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山門編-初国知らす王の章(26)-吉備梟帥(5)

<これまでのあらすじ>


 俳優わざをきの少年と黒衣の少女、そして多くの人の活躍と犠牲で厄災まがごとを乗り越えた山門は、再び多難の時を迎えている。


 天孫あめみま磐余彦狭野姫いわれひこさのひめは、彼女を支えてきた手研たぎしの諫言をしりぞけて、纏向まきむくへの遷都を宣言する。山門の諸族は紛糾し、誓約うけひの結果は凶と出て、狭野姫は橿原宮を去る。手研は天孫族を実効支配する。それを政変クーデターと見なした葛城族の太忍は山門から離脱し、南方の諸族を取込む。一計を案じた手研は狭野姫と入彦を片丘の邸へ招く。


 片丘の邸で、手研は天孫族と山門の運命を選ぶ決断を狭野姫に迫る。狭野姫に覚悟させるべく、手研の剣が狭野姫に迫ったとき、入彦の放った矢が手研を貫く。狭野姫は本当に愛すべき人が誰であったかを知る。指導者を失った天孫族は勢力を失い、捲土重来を期する者、故郷の高千穂を目指す者、狭野姫を慕って纏向に向かう者に分裂した。後悔から立ち直れない狭野姫は、纏向の宮居に籠もる。入彦は足繁く纏向へ通うが、彼女を深い悔恨の淵から救い上げることができないでいた。ある日、狭野姫の失踪を珍彦に告げられた入彦は、思い当たる場所へ急ぐ。珍彦は狭野姫の失踪を秘匿するべく、天手力雄あめのたぢからおの霊力で宮居を巨岩で囲み、狭野姫は天の岩戸に籠ったとを人々に告げる。


 狭野姫は旅立ちを決意し、入彦との思い出の残る鳥見山の霊畤まつりのにわを出発の地とする。彼女の心情を知る入彦は、豊城彦と豊鍬姫を連れて鳥見山へ向かう。霊畤で狭野姫と入彦は思い出を追懐し、共有するが、叙情は秘めたまま相互の門出を祝福する。豊城彦と豊鍬姫は、狭野姫と共に旅立つことを請う。狭野姫と豊城彦、豊鍬姫の旅立ちを見送った入彦は、三輪山を訪れ、黒豹の如虎に、狭野姫たちの護衛を依頼する。瑞籬邑に戻った入彦は、兄と姉から取り残された活人の傷心を慰める。


 出雲を目指す狭野姫一行は、黒豹の如虎と、そして意外な人物である葛城族の剣根を護衛に加える。豊鍬姫が母親代わりに育てる熊鷹の翔は、かつて剣根が操る妖怪あやかしあざれに親鳥と兄弟を殺されており、豊鍬姫はその罪悪を剣根に突きつける。剣根は赤心を示して謝罪し、狭野姫が豊鍬姫たちの怒りと疑いを預かることで、豊鍬姫は剣根の同行を受入れる。


 狭野姫一行は山門を囲む青垣山の一峰、生馬山の山径を行き、孔舎衛坂の古戦場に至る。そこで天を祀り、地を祓った狭野姫は、天神地祇から新たな名、日照ひなてるを授かる。日照は剣根にも新たな名、雄心をごころを授かったことを告げる。


 その頃、異彩にして高貴な風姿の人物に率いられた麗しい装いの集団が、孔舎衛坂を山門へ向けて登っていた。彼らはかつての天孫族のように、山門に変革を、しかし天孫族よりもはるかに穏やかにもたらす集団であったが、そのことを先頭の人物の風韻にわずかに感知したまま、日照一行はその集団を見送る。


 出雲を目指す日照一行は大川に行く手を遮られる。川の向こうは吉備。日照と雄心が渡河の手立てを探っている間、豊城彦と豊鍬姫は翔と戯れる。大空を飛翔したくなった翔は、二人のもとから離れる。二人は翔を追いかけるが、鳥を高天原の使いと崇める者たちによって、翔はさらわれてしまう。危急を告げられた日照と雄心は、さらった者たちの邑をつきとめた豊城彦と合流して邑に乗り込む。


 その邑の者たちと、吉備の新勢力との間で争いがあることを、日照たちは知らない。


  ≪是非ご一読ください。ご感想、ご評価をいただけましたら幸いです。≫



<人物紹介>


 豊城彦とよきひこ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。


 豊鍬姫とよすきひめ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。


 入彦いりひこ

 磯城族の氏上このかみ厄災やくさいを乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主あがたぬし


 美茉姫みまつひめ

 入彦の妻。明るい美しさの女性。しとやかであり、闊達でもある。


 活人いくめ

 入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。


 大彦おおひこ

 入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。


 石飛いわたか

 磯城族の青年。入彦の舎人とねり


 百襲姫ももそひめ

 磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。


 翠雨あおさめ

 入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。


 如虎にょこ

 黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。


 かける

 豊鍬姫になついている熊鷹の子。


 日照ひなてる

 旧名は狭野姫さのひめ。かつて天孫族の氏上であり、磐余彦いわれひこを号して山門主であった。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。


 手研たぎし

 故人。狭野姫の年上の甥。狭野姫が唯一甘えられた人物。入彦に狭野姫を託して逝く。


 珍彦うずひこ

 狭野姫の忠臣。手研の盟友。


 道臣みちのおみ

 狭野姫の忠臣。手研の盟友。


 吾曽利あそり

 天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。山門近傍に潜伏し、捲土重来を期す。


 太忍ふとに

 葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。


 雄心をごころ

 旧名は剣根つるぎね。太忍の庶子。過去の所業を悔やみ、日照の従者となる。


 五瀬いつせ

 故人。狭野姫の長兄であり、手研の父。高千穂族とともに東の真秀場まほろばを目指し、天孫族を号する。初代の天津彦あまつひこ


 五十鈴媛いすずひめ

 五瀬の後妻。出雲族の出身で、製鉄技術者集団と縁が深い。手研にとっては、同年代の継母。


 香魚あゆ

 両性具有の人。神々も魅了する美しい瞳を持っている。



<用語>


 高天原たかまがはら:天上世界


 豊秋津島とよあきつしま:物語の舞台


 葦原中国あしはらのなかつこく:豊秋津島の別名


 山門やまと:豊秋津島のほぼ中央に位置する地方


 青垣山あおがきやま:山門の周囲を囲む山並み


 筑紫洲つくしのしま:豊秋津島の西部にある大きな島で、白日しらひ豊日とよひ建日たけひ日向ひむかの四地方を持つ


 しん:西の海の果ての大陸にある巨大帝国


 氏上このかみ:一族の族長


 天神地祇あまつかみくにつかみ八百万やおよろずの神々


 祖霊おやたま:祖先の霊魂 氏上は死ぬと神上かむあがって祖霊となる


 精霊すみつたま:森羅万象に宿る魂 


 魑魅すだま:山林の異気から生まれた邪霊


 厄災まがこと:山門を呪いによって支配していた饒速日にぎはやひの体制を瓦解させた大災


 剋軸香果実ときじくのかぐのこのみ:高天原の神々が下界に投げ捨てた邪心が凝固したもの いつか高天原に帰ることを望み、時を戻す霊力を蓄えるため大地に寄生して石の花を咲かせる

 大川が近いからか、土器かわらけには水の恵みが多く盛られていた。鮎、鱒、鰻に山女魚、大皿には鯉が、今、川から揚げられたという瑞々しい肉付きで横たえられていた。


「鯉の刺し身はうめぇぞ」


 奨めながら、一箸で半身ほどを掻っ攫った大男は、その魁偉な姿で豊城彦を慄かせた人物である。


 山の幸もふんだん盛られており、鹿肉、猪肉、団栗の麺麭パンがところ狭しと並んでいる。


「食い過ぎごろしにするつもりかしら」


 と、豊鍬姫は山葡萄を口に運びながら、歓喜の左目で並べられた料理を見、疑いの右目で大男を睨んでいる。


「それにしても、こんなところで大彦の甥孫おいまごと出会うとはな。これも祖霊おやたまの思し召しということか」


 ひとり感じ入っている大男は、すでに武彦たけひこと名乗っており、素性も明かしていた。翔をさらった男、真守も武彦から紹介済みで、彼は主と仰ぐ武彦の縁者に対して失態を働いたことを反省し、部屋の隅で居住まいを整えていた。


 夜はとっぷりと更け、邑内は平穏を取り戻していた。


 門前での諍いは、豊城彦の一言で友好へと移ろった。


「大彦の大伯父さんみたいだ」


 武彦が抜群の威圧感で争いの渦中に現れたとき、その大熊のような姿に仰け反った豊城彦が、思わずそうつぶやいた。それを聞き逃さなかった武彦の態度が急変した。


「あの腕白めの血縁うからか」


 山門では泣く子が卒倒すると怖れられる、歩くあかしまの大彦を腕白よばわりした武彦は、それこそ暴風のような笑い声を発して、戦闘態勢の邑人たちに命じて、客人のもてなしを支度させた。ちなみに颱とは、暴風の意だ。


 豊鍬姫としては翔をさらわれた恨みを忘れた訳ではないが、並べられた山川の珍味を、実は自分のために用意させたのではないかと疑わしい豪快さで口へ運ぶ武彦から害意は感じられない。


 何より当の被害者である翔が兎の肉を美味しそうに啄んでいるし、如虎も鹿肉にかぶりついている。


「しかしながら武彦殿、腑に落ちぬことがございます」


 平瓮に盛り付けられた瓜の実を摘んだ日照は、その手を口元に運ばず膝下に留め、冷静に思案する目を武彦へ向けた。きっぷの良さげな武彦の背景に悪意を見て取ろうとするわけではないが、弓矢と矛の馳走がとたんに美物いおの料理へと化けたなら、納得いくまでは慎重であるべきだ。


「なにかな、麗しのお方よ」


 嬋娟せんけんなる日照の眼差しは、たとえ疑いを含んでいても歓迎したい。そう言いたげな武彦の目元の柔らかさだ。


「御身が磯城の大彦殿の叔父上に当たられるのなら、少々、年格好が釣り合わぬのではないでしょうか」


 遠回しな言いぶりだが、要は若すぎると日照は言いたいのだ。


 大彦の父は国牽くにくるであり、災厄まがごとを封じ込めるための尊い犠牲となった。国牽の父は太瓊ふとにであり、かむあがって三輪山の大物主に神上かむあがったとされる人物だ。


 武彦が大彦の叔父であれば、磯城族の現氏上である入彦から見れば二世代前の人であり、少なくとも六十代後半のはずだ。ところが現実の武彦は、どう見ても二十代後半の壮健さに見える。


「なるほどな。だがわれは若作りに勤しんでいるわけではない。吾は親父の末の子よ」


 太瓊の晩年の子であると武彦は言う。甥よりも若い叔父がいないわけではない。現に日照が狭野姫を名乗っていた頃、甥の手研は彼女の年上であった。それでも、武彦が姪孫に当たる入彦と同年代というのはさすがに無理がある。


「とはいえ、くすばしき一節ひとふしがなかったわけではない」


 武彦は宴会用のほぐれた顔つきを真摯に引き締め、その一節とやらを語りだそうとした矢先、急に笑いだして頭を掻いた。


「まぁ、吾が磯城からはぐれてこのようなところにいるのは、つまりあれだ」


 要するに勘当されたらしい。


 磯城族内でも名うての利かん坊だった武彦は、族人としばしば諍いを起こした。長じて、敵対関係にあった山門諸族との競り合いのなかで自慢の腕白ぶりを発揮するのは良かったが、それも、ともすれば度を越した。


 このままでは武彦は族内の嘲りを買い続けるだけであろうと考えた太瓊は、そもそも山門の天地は武彦には狭すぎようと思慮し、末っ子を山門から放逐した。


 形は勘当だが、その根幹に父の愛情があることを汲んだ武彦は、恨みも辛みも残さず、爽やかに磯城を去った。彼の影を追ったのは、大彦と大日の幼い兄弟だけだった。


 大族とはいえないが、それでも数百人はいる磯城族の中で、ただ二人懐いてくれた幼い兄弟に、武彦は置き土産することにした。兄の大彦には、武彦自慢の大得物、星飛ばしと名付けた鎚矛つちほこを授けた。鎚矛は柄の先におもりを付けた棍棒の一種であり、大真ではすいと呼ばれる武器である。


 星飛ばしは錘部はもちろん、柄まで銅で造られているから、重量は大の大人でも持ち上げるのがやっとという代物で、それを懸命に振りかぶってみせようと鼻息を荒くする大彦の姿が、武彦の爽やかな笑声を誘った。


 兄を羨ましげに見ていた大日には、愛用の弓を授けた。星飛ばしほどの一品ものではないが、弓幹ゆがらに梓を使い、弓弭ゆはずには大鹿の角を用いた良弓である。


 大彦ほどはしゃがなかったが、大日は授かった弓を摑んで頬を上気させた。幼いながら合理を信条とする大日には、弓がよく似合うと武彦には思われた。


「腕白もほどほどにしておかんと、吾のように邑を放り出されることになるぞ」


 大彦の頭を乱暴に撫でながら、大日という弟を持った大彦は、自分のように度を過ぎるという失態は犯すまい、と安堵していた。


「大叔父さんの身を護るものがなくなってしまいます」


 大日が、彼らしい配慮で、弓を返すべきかと戸惑いを見せた。その手を優しく押さえて、


「案ずるな、吾にはこれがある」


 と、武彦は腰に提げた剣の柄を叩いた。この剣も、拳のような形をした柄頭まで銅を鋳込んだ剛剣である。しかも呪飾が埋め込まれている。この剣を振るえば、天神地祇であろうと祓える、と武彦は豪語した。


「おい、大叔父さんは、磯城のあかしまだぞ。誰が大叔父さんの道を遮れるものか」


 大彦が、弟の認識不足を窘めるように言った。


「そうよ、吾は磯城の颱なるぞ」


 それが兄弟への別れの言葉であり、山門の天地に放った最後の壮語であった。


 武彦は北へ向かった。


 磯城の邑は山門全体の東南隅に位置する。磯城族の神奈備である三輪山から南北に連なる山並みは、山門を外敵から護る天然の長城だが、たたなづく青垣山と山門人が愛称するその尾根道をゆけば敵対する族人と出会うのは稀であるが、武彦はあえて山門盆地のただ中を進んだ。


 それは、この旅路が頽廃へ向かうものではなく、制覇の先駆けであると山門の天地に宣言する行動であった。誰の制覇かといえば、無論、磯城族の、である。いつか、磯城族に英雄が生まれ、武彦が通ったみちを征途とするだろう。それはそう遠い日のことではなく、その英雄とは、武彦が嘱目する大彦と大日の兄弟かもしれない。


 そんなことを想像する武彦の旅路には、悲壮感は一切なかった。


 だれがく吾の行く径を塞ぎ得ようか、という嘯きもあった。実際、山門の原野を縦断する間、あえて武彦の前に立とうとした者はいなかった。


 青垣山を北へ越えると、山背やましろとなる。もっとも、それは山門人から見ての呼称であり、現地に暮らす人々の自称は分からない。その辺りの諸族が、まだ連合ないし統一の共同体を為していないからだが、ある一部の人々は、彼らの郷を出水いずみと呼んだらしい。そのある一部とは豊富な水量を運ぶ大川のほとりであるが、その川は時代が下って、都を建造するための材木を揚げるみなとが多く造られたため、木津川と呼ばれるようになった。


 地名の由来はさておき、武彦はその出水の辺りも越え、遥々と北へ向かった。


 武彦はあてもなく無頼歩きしていたわけではなく、一応の目的地があった。


 それは高志こしと呼ばれる地域である。高志は、後に文字が普及してからは越と書かれることになる。


 武彦が高志を目指したのは、その南下を防ぐためだ。


 高志は強大な力を持った大族である。


 山門は天然の要害である青垣山に護られているが、その外界では、強い力を持った大族が互いにしのぎを削っていた。


 回廊のように東西に広がる内海の西の果てには、大真の文明をいち早く取り入れる筑紫の諸族があり、それらは文明の暗部である山門には、幸いなことにまだ目を向けていない。


 山門のすぐ西には吉備があり、東には尾張がある。吉備の西北には出雲があり、尾張の北には高志がある。


 高志族には、筑紫諸族のような最新の文明も、出雲のような強力な呪力もなかったが、領域拡大の旺盛な野心はあった。 


 高志族の野心は北方へ伸長していたが、北伐に一応の区切りをつけると、次は西南に目を向けた。


 高志族の野心の視界に入った山門、吉備、尾張は、しかし脅威の接近に無警戒であった。 


 高志族の危険性にいち早く反応したのは、出雲族である。


 出雲族の氏上このこみの嫡子であった大汝おおなむちは、まだ遠い脅威であったはずの高志族に将来の禍根を予感し、庶兄と共に多くの軍兵を率いて討伐へ向かった。その大汝の軍に、武彦は合流した。


 英雄は英雄を知るの理で、大汝の知己を得た武彦は一軍を授かり、出雲と高志との雌雄を決する戦いで奮迅の働きを見せた。


 高志族の南下の野望を挫いた大汝であったが、出雲族の傷も深く、高志族の氏上であり巫女でもある姫川と講和した。


 出雲族と高志族は互いに兵を退かせたが、勢力南下の野望を諦めないはずの高志族の違反に備えた大汝は、両族の緩衝地に武彦を置き、高志族の動きを監視させた。もちろん有事の際は、武彦の怒りが高志族の先陣を粉微塵に砕くことを期待してのことだ。


 しかしその後、武彦はその期待の役割を発揮する機会を得なかった。高志族に内紛が起こり、窮地に陥った姫川を何と仇敵であるはずの大汝が来援して救い、しかも妻に迎えて連れ帰るという事態が起こったからだ。講和で顔を合わせた二人は、わずか一度の出会いで互いに恋に落ちたらしい。高志族の内紛の原因は、どうやらそれであるようだ。


 後に、自分の故郷の山門でも似たような状況が生まれようとはつゆ思わぬ武彦は、しかし、山門を高志族の脅威から護るという当初の目的を達して満足であった。


 それからの武彦は、山中でししたちと暮らす隠者のような生活に入った。大汝から出雲へ誘われたが、それは断った。自分が、誰かの下につくことに耐えられない性格をしていることを、武彦はよく自覚していた。友人となった大汝と、将来争い合うことにはなりたくなかった。


 山中での孤独の暮らしは、しかし、武彦にとって快適であった。適当な巌穴をねぐらとし、風景に飽きれば別の山に移った。


 そうやって、随分、時が経った。山門のことも、大方、考えなくなった。


 髪も髭も白さが大半を占めるようになったあるとき、武彦は、山中で奇妙な光景を見た。


 武彦はそれほど呪能に秀でているわけではないが、それでも霊気を感じ取る肌の感覚は備えており、その感覚が、沼に浸かるような、冷たく、まとわりつくおどろしさに肌を泡立てた。


 その時の季節は夏であったのに、森の暗がりはまるで霜を下ろしているかのようで、その中を進むにつれ、沼の底に沈んでいくような不安を煽った。


 もちろん、不安や恐怖ごときで足を止める武彦ではないが、暗がりを抜けたところで見た光景は、異様であった。


 樹木がなぎ倒されていた。傾いた楡や、幹を裂かれた樫があった。そしてそのいずれもが生命力を吸い取られたような、白く、凝固した姿であった。


 石の森。武彦にはそう思えた。


 その石の森の中央に穿たれた穴があり、その底に、栗の実ほどの大きさの何かが、赤黒く、不気味に光っていた。


 無意識に武彦は剣を抜いた。その何かは、この現世うつしよにあってはならぬないものだと本能が察知した。


 不吉そのものの赤黒い光が触手をのばしたかにみえた。


 その時には、すでに武彦は穴を駆け下りており、剣を振るっていた。


 渦巻きかけた触手ごと、その何かを斬った。と思ったが、切っ先に手応えはなく、しかしその何かは弾かれたように森の樹冠の上へと飛び上がり、更に勢いを増して彼方の宙空へと飛び去った。


 それだけといえば、それだけのことである。


 異様な光景の地をあとにした武彦が、さらなる異様にさらされていることを知ったのは、次の朝のことだ。


 渓谷に下りて川で水を汲もうとした武彦は、川面に映った己の姿を見て驚愕した。水鏡に、壮気を漲らせた若い自分がいるではないか。それは、川の精霊すみつたまが悪戯に見せた幻ではなかった。


「まぁ、そういった具合で、吾はこんな年甲斐もない姿なりをしている」


 そういって武彦が自分の顔を撫でたのは、彼自身、この話の真偽をつけかねており、何か質の悪い地祇にでも誑かされているのではないかと未だに疑っているからだ。だが、その話は事実である。


 この席の端で畏まっていた真守まかりは初めて聞く話だったのだろう、何かが転び出てきそうなほどの大口を開けた。しかし、日照は、瞳に淡く関心の灯りを点した程度の反応であった。


剋軸香果実ときじくのかぐのこのみだ)


 武彦が遭遇したという不吉な物体の正体を、日照はそう見当付けた。その災いの果実の実物を日照は実見したことはないが、その形や不気味さは入彦から聞かされたことがある。


 ちなみに雄心をごころは胡散臭げな顔で山葡萄の酒杯をあおっているし、豊城彦と豊鍬姫は、土器に盛られた珍味の咀嚼に忙しく、話は片耳でしか聞いていない。それでも耳をそばだてる奇譚ではないかと武彦は思うのだが、山門の人間にその手の話はさほど新鮮でないことを、彼は知らなかった。


奇譚くしかたり清乙女すがをとめつやあきらけき耳朶みみふさに触れてはさして珍しくもなくなるものらしい」


 日照の霊妙な婉然さに感嘆したのか、己の体験が期待したほどの余興とならなかったことが心外だったのかわからぬような顔を、武彦はした。


「吾々はその手の話に慣れているのです」


 武彦が知らぬ山門の事情を、日照はそう暗示した。


「…それで御身が、わたくしの仲間であるかけるを拐かした人たちの総領すぶるおさに収まった謂れにはどう繫がるのですか」


 日照の口調には、まだ、刺がある。珍味佳肴の馳走では、まだ拭いきれない不審がある。


「ここらの者はみな鳥を崇める。なかでも鷲は最も尊い神の使いだ。梢の霊禽すみつとりを見て、昂ぶったにすぎない。吾らはいま、そういったものに頼らざるを得ないのだ」


 武彦は視線を転じて、室の端で小さくなっている真守を哀れ気に見た。ところで、翔は熊鷹の子であるから、鷲ではない。だが、鷲と鷹とに厳密な違いはなく、ただその姿の大小で区別しているにすぎない。熊鷹は鷹のうちでも大型であるから、真守らの目にはは鷲として映ったのだ。


「と言われると…」


 日照は話の続きを促した。


「吾は山の中で朽ち、魍魎すだま木霊こだまにでもなるつもりだったが、時を取り戻した己のかたちを見て、これは祖霊おやたまのお示しであろと考えた。そこで山を降りたところ、忌瓮いわいべの民と出会ったのだ」


 忌瓮の民が何者であるかは、武彦の口述で明らかとなるが、彼は胸の中の珠玉を披露するような口振りで話し始めた。彼にとって、そのことが如何に大事で、その事態に如何に真摯に取組んでいるか。そしてそうする己を如何に誇っているか。日照は武彦の言葉に触れる肌で、そう感じ取った。


 武彦は山を降りる途中で、逃走する集団に出あった。その集団を率いていたのがまだ年端も行かぬ若い女性であった。その女性の萎れまいとする強い生命力を灯した花顔を見たとき、武彦は、祖霊の意思とはこれであろうと全身で感知した。いや、それは武彦という武張った男の心の照れ隠しであり、端的に言えば、武彦はその女性に一目惚れしたのだ。女性は武彦に救われたあと、阿曽あそと名乗るが、その名を知った武彦は、高山の上に咲いた可憐な花の名を知ったような心地となった。


 ともあれ、阿曽とその仲間たちを追っていた武装集団を難なく追い払うと、武彦は彼女だけでなく、その仲間たちからも篤く崇められた。彼らからすれば、山のかみに出会ったような霊験を感じたのだろう。


 阿曽と仲間たちは、すぐに武彦が武力に優れたただの人間であることを知るが、その事実が武彦への尊崇の念を弱めることはなく、ますます強固にした。何しろ武彦は、彼らを迫害し続けていた武装集団を蹴散らし、奪われていた故郷の一部を取り戻して、彼らに彼らの邑を造る土地を与えてくれたのである。


 その土地は氷川と呼ばれる大川に山塊が迫る場所で、ちょうど山の襞に庇護されるような位置にある。彼らを迫害する敵から彼らの生活を隠すには格好の地勢をしていた。        


 阿曽に頼まれて邑長となった武彦は、邑を日丘邑と名付けた。 


 氷川の向こうは吉備である。阿曽は吉備族の氏上このかみの血胤を引く女性であり、日丘邑は、かつて吉備族の中核にいた人々によって造られた。


 吉備族における氏上は、政治的な色合いがまだ薄く、祭事の主宰者たる祝人はふりの立場から抜け出しきれていなかった。


 その氏上が亡くなったあと、跡を継ぐべき阿曽姫はまだ幼かった。亡父が氏上の地位の世襲を志向して権力基盤を固める型の人間ではなかったため、かむあがったあとに阿曽姫をもり立てる族内の有力者がいなかった。さらに、阿曽姫自身が、族人からの人望を集め、氏上として認められるための要所は一意専心な祈念にこそあると信じたため、彼女は斎宮いつきのみやに籠もってしまった。阿曽姫は、純粋な巫女たらんと志したのだろう。そのため、吉備族に政治的な空白が生まれた。


 その空白に欲望の伸展を見たというのが、温羅うらという毒気の強い男だった。


 温羅の出自は出雲であったが、祖父または父は大真からの渡来人であったようだ。


 ともかく野心旺盛な男で、その野心を善意に見せかける狡猾さを兼ね備えていた。その狡猾さで、指導者を失った吉備人の人心を巧みに収攬しつつ、その一方で乱暴以外の才能がない弟の王仁おにを使嗾して、己の正体を見抜く眼力のある吉備人を駆逐した。


 温羅は呪能にも優れていた。その意味で、呪能の源となる自然界の霊気は、必ずしも善人に宿るものではないということだ。


 温羅は出雲の鉄器を携えて吉備に来た。出雲主の使嗾があったのか否かは明らかでないが、吉備人の目を惹き付けるほど豊富な鉄器を運んできたので、何らかの出雲主の意図は受けていたのであろう。


 吉備人は出雲に対して対抗意識を持っているが、先天的には劣等感がある。筑紫の諸族ほどではないにしろ、大真に近く、最新の文物を享受できる出雲に、地理的な憧憬を抱いている。


 吉備人の複雑な心境を巧みに手繰り寄せながら、温羅はまたたく間に権力基盤を確立させた。


 鋭利な鉄器が放つ輝きで吉備人の興味を買った温羅は、彼が直会なおらいと名付けた新しい祭式で、吉備人の精神さえも支配した。


 温羅の呪能は、土に呪いを埋める術、いわゆる埴土はにつちの術において発揮された。彼は円筒型に捏ね上げた土に呪いを吹込み、円筒の中で呪力を増幅させるという呪術を編み出したのである。


 温羅が創始した直会という祭式では、祭場に円筒つぶらをいくつも並べ、円筒から揺蕩たゆたう煙にいぶされながら祈りを祖霊や神々に捧げる。その煙とは、円筒によって増幅された温羅の呪いであり、燻された者は安らぎと幸福感に包まれる。それこそ、祖霊や天神地祇に直接に会うような心の昂ぶりに恍惚となるのだ。吉備族の人々は、温羅の祭式を受け入れた。 


 その手法は、ちょうど山門において、饒速日にぎはやひが山門諸族の精神を麻薬の如き白霧によって支配した手法と相似している。違いがあるとすれば、呪いの源である。饒速日は源を剋軸香果実という魔物に求めたのに対して、温羅は自力の呪能と、円筒という呪力増幅装置に求めた。人外のものに頼らなかっただけ温羅のほうが良識的といえるが、効力は劣った。直会という祭式に疑問を持った者たちがいたということだ。


 その欠点を、温羅は、弟の暴力で補った。


 円筒による祭式に疑念を抱き、己の支配を受け入れず吉備人を、温羅は、


忌瓮部いわいべ


 と蔑んで、迫害の対象とした。


 温羅の呪術に幻覚状態とならなかった吉備人たちは、阿曽姫を護りつつ、吉備族の正統を取り戻すべく戦ったが、温羅の弟、王仁の暴力に敗北した。以来、吉備族に正統を求める人たちは、阿曽姫を拠り所としながら抗戦を続けてきたが、息も絶え絶えの状況に陥った。


 そこに武彦が現れたのである。


 ところで、日照は吉備族に縁がないわけではない。それどころか、彼女の半生に大きな影響を与えている。


 日照がまだ狭野姫であった頃、それは彼女がまだ少女期のことであるが、吉備を訪れた。偉大な長兄、天津彦五瀬あまつひこいつせが天孫族を率いて真秀場まほろばへ向かう途上、吉備族に支援を求めたのである。


 そのときの吉備主が阿曽姫の父にあたり、支援の条件としての出雲族との交渉を五瀬が果たしている間、狭野姫は吉備の一隅で天孫族をまとめていた。年上の甥である手研たぎしの助けがあったとはいえ、少女の身で天孫族を預かった経験と自信が、のちの彼女に繋がるのである。


 日照は両耳で武彦の叙述を聞きながら、心地に在りし日の光景を描いていた。苦労はあったが、安穏とした日々でもあり、その情景の麗しさをけがす者の存在に、沸々とした憤りを感じていた。


「そういったところへ、御身らが来たというわけだ。吾は祖霊の使いが、吾らに吉祥よきさがを運んてくれたのだと思っている」


 武彦は兎肉をついばむ翔を横目で見て、真守らの行動を正統づけた。その厚顔無恥に同調したわけではないが、そこをなじるよりも、日照は胸中に広がったこれから取ることになるであろう行動の予感に沈思し、膝下に置いていた手が摘んだ瓜の実をようやく艶やかな口に運んだ。


「どうであろう、ともに山門から来た者がここで会うのも祖霊の導きであろう。出だし聞いちまったら、さわりまで知らねぇと気持ちが悪いってこともあらぁな。ひとつ、力添え願うわけにはいかねぇか」


 横柄気質の武彦だが、ここはさすがに殊勝にも態度を低くした。


「なぜ吾らが咎人とがびとどもを助けねばならん」


 話に割り込んできたのは雄心である。翔をさらわれたこともさることながら、彼には、武彦にあざれを痛めつけられた恨みがある。


「吾の話を聞いておらんかったか」


 見れば、雄心は、醴酒こさけにかなり酔っているようだ。


「聞いたわ。母屋を盗られた者の泣き言であろう」


 身も蓋もなくそう言い放った雄心はそっぽを向いた。その酔眼の先に、剣を交わしあった真守がいた。


 真守は、ふと目をあげた。悔やんではいるが、恥じていない目だ。


「汝は雄心といったな。剣の腕前は大したものだ。真守とて引けをとらぬが、どうだ、真守の剣は咎人の剣であったか」


 武彦にそう指摘された雄心は、はっと顔を上げた。こんどは目を逸らさなかったが、瞳は武彦を見ていたわけではない。以前の、父に認められたいばかりに闇で剣を振るっていた己の卑しい姿を見たのだ。 


 咎人の剣。それは己の剣ではないか。


 思えば真守の剣には一途さがあった。吉備人の誇りを取り戻そうとする真摯さがあった。真守が振るう剣の風には、清々しさがなかったか。そしてその剣に剣を交えた己にも颯爽としたものがあった。初めて、正しいことのために戦ったという満足感があった。


 真守を蔑むことは、己を蔑むことだ。そのことに気づいた雄心は、面容から酔の色を薄め、羞恥の色を加えた。


「真守は気持ちの良い男だ。汝も、それはわかってくれよう。汝らの仲間をかどわかしたことに悪気はないと云えば汝らにわだかまりが残ろうが、真守は空から降りてきた鳥を祖霊の使いと崇めたのであり、地から湧いたような汝らを魑魅すだまの類と見誤ったのだ。そう考えてはもらえぬだろうか」


 懇ろな口調で、武彦は雄心の頑なさを解こうとした。そして最後には、


「汝らを見込んで頼み入る。どうか力を貸してくれ」


 と、頭を下げた。真守も、給仕していた者も皆、武彦にならって深々と頭を下げた。


 吉備人たちの殊勝な礼容を見るまでもなく日照の心中は決していたが、彼女はもはや自由奔放が許される立場の人間ではないから、仲間との合意を確かめなければならなかった。とはいっても、日照が微笑みをたたえた面差を向けただけで、雄心も豊鍬姫も確乎と頷いた。ちなみに、豊城彦は美膳を腹に納めすぎたのか、満足した寝息を立てていたから、異議なしと見做された。


「貴方がたは、舟をお持ちですか」


 日照は小首を傾げながら、そう尋ねた。


「もちろん。舟がなければ氷川を渡って吉備に攻め込めぬ」


「わたくしたちも、実は川を渡らねばならぬのです。それならば、その舟にわたくしたちもお乗せいただきましょう。さすれば吾らはひとつ舟の乗り人。互いに助け合うことも、また成り行き任せとなりましょう」


 仇敵であっても、同舟すれば助け合わざるを得ない。そんな表現で、日照は武彦の切願を受容した。


 この場に、ようやくほっとした空気が流れた。


「ありがたいことだ。皆で、うきを上げようではないか」


 武彦の音頭で、日照も雄心も真守も、眠気に負けた豊城彦以外、この場に集った者は皆、盞にこさけを充たして飲み干した。如虎と翔は、人という生き物の所作を、不思議そうに眺めていた。ところで、盞は、土器の盃のことである。


「さて、武彦殿。わたくしたちをお見込みくださったが、時が時なれば、また違うあしらいもあったはず。わたくしたちは随分よいときにここへ参ったものと見受けます。何か良い作戦いくさだてがございますか」


 日照は武彦に水を向けた。吉備人の故地を奪還する目処はつけたが、人に人材を得ない。そんな時が今なのではないか。


「さて、そのことよ」


 我が意を得たりとばかりに、武彦はにやりとした。


 もっと食い物を運んでくることを、武彦は給仕の者に言いつけた。話が、また長くなるということだ。


 日本のうるち米で、作付面積の最大品種がコシヒカリであることは、ご存知のことと思います。


 炊きたてのコシヒカリのご飯は本当においしくて、もうそれだけでお茶碗何杯もいけちゃいますよね。


 このコシヒカリは、1956年に命名登録され、「越の国に光かがやく」ことを願って付けられたそうです。越の国は、旧国名の越前、越中、越後ですね。厳密には、能登と加賀も含まれますが。


 この「越の国」、古事記では「高志」と記されています。


 高志の国は、神世時代では重要な舞台となります。あの八岐大蛇やまたのおろちの出身地であったり、八千矛神=大国主神と沼河比売の妻問いの舞台でもあります。ちなみに、沼河比売は、姫川の神格とされています。


 高志は、古事記では、やがて大彦命に平定されてしまいますが、時代が下って皇位を継いだ継体天皇は越前の出身ですから、高志の血を受け継いでいたのかもしれません。


 古事記や日本書紀は大和朝廷側の歴史書ですが、もしも高志人が書き遺した歴史書があれば、もっと魅惑的な神話がたくさんあったかもしれません。

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