山門編-初国知らす王の章(3)-厄災のあと(3)
勇み肌の豊城彦、自然体の豊鍬姫、怖がり屋の活人。三人は、父がもらってきた霊験あらたかな白銅鏡を一目見ようと、夜の探索の算段をつけています。
鏡は不思議な力を秘めている。他にいるはずのない自分の姿を作り出す。鏡の中のその姿は細部に至るまで自分自身を再現しており、どのような動きをしようとも瞬時に模倣し、映し逃すことがない。鏡に秘められた力とは、まさにこの映すという作用にあり、どのような権力者も剛力者も呪能者も、鏡の妖力から逃れる術はない。古代の人々が鏡に神秘を思い、もっとも重要な祭器として崇拝したのも理解できる。神々の力すら鏡の妖力は捕らえるが、鏡に込められた呪力と鏡自体の合金の強度を超えるものは受けつけることができない。優れた鍛人が鋳た鏡は相応の強度を備えるが、自ら銀光を発するような鏡は相当な一品だ。
霊力や呪力というものの成分には、光の粒子が混じっているものらしい。帯びた霊力なり呪力なりが強ければ強いほど、それは自然に発光する。鏡などの呪器だけでなく、人の身においても同様だ。人の呪力は目において最も強い。呼見という呪法は呪術の基本であり、人に呪うにしろ、他人からの呪いを祓除するにしろ、まず目で見つめるのだ。目のよく輝く人は、それが善なるものであるにせよ、悪なるものであるにせよ、優れた呪力を体内に秘めている。美しさも、意思の強さも、薄気味の悪さも、意識の有無にかかわらず呪力の発動の一形態だ。生まれながらに魂が帯び、修行により増幅された呪力を思うがままに操る術を呪術という。
さて、夜の暗がりの底で丸々と輝く眼を見せ合っていたのは、豊城彦と豊鍬姫、活人の三人の童子だ。
幼子の丸々とした瞳はよく輝く。幼子の瞳を輝かせる呪力は、無邪気とも言い換えられる。
「豊兄、豊姉、どうしても行かないとだめなの」
怯えた声を出したのは活人だ。倉の中の食べ物を盗み食いする算段をつける鼠たちよりも小さな声だ。頭から衾を被っている。衾は掛け布団のようにして用いる寝具だ。
「何も知らないんだな、活人は。いいか、男子はな、怪しい話を聞けば、その真実を突き止めなけりゃならないんだぞ」
七年そこそこしか男をしていないくせに、もう老練の男であるかのような口ぶりで、豊城彦は異母弟を諭した。
「そうなの。だったら、あんなおっかない話を聞くんじゃなかった」
活人の怯え声は泣き声に近かった。
「父上のお話を、あんな話なんて言うもんじゃない」
豊城彦が叱ったものだから、活人は涙ぐんだ。
「どっちでもいいけど、あまりうるさくすると誰かに気づかれて、真実を突き止めにいけなくなるよ」
あっけらかんと言ったのは豊鍬姫で、豊城彦は少し唇を尖らせた。そもそも誘ってきたのは豊鍬姫だ。
ここは活人の房だ。むろん燈火はなく、灯りといえばお互いのよく輝く瞳と、明かり取りから入る月の光だけだ。
三人には別々の房が与えられている。幼少ということもあり、もともと同じ房に起居していたが、三人が寄れば何かと悪戯を働くということで、近頃、房を別けられた。夜間に勝手に出歩くことのないよう、入彦は家人に命じて子どもたちの部屋に簡易な閂を付けさせたが、豊城彦と豊鍬姫にとって閂を外すことなどどうということもない作業だった。そうして二人は、閂などなくても夜に出歩くことのない活人の房に集まっては、作戦会議を開くのだ。
今宵の作戦は、父である入彦が百襲姫から授かったという鏡をこっそり拝見し、父が語ったような霊験あらたかな力が本当に働くのかどうか確かめる、というものだ。
「白銅鏡はな、とても珍しい鏡なんだ。どんな鍛人だって滅多に作れはしないんだ。天神地祇が自分から宿りにいくほどだぞ」
豊城彦は見てきたかのように熱弁をふるったが、活人の目は被った衾の奥にどんどん隠れていった。
「だったら、もう、なにか怖いものが憑りついているかもしれないよ」
「ばかだな。だから見に行くんじゃないか。ただの鏡なら、わざわざ見に行くことはないだろ」
「僕は、ただの鏡でたくさんだよ」
「吾はこれを持っている。怯えることはない」
豊城彦は背負いの嚢を下ろして、中から上腕ほどの長さのものを取り出した。勝軍木から削り出した木剣だ。うっすらと文様が浮かび上がっているのは、木剣に彫り込まれた呪飾が発する呪力が光っているからだ。勝軍木の木剣は、生身の人間を打てばただ相手が痛がるだけだが、生身でない存在には抜群の退魔力を発揮する。
嚢には、そのほか悪戯七つ道具が入っている。
「僕も持っているよ。筐にしまってあるけど」
「そうか。だったら案ずることはない」
豊城彦は、もう問題は片付いた、という顔で言った。ちなみに筐は竹で編んだ籠である。
「そんなことないよ。房の外は真っ暗だよ。暗がりには物怪がいるんだ。だから夜に出歩いちゃいけないんだ」
活人は素直な性格だ。大人たちの言いつけをきちんと守ろうとする心の仕組みになっている。
「本当に何も知らないんだな、活人は。断じて行えば、鬼神もこれを避ける、ていうんだぜ」
学問好きな豊城彦は、最近学んだ大真の格言を披露した。
「そんな難しいことを言ったって、暗がりはなくならないよ」
それも真実だ。弟の弱虫ぶりには呆れる思いだが、だからといって、活人を置いていくということはしない。
「どんなときも三人で助け合うこと」
という父の教えを忠実に守っている。もっとも入彦としては、悪戯にもその教えが適用されることは想定していなかった。
「おい、妹」
豊城彦が声を掛けると、心得ていた豊鍬姫は衣の下から何かを取り出し、それへ向けて何事かをつぶやいた。するとたちまち、明かりが灯った。ちなみに、豊城彦と豊鍬姫は同時に入彦の子となったので、その長幼は定めがたいが、入彦は美茉姫と相談して豊城彦を兄、豊鍬姫を妹とした。
「ほら、これで暗がりも怖くない」
松明にしては心許ない仄かな明かりだが、暗がりの中に子ども三人の顔を浮かび上がらせるくらいはできる。
「どうしたの。なんなの。どうして明るいの」
活人はますます衾の奥へ引っ込んだ。
「言霊の術さ。豊鍬はこんなことができるんだぜ」
より正確に言えば、言霊の力は生まれながらに豊鍬姫に備わっていた。術が発動しなかったのは、まだ言葉を知らなかったからだ。ちなみに、言霊の力は大なり小なり、生まれ来る全ての人に備わっている。術として活用できるほどの強さで備えているのは、万人に一人だ。
四歳や五歳の頃、豊鍬姫は極度に話すことを嫌がった。父母である入彦と美茉姫は娘の言葉の遅さを心配したが、豊鍬姫は話せないのではなく、言葉を紡ぐことによって生じる不可思議な現象に怯えていたのだ。
ところが豊城彦は、豊鍬姫が怖れる怪異を絶賛した。すばらしい力だと褒め称えた。兄に受け入れられたことによって、豊鍬姫の意識も変化し、自分の発する言葉が作用する現象を楽しいと捉えるようになった。豊鍬姫が天真爛漫に育ったのは、兄の包容力があったからだ。もしも豊城彦がいなければ、豊鍬姫は自分の呪能に怯えるだけの少女になっていただろう。
ただし、小知恵の回る豊城彦は、両親が妹の能力を警戒して封じてしまうことを察して、豊鍬姫にはその言霊の力を人には秘密にしておくよう教えた。そうして大人たちは、なぜ豊城彦と豊鍬姫がいろいろな悪戯を行い得るのか、首をひねることになっているのだ。
今夜、豊鍬姫の秘密を守る会にめでたく活人も入会したわけだが、彼はそれを迷惑がった。
「だめだよ、そんなこと。物怪は言霊を食べにくるというよ」
活人は褥に突っ伏し、衾を被ったまま震えだした。言霊で悪事を働かないよう大人たちが子どもを怖がらせるための話を鵜呑みにしている活人に、豊城彦は鼻白んだ。
「物怖じはそれくらいにしておけよ」
豊城彦は活人が被っている衾を剥ぎ取った。白銅鏡の好奇を早く目の当たりにしたい苛立ちが、兄としての寛容を超えた。
「無理強いはよくないんじゃないかしら。いいじゃない。わたしたちだけで行きましょうよ」
悪気も嫌味もない豊鍬姫の言葉が、かえって深々と活人に刺さった。彼は褥にしがみついていた身体の震えを止めた。
「そうだな。弱虫を連れて行ってもつまらないからな。おい、活人、吾と豊鍬だけで行くから、誰にも言うなよ。それで、気が変わったら、あとから汝も来い」
豊城彦が突き放すように言うと、褥に顔を埋めていた活人は撥条仕掛けのように 顔を上げ、
「あとからなんかよけいにおっかないよ。行くよ。行きますよ。行くに決まってるじゃない」
と、泣き声混じりに言った。
「それはわかったが、大声を出しちゃいけない」
弟の口をすばやく塞いだ豊城彦は、豊鍬姫としてやったりの笑みを交わした。活人の操縦方法をよく心得ている二人だ。
こうして、ようやく三人は活人の房を出た。房を出たあと、活人は一度慌てて引き返し、筐から勝軍木の短剣を取り出して帯に差し込んだ。
当然のことながら、房の外は夜の暗闇に沈んでいる。その中を、豊鍬姫が生み出した仄かな灯りが進んでゆく。
それは一本の細い木の枝だ。木の枝はふつう勝手に明かりを灯さないが、豊鍬姫の紡いだ言霊の力で、すっかり自分を松明と信じ込んでいる。
仄かながらも確かに頭に火を灯した木の枝は、炎を揺らすたびに、ほっほっと威勢の良い声を上げた。
本当は自分がその松明を持ち先頭を行きたい豊城彦だが、木の枝は豊鍬姫の手を離れた瞬間、本当の自分を思い出してしまう。そのことはすでに実証済みだ。言霊の不思議さである。熟練の言霊師であれば、他者によって術が解かれるまで物体に魂を与え続けることができるが、豊鍬姫の術は、まだそこまで完成されていない。
「すこし、うるさいな」
最後尾に続く豊城彦が苦情を言った。
「静かにしましょうね」
豊鍬姫は木の枝に優しく話しかけたが、威勢のよさが松明の粋と弁えている木の枝は掛け声をやめなかった。すると豊鍬姫は微笑んで、
「静かにしないと、その細い首を折りますよ」
と、脅した。木の枝はたちまち静かになった。無邪気さがよけいに恐怖を駆り立てる、ということがある。このときの豊鍬姫がそれだ。
物怪に対して無邪気な無慈悲を備えた人物は、生身の人間からは頼もしく見える。活人は豊鍬姫の左手を両手でしっかり掴み、おどおどと辺りを見回しながらし歩いている。
光のあるうちは何ということもない見慣れた廊下も中庭も庇も軒も、夜に沈めばそこかしこの暗がりにこの世ならぬ妖魅が潜んでいるように思える。活人だけが特別に臆病なのでなく、むしろ同じ時代に生きる人の、それが平均的な感覚だ。それを嗤う者は、大気の中がすっかり人熱れで満ちてしまった時代の人間だろう。活人の時代の大気はもっと澄み渡り、精霊の息づかいが混じっていた。
それにしても見回したところで、呼見の術を身に着けていない限りは物怪に何の影響もなく、そもそも邸の外壁には破邪の呪飾がびっしりと施されているのだから、物怪が棲息できる屋内ではない。豊城彦はそう教えてやりたかったが、ひと声かけただけで飛び上がりそうにびくついている弟には声のかけようがなく、しかたなく勝軍木の短剣を振りながら最後尾を進んだ。
邸内は必ずしもすべて暗闇に満ちているわけではない。ところどころには、燈火がある。しかしその明るさの中には必ず夜番の御火焼がおり、彼らに見咎められれば、今宵の楽しい探検はそこで終了となる。三人は燈火を避けた。ときおり、活人がふらりと明かりに近づこうとしたが、そのたびに豊城彦に襟首を引っ張られた。
神倉の場所はわかっているが、難関は夜番の御火焼だ。神倉には磯城族に代々伝わる神宝が納められているから、当然、見張り番が夜どおし付いている。しかも、二人だ。
神倉の様子を伺うことのできる廊下の角で、三人は身を潜めた。
燈火の側に立つ二人の御火焼は、いずれも屈強そうな体つきをしている。氏上の子供だからといって甘やかすような面構えではない。活人としては、あの二人のおっかなげな立ち姿に兄と姉が諦めてくれることを期待している。
ところが、豊城彦はそんな軟弱な思考をしていない。
豊鍬姫の言霊の力は、札と呼ぶ小石や小枝などを使役して、人を驚かせるくらいのことはできる。だがあの二人はちょっとのことでは驚きそうにないし、万一驚けば、その仰天の声は邸中の人間の夢を破るだろう。
一考した豊城彦は、背負いの嚢を下ろして、小さな弓を取り出し、弦を張った。
豊城彦が御火焼に向けて構えたのは弾弓だ。矢ではなく、石などを放つ武具だ。放てるのは小石程度だが殺傷力がないわけではなく、当然、族人に対して害意を持っていない豊城彦は、石の代わりに、忘れ草の根を粉状にして団子型に練り丸めたものを放った。
忘れ草は、眠り草ともよばれ、睡眠導入の生薬ともなる。それを、燈火の中に射込んだ。
炎の奇妙な揺らぎに、二人の御火焼は目に警戒を灯したが、すぐに眼光がとろりと蕩け、二人はたちまち土を褥に眠り込んだ。
燈火に投じた忘れ草の煙が消えた頃を見計らって、三人は神倉に近づいた。活人は眠り込んだ二人の御火焼を気の毒げに見たが、幸い春の夜気にはそれほどの冷たさはない。短時間なら風邪をひかずに済むだろう。
豊城彦は神倉の扉に張り付いた。見張りの目は閉ざしたが、次は呪飾によって固く閉ざされた神倉の扉をこじ開けなければならない。豊城彦は嚢から一枚の布を取り出した。それはただの麻布ではなく、呪力が封じ込められた呪符だ。いつか霊廟に忍び込んだとき、こっそり拝借したものである。百襲姫の呪力に浸された祓除の呪符だから、威力は抜群のはずだ。
豊城彦は呪符を扉に押しつけた。すぐに手に波打つような感触があって、なぞるように、扉に施された幾何学模様の呪飾が浮かび上がった。
「開くぞ」
豊城彦が言ったとおり、扉がわずかに開くと、その隙間から、何か白いものがぬっと顔を出した。
鬼火か人魂のように見えたその白いものは、活人を無言のまま驚倒させたあと、まるで蝶や蜂が花弁に戯れるような身振りで豊鍬姫にまとわりついたかと思うと、ぱっと発火して、消えた。
「火産霊の赤ちゃんね」
飛び散った火の粉を両手で受けるようにした豊鍬姫は、人の呪力によって成熟していなかった火産霊を、赤ちゃんと例えた。
火産霊は、神倉に侵入する盗人を懲らしめるためのものではなさそうだった。その目的であったなら、火産霊はもっと凶暴なはずだ。
思い切って扉を大きく開けた豊城彦は、瞠目して驚いた。
神倉の中が、まるでそこにだけ小さな日が昇ったかのように明るい。
鏡だ。神倉に納められた白銅鏡が、艶やかな繍の布嚢を被されていながらも、なお明るく照り輝いていたのだ。
白銅鏡が発する霊異に三人は驚きますが、もっと驚くべき何者かが招き寄せられてきます。