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山門編-初国知らす王の章(31)-出雲の荒王(2)

<これまでのあらすじ>


 豊秋津島とよあきつしまの青垣山籠もれる山門の国は、俳優わざをきの少年御統みすまると黒衣の少女とよ、そして多くの人の活躍と犠牲で剋軸香果実ときじくのかぐのこのみ厄災まがごとを乗り越えた。


 天孫あめみま磐余彦狭野姫いわれひこさのひめを献身的に支えてきた手研たぎしは、恣意の感情を露わにし始めた彼女を正道に立ち戻らせるべく、あえて簒奪者を演じ、磯城族の県主あがたぬしの入彦に自らを斃させる。狭野姫は本当に愛すべき人が誰であったかを知り、深い悔恨に陥る。


 狭野姫は山門を去り、出雲へ向かう。豊城彦とよきひこ豊鍬姫とよすきひめ、黒豹の如虎にょこ、そして葛城族の剣根つるぎねが旅の仲間に加わる。狭野姫は名を日照ひなてると改め、剣根には雄心をごころの名を授ける。


 日照たちは吉備の統治を巡る争いに巻き込まれる。先の吉備主の遺児である阿曽姫を擁する山門人の武彦は、吉備の支配を目論む温羅を急襲する。日照の妖艶にして荘厳な神楽舞により、温羅の呪いに誑かされていた吉備人は正気を取り戻し、武彦と阿曽姫は吉備の正統を取り戻す。


 吉備を出立した日照一行は深い山を越え、大川が流れる草原に出る。その川水に身を捧げようとする女人を日照が見つけ、入水を思い止まらせる。女人は、誓約により日照が彼女と彼女の族の難題を背負うことを条件に、日照の言葉に従う。



  ≪是非ご一読ください。ご感想、ご評価をいただけましたら幸いです。≫




<人物紹介>


 豊城彦とよきひこ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。


 豊鍬姫とよすきひめ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。


 入彦いりひこ

 磯城族の氏上このかみ厄災やくさいを乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主あがたぬし


 美茉姫みまつひめ

 入彦の妻。明るい美しさの女性。しとやかであり、闊達でもある。


 活人いくめ

 入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。


 大彦おおひこ

 入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。


 石飛いわたか

 磯城族の青年。入彦の舎人とねり


 百襲姫ももそひめ

 磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。


 翠雨あおさめ

 入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。


 如虎にょこ

 黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。


 かける

 豊鍬姫になついている熊鷹の子。


 日照ひなてる

 旧名は狭野姫さのひめ。かつて天孫族の氏上であり、磐余彦いわれひこを号して山門主であった。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。


 手研たぎし

 故人。狭野姫の年上の甥。狭野姫が唯一甘えられた人物。入彦に狭野姫を託して逝く。


 珍彦うずひこ

 狭野姫の忠臣。手研の盟友。


 道臣みちのおみ

 狭野姫の忠臣。手研の盟友。


 吾曽利あそり

 天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。山門近傍に潜伏し、捲土重来を期す。


 太忍ふとに

 葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。


 雄心をごころ

 旧名は剣根つるぎね。太忍の庶子。過去の所業を悔やみ、日照の従者となる。


 五瀬いつせ

 故人。狭野姫の長兄であり、手研の父。高千穂族とともに東の真秀場まほろばを目指し、天孫族を号する。初代の天津彦あまつひこ


 五十鈴媛いすずひめ

 五瀬の後妻。出雲族の出身で、製鉄技術者集団と縁が深い。手研にとっては、同年代の継母。


 香魚あゆ

 両性具有の人。神々も魅了する美しい瞳を持っている。


 武彦たけひこ

 齢は古老であるはずだが、見た目は壮年。かつては磯城のあかしまと恐れられた暴れん坊。


 真守まかり

 武彦に心酔する剣の達人。忌瓮部いわいべであり吉備人。


 温羅うら

 出雲人。直会の呪術で吉備の支配を目論む。


 王仁おに

 出雲人。温羅に忠実な弟。剛力無双。




<用語>


 高天原たかまがはら:天上世界


 豊秋津島とよあきつしま:物語の舞台


 葦原中国あしはらのなかつこく:豊秋津島の別名


 山門やまと:豊秋津島のほぼ中央に位置する地方


 青垣山あおがきやま:山門の周囲を囲む山並み


 筑紫洲つくしのしま:豊秋津島の西部にある大きな島で、白日しらひ豊日とよひ建日たけひ日向ひむかの四地方を持つ


 しん:西の海の果ての大陸にある巨大帝国


 氏上このかみ:一族の族長


 天神地祇あまつかみくにつかみ八百万やおよろずの神々


 祖霊おやたま:祖先の霊魂 氏上は死ぬと神上かむあがって祖霊となる


 精霊すみつたま:森羅万象に宿る魂 


 魑魅すだま:山林の異気から生まれた邪霊


 厄災まがこと:山門を呪いによって支配していた饒速日にぎはやひの体制を瓦解させた大災


 剋軸香果実ときじくのかぐのこのみ:高天原の神々が下界に投げ捨てた邪心が凝固したもの いつか高天原に帰ることを望み、時を戻す霊力を蓄えるため大地に寄生して石の花を咲かせる

 その川は肥川ひのかわと呼ばれ、その名に相応しい豊かな水を運んでいる。その川の水が赤みを帯びているのは、その上流の岩石が多く鉄を含んでいるからであり、砂鉄がよく採れた。


 源流から流れ出た肥川は、草原に半円を描きながら流れ、やがて海に注ぐ。その半円に抱かれるようにして色朶邑しなだむらがあり、そこに須賀族すがぞくが暮らしていた。


 五十鈴依媛いすずよりひめは、須賀族の氏上このかみであり、色朶邑の邑主であることから、色朶媛しなだひめとも呼ばれていた。


 日が中天から少し傾いた頃、五十鈴依媛に案内された日照一行は、色朶邑に着いた。


 まず歓喜の声を挙げたのは豊鍬姫とよすきひめだ。邑の美しい景観が、彼女の乙女心をときめかせた。


 小高い丘を利用した色朶邑は、まるで小さな森を囲んだように築かれており、成育した木々が色とりどりの花を咲かせた枝を塀の外にまでしなだれさせていた。いわば、花輪に囲まれた邑である。


「色朶とはよく名付けたものだ」


 武骨者を気取っている雄心をごころも感嘆の声を出した。ちなみに、朶とは枝についた花房のことである。


 邑にはひとすじの細流が引き込まれており、それが濠にもなっている。濠は一重だけだから、邑としてはそれほど大きくない。


 特徴的なのは、花房に囲まれた邑に、付随するもう一区画があり、そこから隆々と白い煙があがっていることだ。そこの濠は二重に囲まれているから、邑人にとっては、居住区よりも重要な区画ということになる。


 その区画から漂ってくる匂いに、日照は懐かしさを感じたが、あえて何も言わず、五十鈴依媛に導かれるまま、五色の花房に彩られた門をくぐった。


 邑の中にも樹木が多く、建物は幹や枝葉の合間に見えていた。邑人は、森の中で暮らしているようだ。その理由を、日照はさきほど懐かしんだ匂いの中に知った。


「まずはこちはでお寛ぎください」


 五十鈴依媛に案内されたのは、邑の一番高みにある樹木が伐採された見晴らしの良い高床の建物だった。


 五十鈴依媛は族人の若い女性に日照等の供応を命じると、一旦さがった。


 通されたのはまどからの光が豊富なへやだ。そこで勧められた瓜や李などをつまみながら、日照たちは一息を入れた。


 如虎にょこは日当たりのよい場所で昼寝を決め込み、翔は豊鍬姫の許可を得て窓の外へ飛び出し、邑の梢の間を楽しげに飛び交った。


「あそこには何があるんだろう」


 瓜を一切れ食べ終えた豊城彦がさっそく好奇心を口にした。あそことは、居住区とは別に仕切られた場所のことである。


「鉄を冶金ふきわけているのです」


 日照が豊城彦の疑問に答えた。


「冶金?」


 豊城彦と豊鍬姫は丸く見開いた瞳に探究の灯りを点した。


 輝く瞳を向けられた日照は、思わず微笑んだ。その瞳に宿る面影が、思い出に重なったからだ。


 日照がまだ天津彦を名乗り、山門を天孫族の真秀場まほろばとすべく山門諸族と争っていた頃、俳優わざをきの少年と黒衣の少女がしばしば日照の視界に現れた。苦汁を飲まされたこともあり、少年少女が日照に向ける視線は決して柔らかなものではなかったが、それでも山門のためにその身を犠牲にして厄災を防いだ二人には、親愛と尊敬の念を抱いている。


「豊城彦と豊鍬姫は、御統みすまるとよの生まれ変わりなのです」


 そう語ったときの入彦の声が、鮮やかに胸中に響いた。


 二人の瞳を覗き込む限り、入彦の話は真実であろうと思える。その瞳の奥に灯るものが日照への反感でなく憧憬であることがたまらなく嬉しく、思わず微笑んだのである。


あらがねからくろがねを取り出すことです」


 鉄に詳しい日照は、製錬について豊城彦と豊鍬姫に語った。礦とは鉱石のことであり、かつて鉄で武装していた天孫族を率いていた日照は、当然ながら鉄に関する知識を持っている。


 牕から差し込む光に赤みが混じるまで、日照は鉄の話を語った。雄心は武人であるから、鉄の武具については興味を持ち、房の傍らに布を巻いて置かれている天羽々斬を物欲しそうな顔で見た。


「出雲のことが済みましたら、筑紫にも参りましょう。そこでは真から海をわたった鉄の剣がたくさんあります。御身にふさわしい剣がきっと見つかるでしょう」


 日照は雄心に微笑んだ。己の浅ましさを恥じた雄心は、うつむいたが、心は湧いた。


 ところで、日照は、


「出雲のこと」


 と言ったが、それがなにを指すのか雄心にはわからない。日照にもそれは明確ではないが、空虚となってしまった自分の心を満たすための何かを示す啓示があるのではないか。日照はそう信じており、その啓示に至る道は筑紫にも続いていると予感している。


 給仕の者が、夕食の支度が整ったことを告げに来た。鉄の話を聞いたときよりも喜んだのは、豊城彦だ。


 日照たちは母屋の一房に案内された。


 そこは客を饗す部屋であるらしく、広々とした空間を持ち、大きく開け放たれた牕からは、細流を引いた庭の、色とりどりの花樹を見ることができた。


 房には花の香りと、厚味豊かな料理の匂いが満ちていた。豊城彦と豊鍬姫はそれぞれ好みの香りを嗅ぐために、それぞれの鼻腔を膨らませた。


御饗みあへといえるほどのものはございませんが」


 衣服をあらためた五十鈴依媛が日照に着席を促した。彼女の左右には、族人の主だった者であろう、年配の男性が二人ずつ並んでいる。


 川に近いためか、川魚や川海老をふんだんに用いた料理が運び込まれた。


 すでに五十鈴依媛から事情を聞かされていたらしく、年配の男性たちも給仕の者たちも、日照たちに恭しい態度を保っていた。


 楽しい食事となった。山中で木の実や茸、鳥や野兎の肉を食べ続けてきた日照たちは、新鮮な川の恵みに舌鼓を打った。


 食事が終わると、五十鈴依媛は日照と雄心を別室に誘った。


 豊城彦と豊鍬姫は満腹と居心地の良さとに睡魔を呼び込まれ、すでに眠り込んでいる。その二人を守るように如虎が寝そべり、その柔らかい黒毛を布団に、翔が眠っている。


 別室というのは母屋にはなく、いちど外に出て、花樹の香気がたゆたう庭を横切り、塀で区画された静かな一角の建物に入った。


 入って正面の祭壇に大きな鏡が置かれているこの建物は、須賀族の斎宮であろう、と日照には思われた。鏡の左右の高机にあかりが灯っている。


 先に入っていた五十鈴依媛は、振り返り、宴のときとは異なる神秘的な趣の容貌を見せた。五十鈴依媛は、須賀族の氏上であると同時に斎主いわいぬしなのである。


 五十鈴依媛は、日照と雄心に円座わろうだを勧めた。


 二人の腰が落ち着くのを見すました五十鈴依媛は、おもむろに、彼女か肥川に身を捧げようとしたその理由を語りはじめた。


「肥川からは、金砂かなすなが多く採れます」


 そこから続く五十鈴依媛の口述は、日照を驚かせると同時に、出雲への道が、やはり何かによって導かれた道であることを確信させた。


 肥川は水量の豊富な川であるがゆえに、しばしば氾濫しては、須賀族の邑を襲い、人を呑んだ。しかしその一方で、豊かな川の恵みを彼らに与え、また金砂という貴重な資源をも授けた。


 しかしながらその資源に目をつけたのは、須賀族ではなく出雲族であった。五十鈴依媛の数代前の氏上の時代に、須賀族は出雲族の傘下に収められた。出雲族は金砂を重視し、須賀族の支配を確固とするため血縁を結ぶこととし、出雲主の男子に、須賀族の女子を嫁がせた。


 須賀族は古来、斎主が氏上を兼ねる習いとなっており、出雲主の男子を血を引く娘がその地位に就くこととなった。


 先代の斎主兼氏上である五十鈴媛いすずひめは、まだ年が若く、出雲主の政略的な思惑から、吉備主からの使者に嫁ぐこととなった。その使者こと天津彦あまつひこであり、すなわち日照の長兄、五瀬いつせである。


 突如として五十鈴媛を奪われた須賀族は存亡の危機に陥った。出雲主は重臣を送り込み、須賀族の直接支配をも画策した。彼らの邑である色朶邑を出雲族の属邑にしようとしたのである。


 五十鈴媛は父である事代主に懇願した。彼女にとって血の半分は出雲族であるが、もう半分は須賀族の母から受け継いだものである。


 幸いなことに、五十鈴媛には次代の須賀族の指導者として嘱目する童女がいた。その童女は秀抜な呪能を持ち、父は冶金技術者の有力者であった。その童女であれば、いずれ須賀族の優れた指導者となる。そのいずれを出雲主の思惑で埋め尽くし、須賀族の自主権を奪わぬよう、五十鈴媛は父である事代主に懇願した。


 事代主としては、愛娘からの哀願を黙殺することはできなかった。事代主は父である出雲主に直談判し、ともかくも今回は、五十鈴媛の訴願を受け入れることとなった。出雲主とて孫娘を愛さぬわけではなかった。


 こうして、年若くして須賀族の斎主兼氏上の地位に就くこととなった童女は、五十鈴依媛と名を改める。


 ちなみに媛とは、自立した上流女性への敬称であり、指導者たる女性の意味を持つ。


 さて、須賀族の後継者問題はそれで落着したが、新たな難問を迎えることになる。


 五十鈴媛が天津彦五瀬に嫁ぐために色朶邑を去り、五十鈴依媛が指導者の立場に就いてから一年ほど経ったときに、狩猟に出ていた須賀族の男が異邦人を捕らえてきた。


 その異邦人は衰弱しきっており、野辺に倒れて足腰が立たず、口も聞けないような有り様であった。


 そのままであれば野の獣の胃袋に収まるばかりだが、哀れに思った男が邑へ連れ帰ると、彼は年長者たちから叱声を浴びせられた。


 異邦人は穢れを帯びている、と考えるのがこの頃の通念である。まして、生死の狭間をたゆたっているようなその異邦人は死の穢れそのものではないか。


 男は異邦人を拾ったところへ棄ててくるように命じられた。男自身も川辺で身を清めてからでなければ邑に戻れぬようになった。


 死に舞い戻るしかなかった異邦人を生に留めたのは五十鈴依媛である。彼女は、彼女の卓越した呪能で、その異邦人から何かを感知したのである。しかもよく見れば、汚れてはいるが、異邦人が身につけている者は庶人のものではない。高貴な身分にあった者の残り香を、五十鈴依媛は異邦人の衰弱した姿から嗅ぎ取った。


 五十鈴依媛は、異邦人を斎宮に運び込ませた。


 邑人は穢れを嫌うため、異邦人の介抱は、五十鈴依媛みずからが行った。


 七日七夜、懸命の介護が功を奏し、異邦人は八日目の朝に目を覚ました。


 翌日に臥床ふしどから半身を起こすことのできた異邦人は、その二日後には食事を摂ることができ、さらに三日後には歩くことができた。


 その間、五十鈴依媛は異邦人の介抱を族人に任せず、献身的に世話をした。彼女には、この異邦人が、いずれ須賀族の命運に大きな関わりを持つことになると思えてならなかった。


 床を払った異邦人はすっかり生気を取り戻し、与えられた清潔な衣服を身に着け、ある日、五十鈴依媛の前で居住まいを正した。


「吾は天孫あめみまの天津彦の弟で、名を稲飯いないと申します」


 素性を明らかにされて、語重鈴依媛は驚愕した。彼女に斎主と氏上の位を譲った五十鈴媛は、その天津彦に嫁いだのである。


「いかなる事が起こったのでございましょう」


 可憐な唇を震わせた五十鈴依媛は、五十鈴媛を襲った事態を想って顔色を青ざめさせた。息も絶え絶えに邑へ連れてこられた稲飯は、まるで物怪に襲われたような哀れな姿であったではないか。そこから連想される五十鈴媛の運命には悲観しか見えない。


「五十鈴媛様におかれては事無しであろうかと思います」


 稲飯は五十鈴依媛をまずは安心させようとしたが、その表現は微妙であった。五十鈴依媛の濡れた瞳が、口述の続きをせがんだ。


「出雲を去ったあと、吾ら天孫は山門へ向かいました」


 山門遠征の軍備の支援を吉備主から引き出すため、吉備族と出雲族を仲介すべく、兄の天津彦五瀬とともに出雲を訪れたところから、稲飯は語り始めた。


 仲介は上首尾となり、出雲主の嫡男である事代主の知己を得た五瀬は、事代主の娘の五十鈴媛を妻に迎え、出雲を去った。


 吉備にて約束の支援を受け取り、意気軒昂と山門にむかった天孫族は、しかし、孔舎衛坂くさえさかにおいて、山門の御言持みこともちである大日率いる山門諸族と戦い、大敗した。その戦いで大日の矢を受けた五瀬は没し、天孫族は故郷に帰る者、稲飯に従う者、妹の狭野姫に従う者の三派に分かれた。五十鈴姫は狭野姫と行動を共にしたはずであり、その後の消息はわからないことを、稲飯は正直に伝えた。


「そうですか」


 五十鈴依媛の視線が空を漂った。想像していた五十鈴媛の悲運の色合いは少し薄まったが、心の視界を閉ざす霧は深まった。


あれいろも任侠おとこだてを気取るほどの当てになる女人をみなです。必ずや己の真秀場まほろばを見出し、五十鈴媛様もそこで平らかにお過ごしでございましょう」


 稲飯はそう言って五十鈴依媛を慰めた。少し落ち着きを取り戻した五十鈴依媛は小さな微笑みを稲飯に向け、


「それで御身は…」


 と、稲飯自身のことを問うた。途端に、稲飯は自嘲の笑みで顔色を満たした。


「妹と道を分かった後、吾は出雲に向かいました」


 ただ向かったわけではない。出雲を己の真秀場とすべく、征討するつもりの意気を掲げて進んだのである。そういった覇気をみなぎらせなければ、孔舎衛坂の戦いで敗残した天孫族を率いることができなかったというのが実態であった。稲飯には、残念ながら、兄の五瀬や妹の狭野姫のような、そこに居るだけで万人を魅了させるような御稜威なる霊威が備わっていなかった。


 吉備に立ち寄ったものの、吉備主から、出雲征討の支援を受けられなかった稲飯は、往時の三分の一以下となった天孫族を引き連れて出雲を目指したが、山中の道に迷い、魑魅すだまに誑かされ、野獣に襲われるうちに族人は散り散りとなった。気がつけば稲飯一人が山中をさまよい、ようやく野に抜けたときには生気をすべて失っており、倒れ伏して土と化すときを待つばかりとなった。


「そして明主おかみ慈悲あわれみにお救いいただいたのです」


 稲飯は自らの力不足による凋落を自ら嘲弄していたには違いないが、どこかに清々しさもあった。生まれ変わり、天孫族の矜持としがらみを脱ぎ捨て、身軽になった心地がある。


「須賀族に救っていただいたからでしょうか、吾はいま、とても清々しい心地です」


 そういって見つめてくる稲飯からは、確かに爽やかな風を五十鈴依媛は感じた。


「それでは、お好きなだけ、ここで過ごされるとよい」


 この日から稲飯は五十鈴依媛の客人まろうどとして、色朶邑で暮らすことになった。


 時が経つに連れ、稲飯と五十鈴依媛は親密を増した。しかしながら五十鈴依媛は、やがて出雲主の血を引く男子の妻となり、その子を産まねばならぬ運命にある。その未来を暗く描いた時の憂鬱な吐息を、稲飯は聞き逃さなかった。


「出雲主に納めねばならぬ鉄が、年追うごとに多くなっていくのです」


 五十鈴依媛は本心とは違うことを稲飯に伝えた。ただし、そのことも五十鈴依媛を悩ましていることは事実である。しかし、稲飯は、五十鈴依媛の憂慮にはまだ深いものがあると見抜き、ついに彼女の本心を聞いた。稲飯は、五十鈴依媛の憂慮を自分のものとした。そして、


「出雲主とも、事代主とも、吾は知らぬ仲ではない。吾が出雲へ行き、鉄のこと、そして吾ら二人のことを訴えてみよう」


 そう言って立ち上がった稲飯は、引き留めようとする五十鈴依媛の手を優しく押し返して、出雲へ向かって出立した。


 五十鈴依媛は、護身用にと、彼女自身が鋳た鉄剣を稲飯に手渡した。


 稲飯を見送った夜、斎宮のまどから星空を見上げた五十鈴依媛は、不吉な赤色の尾を引く流れ星をひとつ見た。


 五十鈴依媛は一抹の不安を抱きながらも、鮮やかな夕日を背に、吉報を携えて返ってくる稲飯を待った。


 ところが、である。


 季節をいくつ過ぎても、稲飯は帰ってこなかった。想い人を運ばぬ風が代わりに運んできたのは、稲飯が出雲の首邑から出雲主と事代主を追い、自らが出雲主の席に座ったという驚愕すべき噂であった。そしてその噂は事実を伝えていた。


 経緯も稲飯の思惑も知りようがない五十鈴依媛は、ただ愕然とするのみだった。色朶邑で過ごしていた稲飯は穏やかで、出雲主に取って代わろうとする野心を秘めていたとはとても思えない。五十鈴依媛の重荷を慮った善心が、一夜にして悪心に変わることがあるのだろうか。


 恋情を通わせたはずの稲飯は、まったく連絡を送ってこなかった。


 稲飯が出雲主の座を強奪したことで、確かに、須賀族に求める鉄器の量が増えることはなかったし、出雲主の男子に五十鈴依媛が嫁ぐこともなくなった。しかし、いずれ稲飯から彼女を妻に迎える使者が到着することを期待するには、出雲からの風はあまりにも殺伐としていた。


 さらに悪いことに、出雲を掌握した稲飯は、出雲族の兵を動員し、筑紫の諸族と戦いを始めた。筑紫は大真の文物を取り入れられる玄関口であり、類題の出雲主が羨望してきたが、戦を仕掛けるまでの露骨な行動は起こさなかった。


 筑紫の諸族は連合して出雲族を防いだが、稲飯が起こした凄まじい暴風は筑紫諸族を戦慄させ、荒ぶる稲飯は、いつしか出雲の荒王すさのおうと呼ばれて恐れられるまでになった。


 出雲から求められる鉄器は、量よりも質を求められるようになった。


 稲飯の心のうちを察することはできないが、正しい理由があるのだろうと信じる五十鈴依媛は、稲飯に献上する鉄剣を、彼女自身が作り続けた。そして数年が経った。


 五十鈴依媛が鉄剣を献上するたびに、荒王の暴威は増した。筑紫諸族との戦いは激しくなり、兵士と戦費を補うため、出雲族にまつろう族への 要求は厳しくなった。


 苛斂誅求が須賀族に向かうことはなかったが、鉄剣を鋳るたびに、五十鈴依媛は自責の念に苛まれた。そして、これまでにない一品を鋳上げたとき、五十鈴依媛の足は、夢中を往くように肥川に向かったのである。


「よくぞ全てをお打ちあけくださりました」


 五十鈴依媛の苦悩を知った日照は、感受性が豊かなだけに涙を流した。もちろん、語った五十鈴依媛の瞳も、滂沱とした涙のしたに沈んでいる。


「実は、稲飯殿が邑を去る間際に言い残されたことがあるのです。それは、吾の妹、すなわち狭野姫様のことでございますが、必ずいつの日か色朶邑を訪れるだろう。そのときに、もしもわたくしに深い憂いがあれば、打ち明けるとよい。稲飯様はそうおっしゃったのです」


 五十鈴依媛は衣の袖で目元を拭ってから、澄んだ瞳を日照へ向けた。瞳に畏敬が灯っている。


 予言は、天神地祇が人の口を借りて語る言葉である。稲飯の予言が的中したということは、稲飯に神意が降りたということであり、その予言に導かれるようにしてこの地に訪れ、水中に沈もうとした五十鈴依媛を扶起した日照にもまた神聖がある。五十鈴依媛が日照へ崇拝するような瞳を向けるのは、そういう理由だ。


「稲飯は紛れもなく、わたくしのいろえでありましょう。川の辺の誓約うけひどおり、御身の憂いはわたくしの憂い。この天羽々斬は、わたくしが兄のもとに届け、わたくしの言霊で、兄をあやかしの呪いから救い出しましょう」


 日照の誠実さを添えた申し出は五十鈴依媛を安堵させたが、眉宇に翳りが残った。日照の用いた、妖、という言葉に比喩ではない真実を聞いた気がした。五十鈴依媛も、言霊を聴き取る感性を持っている。


 五十鈴依媛の表情を読んだ日照は、口元を少し引き締めて、


「兄を見送った夜、赤い尾を引く流れ星を見たと言いましたね」


 と、五十鈴依媛の記憶を確認するように問うた。五十鈴依媛は不安げに頷いた。あの夜に感じた不吉は、彼女の胸の中で、まだ騒ぐことをやめていない。


「わたくしに心当たりがあります。いえ、わたくしは、その赤き流れ星を追わねばならぬ因縁さだめなのだと思います」


 厳かでありながら、どこかまろみのある日照の居住まいに、五十鈴依媛は思わず眩しげに目を細めた。


(ああ、これを霊妙くじふふるみことと言うのだ)


 五十鈴依媛は言いようのない安らぎに抱かれた。あかりのわずかな薄暗闇の中で、日照はまるで日輪のようであった。

 島根県出雲市に神庭という名の谷間があります。旧暦10月が神在月となる出雲らしい、なんとも神秘的な名前です。


 この神庭で、昭和58年の広域農道整備に伴う遺跡調査をきっかけに、大量の銅器が発見されました。銅剣の出土数が、なんと358本という大発見です。それまでに日本全国で発掘された銅剣の数が約300本であったことを考えると、その圧倒的な数字に驚かされます。この全国でも稀な遺跡は、荒神谷遺跡と名付けられました。


 358本の銅剣は丘の斜面に一定の規則性をもって並んで埋められており、うち344本には☓印が刻印されていました。この☓印が何を意味するのか、なぜこれほど大量の銅剣を一箇所に埋めたのか、古代人の意図はいまだ解明されていません。


 この荒神谷遺跡から3キロほどはまれたところに、加茂岩倉遺跡があります。ここで発見された銅鐸の数も多く、出土数は39口で、出土例としては日本最多です。


 全国最多の銅剣と銅鐸。この地に、古代文明の中心地があったと想像したくなります。出雲の首邑と、出雲の繁栄を支えた技術者たちの邑。そんな風景が浮かんできます。


 さて、出雲大社は荒神谷や加茂岩倉から西にありますが、首邑に住んでいた大国主が天孫の求めに応じて国を譲り、出雲大社に引っ越したと考えれば、日本書紀や古事記の記載にも沿うと思います。


 はるかな上古に、この地にどんな物語があったのか。想像力が掻き立てられます。


 ところで、荒神谷遺跡は、ハスの群生地としても有名だそうです。このハスは古代ハスとも呼ばれ、約三千年前の地層から出土した種を発芽させたものだそうです。


 古代出雲の神秘は、古代ハスの遺伝子の中に伝えられているのかもしれません。


 いつか荒神谷遺跡を訪れ、古代ハスの囁きに耳を傾けてみたいと思います。

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