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山門編-初国知らす王の章(21)-騒ぎ立つ木の葉(13)

<これまでのあらすじ>


 俳優わざをきの少年と黒衣の少女、そして多くの人の活躍と犠牲で厄災まがごとを乗り越えた山門は、再び試練の時を迎えようとしている。


 橿原かしはらに宮を築いた天孫あめみま磐余彦狭野姫いわれひこさのひめは、建御子たけるみことして人々に称えられる自分と、磯城族の入彦に恋心を抱く一人の女性としての自分との狭間に悩み、そのことが天孫族に軋轢を生む。彼女を支え続けてきた手研たぎしの諫言さえもしりぞけるようになり、その間隙を突いて、葛城族の太忍ふとには山門主の地位を狙う。


 狭野姫は突如として纏向まきむくへの遷都を宣言する。山門の諸族は紛糾し、誓約うけひ馳射はやあてで神託を問うた結果は凶であった。天神地祇や祖霊から裏切られた思いの狭野姫は、橿原宮を去り、入彦と共に新しい天地の想像を企図し、纏向に向かう。その道の途中で待っていた手研は、狭野姫に決別の言葉を贈った。


 手研は初代天津彦五瀬の正妻であった五十鈴媛を手中とし、権威の象徴を得て狭野姫不在の天孫族を実効支配する。それを手研の政変クーデターを見なした葛城族の太忍は山門から離脱し、南方の諸族の取込み工作を開始する。


 天孫族の決起が近いことを五十鈴姫の歌から知らされた狭野姫と入彦は、片丘の手研邸へ向かう。片丘の麓で二人を待っていたのは土の兵士たちであり、操っていたのは、かつて狭野姫が救った少女、香魚あゆだった。狭野姫に捨てられ、裏切られたと思い込んだ香魚は、片丘に向かう狭野姫と入彦を襲うも失敗する。狭野姫は建御子としての力を失ってはおらず、変わり果てたのは自身であることを思い知った香魚を、入彦が慰める。


 太忍の庶子である剣根もまた、父の企望の邪魔となる狭野姫と入彦を亡き者とすべく、片丘の林に潜んでいた。狭野姫と入彦を秘かにつけていた磯城族の三人の童子と一匹の獣は、剣根の凶手を遮り、

童子とは思えぬしたたかさと呪能で撃退する。


  ≪是非ご一読ください。ご感想、ご評価をいただけましたら幸いです。≫



<人物紹介>


 豊城彦とよきひこ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。


 豊鍬姫とよすきひめ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。


 入彦いりひこ

 磯城族の氏上このかみ厄災やくさいを乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主あがたぬし


 美茉姫みまつひめ

 入彦の妻。明るい美しさの女性。しとやかであり、闊達でもある。


 活人いくめ

 入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。


 大彦おおひこ

 入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。


 石飛いわたか

 磯城族の青年。入彦の舎人とねり


 百襲姫ももそひめ

 磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。


 翠雨あおさめ

 入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。


 如虎にょこ

 黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。


 狭野姫さのひめ

 天孫族の氏上。兄から天津彦あまつひこを継ぐ。今は磐余彦いわれひこを号している。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。


 手研たぎし

 狭野姫の年上の甥。常に狭野姫を支えている。狭野姫が唯一甘える人物。


 珍彦うずひこ

 狭野姫の忠臣。手研の盟友。


 道臣みちのおみ

 狭野姫の忠臣。手研の盟友。


 吾曽利あそり

 天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。


 太忍ふとに

 葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。


 剣根つるぎね

 太忍の庶子。自分と母を棄てたも同然の父を見返そうとしている。


 五瀬いつせ

 狭野姫の長兄であり、手研の父。高千穂族とともに東の真秀場まほろばを目指し、天孫族を号する。初代の天津彦あまつひこ


 五十鈴媛いすずひめ

 五瀬の後妻。出雲族の出身で、製鉄技術者集団と縁が深い。手研にとっては、同年代の継母。


 香魚あゆ

 両性具有の人。神々も魅了する美しい瞳を持っている。



<用語>


 高天原たかまがはら:天上世界


 豊秋津島とよあきつしま:物語の舞台


 葦原中国あしはらのなかつこく:豊秋津島の別名


 山門やまと:豊秋津島のほぼ中央に位置する地方


 青垣山あおがきやま:山門の周囲を囲む山並み


 筑紫洲つくしのしま:豊秋津島の西部にある大きな島で、白日しらひ豊日とよひ建日たけひ日向ひむかの四地方を持つ


 しん:西の海の果ての大陸にある巨大帝国


 氏上このかみ:一族の族長


 天神地祇あまつかみくにつかみ八百万やおよろずの神々


 祖霊おやたま:祖先の霊魂 氏上は死ぬと神上かむあがって祖霊となる


 精霊すみつたま:森羅万象に宿る魂 


 魑魅すだま:山林の異気から生まれた邪霊


 厄災まがこと:山門を呪いによって支配していた饒速日にぎはやひの体制を瓦解させた大災


 剋軸香果実ときじくのかぐのこのみ:高天原の神々が下界に投げ捨てた邪心が凝固したもの いつか高天原に帰ることを望み、時を戻す霊力を蓄えるため大地に寄生して石の花を咲かせる

 弱い冬の日差しに、にわかに赤が滲んだ。冬の日は短いが、さすがに日暮れにはまだ早かろうと訝しげな眼差しで背後を振り返った狭野姫の視界に、遠い炎があった。さきほど通り抜けた林が白煙を噴き上げている。


 思いがけぬ火の手に、狭野姫の秀麗な眉目は警戒の色を濃くしたが、その彼女に入彦は物知り顔の笑みを向けた。入彦には、林に立った火の手の事情に、大方の見当が付いている。


「活きがよすぎる童子わらべらの火遊びは、ときに加減たしひき忘れるようで、頭の痛いことです」


 入彦は、豊城彦と豊鍬姫、そして活人が跡をつけてきていることを察していた。気配を感じたというよりも、あの三人組の嗅覚が、狭野姫と入彦の密かな、しかし山門の行く末に大きな影響を与えうる催事イベントを嗅ぎつけないはずはないという父親としての洞察がある。また山門の命運をたどる道ともいえる手研邸への片丘の坂に、立ち塞がるのが埴土はにつち使い一人だけではないはずだという、厳しい試練を乗り越えた者の予感もある。その洞察と予感を掛け合わせると、見えてくる場景がある。


御身おんみのお子のことですか」


 入彦の子どもたちを見たことがある。危なっかしさはあるが、元気で素直な子どもたちだ。あの子たちが暮らす磯城族の邑は、さぞ賑やかなことだろうと、想像するだけで頬がゆるむ。ただ、入彦がそうとは言わぬのに、彼の頭を痛くする童子と聞いて、勝手に豊城彦達を想ったのは、失礼といえば失礼だ。しかしながら、正解であるため、入彦としては笑うしかない。


(どちらにしろ、あの火の中にいては、危ないのではないかしら)


 狭野姫の想いは別の危うさに移動したが、入彦はそれほどの危機感はない。活人は多少心もとないが、豊城彦と豊鍬姫がいて、火に巻かれるような愚を犯すはずはないし、もうひとり頼もしい助っ人がいることも知っている。


「お気づかいには及びません。吾が子らには守り神が付いているおりますゆえ」


 実は、入彦は昨宵、懐かしい友人の訪問を受けた。それは、如虎である。物陰からちらりと姿を見せただけだが、入彦には彼の来訪の意味が分かった。


 思えば不思議な獣である。元はと言えば、輪熊座という旅芸団に飼われていた気の弱い獣だった。それが、共に稀有の言霊使いと云うべき黒衣の少女と友になり、共にあの厄災を乗り越えたことによって、彼は獣王の風格を身に着けた。黒豹という、山門には棲息していないはずの獣を、輪熊座がどうやって捕らえたのか、その由来は知らない。だが、輪熊座の親方が実は大山祇おおやまつみという地祇くにつかみであったことを考えると、如虎も霊獣ではないのか、と入彦は思う。その大山祇は、あの厄災の被害を抑えるため、伴侶と云うべき鹿屋野姫かやのひめと共に破滅の大渦に飛び込み、姿を消した。その哀悼はまだ哀悼のままであるが、それはともかく、如虎が側にいる以上、余計な心配は不要である。


「参りましょう」


 入彦は笑みを消した容貌で、面差しに危惧を残した狭野姫を促した。手研邸の門はすでに見えている。背後の火よりも前面の罠をこそ怖れねばならない。本当の危険はここからのはずだ。


 ところが、二人を迎えた門は、すでに開け放たれており、呪飾が施されている様子もない。警戒を怠らず、二人は門内に入った。


 前庭を進み、邸内に入っても人の気配はない。


 橿原宮や手研の邸がある畝火山うねびやま一帯の警護は、道臣が担っている。彼が役目を怠るような人間でないことを、入彦は知っている。


 狭野姫と入彦に迫る危険を暗示した五十鈴姫の歌には、


「昼は雲と居」 


 とあった。確かに、衛士も家人も、雲上に遊びに出かけてような無防備さだ。入彦は警戒を強め、足を止めた。次は、狭野姫が手研の意図を洞察しなければならない。


 手研は、何か重大な決断をしたに違いない。狭野姫はそう直感した。


 亡父の正妻であったまだ女盛りの五十鈴姫を手中に入れた手研を忌避し、非難する声はある。だが、あの誠実を良心で編み込んだような人格を持つ手研が淫猥に駆られて義母を奪うようなことをするはずはない、と狭野姫は確信している。


 夜逃げのように狭野姫が橿原宮を去り、裏切られた思いの天孫族は、年魚だけではないだろう。天孫族の動揺を抑えるために、悪名を被る覚悟で、手研は亡父の正妻という権威を手中にしたのだろう。やましい欲望があったはずはなく、五十鈴姫を邸内に入れず、彼女の願うまま狭井河の辺に住まわせている事実が手研の心の潔白を明らかにしている。


 すべての悪因は自身の我儘にある。狭野姫は忸怩たる思いにさいなまれるが、入彦を思慕する己の声を無視することはできない。


 手研は何を自分に告げようというのか。邸内が全くの無防備であることに、畝火山一帯の警護責任者である道臣が決して任務を疎かにする人間でないことを入彦以上に知る狭野姫は思いを馳せなければならない。考えてみれば、彼女が逃げ込んだ纏向邑を預かる珍彦が、彼女の密行を見逃すはずがない。彼が狭野姫に寄せる忠心は彼女もよく知るところだ。それらの事実を考え合わせると、盟友である手研と道臣、そして珍彦は、意志を通じ合い、今日の舞台を整えたのだ。年魚や林で上がった火の手の要因は手研たちが仕込んだものではなく、彼らの真意を預かり知らぬ部外者の便乗であったに違いない。


「ここに怪しさはありません。進みましょう」


 今度は狭野姫が入彦の用心を解いた。


 この邸は、竣工のときの祝いで手研に招かれたことがあったため、狭野姫は勝手を知っている。手研は狭野姫のための一室を邸内に設けており、おそらくはそこで手研は待っているのだろう、と見当をつけた。


 灯火ともしびは少ないが、まどの多い邸である。公明正大な手研の人柄が表されている。しかしそこから差し込む冬の日差しは微弱で、邸内の闇を祓うことはできない。その闇の中に、潜められた呪いはない、と狭野姫は見極めた。


 邸内を二人は進む。広いが装飾は乏しい。これも淳朴な手研らしい。そしてたどり着いた一室は灯火に満ち、二人は待つ人影を見た。


 その部屋だけに、洗練された装飾が施されている。原色の壁画は輝くばかりで、柱に刻まれた霊獣は踊りださんばかりだ。


「ようこそお越しくださいました」


 部屋の奥に端座していたのは手研だ。


 手研は短甲を身に着けて剣を膝前に横たえ、首には強い光沢の鏡を提げている。それが御稜威みいつなる霊異を秘めた鏡であり、狭野姫の真金鏡まがねのかがみに並ぶ天孫族の宝鏡、真経津鏡まふつのかがみであることは、一目で分かる。その出で立ちは、この場が話し合いで終わることがないことを明示している。


「つつがなくお見受けいたします」


 狭野姫は穏やかな口調で手研の周囲の剣呑けんのんとした雰囲気を溶かそうとしたが、うまくいかなかった。手研は床に落としていた視線をおもむろに上げ、狭野姫の瞳を直視した。その視線の険しさに、狭野姫はたじろいだ。かつてそのような眼光を、手研から向けられたことのない狭野姫だ。


日女ひめ様、いえ、磐余彦いわれひこ様。ことはもはや止まらぬところへ進んでいます」


 手研の声に温もりがない。まるで初めてまみえる人のようだ。


「なにが、止まらぬのですか」


 狭野姫は裳に添えた両拳を握りしめた。あかたも天涯孤独の地に立ったような不安があった。


天孫あめみまが瑞籬邑を伐つ、ということをです」


 五十鈴媛の歌にあった、木の葉騒ぎぬ風吹かむとす、とはまさにこのことを歌っていたのだ。


「たれが…、たれがそのようなことを天孫に命じたというのです」


「吾でございます」


 平然と手研は言い、狭野姫は目を見開いた。


「天孫のつわものどもは残らず、畝火山うねびやまの麓に集まり、吾の命を今や遅しと待ち構えています。この一挙おこないでいらぬ狼狽えを生まぬよう、道臣と珍彦に命じて諸族を見張らせています」


 粛然と手研は現況を告げた。この邸に衛士が一人もいないのも、道臣が彼らの全てを率いて山門を巡回しているからだ。狭野姫は、赤い唇を戦慄わななかせた。


「そのようなこと、わたくしは決して許しませぬ」


「天孫を棄てられた方に、何の許しがいると申されるのですか」


 ここで手研は声に笑いを含めた。狭野姫の我田引水を言下に退ける笑いだ。


「わたくしは天孫を棄ててなどおりませぬ」


「そう受け取り、怨みに思う者が多いということです」


 手研の言葉に温かさはない。


「磯城族は、やすやすとは伐てませぬよ」


 入彦は、論理的優位に立とうとする手研を揺さぶってみた。かつて天孫族の大軍を前に一歩も引かず、和平まで持ち込んだ磯城族の不屈さは、そのときの天孫族の指揮官の一人であった手研であれば、骨身に知っているだろう。


「だが、いまは大日殿は亡く、磯城の暴風あからしまかぜは瑞籬邑を離れていよう。そして、よすがたるべき御身は、今ここにいる」


 入彦の目論見を弾くように手研は応えた。磯城の暴風とは大彦のことだ。大日、大彦、そして入彦のいない磯城族は決して不屈ではない、と手研は言っている。天孫族、そして磯城族の状況をもっとも熟知しているのは、手研であった。


「ですが、この痴れ事を止める方法はあります」


 手研は狭野姫に向き直った。


「それは…」


 縋るものを探し求めるような目で、狭野姫は手研を見た。


「吾をここで殺めることです」


 狭野姫は絶句した。


 確かに手研が斃れれば、天孫族に号令する人間はいなくなる。吾曽利あそりは有力者だが、天孫族を率いるほどの人望はない。しかし、襁褓むつきに包まれていた頃から、兄代わり、父代わりとして、いつも我が身を案じ、いつも助けてくれた人を、殺めることなどどうしてできようか。手研がいなくなるということは、狭野姫にとって天地がなくなることと同じことなのだ。


「入彦殿、御身が付き添ってくれて本当に良かった」


 手研は入彦に微笑みかけた。雑味のない澄明な笑みであったが、その意味は重い。


「見晴らしの良いへやがあります。そちらへ参りましょう」


 手研は素軽く腰を上げ、何気に剣を拾い上げて左手に数歩進み、そこにある戸を開けた。灯火のある廊下が見えた。


 この房は狭野姫を迎えるために設えた清浄の空間であり、ここを穢すことを手研は避けたいのだろう。そう考えた入彦は、固まった狭野姫の手を取らんばかりに随伴し、戸を抜けた。


 手研は素早く足を送って前に出て、二人を案内した。廊下は階に繋がった。高殿を上ってゆくらしい。


 眼前に鮮やかな夕景が広がった。屋根だけを建てた高殿の露台である。山門を囲む青垣山を染めながら夕日が落ちていく。その方角には、天孫族の故郷、筑紫の日向ひむかの高千穂がある。


 狭野姫と手研は、胸に去来するものを味わいながら、静かに夕景色に見入った。入彦は、二人の感傷の波がぐのを無言で待った。


「さて、大真に、天にニ日なし、という言葉があります。天孫の日をひとつに決めましょう」


 手研が言った。狭野姫に反論の隙を与えぬ早さで入彦を振り向き、


「吾と磐余彦様では剣を交えることはできない。そこで、御身に代わっていただく」


 手研はすでに剣を抜いている。天孫族の秘術であるくろがねを鍛えた剣だ。


 入彦も剣を抜いた。天孫族の内輪揉めに付き合う義理はないが、手研の意志も、狭野姫の願いも捨てることはできない。


 入彦の剣はあかがねだ。強度は鉄に劣るが、呪言が鋳込まれている。それも百襲姫ももそひめの呪言であるから、鉄をも砕く。


 手研と入彦の間合いが狭まってゆく。


 狭野姫は制止の声を絞り出そうとした。こんなことをせずとも、自分が磐余彦の名を捨て、天津彦の名を手研に譲れば済むことではないか。だが、天孫族、そして山門の諸族が知る狭野姫の神々しい姿を忘れ去るには、名号の譲渡では済まない。それを狭野姫に分からせるため、手研は裂帛の気声で、狭野姫の身動みじろぎを止めた。


 手研と入彦の剣の切っ先が触れた瞬間、二人は同時に跳躍し、剣刃を撃ち合わせた。火花が散り、二人も飛び退った。手研が言霊を唱えると、真経津鏡が輝き、火箭を放った。炎の矢が、入彦の残影を次々に射抜いてゆく。危うく顔面を襲った火箭を、入彦は剣で祓った。


「その気迫こころのいきおい、その身のこなし、さすがに大日殿の血筋よな」


 孔舎衛坂で、磐余砦で、立ちはだかった憎むべき敵将の姿を、手研は懐かしく想った。


「なれども惜しいかな、なれは地に生える青人草あおひとくさに過ぎぬ。天孫の御稜威みいつなる力では、ただまつろうしかない」


 真経津鏡が光を奔出させた瞬間、轟音と激しい閃光が高殿の屋根を貫いた。光の中から現れたのは、巨大な剣を背負った黄金色の肌の神の姿だ。


 建御雷たけみかづちである。


「かつて吾が父五瀬は、この力でかの出雲を平らげたのだ」


 手研の自尊の大音声で、建御雷は巨大な剣を振りかぶり、入彦めがけ、高殿の床ごと斬り裂かんばかりに振り下ろした。入彦は咄嗟に、銅剣に鋳込んだ百襲姫の呪飾を二本の指でなぞりながら言霊を放った。


「金木断て布留部ふるべ、磐根裂け布留部」


 剣身が青く発光し、その剣で建御雷の一撃を受けた。


 全身が砕けたかというほどの衝撃だった。両膝をつき、そこの床に亀裂が走った。


 だが耐えた。耐え得たのは、入彦の眼前で炎のような目を剥いた建御雷が、かつて御統みすまる白銅鏡ますみのかがみに封じられていた天目一箇神あめのまひとつのかみや狭野姫の日霊ひるめとは異なり、神身そのものではなく写し身だということだ。しかしその衝撃は凄まじく、並の剣であればその剣身ごと入彦は両断されていただろう。


「さすがに耐えるか。だがそれで終いではないぞ」


 勝ちを確信する手研の口上は轟音にかき消された。


 入彦は稲妻に打ち据えられた。剣は砕け、入彦は焦げた床に倒れ伏した。それを見届けた手研は、建御雷の写し身を真経津鏡に戻した。


 入彦に息はある。気を失っていなかったが、身体が動かない。何とか立ち上がろうともがいた。その様を見下ろしながら歩み寄った手研は、鉄剣を逆さに持って、振り上げた。それが振り下ろされたとき、入彦は死ぬ。


「さて日女様。入彦殿を救うには、貴方が吾を射るしかない」


 振り向いた手研の面差しに、狭野姫は身震いした。人が人を殺めるときの霜が降りたような顔がそこにあった。


 狭野姫の視界に、入彦が置いた弓矢がある。しかし、狭野姫は立ち竦んでいた。


「弓矢を取らねば、入彦殿は死にますぞ」


 どこから異界から聞こえてくるような手研の声だ。


 ここにいるのは手研ではないのではないか。そんな妄想を狭野姫は画いた。手研は、戦場で敵兵を斃すときにすら憐憫を表す人間だ。だが今、剣をふりあげている手研に躊躇も慈悲も感じられない。あれは、畝火山に巣くう魑魅すだまが凝り固まって手研に化けた姿なのではないか。狭野姫は戦慄するばかりであった。


 ほんの一瞬、手研は狭野姫に微笑みかけた。それは、幼い頃からずっと狭野姫の側にあった優しい笑顔だった。


「日女様が吾を殺めぬのなら、吾が貴方を殺めるしかない」


 手研は剣の切っ先を狭野姫に向けた。そして彼女へ走り出す前に、手研は入彦の目を見た。電撃に貫かれるように、入彦に手研の意志が伝わった。


 手研は跳躍し、狭野姫の頭上に剣を振り下ろした。狭野姫の韴霊剣ふつのみたまのつるぎがその一撃を防いだが、弾き飛ばされた。次の一閃を辛うじて逃れたが、狭野姫は足をもつれさせ、数歩逃れて倒れた。手研が歩み寄る。


腑抜ふぬけられましたな。吾が父もさぞやお嘆きであろう」


 まさに剣刃が狭野姫の首筋に落ちようとしたとき、一矢が手研の胸を貫いた。懸命に這い進み、弓矢を手にした入彦が寸前で手研を射たのである。血しぶきが、狭野姫の白い頬で赤い滴となった。


 時が淀んだかのように、ゆっくりと手研は倒れた。彼との歳月が狭野姫の脳裏を駆け巡り、思い出が今と重なったとき、再び時が動き始めた。狭野姫の胸の一番深いところで例えようのない悲しみが炸裂し、満身を貫いた。


 あまりにも悲痛な叫びが高殿を揺るがし、虚空に響いた。狭野姫は横たわる手研にすがりついた。


「許して、ああ手研殿、どうかわたくしを許して」


 狭野姫は今にして悟った。誰を愛すべきであったかを。命の温かさを失っていく手研の頬、胸、腕をさすり、狭野姫は流れゆこうとする命を止めようとした。泣きじゃくる狭野姫を、手研の弱まる腕が抱きしめた。


「…何を謝るのですか、日女様。吾はよいときを過ごしました。こうして貴方を抱いている。何を謝るのですか、日女様」


 手研は最も大切な人を愛し抜いた。守り抜いた。彼の意思を継いでくれる者がいる以上、彼の今日は待ち望んだ今日なのだ。


「…入彦殿、こちらへ」


 手研の声は、すでに絶え絶えである。入彦も満身創痍だが、這うように手研の側に進んだ。


「…この真経津鏡を御身に…、どうか日女様を守ってほしい…」


 宝鏡と共に、狭野姫を手研は入彦に託した。明確に頷く入彦を見納めて、手研は瞼を閉じた。


 手研の瞳は暗黒を見ていない。光が溢れる高千穂の緑を見つめていた。彼の膝にしがみつき、泣きじゃくる少女がいる。その少女に、手研は歌を歌った。少女の好きな歌だ。その歌を歌えば、少女が笑顔になることを手研は知っている。


 むせび泣く狭野姫の髪を撫でながら、目を閉じたままの手研は歌を歌った。その歌声が途切れたとき、手研の時は止まった。


 主を失った邸が宵闇に沈んでも、狭野姫の嗚咽とすすり泣く声は続いた。それは夜風に流れて誄歌るいかとなり、空に届いて星々を哀しませた。


 真夜中になって手研の死を知った天孫族は、夜明けと共に瑞籬邑を襲う戦意も武器も捨てた。妄想の中にいた彼らにも容易に理解できたからである。手研を失っては、妄想すら描けない。天孫族は、海原に舵を失った船のように、行く手に惑った。


 磯城族の討伐を主唱していた吾曽利は、僅かな仲間と共に姿を消した。


 指導者を失った天孫族は、再び流浪の族となったのである。

 日本書紀や古事記に、手研耳の反逆という話があります。


 初代神武天皇が崩御したあと、生まれたばかりの大和政権を簒奪し、神武天皇の二人の嫡子を殺害しようとして、逆に後の綏靖天皇に討たれる、というのがその概略です。


 記紀における最初の悪役といってよい人物ですが、手研耳は本当にそんな悪辣な人だったのでしょうか。


 手研耳の「耳」というのは「霊々(みみ)」であり、尊称です。彼は綏靖天皇とその実兄の殺害を計画しますが、邸で一人で寝ているところを討たれることになっています。時の権力者であり、悪逆を図る人間が、そんなに無用心なものでしょうか?記紀には掲載されていない事実と真実があったように思います。


 手研耳は、神武天皇がまだ東征に向かう前に得た最初の男児です。その後、神武天皇は正妻を迎えたため、手研は庶子の身分になってしまいます。それでも彼は父の一大事業を支え続けたでしょう。神武天皇が亡くなった時点で、もっとも政治的手腕があり、経験を豊富に持ち、人望もあったのが手研耳だったのではないでしょうか。


 手研が忌避される要因の一つに、彼が継母を奪ったということがあります。しかし、古代中国でも、父や兄の妻を子や弟が妻にするということはあります。神武天皇が亡くなったとき、手研はすでに壮年であり、逆に継母はまだ若かったでしょうから、年齢的にも近かったと考えられます。父の妻を得たのは色欲からではなく、後ろ盾を失った継母を保護する目的だったのではないでしょうか。手研は継母を自分の宮に入れることはなく、狭井河の辺の別宅に住まわせていたことからもそんな想像は許されると思います。


 さて、記紀では政権の簒奪者として描かれますが、手研を支持する人はいなかったのでしょうか?むしろ彼を支持し、彼に期待する人は多かったと思います。


 記紀は年代を明確にしていないので、手研が綏靖天皇とその実兄を殺害しようとして逆に討たれたのが何年のことなのかはわかりません。しかしおそらくは三年以内のことであり、父の神武天皇の喪に服する期間です。手研耳は邸で油断していたのではなく、喪に服していたのではないでしょうか。父を陵に葬ってから速やかに事を起こした綏靖天皇と実兄は果断であったといえますが、孝行という点で少し考えたくなります。


 もちろん、綏靖天皇を支持する人たちもたくさんいたでしょう。手研耳が討たれたあと、さしたる混乱もなく治まっていることからもそう思われます。


 手研は偉大な父亡き後の政治の空白を防ぎ、手研耳を支持する派閥と綏靖天皇を支持する派閥との権力闘争を防ぐため、継母を介し、二人の弟にわざと自分を討たせたのではないでしょうか。記紀の手研耳の反逆のくだりを何度も読み返した感想はそういうことでした。


 古事記と先代旧事本紀には研耳きすみみという人物が登場します。しかし名前のみの登場で、事績や子孫に関する記事はありません。この人物の正体はわかりませんが、自ら犠牲になった手研耳の子か、そうでなければ手研耳の真実を知る人が、せめてその真実を語り継ごうとした結果ではないでしょうか。


 そんなことを想像しながら、今回のお話を創作してみました。


 2023年も押し迫りました。来年は兎年ですね。皆さま、良い年をお迎えください。

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