表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/38

山門編-初国知らす王の章(20)-騒ぎ立つ木の葉(12)

<これまでのあらすじ>


 俳優わざをきの少年と黒衣の少女、そして多くの人の活躍と犠牲で厄災まがごとを乗り越えた山門は、天孫族を中心とした諸族の新たな秩序を整えつつあった。


 橿原かしはらに宮を築いた天孫あめみま磐余彦狭野姫いわれひこさのひめは、磯城族の入彦に特別な想いを抱き、そのことが天孫族に軋轢を生む。狭野姫の慕情は彼女を支え続けてきた手研たぎしの諫言さえもしりぞけるようになり、その間隙を突いて、葛城族の太忍ふとには悪謀を巡らせる。


 狭野姫は突如として纏向まきむくへの遷都を宣言する。諸族は紛糾し、それを権力奪取の好機と捉えた太忍は、誓約うけひ馳射はやあての開催を提案し、馬合わせに策を仕込む。入彦の子の豊城彦は悪知恵を働かせ、磯城族の騎手のりてとして憧れの馬合わせへ出場する。太忍の仕込んだ策が予想外の被害を生じさせ、狭野姫に下された誓約の神託は、凶だった。


 天神地祇や祖霊から裏切られた思いの狭野姫は、橿原宮を去り、想いを寄せる入彦と共に新しい天地を創造すべく、纏向に向かう。その道の途中で待っていた手研は、狭野姫に決別の言葉を贈った。その手研の耳には、天孫族の有力者である吾曽利が指嗾しそうの言葉を囁いていた。


 手研は、初代天津彦五瀬の正妻であった五十鈴媛を訪れた。義母である彼女を手中とすることで父の権威の象徴を得た手研は、狭野姫不在の天孫族を実効支配する。それを手研の政変クーデターを見なした葛城族は、山門から離脱し、南方の諸族の取込み工作を開始する。


 ある夜、狭野姫が磯城族の瑞籬邑みずかきむらを訪れ、共に難事を乗り越える約束を入彦から得る。天孫族の決起が近いことを五十鈴姫の歌から知らされた入彦と狭野姫は、三つの小さな影に跡をつけられながら、手研の邸へ向かう。片丘の麓で二人を待っていたのは土の兵士たちであり、操っていたのは、かつて狭野姫が救った少女、香魚だった。


 母を救えなかった過去の自分の非力さを嘆いていた香魚は、熊野神の半月の術により荒ぶる男の精力を得ていた。かつて熊野の諸族を邪教から救った狭野姫の勇姿に憧れていた香魚は狭野姫に仕えていてが、その狭野姫が天孫族を捨てた。自身も捨てられ、裏切られたと思い込んだ香魚は、片丘に向かう狭野姫と入彦を迎え撃とうとしていた。


  ≪是非ご一読ください。ご感想、ご評価をいただけましたら幸いです。≫



<人物紹介>


 豊城彦とよきひこ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。


 豊鍬姫とよすきひめ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。


 入彦いりひこ

 磯城族の氏上このかみ厄災やくさいを乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主あがたぬし


 美茉姫みまつひめ

 入彦の妻。明るい美しさの女性。しとやかであり、闊達でもある。


 活人いくめ

 入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。


 大彦おおひこ

 入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。


 石飛いわたか

 磯城族の青年。入彦の舎人とねり


 百襲姫ももそひめ

 磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。


 翠雨あおさめ

 入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。


 如虎にょこ

 黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。


 狭野姫さのひめ

 天孫族の氏上。兄から天津彦あまつひこを継ぐ。今は磐余彦いわれひこを号している。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。


 手研たぎし

 狭野姫の年上の甥。常に狭野姫を支えている。狭野姫が唯一甘える人物。


 珍彦うずひこ

 狭野姫の忠臣。手研の盟友。


 道臣みちのおみ

 狭野姫の忠臣。手研の盟友。


 吾曽利あそり

 天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。


 太忍ふとに

 葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。


 剣根つるぎね

 太忍の庶子。自分と母を棄てたも同然の父を見返そうとしている。


 五瀬いつせ

 狭野姫の長兄であり、手研の父。高千穂族とともに東の真秀場まほろばを目指し、天孫族を号する。初代の天津彦あまつひこ


 五十鈴媛いすずひめ

 五瀬の後妻。出雲族の出身で、製鉄技術者集団と縁が深い。手研にとっては、同年代の継母。


 香魚あゆ

 両性具有の人。神々も魅了する美しい瞳を持っている。



<用語>


 高天原たかまがはら:天上世界


 豊秋津島とよあきつしま:物語の舞台


 葦原中国あしはらのなかつこく:豊秋津島の別名


 山門やまと:豊秋津島のほぼ中央に位置する地方


 青垣山あおがきやま:山門の周囲を囲む山並み


 筑紫洲つくしのしま:豊秋津島の西部にある大きな島で、白日しらひ豊日とよひ建日たけひ日向ひむかの四地方を持つ


 しん:西の海の果ての大陸にある巨大帝国


 氏上このかみ:一族の族長


 天神地祇あまつかみくにつかみ八百万やおよろずの神々


 祖霊おやたま:祖先の霊魂 氏上は死ぬと神上かむあがって祖霊となる


 精霊すみつたま:森羅万象に宿る魂 山林の異気から生まれたものは


 魑魅すだま:山林の異気から生まれた邪霊


 厄災まがこと:山門を呪いによって支配していた饒速日にぎはやひの体制を瓦解させた大災


 剋軸香果実ときじくのかぐのこのみ:高天原の神々が下界に投げ捨てた邪心が凝固したもの いつか高天原に帰ることを望み、時を戻す霊力を蓄えるため大地に寄生して石の花を咲かせる



 丘を登る道の並木が梢を鳴らしている。風が吹いている。冬の弱い日差しが、風の中の冷えた塵をとらえ、きらきらと輝いた。上空に寒気は流れているが、丘の麓の土は凍結をいとうかのようにうねっている。そのうねりの中から幾体もの兵が起き上がる。


御身おんみは、埴土はにつちわざを好んで学んでいましたね」


 うねりから弾けた土が、狭野姫さのひめの白い頬に当たった。


「よもや日女ひめさまへ向けて、この術を使うとは思いませんでした」


 香魚あゆの声は感情が抑えられていたが、その冷えこそが彼女の恨みの深さでもあった。


「わたくしはただ、この丘の上の手研殿の邸へ参るだけなのです」


天孫あめみまをお見捨てになられたあなた様が何用で我が新たなる氏上このかみを訪ねようというのですか。もはや磯城のはしためと成り下がった者のゆえなき押しかけは不埒の極み。懲らしめねばなるまい」


 香魚の冷えた声に棘が生じた。婢と侮辱されても、狭野姫は香魚の感情には染まらず、平静を努めた。


「わたくしに咎めを受けねばならぬ謂われはありません。ここに参ったのは、手研殿のお招きなのですよ」


虚言そらごとを弄するな。高千晴たかちはる天孫の氏上が、婢ごときをなにゆえ招こうか」


 香魚にとって、狭野姫の来訪の理由などはどうでもよい。ただ自分の憧憬を裏切られた怒りがあるだけだ。


「ああ、香魚。その顔、その声、御身の御母を奪った丹敷にしき司霊たまのつかさのようではありませんか」


 半月はにわりの術により半陽半陰の身体となったことを香魚からかつて告げられたとき、いつかこのようなときが来るのではと危惧していたが、己の行動がその引き金となろうとは思ってもみなかった。


 容姿の醜悪さを指摘された香魚は赫怒した。彼女が吐き出した、もはや人語ならぬ呪詛と化した言霊は、埴土の兵に狭野姫を襲わせた。


 土が凝固して岩の硬さとなった腕が狭野姫に振り下ろされる。その直前で、埴土の兵は土塊の脆さで砕け散った。入彦の射た矢が、埴土の兵を貫いたのだ。矢の鏃は銅ではなく、呪力が込められた勝軍木ぬりでの鏃だ。


 入彦は埴土の兵の対応に慣れている。土から起き上がる怪異な物体は、どうしても入彦に山門を襲ったあの厄災まがごとを想起させる。多くの犠牲を生じさせたあの厄災は、彼の叔父にあたる安彦が引き起こしたともいえるが、入彦はなぜか叔父を憎めなかった。叔父は叔父なりに、山門の未来を案じていたのであり、その憂慮の心を、災いの果実と呼ばれる剋軸香果実ときじくのかぐのこのみに潜む魔に操られたのだ。狭野姫を襲った人物にも、そうせざるを得ない理由があるのだろう。そういう思慮を瞳に宿した目で、入彦は狭野姫を見た。


 入彦の配慮を目元で受けた狭野姫は長い睫毛を伏せた。いくらもせぬうちに再び開いた瞳には、強い光があった。


 二人の間に事情があることを察している入彦は、敵意を緩めることのない香魚の矢面に立とうとしたが、狭野姫の白い手が遮った。そこを次の埴土兵が襲ったが、瞬く間に土塊とかして四散した。狭野姫の手には、韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)があった。


 韴霊剣は宝剣である。香魚の父である道臣が、狭野姫に捧げた剣だ。名草族に伝わる宝剣であるから、その白刃の輝きに尋常でない霊力が宿っていることを、香魚が知らぬはずはない。


 今の狭野姫は、かつて天孫族を率い、真秀場まほろばを目指したときの建御子たけるみこに立ち戻っている。入彦は、彼女の邪魔にならないよう後にさがった。


 激しく歯を噛んだ香魚は、さらに数体の埴土兵を操り、狭野姫を襲わせた。


 狭野姫が韴霊剣を振るうと、また一体が土塊と散ったが、その間隙を突いた複数の土の爪が彼女の頭上を被った。目映まばゆい光がほとばしったかと思うと、数体の埴土兵は土煙となって、風に流れた。狭野姫の頭上には、光を纏ったおおとりが旋回していた。狭野姫が肌身離さぬ真金鏡まがねのかがみに棲む日霊ひるめだ。


「御身には手弱女たおやめに思えても、わたくしは戦い方を忘れたわけではありません」


 右の手に宝剣、左の手に宝鏡を持った狭野姫の立ち姿には昇りあがるような光の眩しさがあり、日輪の化身のごとき気品と威厳を放っていた。その圧倒的な霊威に香魚はたじろいだが、彼女の憎悪は怯まない。


「その洒落臭い負けん気ごと山海嘯やまつなみに呑んでやるわ!」


 全身で咆哮した香魚が渾身の呪力を振り絞ると、大地が起き上がったかのように思えるほど、無数の埴土兵が湧いて出た。その夥しい殺意の群が、ただ一人の狭野姫に殺到した。その直後、神楽を舞うように振られた韴霊剣の剣風と日霊の羽ばたきが大旋風を生み、土砂を上空へ巻き上げた。飛来する土砂に全身を打たれた入彦は、思わず両腕で頭部を守った。


 砂嵐に塞がれた僅かな視界から垣間見えたのは、流麗な狭野姫の舞いである。戦いの場裡には不相応に官能的でありながら、虚空を斬る韴霊剣の切っ先には背筋を凍らせるほどの魔性があった。

 

 砂嵐が止んだとき、まだ空から地に落ちる細かな砂礫には輝きがあり、日霊は雄大に旋回し、狭野姫は静かに立っていた。地面には無数の白羽が突き刺さっており、香魚がうずくまっていた。大地を打ち据えたかのような無数の白羽は、日霊の羽ばたきが放った白矢であり、そのいくつかは、香魚の体にも立っている。


 狭野姫は静黙のまま韴霊剣を鞘に収め、宝鏡をかざして日霊をその中に戻した。


 勝敗はすでに明らかだが、香魚は憎しみの唸りを漏らして、懐中の短剣を引き抜いた。狭野姫の手が再び韴霊剣の柄に触れたとき、入彦はすばやく動いて二人の間に割って入り、短剣を握りしめた香魚の手を押さえた。思いがけず手の甲に生じたぬくもりに、香魚ははっとして入彦を見た。


「訳ありのようですが、御身の思いは磐余彦様に伝わったでしょう」


 反論と拒絶を受ける間を避けるように、入彦はすばやく香魚の傷の具合を確認し、血止めの処置をした。狭野姫は無言で、すでにこの場を立ち去ろうとしている。入彦が言うとおり、香魚の恨みもつらみも受け止めたつもりの狭野姫だ。香魚をこれ以上傷つけるつもりはなく、立ちはだかったことを咎めるつもりもない。香魚には新しい道に踏み出してもらいたいが、掛ける言葉はない。彼女の視界から速やかに去ることが、狭野姫なりの思いやりであった。


 香魚は美しい瞳の輝きを涙でかげらせ、短剣を地に落とすと、身体を震わせて倒れ込んだ。香魚が憎んだ狭野姫は、かつて憧れたときのままの美ししい建御子であった。変わり果てたのは、自分自身である。そのことに気づいた嗚咽を、香魚は入彦に憚ることなく漏らした。


「あなたのことは覚えています。吾が邑に使いとしてみえられ、香魚人あゆめと名のられた」


 美しい瞳が印象的な使者であった。男性的な声と気力を放ちながら女性的な色香をまとっている幻想的な立ち姿が、入彦にどこか官能的な目眩を覚えさせもした。その人が、今は精力を尽くしたように入彦の膝元の土に伏している。その姿は、可憐な娘子そのままであった。香魚はただ、泣き続けている。


「涙を受け止めるに、大地おほつちほど限りなきものはありません。大地には、受け止めぬということがないのです。あなたの全てを土に語るとよいでしょう。語り尽くし、この浅茅原あさじがはらに、他に語るものとてないとなれば、吾が瑞籬邑を訪ねなさい。ときの許すかぎり、吾があなたの話を聴きましょう。ですが、今は先を急ぎます」


 入彦は香魚を残して立ち去った。背中を見せても、もう襲ってはこないと判断した。先を行っていた狭野姫に並ぶと、彼女はわずかに頭を下げて入彦の思いやりある処置に感謝を示した。それを瞳で受けた入彦は、一度、振り返った。香魚は、もう冬の野の景色のひとつの影であった。入彦と景色の間を冬の風が吹きすぎた。


 香魚の埴土の術で生まれた土の兵は土塊に返っていたが、その残骸のひとつから様子を窺っている精霊すだまがあった。探女さぐめである。この精霊は世の中の出来事に興味津々で、いつも何かをどこかから見ている。この精霊を呪力の言霊でしかるべき鏡に接続すれば、便利な映像撮影装置となる。


 探女は突然降り注いだ土砂に埋もれ、何とか顔を出して土を吐き出したが、その狼狽した仕草は幸いにも人の眼には見えないし、そのくらいのことでへこたれたりもしない。世の中の真実を見つめるには、多少のとばっちりに文句を付けてはいけないのだ。


「やれやれ、生半可なことだ」


 代わりに文句をこぼした人物は、貴重な映像を鏡に送信してくれた探女の災難を気の毒がったわけではなく、手を下すことなく仕事が終わったかもしれない幸運を外したことを悔しがったのだ。しかし考えてみれば、他人に獲物をさらわれすに済んだということでもある。


 細波む鏡面に、丘を登る狭野姫と入彦が映っている。


 丘の樹木は手研の邸を建てるため多くが伐採されたが、邸の高殿や露台から見晴るかすところには樹木を残した。それは景観を楽しむためであり、不埒者を潜ませるためではなかったが、施工主の趣旨を理解せぬ者が勝手に潜り込んでいた。


あざれよ、もはやしくじれぬぞ」


 太い枝の上に立って丘の道を見下ろしている男が、木の幹に四本の腕の鋭い爪でしがみついている毛むくじゃらの生き物に声をかけた。その生き物は人の成人よりも一回り大きな体躯をもった猩々(しょうじょう)のようだが生身ではなく、山の精霊すみつたまで、彼の住処は鏡の中である。その鏡の持ち主は、剣根だ。


 しくじれぬという言葉は、剣根自身が肝に銘じなければならない言霊でもある。


 剣根が二人を狙うのは、これで三度目だが、それぞれ多少、内容が異なる。一度目は天孫族が諸族の盟主であることを天神地祇あまつかみくにつかみに奏上する大祀おほのまつりけがそうとしたのであり、二度目は先に挙行された誓約うけひ馳射はやあてにおいて、磯城族の氏上このかみである入彦を亡き者とすることによって、諸族の結束を崩そうとしたのだ。どちらも、剣根にとっては苦い結果となり、二度目の失敗においては自身が重傷を負った。


 それらの秘密工作は父である太忍に命じられた。葛城族の氏上である太忍は、山門の覇権を握ることを本願としている。山門諸族の結束の心綱というべき天孫族と磯城族とに間隙を作り、拡げるというのが、太忍の秘かな方針であった。しかし、その具現化を命じられた剣根は、父の期待に応えられなかった。一度目をしくじったとき、父からの叱責はそれほど厳しいものではなかった。子への愛情がそうさせたわけではなく、剣根を見る太根の目の冷ややかさが増したのだ。剣根は、太根にとっては妾から生まれた庶子にすぎない。太忍の非情を知っていた剣根の母は、宮にへやを与えられなかったことを幸いに、太忍の元を去った。母に引き取られた剣根は、成長すると功名心をたくましくし、また父に自分を子と認めさせたい気持ちもあって、父に仕えた。扱いは、下働きのやっこと大差なかった。


 一度目をしくじったとき、剣根は不運を嘆いた。二度目の機会をまたしくじったとき、剣根は自分の能力のなさに絶望した。だが、役に立たないはずの剣根を、なぜか太忍は側に置き続けた。温言をかけられることはなかったが、父が自分を見る目に、ほのかな慈しみがあった。それは剣根の錯覚かもしれなかったが、錯覚でよかった。馳射での自分の仕込みが暴走し、父に凶事が及びかけたとき、身を挺して父を守ったのが功を奏したのか。剣根は、自分が感じた錯覚を是としたまま、しばらくを過ごした。


 三度目は命じられたわけではない。太忍は天孫族や磯城族のことを忘れたように、山門南方の諸族の取り込みと懐柔に専念した。しかし、父の心の眼は、常に天孫族と磯城族を意識している、と剣根は思考した。


 鏡の中で飼いならしている探女を、剣根は常日頃から何体かを解き放っているが、そのうちの一体が、興味深い情報を拾ってきた。磐余彦狭野姫が、人目を避けて磯城の瑞籬邑を訪れ、入彦と密会している。天孫族の動揺と、それに関わる入彦の存在については把握していた。何かが起こると考えていた剣根のもとへ、継続調査を命じていた探女がさらなる興味深い情報をもたらした。狭野姫と入彦は、従者も連れずにただ二人で、片丘の手研の邸へ向かうらしい。


 山門の政局の鍵を握る狭野姫と入彦と手研が、秘かに会談しようというのだろう。その結果に、剣根は興味はない。だがもし、手研邸へ向かうその道中で、狭野姫と入彦が野に潜む悪霊の毒気に触れて命を落としたとすればどうだろうか。葛城族にとって、そして父である太忍にとって、それは最高の朗報となるはずだ。山野の至る所に疫霊や悪霊が潜んでいると考えるのがこの時代の通念だが、狭野姫と入彦を襲う悪霊は、もちろん剣根が扮するのである。


 剣根は速やかに隠家を出発し、片丘へ向かった。襲撃場所は、手研邸にほど近い林の中に決めた。丘を登る道は見晴らしの良い道だが、手研邸の手前で林の中をわずかに通る。襲撃には都合が良い。気づかれないように二人をつけてきた剣根は、別の襲撃者が二人を阻んでいるうちに、先回りして林の樹木に身を潜めた。


「敵を多くつくるものではないな」


 まさか襲撃者がもうひとり潜んでいるとは思うまい、とほくそ笑んでいた剣根は、いざ眼下を狭野姫と入彦が通り過ぎようかというときに当たって、強く舌を鳴らした。


 よもや他にも林に潜む者がいようとは思わなかった。しかも不意に、あえて気づかせたであろうその気配は、強烈な敵意を剣根に注いでいる。


 剣根が命ずるよりも早く、戯が枝から跳躍した。飛来した火球を三本の腕で払いのけ、残った腕の拳をふりあげた。小さな三つの影が飛散し、その残影を砕くように戯は強靭な拳を突き出し、着地と同時に地を打ち据えた。樹陰に土煙が舞い上がり、微かに震える地に、剣値も降り立った。


「また、なれたちか」 


 剣根は怒るでもなく、うんざりするでもなく、驚きの目で木陰に逃れた三つの小さな影を見た。


 大祀を穢そうとしたときも阻まれた。馳射のときは直接に邪魔をされたわけではなかったが、あの馬場に彼らがいたことは間違いない。そして三度目である。因縁というのはこれのことか、と悟ると同時に、剣根は、天賦というものをまざまざと見せつけられた思いだった。彼らは天賦を与えられている。そうでなくて、年端もいかぬ童子らが、三度も剣根の企望に立ち塞ぐはずはない。


(吾は持たぬ)


 自嘲した剣根は、しかし悲嘆しなかった。天賦を与えられぬ者は、自分の力で進めばよい。


「戯よ、あの背の高い男童(わらべ)をしつけてやれ」


 あの童子たちの要は童子にしては背の高い男童だ、と見当を付けている。剣根の言下に、戯は突進した。害意の先にいるのは、豊城彦だ。豊城彦は一目散に逃げ出した。彼は自信家で楽天家だが、さすがに毛むくじゃらの獣の精霊の敵愾心を跳ね返す術は持っていない。


「潔いこと」


 兄の逃げ足の速さに呆れつつ、豊鍬姫は言霊を紡ぎ出した。彼女の手には白銅鏡(ますみのかがみ)がある。彼女の周囲の枯れ枝が浮き上がり、鋭い矢となって戯を襲おうとした。だが、枯れ枝たちが失の自覚を持つよりも早く、彼らは火を発して燃え落ちた 。


穂火(ほほ)を使ったのね」


 豊鍬姫は剣根を睨みつけた。この童子も、女童めわらべとは思えぬ眼光を持っている。人の発する光は、呪力の高さだ。


 穂火は石や草、大気の中にも棲んでいる微かな火の精霊だ。呪能の乏しい者でも、ある程度の修行を積めば使役することはできる。だがそれだけではこの女童を抑えることはできないと判断した剣根は、もう一枚の鏡を取り出した。背面に五匹の獣の姿が鋳込まれた鏡だ。そこに五種の精霊を棲まわせている。


「さぁ、勤めのときだ。しっかりと働けよ」


 獣紋鏡の鏡面が、五つの光を解き放った。その五つの光は、それぞれ猿、貉、狸、狐、鼬となって、豊鍬姫が呪言を紡ぎだすよりも早く襲いかかった。豊鍬姫は逃げた。彼女も俊敏だ。だが獣は五匹いる。猿の爪が豊鍬姫に届こうとしたとき、活人の勝軍木ぬりでの木剣が猿の腕を払った。


(そういえば、前に戯を退けたのは、あの童子だったな)


 いずれも一癖ある童子たちだと、頼もしくすら思えた剣根だが、とりあえず三人の対処はすませた。


(あとは…)


 剣を抜いた剣根は、振り向きざまに剣を一閃させた。火花が散り、剣根は剣に猛烈な重みを感じた。目の前に、強靭な獣の牙があった。


「やはり、いたな」


 剣根は獣の腹を蹴り上げてやろうとしたが、黒い獣はそれよりも早く跳躍していた。


 如虎だ。かつて旅芸人一座に飼われていた頃は気の弱い黒豹だったが、今は心の優しさはそのままに、獣王の気配すら漂わせる強剛な野獣となっていた。以前もそうだったが、剣根にとってこの獣が一番、手強い。


 豊鍬姫と活人が五種の獣霊と、如虎が剣根と攻防する間、豊城彦はただ戯の四本の凶悪な腕から逃げていたわけではない。豊城彦は豊鍬姫のような優れた呪能や如虎のような獰猛さを持たないが、童子であればそこにいるはずの幼稚さからかけ離れたしたたかさを備えていた。


 追われることを予め想定して、豊城彦は林の樹木の間に罠を仕掛けていた。彼が仕掛けを発動させると、たわめられていた幾本もの細枝が弾け、絡められてあったつたが何本も、生きた蛇のような動きで戯に襲いかかり、巻き付いて、さても凶暴な戯の動きを止めた。すかさす上衣のポケットから数個の石礫を取り出し、絶妙の制御コントロールで戯の頭部に集中して投げつけた。


 戯は霊体だ。だが、強力な呪力によって鏡に封じられた精霊は実態を持つ。ゆえに強靭な腕や爪で人を傷つけることができるが、それはつまり自身も物理的な攻撃を受け付けるということだ。石礫を幾つも投げつけられた戯は弱った。動きを封じたと確信した豊城彦は、勝軍木の木剣を取り出し、戯に迫った。戯は怯えた声を漏らした。勝軍木の木剣では精霊の命を絶つことはできないが、それでもそれに打たれれば酷い痛みがあるのだろう。


「ちぇっ、もういいよ。そこでおとなしくしてるんだぞ」


 とどめを刺すことを止めた豊城彦は、妹たちを案じて走り出した。


 その豊鍬姫と弟の活人は、間髪入れずに襲い掛かってくる五種の霊獣をあしらうのに手いっぱいだった。一匹一匹の攻撃はそれほど脅威ではないが、何しろ動きが素早い。豊鍬姫に言霊を紡ぐ時間を与えない。如虎は剣根の剣に追い立てられ、危ういように見えた。


「ああん、もう、じれったいわね」


 苛立った豊鍬姫は、活人に、言霊を紡ぐ時間を稼ぐように命した。


ひとりじゃむりだよ」


「引っ掻かれなさい、噛みつかれなさい」


 姉は非情だった。いずれそうなるのだから、一度に済ませておけば、その間、霊獣たちの動きは止まる。豊鍬姫はそう言っているのだ。ただし、そんなめに会うのは自分ではない。


 猿に背中から抱きつかれ、両腕両脚に貉、狸、狐、鼬に噛みつかせた活人は、いじらしくも姉の厳命を遂行した。豊鍬姫の思惑通り、五種の霊獣の動きが止まった。


霊響たまゆら、霊響、集えよ火の産霊むすひいわ裂け、根裂け、母すら焼く荒ぶりのほむらよ」


 豊鍬姫の腰に提げられた白銅鏡ますみのかがみが激しく振動し、光を奔出させた。彼女の頭上に、巨大な火球が浮かんだ。それは穂火などの比ではなく、火産霊ほむすひよりも猛烈な炎の塊だった。


軻遇突智かぐつちだと」


 たまげた剣根の声が裏返った。軻遇突智は母神すら焼くといわれる炎の精霊だ。女童が召喚できる次元のものではない。だが実際、豊鍬姫の素性の火球はなお大きくなり、炎に触れた樹木の枝が燃え始めた。


「逃げなさい、如虎」


 豊鍬姫が両手を振り下ろすと、巨大な火球が剣根めがけて飛んだ。お言葉に従って剣根も逃げたかったが、それよりも早く、火球は彼の視界を真っ赤に焼いた。


 ひどい焦臭で剣根が意識を取り戻すと、視界は煙に覆われていた。その煙の中から白い手が伸びて、剣根の身体に触れた。触れられたところから、痛みが消えていった。


「わざわざ狙いを外してやるとは、いろもも人が好いことだ」


「外さないと、死んでしまうじゃない」


「べつに構わないだろ」


「構うわよ。この人に恨みがあるわけじゃないんだから」


 豊城彦と豊鍬姫が会話しているのだった。豊鍬姫は豊城彦から大量の蓮華草を受け取り、ほぐして草汁をにじませてから剣根の身体に貼っていった。蓮華草は火傷に効く。


 自分たちを害そうとした暴漢の手当てをしている姉を見て、その優しさに活人は感心した。ただ、引っ掻かれたり、噛まれたりしてできた活人自身の傷には無頓着であるところが、多少腑に落ちなかった。


「あら、気が付いたのね」


 そういって剣根の顔を覗き込んだ豊鍬姫の容貌は慈母のように優しく、剣根は、この三人の童子には敵わないと諦めた。それどころか、もしもこの三人に仕えれば自分にないものを得ることができるのではないか、とそんな馬鹿げた考えが脳裏に浮かんだ。

 猩々(しょうじょう)が中国古典にも登場する伝説上の生き物です。人面獣身で、地毛は黄色、人語を操り、酒を好むという設定になっています。


 江戸時代の人は、長崎に渡来したオランウータンを見て、これが猩々であると考えたそうです。そこからチンパンジーは黒猩々、ゴリラは大猩々と呼ばれるようにもなりました。


 伝統芸能の能にも猩々は登場します。その出で立ちは赤髪で、緋色の大口、足袋以外は赤地の衣装と、いつのまにか地毛が黄色という設定が忘れられてしまったようです。戦国時代の武士が用いた陣羽織には、猩々緋という赤色が好まれました。色のほかにも、赤味の強い色彩を持つ生き物には、しばしば猩々の名が冠されたものがあります。


 民俗芸能でも猩々は活躍しますし、我々の世代で言えば、あの「もののけ姫」にも森の賢者として猩々が登場します。まぁ、賢者というわりには見た目も不気味な感じで、石を投げつけてくるなど、あまり知能の高さはうかがえませんでしたが。


 このように中国発祥で、日本文化にも根付いている猩々ですが、私的には人と会話ができ、愛嬌のある大きなお猿さんというイメージです。そのイメージを基に、あざれというキャラクターを考えてみました。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ