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山門編-初国知らす王の章(23)-吉備梟帥(2)

<これまでのあらすじ>


 俳優わざをきの少年と黒衣の少女、そして多くの人の活躍と犠牲で厄災まがごとを乗り越えた山門は、再び試練の時を迎えようとしている。


 橿原かしはらに宮を築いた天孫あめみま磐余彦狭野姫いわれひこさのひめは、建御子たけるみことして人々に称えられる自分と、磯城族の入彦に恋心を抱く一人の女性としての自分との狭間に悩み、そのことが天孫族に軋轢を生む。彼女を支える手研たぎしの諫言さえもしりぞけ、その間隙を突いて、葛城族の太忍ふとには山門主の地位を狙う。狭野姫は突如として纏向まきむくへの遷都を宣言する。山門の諸族は紛糾し、誓約うけひ馳射はやあてで神託を問うた結果は凶であった。天神地祇や祖霊から裏切られた思いの狭野姫は、橿原宮を去り、入彦と共に新しい天地を創造すべく纏向に向かう。その道の途中で待っていた手研は、狭野姫に決別の言葉を贈った。


 手研は初代天津彦五瀬の正妻であった五十鈴媛を手中とし、権威の象徴を得て狭野姫不在の天孫族を実効支配する。それを手研の政変クーデターと見なした葛城族の太忍は山門から離脱し、南方の諸族の取込み工作を開始する。天孫族は磯城族を仇敵とみなし、暴挙の日が近いことを五十鈴姫の歌から知らされた狭野姫と入彦は、片丘の手研邸へ向かう。片丘の麓で二人を待ち構えていたのは、かつて狭野姫が救った少女、香魚あゆだった。狭野姫の行動を裏切りと断じた香魚は、片丘に向かう狭野姫と入彦を襲うも失敗する。狭野姫は建御子としての力を失ってはおらず、変わり果てたのは自身であることを思い知った香魚を、入彦が慰める。


 太忍の庶子である剣根もまた、父の企望の邪魔となる狭野姫と入彦を亡き者とすべく、片丘の林に潜んでいた。狭野姫と入彦を秘かにつけていた磯城族の三人の童子と一匹の獣は、剣根の凶手を遮り、童子とは思えぬしたたかさと呪能で撃退する。


 片丘の邸では、手研がただ一人で待っていた。手研は天孫族と山門の運命を選ぶ決断を迫るが、狭野姫は決断できない。手研は狭野姫に覚悟を求め、入彦と戦う。天孫の圧倒的な力で入彦をねじ伏せた手研。彼の剣が狭野姫に迫ったとき、入彦の放った矢が手研を貫く。狭野姫と彼女への思いを抱きしめたまま、手研は逝く。狭野姫は本当に愛すべき人が誰であったかを知る。


 指導者を失った天孫族は、勢力を衰えさせる。暴挙の中心にいた阿曽利は山門を退去するも、捲土重来を期する。故郷の高千穂を目指した天孫族もおり、狭野姫を慕って纏向に居を移した天孫族もいた。


 手研を失った後悔と心痛から立ち直れない狭野姫は、纏向の宮居に引き籠った。山門の次なる指導者と目された入彦は、それでも山門諸族の統一のためには狭野姫が必要と考え、足繁く纏向へ通うが、狭野姫を深い悔恨の淵から救い上げることができないでいた。ある日、狭野姫の失踪を珍彦に告げられた入彦は、思い当たる場所へ急ぐ。


 狭野姫の失踪の秘匿を入彦に委ねられた珍彦は、天手力雄あめのたぢからおの霊力を使って宮居を巨岩で囲み、狭野姫は天の岩戸に籠ったとを人々に告げる。


  ≪是非ご一読ください。ご感想、ご評価をいただけましたら幸いです。≫



<人物紹介>


 豊城彦とよきひこ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。


 豊鍬姫とよすきひめ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。


 入彦いりひこ

 磯城族の氏上このかみ厄災やくさいを乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主あがたぬし


 美茉姫みまつひめ

 入彦の妻。明るい美しさの女性。しとやかであり、闊達でもある。


 活人いくめ

 入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。


 大彦おおひこ

 入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。


 石飛いわたか

 磯城族の青年。入彦の舎人とねり


 百襲姫ももそひめ

 磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。


 翠雨あおさめ

 入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。


 如虎にょこ

 黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。


 かける

 豊鍬姫になついている熊鷹の子。


 狭野姫さのひめ

 天孫族の氏上。兄から天津彦あまつひこを継ぐ。今は磐余彦いわれひこを号している。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。


 手研たぎし

 狭野姫の年上の甥。常に狭野姫を支えている。狭野姫が唯一甘える人物。入彦に狭野姫を託して逝く。


 珍彦うずひこ

 狭野姫の忠臣。手研の盟友。


 道臣みちのおみ

 狭野姫の忠臣。手研の盟友。


 吾曽利あそり

 天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。


 太忍ふとに

 葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。


 剣根つるぎね

 太忍の庶子。自分と母を棄てたも同然の父を見返そうとしている。


 五瀬いつせ

 狭野姫の長兄であり、手研の父。高千穂族とともに東の真秀場まほろばを目指し、天孫族を号する。初代の天津彦あまつひこ


 五十鈴媛いすずひめ

 五瀬の後妻。出雲族の出身で、製鉄技術者集団と縁が深い。手研にとっては、同年代の継母。


 香魚あゆ

 両性具有の人。神々も魅了する美しい瞳を持っている。


<用語>


 高天原たかまがはら:天上世界


 豊秋津島とよあきつしま:物語の舞台


 葦原中国あしはらのなかつこく:豊秋津島の別名


 山門やまと:豊秋津島のほぼ中央に位置する地方


 青垣山あおがきやま:山門の周囲を囲む山並み


 筑紫洲つくしのしま:豊秋津島の西部にある大きな島で、白日しらひ豊日とよひ建日たけひ日向ひむかの四地方を持つ


 しん:西の海の果ての大陸にある巨大帝国


 氏上このかみ:一族の族長


 天神地祇あまつかみくにつかみ八百万やおよろずの神々


 祖霊おやたま:祖先の霊魂 氏上は死ぬと神上かむあがって祖霊となる


 精霊すみつたま:森羅万象に宿る魂 


 魑魅すだま:山林の異気から生まれた邪霊


 厄災まがこと:山門を呪いによって支配していた饒速日にぎはやひの体制を瓦解させた大災


 剋軸香果実ときじくのかぐのこのみ:高天原の神々が下界に投げ捨てた邪心が凝固したもの いつか高天原に帰ることを望み、時を戻す霊力を蓄えるため大地に寄生して石の花を咲かせる



 入彦にとって、そこは辛い過去と甘い未来が錯綜する場所だ。辛さに耐え忍び、甘さに心をとろかせた終末と出発の地である。その天の下と土の上で、入彦は社会に養われていた子供から、社会の明日をつくる大人に変貌した。


 鳥見山。鳥の目のように、山門の野の広がりと川の流れを一望できる山だ。春には躑躅、秋には紅葉が美しい山でもある。今は躑躅の盛りで、山桜も薄桃色の花を春風にそよがせている。


 この山で、父を磐余砦の戦いで喪った入彦は、狭野姫に出会った。父である大日に致命傷の矢傷を与えた天孫の氏上このかみである。しかし彼女もまた、孔舎衛坂くさえさかの戦いで、愛する兄を大日の矢によって喪っていたのである。


 戦いはかくも悲しみをまき散らす。その悲しみを乗り越えるためには、新しい何かを生み出さなければならない。いなくなってしまった人々に褒めてもらえる何かを。


 怒りと恨みをぶつけ合った二人は、そのことに気がついた。


 そして入彦と狭野姫は夢幻的な夕景色の中で高揚感を共有し、新しい山門の天地を幻視した。


 その後の二人は、入彦は磯城族の氏上として、狭野姫は天孫族の氏上として、山門を消滅させるほどの厄災からそれぞれの族を守った。


 多くの犠牲の果てに厄災は消え去り、大半が原野に還った山門で、磐余彦いわれひこを号した狭野姫は新しい山門主となり、入彦は県主あがたぬしの地位を得た。


 しかし間もなく天孫族は内紛を起こし、狭野姫は最大の支持者であり、最良の理解者であり、最愛の人であった手研を自らの過失により喪った。狭野姫は、後悔の深淵に沈んだ。それでも彼女は立ち上がった。


 狭野姫のこれまでの道程が、彼女を天孫族という集団から浮かび上がらせ、真の創造主へと昇華させる命運の導きであるのなら、彼女は今こそ、本当の旅路を歩み始めるのだ。その出発地として、鳥見山ほど相応しい地は他にない。


 鳥見山の中腹に、舞台のように平らになった場所がある。そこの樹々を切り払い、山肌を清めて斎庭ゆにわとしたのは、大日である。彼はすでに命脈の尽きた身体を奮い立てて、天孫族とのたいらぎをこの地で果たしてからこの世を去った。


 その後、この場所はさらに浄められて、磐余彦狭野姫により、大祀おほのまつり霊畤まつりのにわとして使用された。


 それから一年。霊畤には草が生い茂っていたが、それほど丈は伸びておらず、清らかさはまだ残っていた。


 この地に、入彦は豊城彦と豊鍬姫を伴った。


 早朝、纏向邑で狭野姫の失踪を知った入彦は、彼女が向かった先として見当をつけた鳥見山へゆく前に、瑞籬邑へ戻った。身を浄めるためである。鳥見山の霊畤は、二度も神が降りた場所であるから、不浄の者がゆけば、咎めを受けることになる。


 沐浴を済ませた入彦の前に、旅装を整えた豊城彦と豊鍬姫が湯屋の板敷で端座していた。


「その出で立ちはどうしたことか」


 と、問われる前に、豊城彦は真摯な瞳を父に向けた。


いろもが夢をみたのです」


「うむ、人は眠れば夢を見るものだが、それがどうしたというのだ」


 入彦は豊城彦を見つめたが、豊城彦は目を豊鍬姫に転じて、返答を彼女に委ねた。 


 豊鍬姫は呪力が艶として輝く長い睫毛を伏せ、


貴人うまひとの日を追うせもや夢うつつ」


 清らかな声でそう謳うと、彼女は美しい瞳で入彦を仰ぎ見た。


霊妙くしびなるお人が、西方ひのおつかたへ向かわれるお姿を夢に見ました。わたくしは、そのお人にお仕えしとうございます」


 豊鍬姫の言葉には、ひとつひとつに玉響たまゆらの音色がある。彼女には、極めて優れた言霊の力が天資として備わっている。


(…豊がそうであったな)


 入彦は豊鍬姫の澄んだ瞳の中に、懐かしい友人の、美しくも気高い幻影を見た。


「それで、なれはいかがしたことぞ」 


 入彦は淡然とした顔つきの豊城彦に目を転じた。


いろもがゆくのなら、あれもゆくということです」


 至極当然という豊城彦の口振りだ。


 呪力の優劣という点でいえば、豊城彦の資質は、この時代の一般の感性を突き抜けるものではない。だが、豊城彦の言葉には、別の力がある。それは説得力という人の道理を服さしめるものに似ながらそうではなく、まるで人の命運を言い当てるかのような牽引力を持っている。


(御統がそうであったな…)


 淡い幻光の中の人影が一つ増えた。山門を襲った厄災と共に消え去った二つの霊魂は、豊城彦と豊鍬姫の直霊なおひに息づいている。


 豊城彦の言葉は、入彦をどこに牽引するのか。それは、別れのときへ、である。


活人いくめは連れてゆかぬのか」

 

 豊城彦の心情を察していながら、入彦はあえて問うてみた。豊城彦の言葉の力に逆らってみたいと思ったのは、子離れできぬ親心かもしれない。


「このたびばかりは、連れてまいりませぬ」

 

 何かを決断している顔で豊城彦は言った。山門の天地を微かに震わせている変化の兆しを、豊城彦は心で感じているのだ。


 豊城彦は御統の生まれ変わりだと入彦は信じている。とすれば、姿は童子でも、魂はもう大人なのだ。


「活人は恨むやもしれぬぞ」


 どんな悪さをするときも、豊城彦は活人を誘ってきた。それは多々としてとばっちりを活人にもたらし、心外の叱責を受ける羽目にもなったが、活人の日常を劇的に彩っていたことも事実だ。


「それであれば、鍛えた甲斐があるというものです」 


 臆面もなく、豊城彦は実績を誇った。


「すくなくとも、悲しむのはまちがいない」


「そうでしょうか。あいつはこれから、父上のもとでいろいろ学ばなければなりません。悲しんでいる暇はないてしょう」


 豊城彦の方が遠くを見ている。一人前の男になったと、認めてやるほかはない。


つ連の花は忘れじ山かずら」


 豊鍬姫のその清らかな詩を聴いた入彦は、豊城彦と豊鍬姫を立たせ、二人を両腕で抱くようにして湯屋から歩きだした。どこの梢で待っていたのか、鳥の羽ばたきの音が降りてきて、豊鍬姫の髪の上にかけるがとまった。


 そうして、鳥見山の躑躅の山径を登ってきたのである。


 霊畤まつりのにわの光彩に、朱が滲みはじめている。躑躅も山桜も、頬を染めたかのようである。きっと、佳人を見て、そのあまりに清らかな美しさに花木も酔っているのだろう。


 その佳人とは、狭野姫その人である。


 狭野姫は斜光が差しはじめた霊畤に佇んでいた。待人を待っていたというふうな風情である。


(ああ、われを待っておられたのか) 


 心でそう知った入彦は、ふつふつと湧きたつ激情に突き動かされそうになった。


 狭野姫はふと人の気配に気づき、背後を振り返った。そこに立つ入彦の姿を瞳に入れると、狭野姫は花が開くように微笑んだ。爽やかな春の風が彼女の眉宇から吹いてくるようで、入彦は胸中の俗な衝動が洗い流される思いだった。


(ああ…、この人は天道あまつみちを踏み渡ってゆく人なのだ)


 神々に愛された、人が独占することを許されない存在が狭野姫なのだ。しかしその悲哀から立ち上がり、天道をゆく覚悟を決めた爽やかさを、彼女はまとっている。悲哀や後悔を胸中に沈めたのではなく、細胞にまで浸透させ、命を一新させた生命力に満ちている。


「御身が、きっとここに来てくれると思っていました」


「私もなぜか、ここに磐余彦様がおられると感じておりました」


「ですが、お供を二人お連れになるとは思いませんでした」


 狭野姫は入彦の左右にいる豊城彦と豊鍬姫を順番に見て柔らかく微笑んだ。その美しさにとろけたように、二人の童子は草の上に膝を着いて狭野姫を拝した。豊鍬姫の髪にとまった翔が羽ばたきながら一声鳴いた。


「おや失礼。あなたもお供でしたか」


 狭野姫は目を細め、玉を鳴らすような声で笑った。


 狭野姫には翳も屈託もない。自尊心も重荷も使命をも取り払った、素の彼女がここにいる。


「実は磐余彦様にお許しをたまわりたいことがあって、我が子を伴って参ったのでございます」


「わたくしはもはや磐余彦の名を負うものではございません。ただのたおやめ、狭野でございます」


「では、狭野姫、お願いごとがございます」


「どうぞ仰ってください」


 そう促しながらも、あらかた察しはついているという目で、狭野姫はひざまづく二人の童子を見た。何しろ二人の童子は、狭野姫と同じく旅装なのである。


 さしも怖いもの知らずの豊城彦も、狭野姫の眼前では畏まり、躊躇いがちに入彦に目を向けた。入彦が頷くと、豊城彦は意を決して狭野姫を見上げた。


「姫様の旅のお供をいたしとうございます」


 凛とした声をあげたのは、豊鍬姫だった。言挙げは霊妙なるものへの意思の表明だ。それを奪われた恰好の豊城彦は妹を睨んだが、狭野姫の笑声を向けられた豊城彦は顔を赤らめた。


「旅の道連れは多いに越したことはないと申します。ましてこのように聡く可愛らしい仲間をどうして拒みましょうか。とはいえ、まだ年端もゆかぬ幼き身の上を、行く末もおぼろなわたくしと共にしようとするその訳を知りたいものです」

 

 言葉の始まりに穏やかだった狭野姫の瞳が次第に光の強さを増した。追われる旅ではないとはいえ、原野には人を襲う獰猛な獣もいるし、祟りを及ぼす魑魅すだまも潜む。まして狭野姫は風に吹かれるだけの名根なし草になろうというのだ。どこで花を咲かせるのか知れぬし、どこにも根付かず枯れてしまうこともある。そんな放浪者に同行を願うには、強い覚悟がいる。狭野姫の眼光は、豊城彦と豊鍬姫のその覚悟を見定めようとしている。


 たとえ愛らしき幼子であろうとも、その評価を甘くすることはできない。


 ところが、狭野姫の目の光を真正面に受け止めた豊鍬姫の瞳の輝きは、狼狽えにさざなむどころか、狭野姫に霊威を感受させさえした。


「夢を見たのです」


「どのような夢ですか」


 狭野姫は瞳の光を弱めない。同じ問を向けた父、入彦にあった慈しみを、狭野姫は厳しさの裏に隠している。


「八雲立つ、つくにの、向ゆる人の、後身うなみたまふるしゆらゆらと」


 豊鍬姫は言霊で狭野姫の問いに応えた。耳に聞こえる言葉よりも、心に染みる言霊のほうが心中にあるものを伝えやすい。


 狭野姫は瞼を閉じた。すると、豊鍬姫が見たという夢の景色が広がった。


 全てを祓い浄めたかのような春の空。湧き上がる叢雲むらぐも。そこへ辿り着こうとする人影。それが狭野姫なのだ。孤高。孤絶。それよりもこの光景に添えるべき言霊は孤独。この景色に、もしも二つの色彩が色塗られたなら。


「わかりました。共に参りましょう」


 瞼を開けたとき、まるで岩戸から日の光が差したような、厳かでありながら無辺の優しさをたたえた狭野姫の瞳があった。


「そして御身おんみは、いろもを護ろうというのですね」


 狭野姫の瞳が豊城彦へ向いた。その瞳の光に染められた豊城彦はどぎまぎしたが、


あいあれは妹とは離れぬのです」


 と、元気いっぱいに返答した。豊鍬姫の黒髪の上のかけるも一生懸命に羽ばたいて存在を主張した。狭野姫は、玉響たまゆらの声で笑った。


 その陽だまりのような場景を見守っていた入彦は、三人から少し離れて佇んでいたが、そこへ狭野姫が歩み寄った。


 狭野姫に促されて鳥見山からの景色を見ると、山門の山野は夕景だった。いつか二人で見晴かしたあのときの情景と重なった。


「わたくしは出雲へ参ります」


「豊鍬の見た夢のままでございますね」


「あなたの愛子いとしご呪能たまつわざは末恐ろしい…、いえ、これから共にゆく身、いと頼もしと申しておきます」


「私の友に御統と豊という者がおりました。二人はあの厄災まがごとに身を捧げ、豊城と豊鍬となって生まれ変わったのです」


「覚えていますよ。あの生意気な俳優わざおき男童をわらべと黒き衣の女童めわらべですね」


 狭野姫と入彦は、しばらく昔日の感傷を共有した。


 夕空にひとつの星がまたたいた。


「さて、わたくしは、出雲へ、別れた兄を追いたいと思っています」


 狭野姫には三人の兄がいる。長兄は天津彦を名乗り、天孫族を勇壮な大旅へと導いた五瀬いつせである。末兄は故郷の日向ひむかの高千穂に残り、次兄の稲飯いないは、天孫族が山門諸族に大敗した孔舎衛坂の戦いの後、天孫族の一部を率いて狭野姫と袂を分かった。風の便りに、次兄は出雲へ向かったという。


 次兄へ、天孫族の顛末を伝えねばならない。そのあとは日向へ向かい、末兄へも報告する。山門へ戻るかどうかは定めていない。


「そのような旅路となりますが、御身の愛子をお預かりして構いませぬか」


 入彦は両腕を脇に真っ直ぐに添え、腰を折って深々と頭を下げた。


 額づくのが山門の正しい礼であるが、西の海の果ての大真では、両手を胸の前で重ね、その手の輪の中へ頭を下げる作法のゆうという敬礼があると聞く。それを少し改めた作法を、入彦は山門の新しい敬礼に取り入れようとしている。


祖霊おやたま御恩みめぐみとともに、あなた様の(たっと)き教えをこいねがうばかりです」


 頭を下げた入彦の表情は隠れたが、そこに我が子の旅立ちを案じ、空虚を悲しむ親の傷心が現れていないはずはない。そこを汲み取った狭野姫は努めて明るい声を出し、


「高天原に神留かみどまましま産土神うぶすながみの産みたもうた山の端、野の末に至るまで、諸々の禍事罪穢まがごとつみけがれを祓へたまい、清めたまい、幸いのふるふると、みさちのさやさやと恵みたまわらんことを」


 と、朗らかに言挙げた。

 

 入彦の心の目に映っていた我が子の未来へかかる白霧がきれいに払われ、青空を仰ぎ見た心地だった。入彦はもう一度、深く頭を下げた。


 夜のあおぐろさが樹木の幹を染めはじめると、天空には零れ落ちんばかりの星々が瞬く。


 四人と一羽は、今夜はこの霊畤で明かすことにした。大祀の際に建てていた仮宮はまだ残っており、夜露や春夜の寒さは十分にしのげる。


 御統がそうだったように、山にいれば、豊城彦が野兎や野鳩やらを捕まえてくる。豊鍬姫には、山菜の生えている場所が見えるようで、両手に山のように抱えてくる。狭野姫と入彦はただ座っているだけで、山の恵を食することができた。


 酒はなかったが、小さな宴は、四人と一羽の生涯の思い出に残るほど、愉快で楽しい時間だった。


 春宵一刻値千金と詠んだ詩人がいたように、またとない貴重な夜が更け、そして夜が明けた。


 早朝、山肌の呼吸で白く染まった大気を吸いながら、四人と一羽は連れ立って鳥見山を下りた。


 麓が近づくにつれ、大気は澄明となり、やがて野が広がった。西へ向かうみちと北へ向う径がある。


 ここはそれぞれにとって新しい一歩を踏み出す地である。


 入彦は、豊城彦と豊鍬姫とを順番に強く腕に抱き、門出を祝った。そして、西へと向かう三人の影を見送り、その影が風景にとけたとき、入彦も彼の新しい一歩を北へと踏み出した。


 入彦は瑞籬邑へ戻ると、真っすぐに宮へ向かい、妻であり、豊城彦と豊鍬姫の母である美茉姫に、二人の出発を伝えた。


 美茉姫は二人の子からすでに意向は聞いていたが、実際の旅立ちを聞くと、瞳を潤ませた。実子でないとはいえ、彼女も懸命に育ててきたのである。やがて静かに二人の未来を言祝いだ。


 入彦は御霊屋おたまやへ入って、百襲姫ももそひめにも事の顛末を報せた。ここでも言祝ぎの言霊を聞いた入彦は、そのあと、愛馬である翠雨あおさめの背に乗って、三輪山へ向かった。


 三輪山の森に入ると、入彦は翠雨の背を降り、手綱を引いて歩いた。


 聖域に近づくにつれ、山の空気が研ぎ澄まされてゆく。


 三輪山の神坐かみくらのひとつ、辺津磐座へついわくらに、入彦は黒毛の獣を訪れたのだ。


 木漏れ日を受ける黒毛を艶立たせたその獣は、入彦が近づくのを感知すると、首をもたげた。力強く、そして優しげな黄金色の瞳が入彦を迎えた。


 如虎にょこである。御統と豊の思い出を共有できる数少ない友だ。


 入彦は如虎に、豊城彦と豊鍬姫、そして狭野姫の警護を依頼した。いつ終わるとも知れぬ旅への出立を伴う依頼だが、如虎は快く引き受けた。ちょうど彼も山中の長閑な生活に飽き、未知の地への好奇心を沸かせていたところであった。


 如虎はしなやかな動作で磐座を下りると、側にいた狸や鹿などの仲間に別れを告げ、そのまま樹々の陰の中に消えていった。


 懸念をひとつ解消した入彦は、中津磐座、奥津磐座を巡って、磯城族の祖霊に狭野姫たちの旅の無事を祈った。


 夕刻、宮に帰った入彦は、活人をへやに呼んだ。


 入彦の前に膝を揃えた活人は、濃い喪失感にくるまれていた。母からすでに委細を聞いているのだろう。


いろえいろねをひとときに喪ってしまったと思っているか」


 そうではない、と諭してやりたかったが、まもなく漸く六歳になろうかという活人には、その理解は難しいだろうという慮りもあった。ちなみに、豊城彦と豊鍬姫は活人とは血がつながっていないから、本来は庶兄ままえ庶姉ままねと呼ぶべきだが、三人の親愛は血のつながりを越えている。


には友だちがいません」


 うつむいて、それだけを絞り出した活人は、膝に置いた手の甲に涙を落とした。


 氏上このかみの嗣子に真の友はできにくい。まして活人は奥手で、積極的に同年代の子の輪に入ろうとはしない性格だ。とばっちりを受けることが多いとはいえ、豊城彦と豊鍬姫は、活人が本心でぶつかれる存在で、尊敬し、憧れている兄と姉だったのだ。


「友だちをふたり引き合わすことはできないが、ひとりならなんとかなりそうだ」


 思いがけない父の言葉に、活人の顔があがった。


「翠雨の子は、いましほどの子であれば乗せて走れるくらいの歳になっただろう」


 その言葉の意味がわかったとき、活人の頬に少し赤みが差した。


 翠雨に、仔馬が生まれていた。活人はそれを欲しがったが、父の許しが得られていなかった。


 それが得られたことで、活人の喪失感が埋まることはなかったが、翌日から活人は仔馬と共に野原を走り廻るようになった。活人は仔馬が許すまで、その背にはまだ乗らないと決めていた。


 さて、西へ向かった豊城彦たちは、如虎を同行者に迎えて大いに意気を高めた。ところが、もうひとり、思いがけない同行者が彼らを待っていた。

 「みち」という言葉に当てはまる漢字には、道、路、径、途があります。同じ音なのに、それを表す文字が四つもあり、それぞれに異なる意味があるところが漢字文化圏の魅力ですよね。


 あくまで私の理解ですが、「道」は人がある目的(どこかに到達するという)を持って敷設するもので、古代では魔を祓う意味で異民族の首を始発点に埋めたそうです。


 次にまちなかの通りという意味になるのが「路」です。街路とか朱雀大路とかですね。


 そして自然発生的に生じるのが「径」です。人や獣の往来がそのまま通りとなったようなもので、小径や山径などです。


 「途」は少しこれまでのものとは意味が違い、物理的な通りというよりは、手段や方法を表すものです。


 発達段階順にならべれば、自然に踏みならされた径、目的を持って遠隔地まで敷設された道、街を区画するために整備された路という順になるのではないでしょうか。


 さて、我が国最古の「道」とされているのが、奈良県の山のの道です。三輪山みわやまの麓から春日山かすがやまの麓へと、奈良盆地の東の山裾を縫うように続く古道です。日本書紀の崇神天皇の条にも記載のある由緒ある古道です。


 この道を当時中学一年生の息子と歩いたのは、五年前のことです。息子にはよい迷惑だったかもしれませんが、日本書紀や古事記の伝承を息子に聞かせながら歩いた山の辺の道は、朗らかな日和も相まって、とても良い思い出として残っています。


 物語の中で入彦や狭野姫が歩んだみちは、おそらく「径」だあったろうと思いますが、古代人が歩いたであろう同じ道を歩むことに、たまらない浪漫を感じました。


 いつか熊野古道も歩いてみたいと思っています。

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