山門編-初国知らす王の章(34)-出雲の荒王(5)
<これまでのあらすじ>
豊秋津島の青垣山籠もれる山門の国は、俳優の少年御統と黒衣の少女豊、そして多くの人の活躍と犠牲で剋軸香果実の厄災を乗り越えた。
天孫の磐余彦狭野姫は、磯城族の県主である入彦と共に手研の乱を鎮めるが、あえて簒奪者を演じた手研の無尽の愛情を知り、深い悔恨に陥る。狭野姫は山門を去り、出雲へ向かう。豊城彦、豊鍬姫、黒豹の如虎、熊鷹の翔、そして葛城族の剣根が旅の仲間に加わる。狭野姫は名を日照と改め、剣根には雄心の名を授ける。
日照たちは吉備の統治を巡る争いに巻き込まれる。先の吉備主の遺児である阿曽姫を擁する山門人の武彦は、吉備の支配を目論む温羅を急襲する。日照の妖艶にして荘厳な神楽舞により、温羅の呪いに誑かされていた吉備人は正気を取り戻し、武彦と阿曽姫は吉備の正統を取り戻す。
吉備を出立した日照一行は肥川の辺で五十鈴依媛と誓約し、日照は須賀族と出雲族との問題に介入する。色朶邑で供応された日照は、兄である稲飯が暴威を振るい、出雲の荒王と恐れられていることを知る。出雲の首邑である日隅邑へ向かう道中で、荒王の配下の秀火に襲われるが、豊鍬姫の活躍によって撃退する。秀火は荒王の妖言から解放され、日照に臣従する。
≪是非ご一読ください。ご感想、ご評価をいただけましたら幸いです。≫
<人物紹介>
豊城彦
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。
豊鍬姫
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。
入彦
磯城族の氏上。厄災を乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主。
美茉姫
入彦の妻。明るい美しさの女性。淑やかであり、闊達でもある。
活人
入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。
大彦
入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。
石飛
磯城族の青年。入彦の舎人。
百襲姫
磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。
翠雨
入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。
如虎
黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。
翔
豊鍬姫になついている熊鷹の子。
日照
旧名は狭野姫。かつて天孫族の氏上であり、磐余彦を号して山門主であった。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。
手研
故人。狭野姫の年上の甥。狭野姫が唯一甘えられた人物。入彦に狭野姫を託して逝く。
珍彦
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
道臣
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
吾曽利
天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。山門近傍に潜伏し、捲土重来を期す。
太忍
葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。
雄心
旧名は剣根。太忍の庶子。過去の所業を悔やみ、日照の従者となる。
五瀬
故人。狭野姫の長兄であり、手研の父。高千穂族とともに東の真秀場を目指し、天孫族を号する。初代の天津彦。
五十鈴媛
五瀬の後妻。出雲族の出身で、製鉄技術者集団と縁が深い。手研にとっては、同年代の継母。
香魚
両性具有の人。神々も魅了する美しい瞳を持っている。
荒王
出雲を実効支配する。元の名は稲飯。日照の実兄。
五十鈴依媛
須賀族の氏上。出雲の荒王となった稲飯を秘かに想う。
秀火
元須賀族。妖言により荒王の配下となっていたが、日照に解放される。
<用語>
高天原:天上世界
豊秋津島:物語の舞台
葦原中国:豊秋津島の別名
山門:豊秋津島のほぼ中央に位置する地方
青垣山:山門の周囲を囲む山並み
筑紫洲:豊秋津島の西部にある大きな島で、白日、豊日、建日、日向の四地方を持つ
真:西の海の果ての大陸にある巨大帝国
氏上:一族の族長
天神地祇:八百万の神々
祖霊:祖先の霊魂 氏上は死ぬと神上がって祖霊となる
精霊:森羅万象に宿る魂
魑魅:山林の異気から生まれた邪霊
厄災:山門を呪いによって支配していた饒速日の体制を瓦解させた大災
剋軸香果実:高天原の神々が下界に投げ捨てた邪心が凝固したもの いつか高天原に帰ることを望み、時を戻す霊力を蓄えるため大地に寄生して石の花を咲かせる
大河には蛟が棲む、と大真帝国では信じられている。蛟は水龍であり、 川の守り神である。
豊秋津洲に暮らす人々は、川に棲む地祇を、龗と呼ぶ。
肥川にも龗が棲んでいる。その姿は怪異で、八つの山谷に渡るほど巨大である。人々は恐れをなして、その龗を大蛇と呼んだ。
その大蛇は、かつては山谷の奥に潜み、その霊異を顕すことは稀であったが、何時の頃からか精神の均衡を失ったように狂いだし、しばしば大水を発して、肥川沿いの集落を呑むようになった。諸族は震慄し、水の害を避けるため須賀族のように小高い丘の上に邑を築いた。それでも大蛇は猛威を振るって、丘ごと邑を呑むことすらあった。
ところが、荒王が出雲を治めると、大蛇はおとなしくなった。出雲族が、荒王の強暴に怯えながらもその支配を受け入れているのは、大蛇の脅威を荒王が抑えているからである。
朝餉の席で、出雲の統治の実相を秀火から聞かされた日照は、かねてからの疑問を尋ねてみた。
「元の出雲主はどうしたのですか」
出雲族には大汝という氏上がいたはずだ。吉備で、武彦から聞かされた話によれば、大汝は東北の大族である高志族の侵攻を防いだ優れた指導者であった。その彼が、得体のしれぬ妖魔の力を帯びているとはいえ、一人の異邦人に、たやすく出雲主の座を奪われたとは思われない。
日照の問いに、秀火は戸惑いながら答えた。彼自身も詳細は知らない。
「吾も詳しくは知りませんが、どこかに鎖し籠められているのではないでしょうか」
あてのない言い方をした秀火だったが、ふと、悍ましい推量に思い至ったような顔をした。
「出雲主の宮処への上り口に、二柱の、白い人型の塑が向かいあって置かれています。出雲人はそれを囚人の塑と呼び、荒王への服いの戒めとしているのです。もしやその塑が…」
秀火は己の想像に怖気を振るったかのように頭を振った。
日照は入彦から聞いた話を思い起こした。
饒速日が生み出し、山門を覆った呪い。それはある日、邪悪な意思を持った白霧のように山門を押し包み、抗った者は白霧に襲われ、漆喰に塗り込められるようにして塑像と化したという。
饒速日と荒王の力の源が同じなのだとしたら、宮処の門前の塑像は荒王に抗った者の変わり果てた姿であり、それはおそらく前出雲主、大汝であり、対になったのは、おそらく妻であり、高志族の媛であった姫川ではないか。
救いがあるとすれば、塑像と化した人間は、呪いの漆黒に埋もれながら、しかし死んだわけではなく、時を止められているだけだということだ。呪いが消えれば、時は動き出し、また息を吹き返す。
日照は自分の推測を皆に伝えた。
出雲族が陥っている悪しき現状に対する感情は皆それぞれであったが、ともかくも、まずは肥川を渡らねばならない。
夏の日差しが踊る光子となる川面は、さながら巫が美しい神楽を舞う長大な舞台のようであった。
赤味がかった川水を、三艘の舟が押し開いてゆく。
先頭の舟には日照、雄心、豊城彦、豊鍬姫、そして船頭としての秀火が乗った。
追い風である。かすかに、草の匂いがする。石斑魚が一匹、川面に跳ねた。
奇妙な音がした。そう思う間もなく、鋭い羽音で川の涼気を切り裂いたものが日照の結った髪をかすめ、秀火の操る竿に突き立った。
矢である。
「若彦です」
秀火が警告の声を上げた。髪を肩に垂れた日照は身じろぎもせず、まだ靄に隠れた対岸を見つめた。
「まだ向こう岸が見えてないぞ」
雄心は、秀火の持つ竿に突き立った矢を見ても、それが現実だとはとても信じられなかった。
「若彦の弓は真鹿児弓です。この勁矢は、若彦が放ったものに違いありません」
秀火は、慌てて舟を旋回させようとした。
真鹿児弓は、檀の枝に若鹿の皮を巻きつけた弓である。深山に棲む若鹿には霊威が宿り、その皮を巻いた弓は岩をも貫く矢を放つことができる。
秀火の動作が素早かったため、第二矢を避けることができたが、後続の舟の彼の配下が不幸にも胸に矢を受け、突風にさらわれたかのように川に落ちた。
このとき、豊城彦が舟の先端に立った。
「このまま避けずに舟をやって」
豊城彦が童子とは思えぬ抗いがたい声を発した。
「何言ってる。若彦の矢は二本ではないぞ」
「わかってる。でも、あと四、五本も放てば岸に着く」
豊城彦は言い返したが、その数本を避けるのが奇跡なのだ、と秀火は怒鳴りつけたかった。
「豊城彦の願い通りに」
静かに、厳正に日照が命じた。
「雄心、御身の腕の見せどころです」
彼女は傍らの雄心に微笑みかけた。日照の期待を受けた雄心は白刃を抜き放ち、豊城彦に届こうとしていた第三矢を切り落とした。
「兄ちゃん、頼りにしてるよ」
前方を見つめたまま、落ち着いた声を豊城彦は出した。どこか超然としたその居住まいは、昨日の豊鍬姫を思い起こさせたが、寝ぼけている様子ではない。
「何をする気がしらんが、長くもつとは思うなよ」
言いながら、雄心は第四矢を切り落とした。
秀火が懸命に漕ぐ舟は、飛ぶように進んだ。自然、飛来する矢も鋭気を増す。
雄心が打ち落とし損ねた第五矢が、豊城彦の右耳を掠めて、鮮血を散らした。
彼岸が見えた。
津の桟橋も見えた。人が立ち、弓を引き絞っている。
(若彦だな)
豊城彦は小さく、鋭く右腕を振りかぶり、渾身の礫を投じた。
舟と桟橋とのほぼ中央で火花が散った。礫と矢が交錯したのである。
次の動作は豊城彦が速い。第二投が川面を飛び越え、矢を番えようとしていた若彦の右肩を打った。しかし、距離があったため、礫は勢いを保っていなかった。
次に飛来した礫を、若彦は難なく避けた。だが矢の照準を合わせることができない。
若彦の視界の黒染みのようであった船影が見る間に明らかになる。先頭に立つ影が礫を投じている。
(所詮は礫よ)
不敵に笑った若彦は第六矢を弓に番え、引き絞った。狙うのは、礫を投擲者である。
ふと、奇妙に思った。投擲者の影が随分と小さい。
(…まさか、童子でもあるまい)
このときの瞬間の戸惑いが、豊城彦の有利となった。
「翔、いまだ!」
合図に応じて、熊鷹の翔が豊鍬姫の肩から鋭く飛び立った。
翔はまっすぐに桟橋に向かって飛び、急停止して翼を大きく広げた。それによって、若彦に射す陽が遮られた。
照準を狂わされた若彦が目をしばたたかせている間に、今度は翔が急旋回した。
遮られていた日光が再び射し、若彦の視界を白くした。
その間に、豊城彦は投擲している。しかしそれは礫ではなく、秀火の操る竿に突き立っていた第一の矢であった。
急速に飛来するものが礫でないと悟った若彦は身を捻ったが、返し矢は天鹿児弓の弦を断ち切った。
矢を避けた勢いで体勢を崩し、片膝を着いた若彦の視界に、舟の姿が鮮やかに迫ってきた。その船首にいるのは、紛れもなく、年端もゆかぬ男童であった。
若彦が天鹿児弓を投げ捨てたとき、舟から影が飛んだ。若彦の頭椎太刀が鞘の半ばを走ったとき、桟橋に降り立った影が鋭利な切っ先を若彦の喉元に当てた。
飛影は雄心であった。その彼に、
「爽だつ船旅であったろうか」
と、負けん気を露骨にみせた。
「まぁな、趣向も気が利いていたぞ」
雄心も余裕を見せたが、実は冷や汗もので、第六矢を放たれていたなら、切り落とす自信は全くなかった。
若彦は衣を払って立ち上がった。すでに争気を発してはいない。用心して切っ先を緩めない雄心は見ずに、若彦は桟橋を降りてくる姿に童子を探した。
「返し矢は恐ろしい、とはよく言ったものだな」
若彦は豊城彦に笑いかけた。
「咄嗟に閃いたんだ。吾男はきっと視力に自信があるだろうからね」
豊城彦には勝ち誇る様子はない。むしろ、予想以上にうまくいった安堵感がある。
昨日、夢遊状態にあったとはいえ、妹の底しれぬ呪能の高さを見せつけられた。同年齢の兄妹として育ち、切磋琢磨の競争者として、相方の飛び抜けた成長を目の当たりにして、豊城彦は焦りを覚えた。
肥川を渡る障害となる人物が弓の名手と聞いて、豊城彦の対抗心は燃え上がった。危険に挑むことで自分の能力の開花を信じた豊城彦だが、冷静でもあった。彼は翔と密かに相談し、彼の作戦の一翼を担ってもらうことにした。
豊城彦の焦燥を、日照は穏やかな目で見ていた。何も助言はしなかったが、彼が力を発揮する舞台の準備に、少し力を貸した。
「驚いたな。討ち合いの瞬間にその判断ができる男は、もはや男童とは呼べぬ」
若彦は素直に豊城彦を褒めた。男子にとって、闘いの相手から得る称賛に勝る喜びはない。豊城彦は嬉しげに胸を張った。
「あまり此奴を褒めてくれるな。つけあがる」
そう言った雄心は剣を鞘に戻した。もはや若彦に争気はないと見極めたからだ。
「なんだよ」
と、豊城彦は頬を膨らませたが、場は和んだ。
日照が桟橋に上がると、彼女が目の前に立つより早く、若彦は片膝をついて礼容を示した。日照は微笑でそれに応えた。
「いまさらしおらしくしたって遅いぞ。日女を射殺そうとしたくせに」
腹立ちまぎれに豊城彦が突っかかった。それをさりげなく流し目で受けた若彦は、
「確かにそうだ。だが、吾は若き丈夫に負けたのだ。負けたからには潔く仕置を待つべきではないか」
と、また豊城彦を持ち上げた。
「たかきはる水芽の烏毛虫、木高しに、われだのみても、かけまくは鳥のついばみ」
と、詠った豊鍬姫は、兄を軽く窘めたが、そこに揶揄がふんだんに盛り込まれていたため、機嫌を損ねた豊城彦と口論を始めた。ちなみに水芽は梓のことである。
その他愛もない騒動を脇に置いて、日照は、畏まっている若彦を、日の光を湛えたような明眸で、しばらく観察した。
やがて枸杞の実のように光沢のある赤い唇を開いて、
「御身は妖言に誑かされてはおらぬようですね」
と、所感を述べた。一層深く頭を下げた若彦は、
「いえ、ところがこれでなかなか誑し込められておったのです」
と、応えた。その率直な物言いが気に入った日照は、
「そうだとすれば、何が御身の心を明らけくしたのでしょう」
と、問うた。
「日照様のお美しさに打たれたとか申すなよ」
自分の単純さは棚に上げた秀火が口を尖らせた。荒王の妖言に踊らされた者同士と信じていた相方が一歩先を行っていたような物言いをしたのが、彼には気に食わなかった。
「それは、あるものを見給われると、お判りになろうかと思います」
「どこへ参ればよろしいのですか」
「僕が道導を仕りましょう」
「…さてさて」
日照はわざと眉根の間に顰みを作って困惑してみせた。
「さきにはわたくしを射ようとした荒男を、今は信じてよいものでしょうか」
日照の素振りは蠱惑的である。甘い痺れと鼓動を抑えつつ、若彦は顔を上げて言った。
「実は僕は、誓約を立てたのでございます。この朝に川を渡る人が、もしも真に稜威なる人主であるならば、吾が射る矢は悉く外るであろう、と」
若彦の両目に嘘はない。そして誓約の占形には、何人も従わねば神霊の罰を受けるのである。
「そもそも日女がこの朝に川を渡ることをどうして知ったというのだ」
秀火はしつこい。ようやく彼に顔を向けた若彦は、
「汝とは違って、吾は情報を疎かにはせぬ」
と、言った。
「探女を遣わしたのですね」
探女は精霊のひとつで、使役すれば、さまざまな情報を拾って伝達してくれる。若彦は首肯した。
「よくわかりました。ならば、誘われるままにゆきましょう」
日照は若彦を受け入れることにした。
日本書紀や古事記に、天穂日と天稚彦という神が登場します。
この二柱の神に共通しているのは、いずれも高天原の神々から葦原中国平定のために派遣されていながら、出雲の大国主に籠絡されてしまったという神話です。
天穂日は、別に派遣された神による出雲平定後、大国主に仕えることを許されますが、天稚彦は邪心を抱いて高皇産霊に矢を射てしまったことから、その返し矢で死んでしまいます。
彼の死後に登場したのが味耜高彦根という神で、この神は天稚彦の友人でしたが、容姿が似ていたため、死んだはずの天稚彦と間違われてしまいます。
死人と間違われた味耜高彦根は穢らわしいと怒ってしまいますが、少々短気なような気がします。
天稚彦と味耜高彦根は本来は同一の神であったとする説もあります。穀物が秋には収穫されるものの、翌年の春にはまた復活することの象徴であるとされています。
天穂日にも穂という字がありますとおり、味耜高彦根とともに農業神であったのではないかとされています。
物語の舞台は今、出雲ですので、そういった伝承も参考にしてお話を作っています。




