、その向こうには川縁を野花に彩られた流れがある。肥川から分かれた流れであろう。その流れを引いて、日隅邑は五重の濠に注がせているが、過日、大蛇の霊魂はこの川をつたって日隅邑に顕現したのであろう。顕現とは、天神地祇が現実に姿を現すことである。
川面から溢れ出て、夜明けには野原に満ち満ちていたはずの朝霧は、今は陽射しに追い立てられ、雫となって野花の花弁や葉末に名残を留めるだけである。その光る名残を日照の衣が払うと、まるで蛍が飛び立つように輝いた。
川は緩やかに右手へ湾曲し、日照たちは土手を登り、狭くなった川幅に架けられた板橋を渡った。
向こう岸には門番のように石柱が向かい合って立っており、それぞれの頂から注連縄が垂れ、邪気を祓うように揺れていた。ここから内が日隅邑の領域である。
日照は豊鍬姫を手招き、板橋の端に並んで、これから領域に入ることについての許しを言霊で求めた。その礼儀を怠って石柱の間を進む者には、呪いが降りかかるであろう。
石柱の向かい合う空間が細波を立てたように見えた。日隅邑の結界が、日照らの入域を認めたのである。
石柱から先の道は清められており、道端の草木はみな礼儀正しく並んでいた。
風は送り風。まるで、日照たちを運ぶように、日隅邑へ向かって吹いている。風に連れられてたゆたう花の香りが、まるで干したばかりの褥のような心地よさで眠気を誘う。そんな道中である。
「荒王が治める土地というから、どんなに恐ろしいところかと思ってたけど、まるでのんびりしてるじゃないか」
豊城彦が両手を頭の後ろに組み、鼻唄でも歌い出すような呑気さで言った。その能天気を窘めるような目を向けた豊鍬姫は、その目を閉じて、
「音もなき、さざみも立たぬ、庭潦、心留めよ、貉尾の房」
と歌った。
「よせよ、そんな言霊、ろくなものを呼ばないぞ」
ぞっとしたように顔色を変えた豊城彦は、飛び上がって抗議した。
どれほど穏やかに思える池や川の淀みにも、水蚤などの水生虫を捕らえる水草が潜んでいることがある。危険は目に見えぬところに隠れているものであり、油断してはならぬことを豊鍬姫は教えていた。
確かに長閑な風景である。野摘みに出かける女の集団がいるし、濠に引いた小川で魚を捕ろうとしている童子もいる。その少し先の濠と川の境辺りには、男たちが数人座って談笑している。濠の修繕の休憩中といった様子であった。これらの風情から危険の匂いを探るのは困難だ。
しかし無言の日照には、澄明に思える大気の中に、どこか空々しさを感じる。腹に一物を潜める者の笑顔のような顔を、日隅邑は持っている。
「用心を忘れぬようにいたしましょう」
短い訓示を豊城彦らに与えて、日照は日隅邑の門前に至った。
門前には、矛を立てた門守が並んでおり、出入りする者たちに、鋭い眼光を投げつけている。穏やかな風景の中で、そこだけが異世界であるかのように物々しい。平和の装いの内着に、実は筑紫諸族との戦いに備えた武具を着込んでいる出雲族としては、さすがに門前を安穏としておくことはできないということだ。
さすがに大族の首邑ということはあり、門を出入りする者は多い。彼らのすべてに誰何の゙目を向けることはできないが、門守たちの眼光は、あらかじめ知っていたかのように、一斉に日照一行に向けられた。しかし、門守たちの矛は日照一行を遮りはしなかった。
敵意も善意もなく、ただ好奇の視線に一瞥を返した日照は、門をくぐった先に、ひとつの人影が立っているのに気づいた。
その人物は見るからに物腰柔らかげで、日照一行がそばまで来ると、深く頭を下げる礼を捧げた。
「狭野姫様であらせられますね」
声に敬意がある。日照の霊感が警戒を解いてよいとささやいた。
「今は日照と名乗っています」
「さようでございましたか。僕は韓久と申します」
「兄はつつがなく過ごしておりますか」
韓久が狭野姫と呼びかけたかぎり、彼は稲飯の意を受けて迎えに来たのだろう。
「おかげさまで、出雲はかつてないほどに栄えております」
韓久は本心を覆うような笑顔で、そう答えた。稲飯自身の近況を尋ねた日照の問いをさらりと躱すように身を翻した韓久は、
「客舎を整えております。どうぞこちらへ」
と、歩きだした。その歩む姿に後ろめたさを見て取った日照は、不審に柳眉を顰めるよりも、むしろ韓久の誠実さに好感を持った。
ふと、日照の左手を豊鍬姫が握った。彼女も言い表せない不安を感じていた。
「案ずることはありません。わたくしたちには頼もしい仲間がついていますから」
日照は豊鍬姫の小さな手を優しく握って、彼女を励ました。
豊鍬姫は振り返って、日照のいう頼もしい仲間を見てみた。豊城彦はぼんやり空を見上げているし、如虎は背伸びしながら大あくびしている。雄心と秀火は何やら話し込んでいるが、どうやら、日隅邑を行き交う女性について意見を交わしているらしい。どうにも当てにできそうにない男どもだが、肩に止まっている翔と、なにより手をつないでいる日照は心強かった。
日隅邑の殷賑ぶりは、さすがに出雲族の首邑である。かつての山門大宮の活気を軽く凌駕しているが、その在りし日の姿は雄心の幼時の記憶にしかなく、思い出を語り合える相手は、残念ながら人の言葉を話せない如虎しかいなかった。それでも一人と一匹は、視線を交わし合って旧懐を共有した。
日照たちは日隅邑の外郭を進んでおり、ここは庶民の居住区らしく軽装の人が多く行き交っているが、建物には高楼を持つものや朱色に塗られたものもあり、民力の高さがうかがえた。
やがて韓久に案内されて門を通ると、雑踏の音は背後に去り、屋根付きの廊下の静寂の中を進んだ。
廊下は、屋根を支える柱にも屋根板にも檜葉が使われており、風が吹くと、まるで森の中にいるような爽やかな香りがした。渡殿の屋根には葛が植えられており、日除けとなったその蔓草が涼しげに揺れて、鈴の音が聞こえそうなほどであった。
渡殿を歩いた先には清楚な緑の空間があった。楡の大木が天蓋のように樹冠を広げ、椿など多くの灌木を従え、こちらを指し示すかのように伸ばされた大枝の影を受けて、飾り気を控えた質素な白亜の舎が建っていた。
舎の籬には皐月が植え込まれており、紅や白や紫の花弁を己誇りに咲き広げていた。
「見よ、狭田まであるではないか」
秀火が生籬の向こうにある一枚の田を指さした。暗渠を引いているらしく、田にはすでに水が張られており、青々とした稲穂も植えられていた。
ところで、狭田とは狭い田ということではない。確かに狭いことは狭いが、神稲を育てる美田を指す。かつて人は、高天原に住む天津神から、水稲技術を狭田で教わったという。秀火は、出雲主から水田を任されている若彦に親しいだけあって、そんな伝承を知っていた。
むろん、日照もその伝承を知っている。彼女はその伝承が編まれた筑紫で生まれており、彼女の故郷である日向の高千穂では、山の高地から低地へ向けて、狭い平地を開墾した美田が段々と連なり、刈り入れ時には、まるで黄金の花が咲き乱れたような眩しい光景を現出させるのだった。
日照は、心を懐かしさに染め、目元と頬を緩ませた。
「でも、なんかへんだよな」
豊城彦と豊鍬姫が同時に首を傾げた。
「ここは客舎だろ。これじゃ、まるで客人に耕せと言ってるようなもんだよ」
客人は、どこかで準備されたご馳走にありつけるものだと信じている豊城彦には、柔らか気な青い毛皮のようにさざなむ稲穂と、その隣に添えられた畑の存在が不満だった。
「この横着者め」
雄心は呆れたように言った。
「出雲主は筑紫とも掛け合っておる。ここは筑紫の貴人の客舎でもあるのだろう。水田は筑紫人にとっては心和む眺めなのであろう」
当たりをそう付けた雄心は、同意を求める顔を日照に向けた。
確かに日照は筑紫の貴人といえる。高千穂族の氏上の血を引いているからだ。だが、今の出雲主は、荒王と畏怖される稲飯であるはずであり、あの無粋な次兄が、袂を分かった妹に粋な出迎えを用意するであろうか。日照は腑に落ちない思いを抱きながらも、案内人の韓久に促されるまま、白木造りの客舎にぽっかりと黒々空いた戸口をくぐった。
客舎内は、まだ誰の呼気も受け入れていないような新鮮な空気で満たされていた。牖から見える榛の枝にとまった鷽が長閑な声で鳴いていた。
日照に続いて一行の全員が客舎に入るのを見届けた韓久は、戸口の外で、まるでそこから先は異世界だとでも言いたげな強張った顔をして、目には見えない扉に封印の呪いを描くように両手を動かした。
「おい、何をして…」
韓久の動作が呪いであることに気づいた雄心の戦慄が、他の者たちを振り向かせた。
日照の白肌が粟立った。舎内の空気がざわついた。
舎内の空気が毛を逆立てたようにいがいがしく雰囲気を一変させた。
「さてさて、客人の皆々さま、どうぞごゆるりとお過ごしくださいませ。稲穂の柃のごと八千穂に実り、和衣の深雪のごと棟木に積み上がるまで」
そう呪言を紡ぎ出した韓久が逆手を打って呪いを完成させると、星明かりが幽かな銀光を屋根に降り注ぐように、仄かに輝く呪いの幕が客舎に降ろされた。
「さしったり!」
血相を変えた日照は、呆然と立っている秀火を蹴り飛ばすほどの勢いで戸口を突破しようと試みたが、彼女の身体は、一歩か二歩は都外に出たものの、まるで引き潮に押し戻されるようにして、戸内に退けられた。
その様子を見ていた韓久は、神妙な所作で一礼し、旋毛風のように身をひるがえして去っていった。
魏志倭人伝には、倭人の拝礼作法のひとつに拍手があると伝えていますが、その拍手のひとつ、天の逆手は時代を超えて考察され、多くの解釈がなされています。
天の逆手は、古事記の有名な一場面、出雲の国譲りの話にでてくる事代主の拍手のことです。
これは一種の呪術とみなされているようですが、どのように手を打つのかは、今もって判然としていません。
この逆手の拍手は、伊勢物語にも登場し、最近では呪術廻戦にも天の逆手と思しき主人公の動作が登場します。
天の逆手の打ち方は不明ですが、その動作よりも、拍手により生ずる音に意味があると考察されています。
古事記の国譲りの場面で、事代主は国譲りを承諾したと幽界に去っていくのですが、そのときの動作が天の逆手です。これは、国譲りを迫った天津神を呪ったのではなく、顕界と幽界をつなぐ扉を現出させる合図であったとする考察もあります。
ところで、気にかかるのは、この国譲りにおける事代主の天の逆手は、古事記のほか、先代旧事本紀にも記載されていますが、日本書紀には登場しません。
ほぼ同時代に成立し、同じような伝承や言い伝えを整理して編まれたであろう神話が、なぜ古事記と先代旧事本紀には採用され、日本書紀には採用されなかったのでしょうか?
天の逆手を呪術とするならば、事代主によって呪われた国土を天孫が治めることとなり、それは日本書紀の編纂を命じた天武天皇や撰上を受けた元正天皇には都合が悪かったのでしょうか。
それとも天の逆手を顕界と幽界をつなぐ扉を現出させる合図とした場合、事代主に国土を呪う意図はなくとも、天孫を始祖とする天皇家の支配権の正当性を主張する聖なる場面に、死の穢れを想起させる伝承を挿入することはできないと、舎人親王が忖度したのでしょうか。
歴史上の勝者が、自らの正当性を主張する歴史書を編集するにあたって敗者の恨み言を文字に残す必要性を感じなかったとすれば、もしかすると、古事記や先代旧事本紀に遺された天の逆手の一文は、天皇家に支配権を奪われた出雲族の最後の小さな抵抗だったのかもしれません。
いずれにしろ、その動作の詳細がわからない以上、うっかり天の逆手を打って胸底に秘めた呪いを発動させてしまったり、幽界に繋がる扉を意図せず開けてしまわないよう、拍手の際には細心の注意が必要なのかもしれませんね。




