山門編-初国知らす王の章(33)-出雲の荒王(4)
<これまでのあらすじ>
豊秋津島の青垣山籠もれる山門の国は、俳優の少年御統と黒衣の少女豊、そして多くの人の活躍と犠牲で剋軸香果実の厄災を乗り越えた。
天孫の磐余彦狭野姫は、磯城族の県主である入彦と共に手研の乱を鎮めるが、あえて簒奪者を演じた手研の無尽の愛情を知り、深い悔恨に陥る。狭野姫は山門を去り、出雲へ向かう。豊城彦、豊鍬姫、黒豹の如虎、熊鷹の翔、そして葛城族の剣根が旅の仲間に加わる。狭野姫は名を日照と改め、剣根には雄心の名を授ける。
日照たちは吉備の統治を巡る争いに巻き込まれる。先の吉備主の遺児である阿曽姫を擁する山門人の武彦は、吉備の支配を目論む温羅を急襲する。日照の妖艶にして荘厳な神楽舞により、温羅の呪いに誑かされていた吉備人は正気を取り戻し、武彦と阿曽姫は吉備の正統を取り戻す。
吉備を出立した日照一行は肥川の辺で五十鈴依媛と誓約し、日照は須賀族と出雲族との問題に介入する。色朶邑で供応された日照は、兄である稲飯が暴威を振るい、出雲の荒王と恐れられていることを知る。出雲の首邑である日隅邑へ向かう道中で、深夜、日照たちは襲撃を受ける。
≪是非ご一読ください。ご感想、ご評価をいただけましたら幸いです。≫
<人物紹介>
豊城彦
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。
豊鍬姫
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。
入彦
磯城族の氏上。厄災を乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主。
美茉姫
入彦の妻。明るい美しさの女性。淑やかであり、闊達でもある。
活人
入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。
大彦
入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。
石飛
磯城族の青年。入彦の舎人。
百襲姫
磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。
翠雨
入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。
如虎
黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。
翔
豊鍬姫になついている熊鷹の子。
日照
旧名は狭野姫。かつて天孫族の氏上であり、磐余彦を号して山門主であった。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。
手研
故人。狭野姫の年上の甥。狭野姫が唯一甘えられた人物。入彦に狭野姫を託して逝く。
珍彦
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
道臣
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
吾曽利
天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。山門近傍に潜伏し、捲土重来を期す。
太忍
葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。
雄心
旧名は剣根。太忍の庶子。過去の所業を悔やみ、日照の従者となる。
五瀬
故人。狭野姫の長兄であり、手研の父。高千穂族とともに東の真秀場を目指し、天孫族を号する。初代の天津彦。
五十鈴媛
五瀬の後妻。出雲族の出身で、製鉄技術者集団と縁が深い。手研にとっては、同年代の継母。
香魚
両性具有の人。神々も魅了する美しい瞳を持っている。
武彦
齢は古老であるはずだが、見た目は壮年。かつては磯城の颱と恐れられた暴れん坊。
真守
武彦に心酔する剣の達人。忌瓮部であり吉備人。
五十鈴依媛
須賀族の氏上。出雲の荒王と恐れられる稲飯に想いを寄せる。
<用語>
高天原:天上世界
豊秋津島:物語の舞台
葦原中国:豊秋津島の別名
山門:豊秋津島のほぼ中央に位置する地方
青垣山:山門の周囲を囲む山並み
筑紫洲:豊秋津島の西部にある大きな島で、白日、豊日、建日、日向の四地方を持つ
真:西の海の果ての大陸にある巨大帝国
氏上:一族の族長
天神地祇:八百万の神々
祖霊:祖先の霊魂 氏上は死ぬと神上がって祖霊となる
精霊:森羅万象に宿る魂
魑魅:山林の異気から生まれた邪霊
厄災:山門を呪いによって支配していた饒速日の体制を瓦解させた大災
剋軸香果実:高天原の神々が下界に投げ捨てた邪心が凝固したもの いつか高天原に帰ることを望み、時を戻す霊力を蓄えるため大地に寄生して石の花を咲かせる
夜色に沈んだ木立の枝間から白煙が流れ出た。半輪を描く炎が下生えを赤く浮かび上がらせ、炎が舌舐めずりするたびに陽炎のように揺らした。半輪の外には弓を構えた数名の男たちが並び、鏃を不気味に輝かせている。
不穏なその場景を、眉をひそめるようにして見下ろしていた星明かりが弱まりつつある。夜明けが近いのだ。
炎の半輪と矢に囲まれているのは日照とその仲間たちであり、そこを死地とするならば、生地との境になる半輪の弦の部分で、炎を操る賊の頭目と対峙するのが、幼気な童女であった。
もっとも、頭目からすれば、彼の領域に無断で踏み込んできた日照たちこそ不躾者ということになる。
「吾が名は秀火という」
そう名乗った頭目は、ついでに、己が出雲主から肥川の渡守に任ぜられており、外界からの闖入者を防ぐ任を与えられていることをも語った。ゆえに頭目側の行動が正しく、非は無断で出雲の領域に入ってきた側にある。秀火は、小さな対抗者にそう諭したつもりである。
「それで、吾と何を誓約しようというのだ、豎女よ」
血眼のような赤い目を向けられても、豊鍬姫は恐れ気を見せなかった。
「そこに椋木がありますね」
豊鍬姫はすぐ右手にある椋の成木を指さした。
「確かにあるが、それがどうした」
「あの椋木を、あなたが燃え上がらせることができたればあなたの勝ち、わたくしが燃え上がらせることができたればわたくしの勝ちといたしましょう」
宣言の内容を聞いた秀火は大笑した。日照たちを火球で襲ったように、火を操り、一木を燃やすことなど、彼にとっては造作もない。
「吾が勝てばどうなる」
秀火は、すでに誓約での勝利を前提に話している。
「わたくしどもはひとり残らず、あなた方の奴となり、いかように扱われても文句を申しません」
表情に迷いを見せぬさらりとした言い方は、どこか霊妙ですらあったが、話の中身は生々しい。ちなみに、奴とは召使いのことだ。
秀火は卑しい笑いを発し、その卑しさはたちまち配下に伝播した。妖艶な美体の嬢子と、十年も待つことなく優艶な玉体に育ちそうな女童とを一度に奴とできるとは、どうにも淫欲を掻き立てられる話ではないか。ついでに他の男どもも役に立ちそうではあるし、死ぬまでこき使ってやれば、嗜虐心が満たされよう。
慌てたのは雄心だ。豊鍬姫はもしかしたら寝惚けているのか、そんな馬鹿げた誓約で山賊風情の奴にされてはたまらぬし、何より、彼が至尊として護ることを誓った日照を、あの汚らわしい呪いに濁ったような目付きの頭目に傅かせるわけにはいかない。
雄心は豊鍬姫を引っ叩いても夢遊を覚ましてやろうとしたが、それを日照が抑えた。
豊鍬姫は、いま何かを覚醒させようとしている。日照にはそう感じられた。豊鍬姫の語気に力感はなく、どこか恬淡としているが、そこにある霊妙さに日照の肌が感応した。
しかし雄心を上回って狼狽えたのは、秀火の夜襲を獣の感覚でいち早く察知し、椋木の枝に飛び上がって身を潜めた如虎と、その枝で安眠していた翔である。
一匹と一羽は、牙の根も嘴の根も合わぬよな慌てようで、鳥獣の言葉で会話した。
翔はすぐに逃げ出そうと言ったが、如虎にはそうできない理由があった。危険を察知して身を枝葉に潜めたのは、襲撃者の不意を突こうとしたからである。ところが、物事の成り行きが予想外に展開し、ここで慌てて逃げ出せば、まるで夜襲に怯て隠れていたようではないか。豊城彦や豊鍬姫から白い目で見られるのは黒豹としての矜持が許さないし、日照に溜め息を吐かれては、雄としての立場がない。
如虎は自分の葛藤を身振り手振りを交えつつ伝えたが、翔にとっては彼の立場を慮っている余裕はない。
それではお先にとばかりに翔は飛び逃げようとしたが、如虎は前肢で翔を抱きかかえるようにして捕まえた。友だち甲斐がないだの、自業自得だだのの言い争いが繰り広げられる椋木の根本で、樹冠の騒がしさを一切遮断したような緊迫感の中、豊鍬姫と秀火が対峙した。
「では、吾からいかせてもらうぞ」
豊鍬姫の応の声も待たずに、大きく息を吸い込んだ秀火は頭上で両腕を、身を反らしながら旋回させた。
秀火の吸気と腕の旋回に巻き取られるように、日照たちを囲んでいた炎が秀火の上で蜷局を巻いた。
「火雷のごと焼き尽くせ」
夥しい狂気とともに頭上の火焔を放出すると、解き放たれた炎は狂喜して椋木に襲いかかった。如虎と翔は、霊魂が飛び上がるほど恐怖した。
しかし、椋木は、まるでそこだけが異世界に立っているかのように、葉の一枚をも焦がすことがなかった。
「玉響、玉響、天そそる氷柱のごと堅磐常磐に厚氷なれ」
豊鍬姫の言霊は、椋木を、まるで凍原に在る樹氷のように屹立させた。吹きつける炎風は、言霊の結界に触れた途端、風雪と化した。
秀火は最初、驚乱し、たちまち恚怒したが、顔を真赤にし、彼自身が炎と化したかのように呪言を吐き出しても、火炎が尽きるまで、椋木の葉一枚を焦がすことさえできなかった。秀火もその配下も、とても現実とは思えぬ事実を目の当たりにして、生気さえも尽きたかのように、ただ呆然と幻像の中に立ちすくむしかなかった。が、現実は現実であり、椋木は涼風に吹かれたような顔で枝葉をさざめかしている。
驚きは、日照たちにもある。雄心や豊城彦は顎を外さんばかりに大口を開けたが、日照には微笑みがある。豊鍬姫が秘める呪能には、日照に勝るとも劣らぬものがある。
さて、次は豊鍬姫の番だ。彼女は、まだどこか異世界にいるような澄ました顔つきをしている。
「玉響、玉響、天響動もす火山のごと弥遠永に猛火たれ」
豊鍬姫が紡いだ言霊は、彼女の頭上に小さな旋風を起こし、たちまち炎を巻き込んで巨大な火球と化さしめた。
轟々と唸りをあげる火焔の玉は、あたかも秀火から奪い取った火霊のようであり、彼の支配下にあったときよりも生き生きとして燃え盛った。
その火球が解き放たれれば、椋木は当然のこと、辺り一帯、秀火やその配下もろともに焼き付くこと必至とみえた。ともすればその炎に触手は、日照にすら及ぶやもしれない。
豊鍬姫を中心に、緊迫の輪が広がった。
椋木の中に潜んでいる如虎と翔は生きた心地がしなかった。その一匹と一羽以上に死を身近に感じたのは、秀火であったろう。狂気に煮られたように血を上らせていた面貌から、生気がみるまに抜け落ちた。
豊鍬姫が言霊の輪唱を重ねるたびに、彼女の頭上にわだかまる火球は巨大になった。
秀火とその配下たちは、もはや放心するしかなかった。が、彼らよりも先に恐怖に耐えきれなくなったのは如虎と翔である。
樹冠を飛び出した如虎は、たまたま秀火に襲いかかったような格好になった。
泣き顔の獣を上半身で受け止めた秀火は、そのまま草地にもんどり返った。そのすぐ後ろで弓を引いていた男に、半狂乱の翔が襲いかかり、男は悲鳴を上げて退散した。
その一瞬で、事態は一気に収束に向かった。雄心の剣が数人の男の弓を両断し、戯の四つ腕が数人の男を殴り飛ばした。豊城彦の礫も、ひとりの男の眉間を打って卒倒させた。
気がつくと、秀火は美しい顔を見上げていた。その花顔が日照のものであることに気づくと、慌てて身体を起こしたが、すでに害意も戦意も喪失している。
秀火に歩み寄るまえに、日照は豊鍬姫の側へゆき、霊悦状態となっている彼女を鎮めていた。
「直びに、和穏ひに、直びに、和穏ひに」
すぼめた口から清息を吐きつつ、日照が豊鍬姫の背を撫でると、巨大な火球は、まるで日照の息に吹き消されるようにして消滅した。
豊鍬姫は、眠るように瞼を閉じると、糸が切れたように座り込んだ。
そして清風が吹き寄せるように、日照は秀火を見下ろす位置に立ったのである。
このとき、世界が白く浮き上がった。朝が来たのである。秀火の目には、まるで目の前の麗人から朝が生まれたかのように、日照が輝いて見えた。
「御身は、日の御子か…」
無意識に呟いた秀火は、足元でばたついている黒毛の獣を両手で丁寧に傍らへ退けると、居住まいを正して、日照を仰視した。
「ようやく目を覚ましたようですね」
日照にそう言われた秀火は、はっと悟るところがあり、自らの行跡を振り返った。
「…まことに、悪い夢を見ていた心地でございます」
そう答える秀火の面差しには、狂気も毒気もすっかり洗い流された清々しさがある。いつの間にか、配下の男たちも端座して、日照を尊崇の眼差しで見つめていた。
秀火とその配下の眼の前に、艶姿の人が立っている。妖艶な容姿でありながら、その人から清尚な風を感じる。この人の前にいながら、なぜその高遠な美しさに気づかず、あまつさえ蛮行を働こうとしたのか。秀火には、これまでの行跡のどこからが悪夢であったのかすらわからなかった。
「わたくしは、須賀族の五十鈴依媛様の言寄さしで、出雲へ参るのです。御身に、日隅邑までの案内をお願いできませぬか」
五十鈴依媛の名を聞いて、秀火は、笞に打ち据えられたように身震いした。
「ああ、五十鈴依媛様。僕はなにゆえ、主の名を忘れていたのでしょうか」
「貴方は五十鈴依媛様の言寄さしを受けて、出雲主へ陳情に日隅邑へ向かったとうかがいました」
「…確かにそのとおりです。ですが…」
「日隅邑には参らなかったのですか」
「いえ、確かに参ったのです。しかし、出雲主に会ったのかどうか…、いえ、確かに会いはしたのです。いや、待てよ…、そう確か何かを話しかけられたのです。ああ、しかしそれからのことが、まるで地に降りた雲の中を彷徨うように思い出せないのです」
「出雲主に妖言を浴びたのですね。ああ、案ずるには及びません。わたくしはそのことをよく知っています」
日照は自責の狼狽えを見せている秀火を落ち着かせるためにそういったが、方便を使ったわけではない。
山門にはかつて、奸悪を用いた饒速日によって支配された時代があった。饒速日の呪詛によって、山門人は思考を操られたのである。饒速日が山門を握った魔手の力の源となったのは剋軸香果実の妖力であり、その凶邪な力に辛うじて抗い得たのは、氏上と巫が心身を犠牲にして守った磯城族だけだった。その族の氏上の血を引く入彦から、饒速日の奸計の詳細を聴く機会があった。全容までを知ることはなかったが、制御しきれなくなった剋軸香果実の暴走が山門に厄災を招いたその場にいた日照は、多くの人の犠牲により厄災を封じることができたものの、果実を完全には消滅させられなかった結果に遺憾を抱懐してきた。そして吉備でも、出雲でも果実の残影に触れることとなった事実に、日照は、自分の運命に果実が複雑に絡んでいることを察し、いずれ必ず決着を付けねばならぬときがくることを予感した。
「さて、秀火殿。貴方はわたくしを出雲へ案内してくれますか」
小首を傾げた日照の花顔に微笑みが灯ったとき、夏の強い日差しが降り注いだ。
「たとえ、根之堅洲であろうとも、どうして露払いせぬことがありましょうや」
秀火とその配下は、草地に深々と額づいた。ちなみに、根之堅洲とは、地中にあると信じられた世界である。
「うれしいことです。ですが、露払いなどとは申さず、共に参りましょう」
日照は罪の意識に苛まれている秀火とその配下を懐中に受け入れるような言い方をした。秀火らの胸中に、信仰的な感動が鳴り響いた。その音色が止まぬ限り、彼らは再び出雲主の妖言に誑かされることはないだろう。
「それにしても、いと恐ろしき呪能を持った女童でございますな」
その場の雰囲気の落ち着きを感じ取った秀火は、語調を寛げて、呪能比べで後れを取らされた豊鍬姫に視線を転じた。
日照の流した目の先で、豊鍬姫は瞼を閉じたまま座り込んでいる。
「いつまでそうしてるんだ」
豊城彦が妹の肩を揺さぶると、ようやく豊鍬姫は瞼を開いた。その下の眼は、どう見ても寝ぼけ眼であった。
「…兄さま、もう朝ですか」
「何言ってんだ、兄さまなどと気難しことを」
豊城彦は妹の淑やかさに、気味悪げに眉を寄せた。
「なにやら愉快な夢を見て、夢見がよいのです」
「夢だって。ひゃー、おい、妹よ、あれが夢だと言うのか」
豊城彦は素っ頓狂な声をあげて、すぐに呆れ顔を作った。
驚いたのは周りも同じである。豊鍬姫の振る舞いに覚醒を感じていた日照などは特に仰天し、雄心の視線を感じるときまり悪げに横を向いた。たまたま視界に入った如虎を手招いて、
「あなたのお陰で大ごととならずに済みましたね」
と、見込み違いを誤魔化した。如虎は如虎で、日照の言葉に救われた格好になったから、彼らは結託して、人の輪の隅で健闘を称えあった。
「それにしても、礫の男童といい、火産みの女童といい、軽々と起こしてはならぬ童がいるものだと骨身に染みて知りました」
秀火がもうこりごりという顔でそう言うと、笑いの輪が浮かんだ。さりげなくその輪に入った日照は、
「優れた呪能は夢の中のような不覚のときにこそ、真しき験をあらあらと明らかにするものです。とはいえ、それを矯むことができてこそ、優れた霊司と呼べるのです」
と、繕ったような解説を述べた。
「まことに、お言葉のとおり」
と、周囲が納得したのだから、美人は得だな、と雄心などは再認識した。
ともあれ、朝が来た。
朝日が夏の風に乗って夜の簾を開くと、草原が碧緑の色めきを取り戻した。
夏空にはすでに白雲が浮いている。その浮雲の黒い足跡を追うように、人数を増やした日照一行は出雲へ向けて出立した。
まずは細流を見つけ、争いの穢れを落とした。一糸まとわぬ日照の嬋娟たる姿は透き通るような白さで、そのまま天に溶けてゆくような儚さでありながら、胸と腰には大地の豊かさが確かにある。
豊鍬姫はまだ女としての身体に成長していないが、初雪のような清らかさがある。
日照と豊鍬姫の行水は、さながら降臨した天神と天女の水浴びのようであった。
交譲木の高木が美しい光景から男どもの視線を覆っているが、枝葉の間から見えなくはない。それでも男どもは情欲を掻き立てられず、むしろ信仰心を強くした。それが日照の、人としての哀しさでもあった。
そこから半日をかけて夏草色の原野を渡り、落日を正面に見た頃、赤い川面が前途を遮った。
肥川である。
源流の山谷が豊富に抱懐する鉄分を含んだ川水は、もとから赤く、緋の川とも呼ばれる。落日の斜光を溶かし、さらに赤みを増した川面は、まるで無数の松明の群れのようである。火の川とも呼ばれる所以がそこにある。
肥川は、日照たちが越えてきた山塊から発し、日照たちを追い越すように西へ流れた後、大きく東へ迂回して海に注ぐ。前途を流れる肥川は河口に近いせいか、広い川幅を持ち、船がなければ、とても渡れそうにない。
秀火がすかさず進言した。
「吾は渡守でしたので、舟を持っています。それをお使いいただければ、川は恙みなくお渡りいただけます。しかし間もなく日が暮れますゆえ、今宵は吾等の客舎にてお休みくだされ」
秀火が指差す先に、渡守の役所と、それに付属した彼と配下の宿舎があった。
日照は承諾したが、しばらく赤い川面を見つめたあと、おもむろに踵を返した。
秀火に案内された建物はけして瀟洒なものではなかったが、一夜を過ごすには十分であった。
夕食が済んでから、秀火は肥川の対岸を守る津令の情報を日照に伝えた。
出雲主が津令に任じた男の名は稚彦という。この男も、元は須賀族で、秀火と同様に五十鈴依媛の使者として出雲主に謁見し妖言を浴びて服従した。元の名を高彦という。
稚彦は強弓を使い、彼の放つ勁矢は岩をも貫くという。
秀火と日照の話を炉端で聞くともなく聞いていた豊城彦は、耳をそばだてた。
豊城彦は、妹である豊鍬姫は寝ぼけながらも霊異な力を発し、日照をも瞠目させるような資質を顕した。
豊城彦には、兄としての焦りがある。
人は、何よりも情報に価値を感じるのだと思います。知らない場所を訪れたときの昂揚感は誰もが経験済みでしょう。そうでなくては、誰も旅行なんてしませんよね。
遥かな上古、縄文時代に生きた人々も、同じように、いやむしろ現代の人々の嚆矢となって、千里を遠しとせず、情報を求めていたのです。
黒曜石は、縄文人にとってはレアメタルのようなものだったでしょうか。埼玉県の行司免遺跡から発見された黒曜石は、100キロメートルほど離れた長野県から産出したものだったそうです。
また、新潟県の姫川に産する翡翠は全国の遺跡から発見されています。
それらの産出物の移動は、もちろん、縄文人が生活必需品を得るための交易により運ばれたものでしょう。ですが、彼らは黒曜石や翡翠よりも貴重な情報を運んでいたとも考えられます。
例えば土器にしても、縄のような模様をつけるという流行が、全国各地に伝播します。そして弥生式土器のほうが使い勝手が良いとわかれば、これも全国に波及します。土師器から須恵器への変化も同様でしょう。水稲稲作もしかりです。
まだ文字を持たない時代の人々も、情報の大切さは知っていたのです。
さて、現代には情報が溢れており、インターネットを使えば、地球の裏側の情報も瞬く間に知ることができます。情報を受け取るだけでなく、発信することも、情報を操ることも容易です。
しかし、今の情報社会に、古代人が感じたような清々しい冒険心、探求心を私は感じません。とかく人の粗探し、不平不満のはけ口、人を貶めるための道具として使われているような気がします。
古代人が情報を欲したのは、自分がよりよく生きるためでしょう。しかし現代では、何か過ちを犯した人をひたすら攻撃するような暴力的な情報が横行しています。特に、自分の生活には関係のない事柄に、独りよがりの正義を振りかざして攻撃するような行動は、なにをその衝動の源泉としているのでしょうか?
自分が成長し、より良い自分になるためにこそ、情報は活かされるのだと思います。
古代人がもっていた大切な精神を、文明の利器に埋もれた現代人は失くしつつあるのかもしれません。




