山門編-初国知らす王の章(29)-吉備梟帥(8)
<これまでのあらすじ>
豊秋津島の青垣山籠もれる山門の国は、俳優の少年御統と黒衣の少女豊、そして多くの人の活躍と犠牲で厄災を乗り越えた。
纏向への遷都を山門諸族に受け入れられなかった天孫の磐余彦狭野姫は、宮処を去る。狭野姫を支えてきた手研は、愛する彼女を山門主としての正道に立ち戻らせるべく、あえて簒奪者を演じるが、磯城族の県主、入彦によって斃される。狭野姫は本当に愛すべき人が誰であったかを知る。
後悔から立ち直れない狭野姫は山門を去り、出雲へ向かうことを決意する。豊城彦、豊鍬姫、黒豹の如虎、そして葛城族の剣根が旅の仲間に加わる。狭野姫は生馬山の山中で天啓を授かり、日照と改名する。また、剣根にも新しい名、雄心を授ける。
日照たちは吉備を目前にして、大川に行く手を遮られる。豊鍬姫を母と慕う熊鷹の翔は、鷲を高天原の使いと崇める者たちによってさらわれる。日照たちは拐かした者たちの邑、日丘邑へ急行する。翔を拐ったのは忌瓮部と呼ばれる吉備人で、彼らの統率者は武彦と名乗る。彼は元山門人で、磯城族の入彦の大叔父であった。武彦は翔を返還し、日照たちを歓待する。
先代吉備主の遺児である阿曽姫は温羅という名の異邦人に吉備の支配を奪われ、故郷を逐われていた。忌瓮部は阿曽姫を護っており、彼女と恋仲となった武彦も吉備奪還の征途を企画していた。武彦には奇譚があり、山門に厄災を起こした剋軸香果実に関係していると確信した日照は、武彦に請われるまま、忌瓮部に助力する。
日照たちと忌瓮部は大川を渡る。対岸に埋められていた温羅の呪詛は祓ったが、大地から隆起した埴土兵に苦しめられる。豊城彦と豊鍬姫は埴土兵の弱点を知っており、日照の契約神霊である日霊の活躍により、埴土兵を撃破する。
渡河を終えた忌瓮部はもはや故郷を逐われた被迫害者ではなく、新しい吉備を創る開放者だった。新生吉備族は花見山で国見儀式を執り行う。旧首邑の美須邑には、吉備主の正統後継者の帰還を知って、温羅の吉備支配に疑問を持つ人々が集まっていた。一方、新生吉備族の動きを察知した温羅は弟の王仁に討伐を命じる。一軍を率いた王仁は新生吉備族を打ち破るが、それは武彦の筋書き通りであった。
≪是非ご一読ください。ご感想、ご評価をいただけましたら幸いです。≫
<人物紹介>
豊城彦
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。
豊鍬姫
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。
入彦
磯城族の氏上。厄災を乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主。
美茉姫
入彦の妻。明るい美しさの女性。淑やかであり、闊達でもある。
活人
入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。
大彦
入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。
石飛
磯城族の青年。入彦の舎人。
百襲姫
磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。
翠雨
入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。
如虎
黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。
翔
豊鍬姫になついている熊鷹の子。
日照
旧名は狭野姫。かつて天孫族の氏上であり、磐余彦を号して山門主であった。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。
手研
故人。狭野姫の年上の甥。狭野姫が唯一甘えられた人物。入彦に狭野姫を託して逝く。
珍彦
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
道臣
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
吾曽利
天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。山門近傍に潜伏し、捲土重来を期す。
太忍
葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。
雄心
旧名は剣根。太忍の庶子。過去の所業を悔やみ、日照の従者となる。
五瀬
故人。狭野姫の長兄であり、手研の父。高千穂族とともに東の真秀場を目指し、天孫族を号する。初代の天津彦。
五十鈴媛
五瀬の後妻。出雲族の出身で、製鉄技術者集団と縁が深い。手研にとっては、同年代の継母。
香魚
両性具有の人。神々も魅了する美しい瞳を持っている。
武彦
齢は古老であるはずだが、見た目は壮年。かつては磯城の颱と恐れられた暴れん坊。
真守
武彦に心酔する剣の達人。忌瓮部であり吉備人。
温羅
出雲人。直会の呪術で吉備の支配を目論む。
王仁
出雲人。温羅に忠実な弟。剛力無双。
<用語>
高天原:天上世界
豊秋津島:物語の舞台
葦原中国:豊秋津島の別名
山門:豊秋津島のほぼ中央に位置する地方
青垣山:山門の周囲を囲む山並み
筑紫洲:豊秋津島の西部にある大きな島で、白日、豊日、建日、日向の四地方を持つ
真:西の海の果ての大陸にある巨大帝国
氏上:一族の族長
天神地祇:八百万の神々
祖霊:祖先の霊魂 氏上は死ぬと神上がって祖霊となる
精霊:森羅万象に宿る魂
魑魅:山林の異気から生まれた邪霊
厄災:山門を呪いによって支配していた饒速日の体制を瓦解させた大災
剋軸香果実:高天原の神々が下界に投げ捨てた邪心が凝固したもの いつか高天原に帰ることを望み、時を戻す霊力を蓄えるため大地に寄生して石の花を咲かせる
俄雨のように生じた小さな騒ぎは、たちまち霊畤全体を揺るがす嵐となった。
相嘗大会に参集した元吉備族に紛れ込んでいた新生吉備族は、一斉に立ち上がるや、駆け出し、呪いの白煙を吐き出す円筒器台を蹴り倒して破壊した。
この騒ぎで、恍惚状態になっていた元吉備族の大半が覚醒した。しかし意識は醒めても、体が動かない。突如として生じた騒動への戸惑いと恐怖が四肢をすくませたこともあるが、白煙と共に吸い込んだ温羅の呪いが、彼らの身体に甘い痺れを残している。いわば夢のさなかで目覚めたときの金縛りに近い。
次々と円筒器台が破壊され、新生吉備族が隠し持っていた短剣が秋の日射しにきらめきながら丘を登ってくる。短弓から放たれた矢が、高座の周囲に張り巡らされた結界に弾かれる音が連続した。
温羅は呪言にこめる言霊に呪力を集中させた。高座の周囲に配置した五枚の巨岩は無傷であり、丘の中腹まで登っていた新生吉備族は、増幅された呪術の波を浴びて昏倒した。
新生吉備族の祝や巫、そして多少の呪能を持つ者たちが祓除を試みるが、巨岩の結界により増幅された温羅の圧倒的な呪力で圧し潰されることを防ぐのが精いっぱいだった。
何人かの新生吉備族の目に、日が陰ったように見えたのは、大きな影が跳躍したからである。
武彦だ。丘を駆け上がった武彦は、樫の棍棒を跳躍とともに振り上げて、渾身に振り下ろすや、巨岩の一つを打ち砕いた。
「磯城の颱様のお出ましよ」
己が砕いた巨岩の瓦礫を浴びながら、武彦が雄叫びをあげた。
高座の結界が消滅した。新生吉備族の放つ短弓の矢が、温羅の足元近くに突き立つようになった。
激しく舌を鳴らした温羅は、呪言の類を変えた。人を幻影の神霊に邂逅させる直会の呪術いから、現実の死神に直面させる凶害の呪詛に切り替えた。
温羅の周りには数面の鏡が据えられている。その鏡面が不気味に波打つと、高座の上方に暗雲が疫癘のごとく滲み出て、忽ち八種雷が現れた。
「神鳴りの霆を穢しし咎人輩を打ち据えよ」
言下に稲光と雷鳴が錯綜し、新生吉備族の兵たちを撃ち払った。
「悪あがきをするな!」
武彦の怒りも凄まじい。彼の怒気は雷火をかき消し、彼の前に立ち塞がった火雷は棍棒の一撃に霧散した。
武彦の壮絶な気迫を目の当たりにした温羅は、さすがにたじろいだ。その一瞬の合間に、温羅はこの人物を見誤っていたことを了知した。
忌瓮部と呼んで軽視していた負け組に異邦人の助太刀があったことは報告に聞いていたが、視点の角度を変えることをしなかった。まさか相嘗大会にまで攻め込まれる事態にまでなろうとは考えなかった。不覚を取ったことは認めつつも、狼狽えはわずかの間に自嘲に変じ、己にしろあの棍棒を振るう大柄の助っ人にしろ、異邦人に吉備の天地の命運を託すとは、吉備を受け持つ天神地祇はよほど多忙であるのか無責任であるのかのどちらかであろう、と笑う余裕も生まれたのであるから、温羅という男は強かである。
「玄古に天の御柱立てし土の底根に生れし汝 ら千引磐、寝起 (ねおけ) け、隠所 (こもりく)、倍 (つかなぎ) 持て、隠所」
温羅が逆手 (さかて)を打ちつつ言霊を唱えると、丘を鳴動させて大岩が立ち上がった。逆手は 手の甲を打ち合わせる柏手で、呪力を高めるしぐさである。なお、 隠所とは奥深い山々を示す言葉だが、死者の霊魂が籠もる場所でもある。温羅は己の言霊だけでなく、死者の霊魂をも呼び寄せて磐に魂を宿したのだ。
目無し口無しに厳つい三本脚。石の棓を振りかぶったごつごつの腕。武彦が目の当たりにした磐 (いわお) の軍士 (いくさびと)の姿がそれだ 。|
「薄鈍の磐醜男 (いわしこを)ごときが吾の前に立つでないぞ」
一喝で退けようとしたが、 巌の軍士は、上腕に筋肉が隆起した武彦の渾身の一撃を、易々と受け止めた。ただの磐であれば武彦の棍棒でたやすく砕けるが、魂を宿せば岩石の肉体も不屈を知るようだ。
「ええい、うるさいやつだ」
武彦は巌の軍士と撃ち合ったが、埒があかない展開にいらだった。なにしろ巌の軍士はまだ三体いる。実は一体とはいえ、巌の軍士と互角に戦っている武彦が超人なのであり、残り三体の巌の軍士は丘を駆け上ってくる新生吉備族を次々になぎ倒した。
己の前に強力な障壁を造りだした温羅は、矢の音も遠ざかり、早くも勝ち誇りの高笑いを始めた。高見に位置する彼の視界には楯築の地形が納まっており、丘の麓の様子が一望できる。
温羅とその手下にとっては、野に出没する魑魅のごとく涌いた新生吉備族も、冷静な目で見ればその数は数百であり、彼らの最大目標であるはずの温羅には巌の軍士が強固な壁となって届かず、撹乱して逃げ散らかすはずだった民衆は、温羅の直会の呪いによって甘い痺れから脱しておらず霊畤に留まっている。さらに、温羅の目には、彼方から猛然と駆けつけてくる一団の黒々とした影が見えている。
「すんなりとはいかぬものだな」
飛矢を叩き落とす雄心に焦りが生まれている。急襲は時間をかけてはならない。温羅の主力部隊はいない阿曾姫の幻影を探して吉備北部を徘徊しているが、ここにも体制を整えさえすれば十分に新生吉備族を押し返せるだけの兵力がある。現に、当初は混乱していた敵が、今は組織的な抵抗に転じている。組織的な抵抗が組織的は攻勢へと移るのに、それほどの時間は要しないだろう。飛矢も、的確に新生吉備族を死傷させはじめた。
雄心は傍らを見た。そこに光源のように佇む眩しい人がいる。日照だ。彼女は、平静とした表情で全体を見つめている。日照には、今この時よりも激しい死闘の場をくぐり抜けた経験がある。矢が空を切る音も、矛と矛が奏でる音も、人が斃れる様も、日照の恐怖をいささかも呼び起こさない。彼女の神々しいまでの沈着な立ち姿は、劣勢を感じ始めた新生吉備族にとっては、まさに光源であった。
「この人は、必ず護り通さねばならぬ」
厳しく己に言い聞かせた雄心は、矛で突きかかってきた敵を、剣で瞬く間に撃退した。
「日女様は必ず守るからね」
この場にそぐわない元気で幼い声をあげたのは豊城彦と豊鍬姫だ。礫と火霊の子どもを使って日照を守っているつもりだが、実は二人を如虎が護っている。熊鷹の翔は如虎の背中で大人しくしているが、もし誰かが彼が母と慕う豊鍬姫に危害を加えようとするなら、鋭い嘴でその敵を襲う腹積もりにしている。
豊城彦と豊鍬姫の健気な声を聞いた日照の頬が、微かに緩んだ。その微笑みを見た雄心は若干のゆとりを取り戻した。
「お前にも働いてもらわないとな」
雄心は腰に提げた鏡にむけて呟いた。水紋と星雲が鋳込まれた葛城族の宝鏡には、彼の友人が棲んでいる。緑みがかったその鏡は父から譲られたものであるが、かつて感じていた、父であり葛城の氏上である太忍の重圧はずいぶん薄まっている。それどころか、かつて感じたことのない父の愛情すら、ほのかな陽炎となって立ち昇るときさえある。ともあれ、今は感傷のときではない。
緑水鏡の鏡面が波打つと、たちまち四つ腕の猩猩が勢いよく現出した。雄心の契約神霊であり、親友である戯だ。彼は、近頃、あまり活躍できておらず、鏡の中で落胆していたが、ここは名誉挽回の機会である。
雄心は戯に、巌の軍士に苦戦している武彦を指し示した。実際のところ、翔を拉致し、最悪の場合、日照に危害が及びかねなかった事態を引き起こし、今またこの危険な場所に日照を巻き込んだ新生吉備族とその首魁である武彦に、雄心はあまり良い印象を抱いていない。しかし、個人の好き嫌いを比較している場合ではない。
「あの馬鹿力だけが取り柄の男に恩を売りつけてこい」
言下に、戯は駆け出した。その後ろ姿に、
「そろそろ見せ場をつくれよ」
と、雄心が激励か揶揄かわからぬ言葉を投げかけると、戯は頭頂あたりから白い湯気を吐いた。どうやら、発奮したらしい。にやりと笑った雄心は、いきなり目の間に三本の矛が突き出されて仰け反った。どうやら包囲されつつあるようだが、三本の矛は、横から伸びてきた剣によってたちまち叩き落された。
「惚けるな。死ぬぞ」
真守だ。彼は、阿曽姫を護っている。楯築の丘の頂の高座から温羅を追い払い、阿曽姫が神楽を舞って、その清浄な呪力によって、温羅の不浄の呪いに幻惑された人々を覚醒させ、解き放つ。それがこの奇襲の最終目標であるが、その達成は困難になりつつある。
「誰が惚けるか」
雄心も敵兵を打ち倒す。雄心と真守と如虎は、日照、阿曽姫、豊城彦、豊鍬姫を中心に置き、その周りを円を描くようにして移動しつつ、敵の攻勢を防いでいる。温羅の手下が放つ矢は容赦なく、四肢の痺れで身動きの取れない無防備の人々を次々に射倒した。
そんなとき、更なる悪運が到達した。
王仁だ。
武彦にも匹敵する強暴な攻撃力を持つ男が、兄である温羅の命に忠実に従い、数人の手下を連れて駆け戻ってきたのだ。王仁が振るう矛に殴り飛ばされて、敵味方、そして無辜の人々が区別なく、暴風に巻き上げられるようにして宙を舞った。
「なんだあれは」
雄心と真守は同時に度肝を抜かれ、同時に絶対に近づけてはならない敵だと認識した。
雄心はわずかに丘の頂の戦いに目をやった。不利な状況に変わりはないが、戯が加勢したことによって、いささかなりとも押し返している。一体の巌の軍士は武彦が破壊し、戯が一体を翻弄している。残り二体を武彦と新生吉備族の男達が支えている。
雄心と真守は同時に目配せした。だが、互いに躊躇がある。
「わたくしたちのことは案ずることはありません。これくらいのことは、わたくしたちであしらえます」
悠然とした態度をみせている日照は、微笑みと気持ちを昂ぶらせるような音調で、雄心と真守の背中を押した。確かに、この顔触れでもっとも戦歴豊かなのは日照である。
「あのでか物をさっさと片付けるとしよう」
雄心と真守、そして如虎は駆け出した。
「おっ、二人と一匹がかりだな」
王仁は、むしろ嬉しそうに両手を大きく広げて、勇ましくも立ち向かってくる者を迎えた。片手に握られた矛は、すでに血を滴らせている。
王仁の振るう矛がうなりを巻いて襲いかかる。それを避けた二人と一匹は、雄心は跳躍して頭部に斬りつけ、如虎は低い姿勢から王仁の脚に噛みついた。 一旦退いていた真守は、 王仁が雄心と如虎を払い除けた隙を突いて、切っ先を突き出したが、矛の柄に防がれた。 思いのほか、王仁は俊敏である。
「それなりに動くのだな、このでか物」
「大男の小回り上手というやつだ」
感心したのか小馬鹿にしているのかわからぬ感想を、雄心と真守は交換した。並んで如虎も所感を述べたようだが、あいにく二人には獣の欠伸のようにしか聞き取れなかった。
「はははっ、怖じ気づいたようだな」 -
一旦退いた二人と一匹に、王仁は勘違いの優越感に浸った。気を良くしたらしく、頭上で回転させる子が砂塵を巻き上げ、そのまま上空へ飛んでいきそうな勢いだった。
王仁の独り善がりぶりにあきれる思いの雄心と真守だったが、そろそろ本気を出して対処する必要性は共有した。
王仁は暴力を具現化したような凶暴な武人であったが、剣の達人を二人同時に相手にすればさすがに分が悪く、防御に手一杯だった。しかも俊敏な動きと鋭い牙爪を持つ獣が、隙をついて軽傷を負わせてゆく。
「ええいっ、 仲良しどもめ!」
王仁はそう吠えたが、仲良しは責めるべきことでもないなと気づき、やり場のない苛立ちで地団駄を踏んだ。
そんな感じで、王仁は押され気味だが、全体として、急襲した新生吉備族の優位は既に失われている。
武彦を先頭にして丘の頂に攻め上がった新生吉備族は、 巌の軍士と温羅の八種雷に苦しめられ、撃退されかけている。 特に危惧すべきは、日照と阿曽姫を取り囲むように敵兵が群がり始めていることだ。温羅の手下共は、一時の混乱から立ち直ると、むさ苦しい大男と四つ腕の猩々の化け物、人当たりの悪そうな剣の使い手と黒毛の獣、美女二人と子どもの組み合わせを見比べ、役得が多そうなところへ集まったのだ。特に美女二人は絶世といってよく、陵辱するなら早い順番が良いと邪想を描いている悪党もいる。それに童子二人も、男童は腕白で面倒くさそうだが、女童は十年も待てば絶世の仲間入りをしそうではないか。
卑猥で醜悪な視線を浴びた阿曽姫は怖気を震い、豊鍬姫は嫌悪の眼光で睨み返したが、二人の隣で日照は平然としていた。
「さて、そろそろおしまいにしましょうか」
面白みのない会合を切り上げるときのような口調でそう言った日照は、阿曽姫に優しい笑みを向けた。
「風招きの呪願をお教えしましたね。覚えておられますか」
日照の声は鐸音のようであり、その澄とした響が阿曽姫から怯えを消した。
「もちろんです」
「では、共に致しましょう」
日照と阿曽姫は半眼となり、言霊を紡いで音色を調和させた。
「疾風ゆるゆると、科戸風さらさらと、来たりませ、集いませ」
日照は低々と、阿曽姫は高々と言霊を大気に浸潤させてゆく。
彼女たちに舞踏をせがむかのように砂煙が舞い上がり、それはたちまち旋風と化し、さらには大風となった。彼女たちを取り囲んでいた男達は、あるいは卑猥な願望ごと吹き飛ばされ、あるいは邪想ごと切り裂かれた。悲鳴を上げて敵兵が退き、彼女たちの周囲から邪念が一掃された。
日照は衣の内からおもむろに真金鏡を取り出し、日霊を呼び出した。
白光とともに現出した日照の契約神霊は、羽ばたき一つで、背に乗せた日照、阿曽姫、豊城彦、豊鍬姫を上空へと運んだ。
まるで真昼の流星のように、光の尾を引いて楯築の丘の頂へと飛行する日霊の姿は神々しく、降りしきる白光の雫の美しさに、敵味方問わずに目の当たりにした全員が心を奪われた。
温羅も斎主の端くれである。荘厳な光景に打ち震える胸は持っている。日照と阿曽姫とが高座に舞い降りる様の崇高さはまさしく降臨であり、迂闊にも彼は見惚れてしまった。
高座に降り立った阿曽姫が円を描くように両手を挙げたとき、その挙措にあわせて大気が吸い上げられたように感じた。己の魂すら吸い寄せられるかのような蠱惑があった。阿曽姫の両手が振り下ろされることによって始まる神楽は危険である。そう感じとった温羅の本能が彼に咄嗟の行動を取らせた。
温羅が呼び出していた八種雷のひとつ、裂雷が放った雷光が阿曽姫を襲った。雷霆が高座を打ち据え、土造りの高座の一角が崩れ落ちた。
雷撃の直撃は、日照の反射的な行動により阿曽姫は避け得たが、雷刃は彼女の左腿を裂いた。
阿曽姫の花衣が破れ、白い腿が露わとなり、たちまち鮮血に染まった。
苦痛に顔を歪めた阿曽姫を日照が支え、すばやく日霊を呼んだ。深い傷ではないと診た日照は、それでも神楽は無理であると判断し、降下した日霊の背に阿曽姫を乗せるや、彼女の腿を衣で縛るように豊城彦に命じた。
大人でも躊躇する状況で、豊城彦は落ち着いて処置した。
日霊が再び上昇し、崩れかけた高座に、日照がひとり残った。
日照は両手をしならせ、頭上高く、伸びやかに構えた。彼女が神楽を舞うのである。
それは阿曽姫以上に危険であると察知した温羅は、再び裂雷に雷撃を命じようとした。しかし、ここを勝負どころと見た戯が飛び込んできた。裂雷を殴り飛ばし、余勢を駆って、温羅に体当たりした。戯と温羅はもんどり打って丘の頂から転げ落ちた。この時点で、勝敗は決した。
凛とした音色が大気に走った。日照の舞いが天地を蕩かすのだ。
日照の吐息が大気に真空を広げ、楯築の霊畤を静寂に沈めてゆく。この場に存在する者は、敵味方を問わず、矛を交える者も、直会の呪いに縛られている者も、巌の軍士を砕こうと奮戦する大男も、満身創痍になりながらまだ戦意旺盛な怪力も、二人の剣士も、黒毛の獣も、皆、背骨に厳粛な気を流されたように直立不動となり、意識も眼差しも、高座に立つ一人の舞姫に奪われた。
鈴の音が滔々と流れる。いつの間にか高座の傍らに降りていた豊鍬姫が、日照の舞に調子をあわせ、鈴を奏でている。それは熟練の巫か斎でなければ出せない妙なる音色であるはずであり、その妙技を誰にも驚きを与えずにこなしながら、豊鍬姫は、日照の一挙手一投足を見逃すまいと、網膜でなく心思に焼き付けようとした。
日照は誰のために舞を舞うのか。神楽というからには、天神地祇のためだろう。だが、それだけでない魂の波動がある。天を指す指先には崇厳があり、舞台を払う足先に慈愛があり、四肢の間の小さな宇内には深い寛容がある。彼女の舞は幽玄の美しさのなかに生命力を灯す舞いである。真空に生む波動には幾重もの層があり、そのひとつは神々に向かうものだが、衆人へ向けられたもの、生きとし生けるものに向けられたものがある。あえて云えば、日照の舞は、森羅万象、この時だけでなく、過去の悔やみも、未来の希望も、すべての事象とその軌跡とを言祝いでいる。だからこそ、この抗うべきでない感動の鎖と、覚めるべきでない甘美な恍惚に、誰もが、神々でさえも、そして吉備を奪い取ろうとした野心に溢れる者をも浸らせ、今このときにすべてを忘れさせ、ただ彼女の舞を見続けさせているのだ。言葉にできずとも、豊鍬姫の幼い瞳に映る光景は、彼女の心思にそう学ばせた。
呪能に秀でた者であれば、日照に寄り添うように、共に舞うように群がる幾つもの光の玉が見えることだろう。それが天神地祇や祖霊、精霊である。いや、彼女の舞に恍惚となった人々には、神々の姿そのものが見えたことだろう。
窈窕に、情熱的に、官能的に、烈しく、軽やかに、そして妖艶に、日照が描き出す神楽の物語は展開されてゆく。彼女の舞いに魅了されたすべての霊魂は、いま、彼女の両手の中に握りしめられ、彼女の小さな宇内の中で安らいでる。
日照の両手が虚空を撫でるたびに、両足が颯爽と運ばれるたびに、柳腰が艶めかしく揺れ動くたびに、彼女の小さな宇内から生命力が解き放たれてゆく。
実際、霊畤の整備により、草木が伐採されていた丘の地肌に、草花が芽吹き、灌木が背を伸ばして大輪を咲かせ、蔦が絡まって菽を実らせた。土色の風景がにわかに色めいた。しかしその奇跡を奇跡と気づかせない神奇が、日照の神楽であった。
楯築の丘に施された温羅の呪いの全てが洗い流された。神楽を舞ううちに忘我の境地に至った日照は、地から萌え出た大樹の若木が、枝葉を繁らせて天を目指すような姿で、時を止めたかのように静止していた。
心を洗浄され、吉備人としてのもとの心を取り戻した人々は、絶頂の時を終えると、しばし放心した後、万雷の歓声を挙げた。その感激と感謝の声は、日照の止まった時を氷解させ、我に返った日照は、さすがに疲れ果て、高座に伏した。上空で日照を見守っていた日霊が高座に舞い降り、労るように白光の翼で日照を覆った。
歓喜の声は止まない。彼らの熱気が風を呼んだが、これほど清々しい風を感じるのはしばらくなかった。
武彦は高座の下に歩み寄り、日照をかいがいしく介抱する阿曽姫と目語して、頷き合った。
丘の麓には歓呼の声が押し寄せている。この日、吉備は解放されたのだ。だが感慨無量に浸るには、もうひと仕事を終えねばならない。
「栄耀のときは儚いものだな」
地にひざまずく温羅の眼前に、武彦は樫の棍棒を置いた。巌の軍士を砕いた棍棒だ。生身の温羅を砕くことなど造作ない。
「まことに美しいものを見た。それも間近にな。今どき運の良いことだと思わぬか」
吉備を簒奪しようとした悪人とは思えぬ目で、温羅は武彦を見上げた。この男にはこの男なりの信念があったのであろう。武彦は温羅を見直す思いだったが、許すわけにはいかない。
「ほう。この樫の棓が汝の頭を砕く前に自ずと裂けたれば、たしかに汝の運はよい」
武彦が言い終わらぬうちに、温羅の目の奥に再び光が揺らめいた。挫けることのない野心の光である。
武彦が振り上げた棍棒が頭に落ちるよりも早く、温羅は衣の下から鏡を取出した。彼の奥の手がそれだ。
青みがかった色の銅鏡で、背面に渦のような波紋とその中心に神仙を乗せた大魚の姿が鋳込まれている。その鏡面から人を呑むほどの大魚が現れた。
「鯉だとっ!?」
小札のような頑丈な鱗と、刃のような鰭を持ち、大きく開けた口には鋭い歯が並んでいる。どこかからか噴出した大量の川水を浴びながら、その噛みつきを間一髪で躱した武彦だが、吉備の元凶を退治する機会からは遠ざかった。
「ははっ、こいつは登鯉という名だ。見知りおけ」
捨て台詞を武彦に投げつけた温羅を背に乗せた登鯉は、川水を噴出させながら、衆目が呆気にとられるなかを、あっという間に丘を滑り下った。途中で弟の王仁を拾い、そのまま野末に消え去った。
幕切れはどこか滑稽なものであったが、ともかく、吉備は正当を取り戻した。武彦が勝鬨を上げると、新も旧も、すべての吉備人がそれに呼応した。
ここに吉備は奪還され、阿曽姫は正統の吉備主として迎えられることになったのである。その最大の立役者である武彦は、その若々しい容姿と旺盛な活力を名に冠し、稚武彦として吉備人に称えられることとなった。
古代の浪漫は汲み尽くすということがありません。そのときに生きた人々は何を希い、何を志し、何に苦しみ、何に喜んだのか。そのことを想うだけでも、時間はあっという間に過ぎ去ってしまいます。
現代の人が古代を知るためのよすがとなるのが文献です。ですが、我が国独自の文献として最古のものは日本書紀であったり、風土記や万葉集など、奈良時代以降に記述されたものです。後漢書東夷伝や魏志倭人伝に記された我が国の情報は、いわば又聞きのようなものであり、真実の姿かどうかはわからないと思います。
中国の古代人ほど歴史に関心がなかった我が国の古代人の生活や思想を知る術は、遺跡です。
最も古い年代と推定される遺跡は群馬県の岩宿遺跡や、最近注目されている長野県の香坂山遺跡です。約35000年を遡る石器が発見されており、想像もつきません。その二つの遺跡が隣接する県に存在するという事実が興味をかきたてます。さてさて、どんな真実があったのか。
その二つの遺跡ほど古くはないですが、今回のお話の舞台とさせてもらったのが、岡山県にある弥生時代後期と推定されている楯築遺跡です。
残念ながらまだ楯築遺跡を訪問したことはありませんが、私の想像力など遥かに凌駕する真実が眠っているに違いありません。いつか訪れて、少しでも古代の人々との交信ができればいいなと思います。




