山門編-初国知らす王の章(25)-吉備梟帥(4)
<これまでのあらすじ>
俳優の少年と黒衣の少女、そして多くの人の活躍と犠牲で厄災を乗り越えた山門は、再び試練の時を迎えようとしている。
天孫の磐余彦狭野姫は、建御子としての自分と、一人の女性としての自分との狭間に悩み、彼女を支えてきた手研の諫言を斥けて、纏向への遷都を宣言する。山門の諸族は紛糾し、神託を問うた誓約の結果は凶とでる。天神地祇や祖霊から裏切られた思いの狭野姫は橿原宮を去る。手研は狭野姫不在の天孫族を実効支配する。それを手研の政変と見なした葛城族の太忍は山門から離脱し、南方の諸族を取込む。山門の混乱を避けるため、一計を案じた手研は狭野姫と入彦を片丘の邸へ招く。その道中で、かつて狭野姫に救われた香魚は、狭野姫を天孫族の裏切り者と非難する。太忍の庶子である剣根もまた狭野姫と入彦を襲撃しようとするが、果たせない。
片丘の邸で、手研は天孫族と山門の運命を選ぶ決断を迫るが、狭野姫は決断できない。手研は狭野姫に覚悟させるべく、天孫の圧倒的な力で入彦をねじ伏せる。彼の剣が狭野姫に迫ったとき、入彦の放った矢が手研を貫く。狭野姫と彼女への想いを抱きしめたまま、手研は逝く。狭野姫は本当に愛すべき人が誰であったかを知る。指導者を失った天孫族は勢力を失い、手研に次ぐ実力者の阿曽利と共に捲土重来を期する者、故郷の高千穂を目指す者、狭野姫を慕って纏向に向かう者に分裂した。
後悔と心痛から立ち直れない狭野姫は、纏向の宮居に籠もる。入彦は山門諸族の統一のためには狭野姫が必要と考え、足繁く纏向へ通うが、彼女を深い悔恨の淵から救い上げることができないでいた。ある日、狭野姫の失踪を珍彦に告げられた入彦は、思い当たる場所へ急ぐ。珍彦は狭野姫の失踪を秘匿するべく、天手力雄の霊力で宮居を巨岩で囲み、狭野姫は天の岩戸に籠ったとを人々に告げる。
狭野姫は全てを棄て、一人の人間としての旅立ちを決意し、入彦との思い出の残る鳥見山の霊畤を出発の地とする。彼女の心情を知る入彦は、豊城彦と豊鍬姫を連れて鳥見山へ向かう。霊畤で狭野姫と入彦は互いの心骨をなす思い出を追懐し、共有するが、叙情は秘めたまま相互の門出を祝福する。豊城彦と豊鍬姫は、狭野姫と共に旅立つことを請う。
狭野姫と豊城彦、豊鍬姫の旅立ちを見送った入彦は、三輪山中の辺津磐座を訪れ、黒豹の如虎に、狭野姫たちの護衛を依頼する。瑞籬邑に戻った入彦は、兄と姉から取り残された活人の傷心を慰めるため、新しい友人を紹介することにした。
出雲を目指す狭野姫一行は、黒豹の如虎と、そして意外な人物である葛城族の剣根を護衛に加える。豊鍬姫が母親代わりに育てる熊鷹の翔は、かつて剣根が操る妖怪の戯に親鳥と兄弟を殺されており、豊鍬姫はその罪悪を剣根に突きつける。剣根は赤心を示して謝罪し、狭野姫が豊鍬姫たちの怒りと疑いを預かることで、豊鍬姫は剣根の同行を受入れる。
狭野姫一行は山門を囲む青垣山の一峰、生馬山の山径を行き、孔舎衛坂の古戦場に至る。そこで天を祀り、地を祓った狭野姫は、天神地祇から新たな名、日照を授かる。日照は剣根にも新たな名、雄心を授かったことを告げる。
その頃、異彩にして高貴な風姿の人物に率いられた麗しい装いの集団が、孔舎衛坂を山門へ向けて登っていた。彼らはかつての天孫族のように、山門に変革を、しかし天孫族よりもはるかに穏やかにもたらす集団であったが、そのことを先頭の人物の風韻にわずかに感知したまま、日照一行はその集団を見送る。
≪是非ご一読ください。ご感想、ご評価をいただけましたら幸いです。≫
<人物紹介>
豊城彦
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。
豊鍬姫
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。
入彦
磯城族の氏上。厄災を乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主。
美茉姫
入彦の妻。明るい美しさの女性。淑やかであり、闊達でもある。
活人
入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。
大彦
入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。
石飛
磯城族の青年。入彦の舎人。
百襲姫
磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。
翠雨
入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。
如虎
黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。
翔
豊鍬姫になついている熊鷹の子。
日照
旧名は狭野姫。かつて天孫族の氏上であり、磐余彦を号して山門主であった。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。
手研
故人。狭野姫の年上の甥。狭野姫が唯一甘えられた人物。入彦に狭野姫を託して逝く。
珍彦
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
道臣
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
吾曽利
天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。山門近傍に潜伏し、捲土重来を期す。
太忍
葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。
雄心
旧名は剣根。太忍の庶子。過去の所業を悔やみ、日照の従者となる。
五瀬
故人。狭野姫の長兄であり、手研の父。高千穂族とともに東の真秀場を目指し、天孫族を号する。初代の天津彦。
五十鈴媛
五瀬の後妻。出雲族の出身で、製鉄技術者集団と縁が深い。手研にとっては、同年代の継母。
香魚
両性具有の人。神々も魅了する美しい瞳を持っている。
<用語>
高天原:天上世界
豊秋津島:物語の舞台
葦原中国:豊秋津島の別名
山門:豊秋津島のほぼ中央に位置する地方
青垣山:山門の周囲を囲む山並み
筑紫洲:豊秋津島の西部にある大きな島で、白日、豊日、建日、日向の四地方を持つ
真:西の海の果ての大陸にある巨大帝国
氏上:一族の族長
天神地祇:八百万の神々
祖霊:祖先の霊魂 氏上は死ぬと神上がって祖霊となる
精霊:森羅万象に宿る魂
魑魅:山林の異気から生まれた邪霊
厄災:山門を呪いによって支配していた饒速日の体制を瓦解させた大災
剋軸香果実:高天原の神々が下界に投げ捨てた邪心が凝固したもの いつか高天原に帰ることを望み、時を戻す霊力を蓄えるため大地に寄生して石の花を咲かせる
その川は、光を運んでゆく。蒼天から降りしきる光の粒子たちは、春の初々しさから、夏の力強さに育っている。
川の名は氷川というらしい。その名の由来を日照は知らないが、その水面を越えたところに、吉備の天地があることは知っている。
水量は満々たる大川である。流れも速い。ここを渡らねば吉備にはたどり着けないが、舟を持たない一行では如何ともしがたい。
これほどの大川であれば、棲んている水神の霊力も強力であるはずで、舟があったにしろ、それなりの祀りを催さねばならず、水神を満足させる生贄も必要だ。
大鹿が棲みそうな森はあるが、やはり舟がいる。
川沿いには人の営みがあるはずで、どこかに邑を構える族に舟を借りる手もあるが、どんな穢れを持ち込むかもしれない旅人においそれと門を開いてくれる族は少ない。
大邑であれば人の交流は盛んだが、近くには見当たらない。
日照は雄心と相談し、とりあえず雄心が近くの邑を探して交渉することにした。交渉材料としては、日照の霊姿である。彼女の霊妙な美しさは誰の目にも神々を喜ばせる崇高さと映り、彼女が祭祀での言挙げを買って出れば、どの邑でも歓迎されるだろう。もちろん、邑の祭祀をしきっている祝や巫にすれば余計な申し出となるが、そこは雄心の如才なさに期待するしかない。
大人ふたりが渡河方法に頭を悩ませているとき、子どもふたりと獣二匹はのんびりと初夏の陽射しを楽しんでいた。
如虎は汀に寝そべって、沢蟹と何やらおしゃべりしているし、豊城彦と豊鍬姫は翔を空に放って遊んでいる。
快晴だ。雲が純白に輝いている。
翔は、豊城彦が投げ上げた木の枝を嘴で掴むという他愛ない遊びに興じていたが、ふと、雄らしい眼を虚空の一点に投げかけると、大きく羽ばたいた。逞しく育った翼の強さを試してみたい衝動に駆られたのだ。人の子が、まだできもせぬことに挑んでみようとする無謀に似た、抑制の利かない衝動である。
虚しく落ちてきた枝を拾い上げて、
「これだけ広いんだ。そりゃ行けるとこまで行ってみたくもなるよな」
豊城彦はわかったような口を利いたが、翔の母親を自認している豊鍬姫は、物分りの良さを気取っているわけにはいかない。
野の空である。翔よりも大きな禽獣がどこに潜むかしれないし、人の放つ猟矢もある。
「まだ何にも知らないくせに」
自分も大人たちにはそう思われていることなどそっちのけで、豊鍬姫は翔を口で叱りつけながら慌てて追いかけた。
冒険心に駆り立てられながらも、翔はどこかで理性を残しているらしく、川沿いから離れない。それなら迷うことはない、と豊鍬姫も辺を確かめずに追いかけた。
幼い彼女たちが忘れているのは、川沿いには人の営みが多いということだ。そのことを多少なりとも理解している豊城彦はやれやれと走り出したが、大人びたつもりの彼も、この時点では危機感を抱いていない。
ずいぶんきたところで、ようやく翔は喬木の梢に降りた。息を切らして走ってくる豊鍬姫を見た翔は、彼女の肩に降りようと、下枝へ下枝へと降りていった。
豊鍬姫への甘え心に染まっていたとはいえ、禽獣としては迂闊であったことに、喬木の根元にいた人の存在に気づかなかった。
不意に投じられた網が翔を襲った。
根元にいたのは猟人であったらしく、禽獣を捕らえるための張り網を持っていた。
網に羽を取られて落下した翔は、現れた三人の男によって捕えられた。
豊鍬姫は驚愕し、瞬時に激怒した。母性の怒りを吐息に転化して、言霊を放つ。
「汝、それ蟒蛇なれ!あこぎなる杣人は汝の傍らぞ」
喬木はにわかに目覚めた。下枝を鞭のように振るって、たちまち二人の男を打ち倒した。が、三人目の男は、剣を振るって蛇のように伸びてきた枝を切り払うと、飛び退って身構えた。翔を捕らえた網は、その男に掴まれている。
その男は、猪のように猛然と駆けてくる小さな影を見て、二度、驚いた。一度は、その人影が放ったであろう言霊の霊威の凄まじさと、二度目はその人影がまだ童女の姿だったことである。
剣を構えた男はためらった。しかし、野に潜む妖怪は、往々にして人を油断させる姿をしている。男は念のため、剣の鞘で烈火の形相をした童女の腹を突いた。人の子であれば、それで十分に気を失うはずだ。
草の上に倒れ伏した童女の様子を覗き込んで、それが擬態でないことを確かめると、男は安堵した。しかし、すぐに困惑がやってきた。
人の童女であったなら、このまま野に置き去りにしてよいものかどうか。
だが、すぐにもう一つの猛然と駆け込んでくる人影が見えた。おそらくは童女の仲間だと見当づけた男は、童女の介抱は任せることにして、地で呻いている自分の仲間を助け起こした。
「吾らの直き心を憐れみたもうた祖霊が高天原の御使いをお遣いくださったのだ。さぁ、邑へ帰って、神問いの支度をしよう」
励ますやら急かすやらして、男は仲間と共に走り去った。
八岐の大蛇のように下枝を振り回していた喬木は、豊鍬姫が気を失うと同時に、自分の乱暴など忘れたと言わんばかりにすました顔をしている。
駆けつけた豊城彦は、すぐに豊鍬姫を介抱すべくその背を撫ぜると、彼女は早々と目を覚ました。
安堵した途端に全身から発火した憤怒を気合いにのせて、豊城彦は去ってゆく人影に礫を投げつけたが、彼の得意技を持ってしても痛打するには遠くなりすぎていた。
飛び出そうとする豊鍬姫を豊城彦が抱き留めた。仇を睨むような顔を兄に向け、
「あの子が食べられちゃうじゃない!」
と、悲鳴をあげた。
「まぁ落ち着け、妹よ。奴らの話を聞かなかったか。翔を高天原の使いだと言っていた。奴らはきっと、鳥を崇める族なんだ。まずは占って、高天原の御言を知ろうとするはずだ」
礫と一緒に怒りを投げ飛ばした豊城彦は冷静だ。
「祀りごとには犠牲がつきものよ。翔がそうならないとはかぎらないわ」
万が一はある。それには反論できなかった豊城彦は、しかし、このまま男たちを追っても返り討ちに遭うだけだという未来図も見える。遠目だったが、豊鍬姫を気絶させた男の体捌きは尋常ではない。日照や雄心の助けがどうしても必要だ。
「走れるな」
豊城彦は妹を助け起こした。
「たぶんね」
少し冷静さを取り戻した豊鍬姫だ。
「いいか。すぐに日女さまたちを連れてくるんだ。吾は奴らの跡を追い、寝床を突き止めておく」
頷きあった二人は、別方向へ飛び出した。
三人の男の人影はすでに風景にないが、豊城彦は記憶の残像を頼りに目星をつけた方角へ、全速力で駆けた。灌木の幹と幹の間をすり抜けながら、小高い丘を登ると、三人の男を見つけた。彼らの後ろ姿には無警戒があり、追跡にまったく気づいていない。ある程度近づくと、草の陰に身を潜めながら、豊城彦は尾行を続けた。
丘はそのまま川面を見下ろす山並みに続いているが、男たちは山径には入らず、急な角度で山の襞に切れ込むような急勾配の斜面を降りていった。
鬱蒼とした羊歯や樹冠に覆われた暗がりをしばらくゆくと、陽光が落ちてきた。外界からは発見しにくい谷間の平地があった。
細流が流れている。おそらくは、吉備との境になっているあの大川へと注いでゆくのだろう。
細流を纏うようにして、いくつかの建造物が見えた。それは邑というよりは、砦といった物々しさで、緊迫した雰囲気の中で座り込んでいる武人のような風貌をしていた。
男たちの姿は、砦に吸い込まれた。
翔は気を失っているのか、一声も鳴かない。豊城彦は掴んでいた灌木の根を引き千切らんばかりにして、
「砦をぶっ潰してでも、かならず翔を助け出す」
と、空へ向かって言挙げてから、日照たちと合流すべく、来た径を戻った。
一方、砦の中では、男たちが持ち帰った思いがけない吉兆に沸き返っていた。豊城彦が推察したとおり、彼らは鷲を崇拝している。
吉備は、山門にも劣らない勢力圏と文化を持っている。ただし、吉備主の立場は山門主ほど明確なものではなく、諸族の祭祀をまとめる祝主の立場からそれほど政治的成育を遂げていない。
吉備の首邑は、かつて北よりの美須邑にあったが、先代吉備主が崩って以降、影響力は吉備平野の中ほどに移ってきた。ちなみに、吉備平野の南は、内つ海が深く湾入し、複雑な地形の穴海となっている。
この頃、まだ嫡子相続の通念は薄く、主の子が主になるとは限らない。人々の帰依を多く集めた者が、神々と人々とのつなぎ役として主に奉られるのだ。
先代吉備主には女子がいたが、彼女は純然たる巫であろとし、その資質にも恵まれていたが、人々を支配下に組み込もうとするあくの強さがなかったために、そっち方面を旺盛に備えていた人物が、吉備主の立場をより政治的に育成するべく、精力的に活動していた。
その人物は、名を温羅といい、元は出雲人である。出雲主の目論見と自らの野望を両手に提げて、出雲を後ろ盾に吉備へ乗り込んだのである。
従ってこの時期、吉備は大きく二つに割れていた。と言って、勢力が均衡していたわけではなく、圧倒的に温羅が優位に立っていた。彼は穴海に浮かぶ島のひとつを領して根城を築き、吉備を支配下に置こうとした。その牽引力で、公式ではないものの、実質的な吉備の首邑は北の美須邑から吉備平野中ほどの楯築の辺りに下りていた。
先代吉備主の血統を受け継ぐ女子は、先代の恩を忘れない一部の人々に助けられ、氷川を東へ渡った地に、ひっそりと邑を造った。それが、日丘邑であり、翔をさらった三人の男が帰った砦である。
つまりその砦は、先代吉備主を崇める者たちにとって、文字通り最後の砦であるのだが、その辺りの事情を知らない豊鍬姫と豊城彦にとっては、単なる悪党のねぐらということになる。
「豺みたいな目つきの男だよ」
と、豊城彦は合流した日照たちに報告した。
「そう。でも魑魅であればともかく、人であるなら、まずは話し合いましょう」
日照としては事を荒立てたくない。もしかすれば、その豺の目の男たちは、川を渡るための舟を持っているかもしれないのだ。
日は暮れかけている。草も樹木も、もちろん日照たちも黝さに埋もれようとしている。
豺の眷族とされた日丘邑の門守は、夜気とともに流れ込む邪霊を防ぐため、呪飾の施された門扉を閉めかけたところ、夜の底から這い出たような日照たちを見て、ぎょっとした。
夜の来訪者は歓迎されない。人か妖怪か分からないからだ。人であったとしても、夜の原野でどんな穢れや邪霊を身にまとっているかしれたものではない。
門扉は、当然のように問答無用で閉じられた。門の側に建っている物見櫓から、門守が恐る恐る来訪者を見下ろした。その門守を見上げた日照は、
「日暮れに不躾いたします。皆様方の中に、鷹を一羽、連れ帰ったお方がおられましょう。その鷹は我らのかけがいなき仲間でございます。必ず、お返し願いたい」
と、訴えた。
玉の触れ合うよう美声である。日中であれば人をうっとりとさせたであろうが、今は日暮れだ。日照の声の美しさは、門守を余計に緊張させた。妖怪は、その霊力が強ければ強いほど、美しい声で人にささやくという。
それに鷹がかけがいのない仲間であるなど妙ではないか。それによく目を凝らせば、来訪者の後に、四脚の獣もいる。
やはり悪霊の類にちがいない。門守はそう決めつけ、これ見よがしに弓さえ引いた。
「こいつ」
門守の頑なさにかっとした豊城彦は、思わず礫を投げつけた。その礫は門守を打たず、櫓の盾板に乾いた音をたてた。その音は、空気を裂く鋭い音を招いた。
日照の足元に、矢が深々と突き立った。同時に、櫓から見える弓の数が増えた。
「ばか」
豊鍬姫は豊城彦の頬をつねった。これで、平和裏での翔の返還は難しくなった。
敵意の顔となった門扉をひと睨みした雄心は、
「このくらいの門であれば、たやすく壊せます」
と、言って、腰に提げた鏡を手に取った。その鏡面に宿されている戯を呼び起こそうとした。
「人は傷つけないで」
日照も、実は気が長い質ではない。邑人の対応に腹を立てている。
うなづいた雄心が鏡を構え、言霊を紡ぎ出すと、 鏡面が波立ち、鈍色の光を放出した。 鈍色の光はたちまち魁偉な四つ腕の獣と化した。
「久しぶりに暴れてこい」
みなぎる力の解放を許可された戯は、勇躍して、能面皮をさらしている門扉に取りついた。門守たちがいきなり現れた獣の姿に驚き、怖気を震っているうちに、戯は怪力を秘めた四つの拳を門扉に打ちつけた。拳は分厚い杉の板をやすやすと貫き、咆哮とともに、門扉は四つに引き裂かれた。
邑内が露わとなった。
多くの篝火が燃えている。炬火を手にした人の数は思った以上に多く、まるで邑内だけが夜明けを迎えたような明るさだったが、門扉を引き裂いた妖怪の暴威にその場は凍りつき、破壊された門扉が地響を立てて崩れ落ちた以外は、ただ妖怪の唸り声と篝火の炎が爆ぜるだけの静寂が、しばしたゆたった。
邑人の怯みを一蹴するようにこの場に躍り出た男がいる。
「ただの猿の化け物に、なにを恐れるのか。輩ともども叩き出せ」
火を吐くような大声を放ったのは、 翔を連れ去ったあの男だった。
「あいつだよ。あの豺顔の悪人が翔をさらったんだ」
豊城彦と豊鍬姫が、同時に指先と悪言で犯人を指摘した。
「やはり、魑魅の類だったか」
悪人に決めつけられた豺顔の男は、実は真守という名を持っていたが、それはともかく、破壊された門柱の陰から、やれ荒み者だの、やれならず者だの、とんちき、すかたん等々、言葉の暴力をこれでもかと投げつけてくる童子二人を呆れたように見て、
「やはり、あのときに打ち祓っておくべきだったな」
と、もしや人の子であっては、と惻隠の情を湧かした昼間の判断を後悔した。
「人の夜の静寂を破る汝等こそ冦者であろうが」
道理を返した真守は、手にしていた矛を頭上で一旋させ、戯を鋭く突いた。その矛先は戯の石のような拳に弾かれたが、数倍の速さで襲った矛の柄が、戯の横っ面を痛烈に打ち据えた。
真守の矛の柄は勝軍木で作られているから、霊体への威力は金属の刃に勝る。
戯はよろめいたが、次の一閃は跳び上がって避け、後方へ宙返って着地し、牙を剥いて唸った。
真守の一喝で正気を取り戻していた邑人の二三人が、弓を引き絞り、矢の狙いを戯につけた。しかし、彼らの弓は瞬く間に両断され、疾風のようにその作業を済ませた雄心は、勢いのまま真守に襲いかかった。
雄心の剣と真守の矛がたちまち十数合を結んだ。
両者の均衡は間もなく崩れ、雄心が真守を押し始めた。
「さすが兄ちゃんだ」
豊城彦が歓声を挙げた。雄心に剣の稽古をつけてもらっている豊城彦は、もう雄心を兄ちゃんと呼んで慕っている。
邑人たちは、今度は十数人が一斉に弓を引いた。だが、十数の矢を放つはずの彼らに痛撃を与える鋭利なものが降り注いた。
日照の命により鏡から現れた日霊が激しく羽ばたき、小さな矢のような羽を無数に飛ばしていたのだ。
手や腕を傷つけられた邑人を睥睨した日照は、ついさっき、雄心に、人を傷つけるなといったことなど忘れた顔をしている。このあたりの身勝手な振る舞いは、かつて建御子を気取っていた頃の彼女のままである。
邑人たちは後退った。剣の男は真守と互角以上に渡り合っているし、大猿の妖怪も真守の痛撃から立ち直って暴れだしている。妙齢の麗人は想像以上におっかなさそうだし、二人の童子さえ、男童は礫で急所を狙ってくるし、女童は篝火の火の粉に言霊を与えて、火矢にして飛ばしてくる。
そう言えば、黒毛の恐ろしげな四足獣もいたはずだ、と思い出した邑人がおそるおそるその様子を確かめると、如虎は騒動の輪から外れた辺りに寝そべって、欠伸していた。
「のんきものだな、おい」
と、邑人たちは如虎の長閑な姿にすら慄いた。
「さっさと翔を返さないと、もっと痛い目にあわせるぞ」
自分たちの優位を確信した豊城彦は、勝ち誇って返還を迫った。
同時に邑人が集まっているところめがけて、戯が飛びかかった。
ところが、まるで、目に見えない岸壁に波頭が砕けるようにして、戯は鈍色の破片となって飛び散った。戯を現世に形作っている霊力を遥かに上回る力が、戯を四散させたのだ。
動揺した雄心はせっかくの優位を逆転され、矛に剣を絡み取られて、その切っ先を喉元に当てられた。
「そこまでにしよう」
邑人の群れを割って、巨大な威圧感がのっそりと現れた。
「鷲は高天原の使いだが、どうやら有り難い贈り物を運んできたらしい」
巨大な威圧感が篝火の明かりに照らされた。大熊の姿がそこにあり、豊城彦は思わず仰け反った。
前回、中国戦国時代の七雄を天下統一の機運が次々に通り過ぎ、秦が最終的に受け止めたという話を書きましたが、肝心の国を忘れていました。
それは燕です。
なぜ肝心かというと、秦の天下統一に、燕がとても大きな役割を担ったからです。
戦国時代の一時期、天下をうかがうのは、秦でなければ斉という時期がありました。斉は秦を凌駕するほどの大国でしたが、その斉を滅亡寸前にまで追い込んだのが、燕です。
燕は内乱とそれにつけこんだ斉の侵略によって、滅亡に瀕した時期がありました。ですが、『隗より始めよ』で有名な昭王によって、見事に復興します。
昭王は斉の侵略に報復すべく、稀代の大軍略家である楽毅を得て、斉のほぼ全土を征服します。
楽器による占領行政もうまくいっており、そのまま行けば、燕の版図に大国の斉を加えた超大国が誕生したかもしれません。ですが、昭王は亡くなり、恵王が跡を継ぎます。
恵王は楽毅と折り合いが悪く、なんと楽毅を追放してしまいます。この瞬間、天下統一の機運は、燕を去りました。まさに、親の心子知らずですね。
斉は田単の活躍により全土を回復しますが、もはや秦に対抗するほどの力を持っていませんでした。ここから秦による天下統一作業が加速していきます。
もしも燕の恵王が、王位だけでなく昭王の志まで継いでいたら…。
たらればで架空の世界を描ける歴史は、本当におもしろいと思います。




