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山門編-初国知らす王の章(24)-吉備梟帥(3)

<これまでのあらすじ>


 俳優わざをきの少年と黒衣の少女、そして多くの人の活躍と犠牲で厄災まがごとを乗り越えた山門は、再び試練の時を迎えようとしている。


 天孫あめみま磐余彦狭野姫いわれひこさのひめは、建御子たけるみことして人々に称えられる自分と、磯城族の入彦に恋心を抱く一人の女性としての自分との狭間に悩み、彼女を支えてきた手研たぎしの諫言さえもしりぞけて、纏向まきむくへの遷都を宣言する。山門の諸族は紛糾し、葛城族の太忍ふとには山門主の地位を狙う。神託を問うた誓約うけひの結果は凶であり、天神地祇や祖霊から裏切られた思いの狭野姫は橿原宮を去る。手研は狭野姫不在の天孫族を実効支配する。それを手研の政変クーデターと見なした葛城族の太忍は山門から離脱し、南方の諸族の取込み工作を開始する。山門の混乱を避けるため、手研は策を施し、狭野姫と入彦を片丘の邸へ招く。向かう。片丘への道中で、天孫族の裏切り者として狭野姫を襲ったのは、かつて狭野姫が救った少女、香魚あゆだった。太忍の庶子である剣根もまた、父の企望の邪魔となる狭野姫と入彦を亡き者とすべく、片丘の林に潜んでいた。しかし、香魚も剣根も、狭野姫を損なうことはできなかった。


 片丘の邸では、手研がただ一人で待っていた。手研は天孫族と山門の運命を選ぶ決断を迫るが、狭野姫は決断できない。手研は狭野姫に覚悟を求め、入彦と戦う。天孫の圧倒的な力で入彦をねじ伏せた手研。彼の剣が狭野姫に迫ったとき、入彦の放った矢が手研を貫く。狭野姫と彼女への思いを抱きしめたまま、手研は逝く。狭野姫は本当に愛すべき人が誰であったかを知る。指導者を失った天孫族は、勢力を衰えさせる。暴挙の中心にいた阿曽利は山門を退去するも、捲土重来を期する。故郷の高千穂を目指した天孫族もおり、狭野姫を慕って纏向に居を移した天孫族もいた。


 手研を失った後悔と心痛から立ち直れない狭野姫は、纏向の宮居に引き籠った。山門の次なる指導者と目された入彦は、それでも山門諸族の統一のためには狭野姫が必要と考え、足繁く纏向へ通うが、狭野姫を深い悔恨の淵から救い上げることができないでいた。ある日、狭野姫の失踪を珍彦に告げられた入彦は、思い当たる場所へ急ぐ。狭野姫の失踪の秘匿を入彦に委ねられた珍彦は、天手力雄あめのたぢからおの霊力を使って宮居を巨岩で囲み、狭野姫は天の岩戸に籠ったとを人々に告げる。


 深い後悔の淵から這い上がった狭野姫は、全てを棄て、一人の人間としての旅立ちを決意し、入彦との思い出の地である鳥見山の霊畤まつりのにわを出発の地とする。彼女の心情を知る入彦は、豊城彦と豊鍬姫を連れて鳥見山へ向かう。霊畤で狭野姫と入彦は互いの心骨をなす懐かしい思い出を追懐し、共有するが、叙情は秘めたまま相互の門出を祝福する。豊城彦と豊鍬姫は、狭野姫と共に旅立つことを請う。二人の覚悟を見定めた狭野姫は、豊城彦と豊鍬姫の同道を承諾する。


 狭野姫と豊城彦、豊鍬姫の旅立ちを見送った入彦は、三輪山中の辺津磐座へついわくらを訪れ、滑らかな黒毛を持つ頼もしい友人である如虎に、狭野姫たちの護衛を依頼する。瑞籬邑に戻った入彦は、兄と姉から取り残された活人の傷心を慰めるため、新しい友人を紹介することにした。


 出雲を目指す狭野姫、豊城彦、豊鍬姫。山門に残った入彦と活人。二つの道にわかれた彼らは、それぞれの物語を創ってゆく。


  ≪是非ご一読ください。ご感想、ご評価をいただけましたら幸いです。≫



<人物紹介>


 豊城彦とよきひこ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。


 豊鍬姫とよすきひめ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。


 入彦いりひこ

 磯城族の氏上このかみ厄災やくさいを乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主あがたぬし


 美茉姫みまつひめ

 入彦の妻。明るい美しさの女性。しとやかであり、闊達でもある。


 活人いくめ

 入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。


 大彦おおひこ

 入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。


 石飛いわたか

 磯城族の青年。入彦の舎人とねり


 百襲姫ももそひめ

 磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。


 翠雨あおさめ

 入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。


 如虎にょこ

 黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。


 かける

 豊鍬姫になついている熊鷹の子。


 狭野姫さのひめ

 天孫族の氏上。兄から天津彦あまつひこを継ぐ。今は磐余彦いわれひこを号している。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。


 手研たぎし

 狭野姫の年上の甥。常に狭野姫を支えている。狭野姫が唯一甘える人物。入彦に狭野姫を託して逝く。


 珍彦うずひこ

 狭野姫の忠臣。手研の盟友。


 道臣みちのおみ

 狭野姫の忠臣。手研の盟友。


 吾曽利あそり

 天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。


 太忍ふとに

 葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。


 剣根つるぎね

 太忍の庶子。自分と母を棄てたも同然の父を見返そうとしている。


 五瀬いつせ

 狭野姫の長兄であり、手研の父。高千穂族とともに東の真秀場まほろばを目指し、天孫族を号する。初代の天津彦あまつひこ


 五十鈴媛いすずひめ

 五瀬の後妻。出雲族の出身で、製鉄技術者集団と縁が深い。手研にとっては、同年代の継母。


 香魚あゆ

 両性具有の人。神々も魅了する美しい瞳を持っている。



<用語>


 高天原たかまがはら:天上世界


 豊秋津島とよあきつしま:物語の舞台


 葦原中国あしはらのなかつこく:豊秋津島の別名


 山門やまと:豊秋津島のほぼ中央に位置する地方


 青垣山あおがきやま:山門の周囲を囲む山並み


 筑紫洲つくしのしま:豊秋津島の西部にある大きな島で、白日しらひ豊日とよひ建日たけひ日向ひむかの四地方を持つ


 しん:西の海の果ての大陸にある巨大帝国


 氏上このかみ:一族の族長


 天神地祇あまつかみくにつかみ八百万やおよろずの神々


 祖霊おやたま:祖先の霊魂 氏上は死ぬと神上かむあがって祖霊となる


 精霊すみつたま:森羅万象に宿る魂 


 魑魅すだま:山林の異気から生まれた邪霊


 厄災まがこと:山門を呪いによって支配していた饒速日にぎはやひの体制を瓦解させた大災


 剋軸香果実ときじくのかぐのこのみ:高天原の神々が下界に投げ捨てた邪心が凝固したもの いつか高天原に帰ることを望み、時を戻す霊力を蓄えるため大地に寄生して石の花を咲かせる

 玉垣は玉籬とも書き、神社の境内や社殿に巡らせる垣根を指すが、玉のように光り輝く清らかな垣ということだ。


 山門に暮らす人々は、山門の盆地をぐるりと巡る青々とした山並みを、青垣山とも玉籬山とも呼んで、外敵から暮らしを守ってくれる自然の長城として、親しみ、依恃してきた。


 山門諸族は、それぞれの邑に最寄りの峰を神奈備山として崇め、春日族における春日山、磯城族における三輪山がそれに当たり、族人から信仰を捧げられてきた。


 青垣山の西部の主峰といえば生馬山いこまやまであり、山門から外界へ抜ける山径がいくつかある。その中で最大のものが孔舎衛坂へ続く道であり、かつて天孫族と山門諸族との決戦が行われた。


 大日はどんな心境でこの坂を登ったのだろうか。狭野姫は、この日は山門人の気持ちになって、新緑に輝く生馬山の山径を仰ぎ見た。


 少し前まで、大日という人物は、狭野姫にとって長兄の仇であった。天孫族を率い、天津彦を名乗った長兄の五瀬は、孔舎衛坂の途中で、大日の放った矢に斃れた。


 だが今は、大日を想うとき、狭野姫の心は平穏である。それどころか、尊敬の念すらある。大日は山門に暮らす人々の祈りを一身に背負ってこの坂を登り、乾坤一擲を一矢に託したのである。


 長兄はまぎれもなく偉大であったが、大日もまたまぎれもない英雄であった。その嫡子である入彦は、山門を良く治めるに違いない。狭野姫はなんの気負いも未練もなく、この坂を超えていける。


 二人の童子と一羽の熊鷹、そして一匹の獣を連れた旅路は、想像以上に賑やかだった。


 鳥見山から生馬山の麓まで、実はそれほどの距離はない。だがその間にあるのは原野であり、橋のない川である。原野や川には至るところに神が棲み、邪霊が潜むと考えるのが通念だ。そのうえ、どこに人の呪いが施されているかしれない。呼見して邪や呪を祓い、言挙げて神の許しを得なければならないから、歩みは遅々としている。


 二夜を明して、次の朝に孔舎衛坂へ続く山径を見た。


 朝日に、近づく初夏のきらめきがある。


 木漏れ日を浴びる人影がある。その影に害意があったなら、視界に入るより前に豊鍬姫と狭野姫の呪能が感知しないはずはないが、そうならなかったということは、その影は、ただ木陰に憩う野夫のものなのかもしれない。


 ところがその人影の腰の辺りにきらめくものがあり、それが剣の柄飾であると知れたとき、はじめて危険を予感した。


 一行は足を止め、一番前に出た豊城彦は身構えた。両手に礫を持っている。彼は両手から礫を鋭く投げつけることができる。その横に並んだ如虎が黒毛を逆立てた。


 如虎は獣であるだけに嗅覚がするどく、木漏れ日の下の人影から漂ってくる匂いに覚えがあった。そしてその記憶は剣呑さを含んでいた。


「ちょっと待った。そんなに身構えないでくれ。もっともこの顔が現れたんじゃ、そうなるのも仕方がないがな」


 剣根つるぎねである。これまで密かに、幾度も狭野姫や入彦に害を与えようとし、その度、豊城彦や豊鍬姫に撃退された葛城族の男だ。豊城彦らの隠れた忠勤は人知れないが、痛手を喰わされた剣根自身、思いもよらぬ作用が働いた。葛城族の氏上このかみである父、太忍ふとにに存在を認められたいという我執の日々を反省し、何もかもを捨てて、何か崇高なものに献身したいと思わせたことがその作用である。


 しかし、剣根のそんな心境の変化を知る由もない豊城彦らは、うかつに用心を解くわけにはいかない。特に、母と兄弟を殺された翔は、鋭く鳴いて剣根への敵意を剥き出した。


 その熊鷹のあまりの剣幕に剣根がうろたえていると、豊鍬姫は翔の敵意に染まった目を向けて、


「この子の親鳥と兄弟はらかたはあなたの大猿の怪物あやかしに殺されたのよ」


 と、剣根の罪を指摘した。


「…そうだったか」


 大猿の怪物は、剣根が鏡に封じている猩々(しょうじょう)の魑魅すだまのことで、あざれと名付けている。


 母を里に残してきた剣根は、母を意識の外に置く父からの愛情は期待できず、身近に親しむべき人物がいない。戯は人の呪能によって鏡に取り込んだ魑魅であるが、剣根にとっては友であった。しかも、戯が豊鍬姫たちを襲ったのは剣根がそれを命じたからであり、その暴行に巻き込まれた熊鷹親子の災厄は、剣根にその責任がある。だが責任の所在をそう明らかにしたところで、熊鷹の子の恨みは消えず、豊鍬姫の瞳から敵意は消えないだろう。


 剣根は首にかけていた鏡の紐を解き、腰に提げていた剣を外し、それを地に置いて、その後ろで膝と手をついた。


 鏡には唯一の友が宿っているし、剣は父が唯一授けてくれた業物である。無論、父である太忍は、その一振りが父にとっての邪魔者を貫いてくれることを期待してのことだろうが、そこに父としての情が一欠片もなかったとは、剣根は思いたくない。


 いずれにしろ、剣根にとっての宝であるその二つを投げ出さぬ限り、彼の新しい道は開けない。


「その鏡と剣は、お手前方の気ままに委ねる。これでわれの赤き心の証にならぬであろうか」 


 剣根は、額を地につけた。


 数歩下がった位置と心境でその様子を眺めていた狭野姫には、土を噛むような姿勢の剣根の直向きさが自分の心のように感じられた。彼も全てを白紙にして、ただ一人の自分として生きようとしている。それは数日前の狭野姫の心情と似通っている。


「豊城、豊鍬、どうでしょう、あなた方の怒りと疑いをわたくしに預からせてもらえないかしら」


 そう提案された豊城彦と豊鍬姫は、顔を見合わせた。互いの表情に不服を認めあったが、狭野姫の従者の自覚を持っている二人は、あえて狭野姫の意に逆らうことを憚った。


日女ひめさまがそうおっしゃるのなら、あれに否やはありません」


 妹の感情を推し量りつつ、豊城彦は言った。しばらく剣根を見つめていた豊鍬姫は、やがて翔を両手に包んで、何言かを囁やき、彼の剣根への敵意を宥めた。二人の感情の所在を察した狭野姫は、


「わたくしたちの供をこいねがうのであれば、我儘は許しません。わたくしはもちもん、豊城彦と豊鍬姫にも全て従ってもらわねばなりません。できますか」


 と、声を厳しくして言った。


「どうして否やがございましょうや」


 剣根は額を割らんばかりに額づいた。


「であれば、鏡と剣をわたくしに差し出す必要はありません。それらは、わたくしたちを護るために用いなさい」


 護衛としての同道を、狭野姫は認めた。喜々とした顔を上げた剣根は、一瞬ためらったが、鏡と剣を再び身に着けた。


 見事な拵えの剣に、心のなかで羨望の眼差しを注いでいた豊城彦は、さすがに我欲を慎んだ。それは鏡に向けられた豊鍬姫の心の所作と同じであった。


 かくして、出雲を目指す狭野姫の一行は、新たな同行者を迎え、初夏間近の緑光を滴らす生馬山の山径を登って行った。溌剌と枝葉を伸ばす木々の香りが良い。風が吹く度、狭野姫たちは薫風に包まれた。この山径の向こうに吉兆を覚えざるをえない道程であった。


 峠の頂に立って眼下を見晴かすと、海原が広がった。海面は光に満々と湛えている。


 山径はここから下りとなり、木々が疎らで、道幅が広がった辺りが孔舎衛坂と呼ばれるところだ。


 ここの風景を実際に見るのは何年ぶりか。狭野姫は追憶に見る孔舎衛坂の景色は、常に悲哀の一色で描かれていた。しかし、今このときの風光の、何と多彩で色鮮やかであることか。山の緑も、海の群青も、川面の碧も、野花の黄白も、空の蒼も、全てが潤うような輝きである。


 ただそこにあるだけで涙を誘う風景が、四人と一頭一羽の旅の始まりなのだ。外界をはじめて見る豊城彦と豊鍬姫の感動はひとしおであった。


 かつて一万を超える兵士が命を砕きあった激戦の地に立ち、狭野姫はおもむろに地を祓い、天に祈った。この地を、祭りの庭としたのである。


 さすがに壇を築くことはできなかったが、狭野姫の霊妙な所作と清麗な祝詞で、そこはたちまち清浄の空間となった。


 山門の諸族が集った大祀おほのまつりの盛儀とは比較にならないことは当然ながら、大祀の清浄さを守る側とけがす側に別れていた豊城彦と豊鍬姫、剣根は、今このときの美しい光景を、それぞれの感傷に染まりながら見つめていた。


 祝詞を言挙げ終えた狭野姫はしばらく恍惚としていた。それは、狭野姫の霊が体を脱け、天神地祇と交信している時間でもあった。


 やがて霊を体に降ろした狭野姫は、霊威の灯った澄んだ瞳で豊城彦たちを見た。そしておもむろに、改名を告げた。


「わたくしは今このときから、狭野ではなく、日照ひなてるとなりました」


 その新しい名は自ら名付けたのではなく、天神地祇によって与えられたことは、この場にいた者には明らかだった。


 生まれ変わった日照は、剣根を招いた。彼女の足元に跪いた剣は、眩しげに日照を仰ぎ見た。


「御身にも新たな名を授かりました。今より御身は雄心と名乗りなさい」


 厳かに、日照は命じた。静かな声でありながら、雷鳴のような激しさを持っていた。


「ともに生まれ変わりましょう」


 一転して優しさに満ちた日照の声は、衝動に打たれた剣根の心身から震えを穏やかに拭い去った。


「ありがたく、承ります」


 額づいたとき、剣根は雄心となった。


 清麗なる女性と強健な男性とが、天神地祇から新たな名を授かり、片方は清白の両手を空に掲げ、片方は地に跪くその光景を、豊城彦と豊鍬姫とは感動と共に見た。


 名をえることは、単に呼称の変化ではなく、霊の入れ替えである。一人の人としての継続を保ちながら、人生の道を大きく踏みかえるのである。


 そうすることによって過ちや罪が浄化されるわけではないが、それでも豊鍬姫は、この小さな、しかし清楚な儀式を終えた男を、これからは雄心として受け容れようと思った。彼女の肩の上の翔も同じ思いなのか、この儀式に異を唱える鳴き声は発しなかった。


 一行は再び孔舎衛坂を下り始めた。遠くを見やれば海原に盛春の光が溢れており、視線を落とせば、径の末は花霞にけぶっている。その霞の中から、花の吐息のように吐き出された人影がある。


 人影は次々と増え、たちまち一群となった。


 百人はいるだろうか。この規模の集団移動は珍しい。黒々とした彼らの影は、しかし、不吉な予兆を伴ってはいない。


 やがてその集団が、華やかな衣装を連ねていることがわかった。旅の俳優わざおきの集団という雰囲気はない。音に聞く大真帝国の使者一行がこうか、と思わせる高貴さを醸し出している。


 異彩の集団だが、先頭の人物はいっそう異彩であった。


 仰ぐほどの長身を黄白の深衣に包み、頭頂に見慣れぬ美しいものを置いている。その見慣れぬ美しいものは、冠であるが、大真では貴族にとって当たり前の文化が、山門にはまだ届いていない。


 先頭の人物の特異さはその風容だけでなく、左肩に担いでいる異様に長い矛にも目を引かされる。その矛は天に誇るようであり、春光を黄金色に照り返している。


 よく見ればあとに続く者たちも手に手に金属器、矛であったり、鋤、鍬であったりする、を持っている。武装集団というよりも、土木集団という雰囲気を、彼らは持っていた。


 貴人に対しては、地に額づくのが山門の礼である。この地で最も尊貴であった磐余彦狭野姫の立場を捨て、礼をささげる立場に転じた自覚のある日照ではあるが、かの集団が貴人であるのかどうかの判断がつかなかった。そのため彼女たちは径を譲り、軽く頭をさげた。


 集団の先頭の人物は、すれ違う小集団の浅い礼儀に、笑顔と会釈で応えた。その所作の風韻は爽やかで、日照は、もしもこの人物が壇に立ち、天神地祇を祀ったならどれほどの人を魅了することだろうか、と甘い空想を描いた。


外国とつくにからの渡来人まいわたりひとでしょうか」


 雄心の声で、日照は空想を終えた。


「ゆく者あらば、来たる者あり。そういうことでしょう」


 真正面から答えずに、日照はそう言った。


 爽やかな余韻をあとにひくその集団を、坂の頂の向こうに去るまで見送った日照は、夢から覚めたように歩き始めた。


 麗しくも特異なあの集団は、かつての天孫族のように、しかし至って平穏に、山門に大きな変動をもたらすのだが、さしあたり、これからの日照一行には関わりがない。


 山を下りてからの世界は、豊城彦と豊鍬姫にとっては新世界である。雄心にとってもそれほど馴染みのある場所ではない。日照にとっては望郷をかき立てられる光景だ。


 生馬山麓から白肩津しらかたのとまりまではすぐだ。往時、ここに海原を埋め尽くすような天孫族の船団があり、一敗地に塗れて、死屍が海原を漂った。


 ここからの数日、日照にとっては、悲哀の縁を歩く旅となった。


 出雲へ向かうのなら、山門の四方を護る青垣山の山並みを西へ越え、原野と内地に深く切れ込んだ入江を進まなければならない。舟を持たない一行は大きく原野を迂回する。


「はじめから、青垣山を亀の目の方へ越えればよかったんじゃないか」


 野宿の夕食のあと、焚き火の側で豊城彦は妹に言った。ちなみに亀の目の方角とは北を指す。四方に大きな獣がおり、その霊獣が豊秋津島を支えているという思想が、この島の通念だ。


「馬鹿ね」


 素っ気なく兄をあしらった豊鍬姫は、翔に兎肉の切れ端を与えた。


 山門主の地位を捨て、名を新たに授かったとしても、日照こと狭野姫にとっては、過去最大の痛恨の地を踏み直さなければ、新たな旅立ちはない。孔舎衛坂を踏破することは、一種の祓除の儀式なのだ。それくらいのことが分からない豊城彦ではないが、出雲という新世界を早く見てみたい彼としては、無駄足を踏んだという思いが拭いきれず、その思いを妹と共有したかっただけなのだが、軽くあしらわれて面白くない。


 豊城彦は焚き火から距離を置いたところの大木に体を預けて休んでいる雄心の側に行った。


 雄心こと剣根は、かつては仇敵であったが、旅の仲間となって言葉を交わすうちに、意外と気が合うことが分かった。


「稽古をつけておくれよ」


 将軍木の木剣をもった豊城彦がそう言うと、雄心は素軽く立って、彼も木剣を取った。


 豊城彦は、雄心から剣の手ほどきを受けるようになっていた。豊城彦には武人への憧れがある。父である入彦は多忙であるし、最側近の石飛いわたかはおっかなさすぎるし、大伯父の大彦は暇そうだが腕力は人外で稽古にならない。


 その点、雄心は豊城彦の剣の師匠として適任だった。密かに兄が欲しいと願っていた豊城彦にとって、願いが二つ、同時に叶った思いである。


 木剣の音を林間に響かせる二人を眺めて、豊鍬姫と翔は鼻を鳴らすが、日照は微笑ましく思った。


 兄たちにねだって剣の稽古をつけてもらった幼き日の思い出が、日照の見つめる火影によみがえる。 


 原野を歩き、小川を渡り、未知の霊や他族の呪いを祓ってゆく旅だ。


 出雲へ向かうには、まず吉備を通らねばならない。針間と呼ばれる地の、大きな川を渡ると、そこからは吉備である。

 今からおよそ二千二百五十年前、中国戦国時代に終焉をもたらし、統一国家を樹立したのが秦です。


 大人気漫画のキングダムでは、進歩的で英明な秦王の政と有能で魅力的な大将軍たちが大戦を勝ち抜く光景が描かれていますが、もちろん史実はそれほど痛快ではありません。


 秦は天下統一の機運を掴み、離しませんでしたが、じつは同じような機運は他の国にも訪れていたのです。


 天下統一の機運を最初に掴みかけたのは魏です。しかし魏は呉起や公孫鞅(商鞅)、孫臏といった天才を活用できず、逃しました。


 楚は最大の版図を有しながら、成長と改革を忘れ現状に甘んじてしまいました。結果、秦の縦横家、張儀の甘言に騙され、振り回されて天下統一競争から脱落しました。


 孟嘗君田文を宰相に据えた斉は、一時、東帝を号するほどに強盛となりましたが、その勢いに驕り、燕を騙し討ったあたりから評判を落とし、孟嘗君を迫害したことで、滅亡寸前に追い込まれます。


 趙は胡服騎射で有名な武霊王の時代に黄河以北を席巻し、あわや中華の北半分を領するほどになりました。武霊王の脳裏には秦を討ち、楚を平らげ、斉と決戦する大戦略が描かれていたかもしれませんが、その空想は結局妄想に終わり、継承者問題をこじらせた結果、餓死する羽目となりました。


 韓には、ほかの国ほど明確な天下統一の機運は訪れませんでしたが、誰も気づかない速さで通り過ぎたのかもしれません。


 ほかの国々をすり抜けた天下統一のチャンスは戦国七雄のうち秦を最後に訪れ、そこに留まったのです。


 もしも、魏が過去の栄光や自尊に固執せず、謙虚な姿勢で優れた人材を活用しきれていれば、中華初の統一国家は魏であったかもしれません。


 古人は、捨てることは得ることに勝る、と言ったそうですが、今の世にも考えてみたい至言かもしれません。


 ところで、天下統一を果たした秦ですが、ご存知のとおり、わずか二代で滅亡し、漢に取って代わられます。秦王政は、万代皇帝となることを志向して始皇帝を名乗ったそうですが、滅亡はあまりにも早すぎました。秦もまた、得たものを捨てることはできなかったようです。このあたりを、キングダムは描くのかどうか、とても興味があります。


 漢書では、秦の将軍の李信が燕の太子丹を捉えたと書かれていますから、キングダムでは太子丹が放った刺客の荊軻の凶刃に秦王政は斃れ、信は太子丹を捕らえてその仇を討つというストーリーかもしれません。それからの秦王は影武者か何かでなければ、あの名君の政が暴君といってよい始皇帝に豹変することはちょっと想像ができません。


 ともあれ、全てを捨てた日照こと狭野姫の物語を描いていきたいと思います。

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