山門編-初国知らす王の章(35)-出雲の荒王(6)
<これまでのあらすじ>
豊秋津島の青垣山籠もれる山門の国は、俳優の少年御統と黒衣の少女豊、そして多くの人の活躍と犠牲で剋軸香果実の厄災を乗り越えた。
天孫の磐余彦狭野姫は、磯城族の県主である入彦と共に手研の乱を鎮めるが、あえて簒奪者を演じた手研の無尽の愛情を知り、深い悔恨に陥る。狭野姫は山門を去り、出雲へ向かう。豊城彦、豊鍬姫、黒豹の如虎、熊鷹の翔、そして葛城族の剣根が旅の仲間に加わる。狭野姫は名を日照と改め、剣根には雄心の名を授ける。
日照たちは吉備の統治を巡る争いに巻き込まれる。先の吉備主の遺児である阿曽姫を擁する山門人の武彦は、吉備の支配を目論む温羅を急襲する。日照の妖艶にして荘厳な神楽舞により、温羅の呪いに誑かされていた吉備人は正気を取り戻し、武彦と阿曽姫は吉備の正統を取り戻す。
吉備を出立した日照一行は肥川の辺で五十鈴依媛と誓約し、日照は須賀族と出雲族との問題に介入する。色朶邑で供応された日照は、兄である稲飯が暴威を振るい、出雲の荒王と恐れられていることを知る。出雲の首邑である日隅邑へ向かう道中で、荒王の配下の秀火に襲われるが、豊鍬姫の活躍によって撃退する。秀火は荒王の妖言から解放され、日照に臣従する。
≪是非ご一読ください。ご感想、ご評価をいただけましたら幸いです。≫
<人物紹介>
豊城彦
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。
豊鍬姫
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。
入彦
磯城族の氏上。厄災を乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主。
美茉姫
入彦の妻。明るい美しさの女性。淑やかであり、闊達でもある。
活人
入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。
大彦
入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。
石飛
磯城族の青年。入彦の舎人。
百襲姫
磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。
翠雨
入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。
如虎
黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。
翔
豊鍬姫になついている熊鷹の子。
日照
旧名は狭野姫。かつて天孫族の氏上であり、磐余彦を号して山門主であった。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。
手研
故人。狭野姫の年上の甥。狭野姫が唯一甘えられた人物。入彦に狭野姫を託して逝く。
珍彦
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
道臣
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
吾曽利
天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。山門近傍に潜伏し、捲土重来を期す。
太忍
葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。
雄心
旧名は剣根。太忍の庶子。過去の所業を悔やみ、日照の従者となる。
五瀬
故人。狭野姫の長兄であり、手研の父。高千穂族とともに東の真秀場を目指し、天孫族を号する。初代の天津彦。
五十鈴媛
五瀬の後妻。出雲族の出身で、製鉄技術者集団と縁が深い。手研にとっては、同年代の継母。
香魚
両性具有の人。神々も魅了する美しい瞳を持っている。
荒王
出雲を実効支配する。元の名は稲飯。日照の実兄。
五十鈴依媛
須賀族の氏上。出雲の荒王となった稲飯を秘かに想う。
秀火
元須賀族。妖言により荒王の配下となっていたが、日照に解放される。
<用語>
高天原:天上世界
豊秋津島:物語の舞台
葦原中国:豊秋津島の別名
山門:豊秋津島のほぼ中央に位置する地方
青垣山:山門の周囲を囲む山並み
筑紫洲:豊秋津島の西部にある大きな島で、白日、豊日、建日、日向の四地方を持つ
真:西の海の果ての大陸にある巨大帝国
氏上:一族の族長
天神地祇:八百万の神々
祖霊:祖先の霊魂 氏上は死ぬと神上がって祖霊となる
精霊:森羅万象に宿る魂
魑魅:山林の異気から生まれた邪霊
厄災:山門を呪いによって支配していた饒速日の体制を瓦解させた大災
剋軸香果実:高天原の神々が下界に投げ捨てた邪心が凝固したもの いつか高天原に帰ることを望み、時を戻す霊力を蓄えるため大地に寄生して石の花を咲かせる
翠緑の雫が滴っている。河岸に群生した柳の葉先から、初の陽射しが零れ落ちている。
肥川の汀から河岸に上がった日照は、懐かしい香りをかいだ。
稲の香りだ。
河岸を下りた湿地に、青い稲が広がっている。今はまだ凛々しく立った葉鞘の中に収まっているが、穂の垂れる秋ともなれば、この辺りは甘い香りに包まれるのだろう。
降り注ぐ陽射しと稲の青さのはざまの朧げに、家族に囲まれた少女の笑顔が見えた。高千穂の、幼き頃の記憶が、仄見えたのである。
「いかがです。俄づくりにしては、なかなかのものでしょう」
心象を追憶に染める日照のそばに、若彦が立った。
「これを、貴方が作ったのですか」
心ここに在らずで日照は応えた。
「実は稲飯様に教えてもらったのです。稲飯様というのは、みなが怖れる出雲の荒王の本名です」
「知っています。兄ですから」
上の空から降りてきた日照は、若彦を振り返って微笑んだ。
その口述は、若彦の意表を突いた。若彦の驚きぶりを見た秀火は、彼の肩を叩き、勝ち誇ったような顔で、自分も先日知ったばかりの日照の行跡を語って聞かせた。
「何とも運命的な話ではあるが、汝が悦に入ることではあるまい」
「悦に入らねば語れぬ話であろうが」
「確かにな」
秀火と若彦は、すでにすっかり日照に心服している。
二人を残した日照は歩を進め、田を荒らさぬよう近づいた。田で働く人々の姿が見えた。
畔にも水路にもまだ多くの課題が見えるが、しかし湿地を利用した初期の水田稲作としては充分なものに仕上がっている。
雄心と豊城彦、翔を肩に乗せた豊鍬姫、如虎が日照に続き、その後ろを秀火と若彦が歩いた。秀火の配下は、少し離れたところで待っている。
田園の青と夏空の蒼の風景、その光彩のはざまに明滅する懐かしい情景と郷愁を誘う香りをしばらく楽しんでいた日照は、おもむろに若彦を振り返った。
「これが、貴方から荒王の妖言を祓った忌火となったのですね」
忌火とは、災いや穢れを祓う清らかな炎である。
「そのとおりです。僕は稲飯様から水稲の術を授かり、肥川の津を守るとともに、水を引いて稲を育てるよう命じられたのですが、この碧いさざ波を見つめるうちに、心が洗われたのでございます」
秋ともなれば、そのさざ波の碧さが黄金色となることを、日照は知っている。その豊かな美しさは、人の心に清らかな活力を注ぎ入れ、濁りを洗い流すのである。
「汝はそうなっておいて、なにゆえ五十鈴依媛様の元へ戻らなんだのだ」
秀火が疑問を投げかけた。日照も同じ思いを眼差しにひそめて若彦を見た。若彦の面持ちに冴色が差した。
「それは、僕の庵でお話いたしましょう」
引き締まった声で、若彦は言った。
若彦に案内されたところは、庵と呼ぶには大きすぎる屋敷であったが、質素である。敷地内には倉がいくつもあり、人が作業している倉の中に、収穫された穀物が積まれているのが見えた。若彦は水稲だけでなく、芋や菽も育てているようだ。
「こちらでお寛ぎください」
そう言った若彦は一度姿を消し、すぐに戻ってきた。導かれた一房で、日照たちはもてなしを受けた。
これといって何の調度品も飾りもない房であったが、牖からの風が心地よい。細流を近くに引いているらしく、そのせせらぎの音が涼やかである。
間をおいて、食膳を捧げ持った仕女が房に良い香りを運んできた。まだ日が高いため、軽い食事である。
膳が据えられてから、嫩い女の手を引いて、若彦が戻ってきた。女は、盲目である。清楚な顔立ちをしているが、瞼は閉じられたままだ。睫毛が長く美しい。
女を座らせた若彦は、寄り添うように隣に腰を下ろした。
「僕の妻です」
若彦が紹介すると、妻は淑やかに頭を下げた。
「稚照でございます」
瞼が閉じられているせいか、生き生きとした若さのきらめきはないが、彼女の所作には清らかな明るさがある。同じ照の名を持つ日照が日輪の絢爛であれば、稚照は明月の寂光であろう。
「汝は妻を娶っておったのか」
今日の秀火には驚きが多い。
「汝には引き合わせておらなんだな」
秀火の物問いたげな視線を軽くいなした若彦は、日照たちに膳を勧めた。
「香味物とはまいりませぬが、僕らが育てた米や菽でございます」
膳に載せられた土器は多くはないが、香しい湯気をたてている。日照たち大人の膳には醴が、豊城彦と豊鍬姫の膳には果汁水が添えられていた。
昼時の腹具合にはちょうどよい量で、それらはたちまち腹に納まった。
「やっぱり、ふるまわれるなら勁矢よりも飲食だよね」
満足の噯気を吐いた豊城彦は、悪気なく感想を述べたが、早朝に真鹿児弓から射る矢を馳走した若彦は皮肉と捉え、苦笑しつつ、
「矢でも米でも、勇児にかかれば、たちどころに腹に納められるものらしい」
と応じて、皆の笑いを誘った。
その笑いが収まると、日照は甘酒の杯を膳に戻した。それを合図に、若彦は若い仕女に命じて、豊城彦と豊鍬姫を栗林に誘わせた。果樹園もあると教えられた二人は、そそくさと房を出た。翔は牖から飛び立って豊鍬姫を追い、鹿肉を馳走されていた如虎は午睡に就いた。
「さて、」
と、居住まいを正した若彦は、他の仕女をさがらせ、稚照のみを房に残した。
「日照様は、日隅邑に赴かれるのですね」
若彦は日照の存念を確かめた。日隅邑は、出雲族の首邑である。
「そうです」
日照は明確に首肯した。日隅邑で次兄に会い、天孫族の帰結を報告し、出雲の荒王と怖れられる兄の真意を問わねばならない。
「されば、僕ら夫妻よりお伝えせねばならぬことがあります」
若彦は目線を稚照姫へ転じた。その気配に触れた稚照姫は、瞼を閉じたままの目を日照へ向けた。光を失っている彼女の眼差しからは、しかし直向きさが感じられた。
「出雲主稲飯様は、わたくしの恩人にございます」
山桃の実のように赤く可憐な稚照姫の唇から、人しれぬ稲飯の物語が紡がれた。
稚照姫は名もない小さな集落に生まれた。その小さな邑が肥川に襲われ、族人は、稚照姫の父母もあっという間に水に呑まれた。
この頃、肥川は大雨を受けると頻繁に氾濫し、深い幽山の八岐に渡る渓谷を源とするその川の暴れぶりは大蛇と喩えられた。
稚照姫はたまたま小高い丘の椎の林に団栗を集めに行っていたため、大蛇の口を免れたが、大蛇の赤い目に捉えられた可憐な姿は、やがて邪悪な舌に絡めとられようと震えていた。
そこに現れたのが、稲飯である。
稲飯は頭椎剣で空間を区切って結界を巡らし、大蛇の邪悪な舌を退けた。
突如として現れた男がまとう雰囲気は高貴でありながら温かく、まだ光を灯していた稚照姫の瞳には、ひと目で、依恃すべき人物と映った。
大蛇の水が引いたあと、何の影も消え去った濡れた草原を、稲飯は幽山に向かって歩きはじめた。彼は、出雲主の依頼を受けて、大蛇を退治しにゆくのだと告げた。身寄りを失った稚照姫は同行を願った。彼女は庇護を求めたのではなく、稲飯を支えるべき天啓を感受したのである。稲飯は稚照姫を受け入れた。
稲飯は、自分は色朶邑の曽我族の氏上の依頼を受けて出雲を訪れたのだ、とも話した。
稲飯が出雲の首邑である日隅邑を訪れたとき、族人は慌ただしく、出雲主の宮処にもただならぬ破れが見られた。
族人を止めて聞いたところによると、なんと、八岐大蛇が日隅邑に現れたという。
幽山の八岐の渓谷に渡る巨大な大蛇の主神は水の地祇であるが、大蛇が棲まう肥川の流域から遠く離れた日隅邑に現れるというのは、異例の事態である。地祇の霊力はそれほどに高いともいえるが、そこまでをして地祇が望むものが日隅邑にあったということでもある。
大蛇は、日隅邑を三重に囲む濠の水を霊媒としてこの世に現出し、出雲主の宮処を襲ったのである。
実はその日の前夜にも怪異があった。出雲の夜空を禍々しく赤い鬼火が飛び、その欠片が日隅邑に堕ちた。
出雲主の宮処の倉を貫いて地を穿ったその欠片は、小豆ほどの小さなものであったが、放たれる妖気は膨大で、たちまち倉の建材を腐らせ、穿った地に瘴気を満たした。
出雲主の大汝はすぐに祝者と巫を集め、大祝に命じて、鬼火の欠片を回収して、斎宮に運び込んだ。欠片が堕ちた周囲は、祝者たちが総力を挙げて、その妖気を祓った。
とりあえず鬼火の妖気から族人を護る措置を終えた大汝は、妻であり、出雲の斎主でもある姫川に鬼火の欠片の処分方法を相談しようとした。その矢先、日隅邑の濠の水が悪意を噴出させるように盛り上がり、たちまち巨大な大蛇の姿と化して、斎宮を襲った。
不意のことであり、またたく間の出来事であったため、大汝は姫川を避難させるのに手一杯で、気がつけば、鬼火の欠片を奪い去られていた。
欠片の放つ妖気は人には害毒だが、地祇にとっては垂涎の宝物なのであろう。
欠片が奪われたことは、実は出雲族にとっては厄介払いができたということであるが、しかしあの膨大な妖力を得た大蛇が、今後どのような災いを出雲にもたらすかと考えると、大汝と姫川は、重い宿痾を患う病人のように暗然とした。
そこに稲飯が訪れた。
稲飯と大汝は互いに知らぬ仲ではない。かつて天津彦五瀬が、東征の支援を受ける条件として提示された吉備主からの依頼を携えて出雲を訪れたとき、稲飯も同行して兄を助けたことがある。その際に、出雲主である大汝の知己を得ていた。
出雲族が高志族と激しく争っていたとき、大汝は外来からの支援者の力を得て勝利を得たことがあった。その外来の支援者とは故郷を放逐された磯城の颱こと、武彦であったが、この経験は大汝に、この当時の通念としては忌避されるべき外界からの訪問者を、苦境を吉事に変えるための手段として活用することを学ばせた。
大汝は、白亜の斎庭に稲飯を迎え入れたとき、運命が符合する音色を心で聞いた気がした。
大汝が、日隅邑が襲われた凶事を告げると、稲飯は大蛇から鬼火の欠片を取り戻すことを請け負った。交換条件として、五十鈴依姫から依頼された案件を大汝に認めさせた。すなわち、須賀族が納める鉄の量を下げることと、五十鈴依媛から出雲主の血を引く男子の妻となる義務を免除することである。
そうして幽山の八岐に渡る渓谷に棲む大蛇の退治に向かう道中で、稲飯は稚照姫を救ったのである。
大蛇の潜む幽山の渓谷は広く深く、鳥獣の声はやがて濃い白霧に沈み、精霊や魑魅の囁きに変わった。
稲飯が頭椎剣をおもむろに抜いたとき、稚照姫は、白霧の奥に鬼灯のように赤い大蛇の目を見た。
大蛇の霊力は絶大で、強靭な尾と爪と牙で稲飯を苦しめた。しかし彼の頭椎剣は凶暴な大蛇の攻撃をしのぎきり、ついに大蛇の一首を切り落とした。転がった首を切り裂き、飲み込んでいた鬼火の欠片を取り出した稲飯は、しかし大蛇にとどめを刺すことはできず、大蛇は渓谷のさらに奥へと逃げ去った。深い傷を負った稲飯もそれ以上の追跡はできず、稚照姫に助けられながら下山した。稚照姫の献身的な看護がなければ、稲飯は幽山の白霧の底で朽ちていたであろう。
日隅邑へ戻った稲飯は、鬼火の欠片を大汝に献上したが、そのとき、すでに稲飯の身体に熱く疼く欲望が生まれていた。
ここから先の出来事を、稚照姫は知らない。稲飯の大蛇征伐を助けた功を大汝に認められ、身寄りがないために宮処で仕女として働くことを許された彼女が、ある日、斎宮で、稲飯が鬼火の欠片を喰らう場面を目撃したのみである。それが稚照姫が見た最後の光景であり、欠片が稲飯に呑み込まれる瞬間に放った強烈な怪光に目を焼かれて、彼女は光を失った。
その後、稚照姫は人の言葉で、稲飯が出雲主の座に座ったことを知った。人は、大汝と姫川がどうなったかを稚照姫には語らなかった。ただ、光を失って仕女としては働けなくなった彼女を、新たな出雲主は厚遇し、房を与えて従者を付けてくれたばかりか、姫という尊称をも与えてくれた。
稚照姫は豊かではないが清らかな美貌の持ち主であり、いずれ稲飯の寝所に侍ることになるのかと覚悟していたが、そうはならず、やがて一人の男に嫁ぐことになった。その男こそ、若彦である。目の見えぬ稚照姫には若彦の容貌はわからないが、力強く、そして自分への言葉に温かみがあり、稲飯同様に、頼って良い人物であると感知した。人は出雲主を強奪したような稲飯を怖れるが、しかし稚照姫は、稲飯の思いやりの深さを知っていた。
「僕は稲飯様に水稲の術を授かり、また稚照を妻せていただいたのです」
ここからは若彦が稚照姫の言葉を継いだ。
いつまでも色朶邑へ帰らぬ稲飯の真意を知るために五十鈴依媛に遣わされた若彦と秀火は、すぐに目通りを許された。
出雲主の宮所に入ったときの二人と、そこから出てきた二人はもはや別人であった。二人は肥川の彼此の渡守を命じられ、須賀族の渡河を制約し、特に五十鈴依媛が渡れぬようにした。
肥川のこちら側は水田に適した土地であったため、稲飯はしばしば若彦を指導し、水稲の技術を学ばせた。そして若彦の勤勉ぶりをみた稲飯は、ある日、稚照姫を若彦に娶らせた。
その頃、すでに出雲の荒王と怖れられていた稲飯であったが、若彦を訪れるときの彼は常に和やかで、大地が稲を育ててゆく光景と稚照姫の存在が若彦を侵した呪いを静かに駆逐していても、新たな術を施すことをしなかった。稲穂に囲まれ、川の彼岸を眺める稲飯は、常に静虚であった。
若彦の水稲技術の習得具合と、稚照姫を生涯守り抜くであろうことを見極めた稲飯は、その後、若彦を訪れることをしなくなった。
「僕は五十鈴依媛の言寄さしを忘れてはいませんでしたが、それでも色朶邑に戻らなかったのにはわけがあります」
それが、若彦が日照に伝えたかったもっと重要な核心である。
「あの真が、この葦原中国を我が物にせんと動き始めたのでございます」
それは、葦原中国、つまり山門や吉備、出雲を載せた豊秋津島に暮らす諸族すべてにとって驚愕すべき事実である。日照も目を見張ったあとに、青ざめた。
若彦の口述は続く。
海の向こうの大真帝国が豊秋津島へ食指を伸ばしたとしても、直接に兵団を送り込んできたわけではない。出雲の西には筑紫島があり、その北部の白日と呼ばれる地方に、大陸からの文化に染まった伊都族や奴族が割拠している。大真帝国は自らを憧憬しているそれらの族を使って、間接的に豊秋津島を支配しようと画策したのである。ちなみに筑紫には、他に豊日、建日、そして天孫族の故郷である日向がある。
出雲主であった大汝はその情報を掴み、武器を蓄え、警戒を強めていた。須賀族に課される鉄器の量が増えた理由はそれである。
筑紫島と出雲との間には穴戸海があり、大汝は海岸線の防備を厚くしたが、彼を斥退して出雲主となった稲飯は、より積極的な対策を取り、海峡を渡って白日に攻め込んだ。渡海する際には自ら兵を率いた稲飯は白日で猛威を振るい、穴戸の海の沿岸に点在する諸族を強引に併呑したため、出雲の荒王と畏怖されることになった。若彦は水田と畑作で、稲飯の行動を支えるための兵糧を生産し、供給し続けた。
「僕が事の経緯を五十鈴依媛に知らせなかったのは、須賀族を出雲の軍事に巻き込まないためだったのです」
稲飯を愛する五十鈴依媛が事情を知れば、必ずや稲飯を支援しようとするだろう。そのことは、鉄器の生産量を増加させ、須賀族に苦難を負わせることとなる。戦の血なまぐささに、故郷を引き入れたくなかったというのが、若彦の真情である。五十鈴依媛には、愛しき人の去就に憂慮する嬢子のままでいてもらいたい。
「お伝えすべきことは、これで全てでございます」
若彦は深く息を吐いた。伝えるべき人に伝えたという達成感と、重荷を受け渡すべき人に出会えたという安心感があった。その心情に応えるように、日照は大きく頷いた。
「確かにお聞きいたしました。兄を支えてきたお二人は、さぞ苦しまれたことでしょう。これより先のことは、どうぞわたくしにお任せください」
そう請け負った日照は、翌朝、仲間たちとともに日隅邑へ向けて出立した。己の足を出雲に向けさせたのは、大真帝国の企図を妨げさせる祖霊の啓示であったのだろう。日照は、そう確信した。しかしまずは、兄である稲飯を正気に戻さなければならない。稲飯を妖魔に取り込んだ鬼火の欠片の正体は、かつて山門の天地を無に帰したあと飛び去った剋軸香果実の落胤であろう。
日照は因縁を踏みしめるようにして、出雲へと向かった。
令和になっても、お正月には鏡餅を飾るという人はまだまだもらっしゃるかと思います。鏡餅にはその年の厄払いをしてもらったり、歳神さまの依代になってもらったりするのですが、丸い餅は八咫鏡を、橙は八尺瓊勾玉を、串柿は天叢雲剣を擬しており、三種の神器を表現しているという由来があるそうです。
普段、鏡は、日常的には姿見として、身だしなみを整える場合に用いることが多いかと思います。しかし鏡は、古代では祭祀の道具として用いられていたようです。
教科書や博物館で見る銅鏡は、緑青という錆におおわれていますが、千数百年前、鋳上げられたばかりの銅鏡は黄金色でした。その鏡が陽光を受けて燦然と輝くさまは、さぞ神秘的であったでしょう。そこに荘厳な銅鐸の音色が重なれば、古代の人々が宗教的な感情に染まったとしても、それは自然なことだったと思います。
鏡はまた、王位や首長としての地位を継承する儀式にも使われたという研究があります。首長に宿った祖霊を、次代の首長に移す重要な儀式です。そのため、古墳など、古代の貴人のお墓には、必ずと言ってよいほど副葬品としての鏡が発見されます。
鏡にはなぜ自分の姿が映るのか。合せ鏡などのちょっと怖いお話は、その不思議さから生まれたのではないでしょうか。古代の人々が鏡に抱いた畏敬の念は、少しわかるような気がします。
この物語も鏡の不思議さをひとつのテーマにしておりますが、それをきちんと表現することを、今年の目標にしたいと思います。




