山門編-初国知らす王の章(2)-厄災のあと(2)
磯城の瑞籬邑に帰った入彦は霊廟を訪れ、百襲姫の神楽舞を見て幻想をいだきます。邸では家族に迎えられ、団欒のときを過ごします。
磯城の緑から光が滴っている。畝火山の緑も鮮やかだったが、家族の待つ地元には、木立にも帰宅者を迎える喜びがあるように思える。
橿原宮から磯城までの距離はさしたるものではない。それでもやはり、解放感がある。狭野姫や手研などは入彦に格別の心遣いで応対してくれるが、天孫族の邑は、磯城族にとってはやはり寝心地がよくない。磐余で激しく戦ったのは、まだ七年前のことなのだ。父や兄、夫や我が子を磯城族に奪われた者は、磯城族の氏上を見る目にどうしても冷ややかな感情を灯す。磯城の天地には、ただ温もりがある。その温度の違いに、入彦とその従者たちは安堵するのだ。
馬の背に揺られる家路だ。
翠雨は立派な牡馬に成長した。逞しい四肢は、地を叩けばたちまち千里を駆けるだろうが、今のところ、それを要する緊急事態は主人の周辺に生じていない。
遠霞から三輪山の優美な姿が現れると、入彦は澄み渡った霊異に身体を洗われる心地がした。三輪山は、磯城族の御祖の御霊が宿る神奈備山山だ。父の霊も、祖父の霊も、いつもそこにいて見守ってくれている。入彦は翠雨の背を下りて、大地に深々と額づく礼を捧げた。従者たちも、それぞれの思いに染められながら礼を捧げる。
そこからさらに進むと、濠に青々とした水を湛えた瑞籬邑が見えてくる。磯城族の邑だ。
初瀬川から引いた濠は一重で、邑の規模としてはそれほどでもない。普通、濠や柵は外部からの侵入から邑を護る思想で設けられ、排除すべきものの中には穢れを運んでくる他所者が含まれるが、入彦は、むしろ人を受け入れたい、と考えた。七年前の厄災は、天神地祇の助けももちろんあったが、人が協力して乗り越えた、という思いを入彦は濃厚に持っている。御統も豊も他所者だが、二人がいなければ山門は厄災に呑み込まれていただろうし、入彦は相変わらず人の意に染まるだけの頼りない人間のままだったろう。
人は穢れを運ぶが、幸いも運ぶ。どちらを捨て、どちらを取るかを決めるのは人の作業だ。そういう設計思想で、入彦は瑞籬邑を建設した。
磯城族の邑は、もともと三輪山の麓にあったが、入彦はそれを南方の初瀬川の辺に遷した。理由はいくつかある。ひとつは族人の増加だ。山門の御言持だった父の大日が登美彦の起こした政変により放逐されたとき、大日を慕って、春日族の多くが磯城に流入した。大日は磯城族の出身だが、独立して春日族を立ち上げ、春日山の麓に率川邑を建設していた。
もうひとつは水利だ。族人が増えると日々必要となる水の量が増加する。そのため、初瀬川の辺が便利だった。
三つめは物理的理由ではなく、入彦の想念に基づくものだった。磯城族の神奈備山は三輪山だが、入彦は、鳥見山にも強い霊威を感じていた。春には躑躅が咲き誇るその山で、入彦は狭野姫と出会い、天孫族と磯城族との講和、ひいては山門を襲った厄災への対処が可能となった。三輪山には磯城族の累代の氏上が崩った魂が御霊として宿っているが、鳥見山にも山門を愛する霊異が宿っているに違いない。そのため初瀬川の辺で、三輪山にも鳥見山にも祭祀を捧げられる地に、入彦は瑞籬邑を建設したのである。入彦はその想念の延長として、鳥見山山中に社を造り、躑躅の盛りの春と、紅葉に埋まる秋には籠もることが多かった。
入彦のその考えを、祖霊からの乖離と怖れる族人もいたが、実質的に磯城族を切り盛りしている伯父の大彦は支持していた。入彦の想念の推移は、磯城という一地域から山門全土へと広がる視界の発展であり、入彦に、大日を超える器量が備わっていると信じる大彦にとっては喜ぶべき甥の成長だった。その意味で、狭野姫から入彦に贈られた県主という称号は、片腹痛い、というのが大彦の本音だ。もちろん、その称号が保つ政治的意味合いは理解している。
さて、入彦と従者たちは、春の陽だまりに包まれた瑞籬邑に帰り着いた。濠の向こうでは出迎えの人々が、夫や子、兄や友人、恋人を待っていた。
入彦は翠雨の背を下り、並んで歩きながら濠に架けられた木橋を渡った。木橋全体には呪飾が描かれており、歓迎されざる者は通れないようになっている。もちろん、水をたたえる濠の底にも呪器が埋められ、外敵の侵入を阻んでいる。
木橋を渡り終えた入彦に、三つの光が駆け寄った。その光は、入彦の心象が見た空想ではなく、実際に輝いていた。笑顔が輝いていたのだ。
入彦の腕の中に飛び込んできたのは、豊城彦と豊鍬姫だった。その後ろで、ためらいがちにしているのは、入彦の実子の活人だった。母は、もちろん美茉姫だ。
活人は屈託なくすくすく育っているが、引っ込み思案なところがある。豊城彦や豊鍬姫のように表現が豊かではなく、いつも周囲の様子を覗ってから行動している。それを慎重とみるか臆病とみるかは、今後の成長による。今は五歳で、豊城彦と豊鍬姫より二つ年下だ。血の繋がりを意識するほど三人はまだませておらず、活人は豊城彦と豊鍬姫を兄姉と慕っている。父を迎えた活人は、感情を素直に表現して父の腕の中に飛び込む兄姉を羨ましげに見ながら、自分はそうすることを躊躇して、足をもじもじさせていた。入彦が優しい顔で手招くと、ようやく活人は父の愛情の中に飛び込んできた。
豊城彦は聡明、豊鍬姫は自然体、活人は謙譲、色調に違いはあれど三人は磯城に萌え出た若い緑だ。血の繋がりを超えて、三人共が入彦の宝物だ。
「お勤めは宜しく参りましたか」
「天孫さまのお宮のお話を聞かせて」
「・・・・・」
入彦の両腕を引く無邪気で小さな手は、ちょっとやそっとでは解放してくれそうになかった。
子どもたちの後ろにそっと立った花のような人が、
「お父上はこれからrei霊殿に参らねばならないのですよ」
と、入彦に助け舟をだした。美茉姫だ。入彦の妻であるこの女性は淑やかさの中に闊達さを秘めている。そのふたつの調和が、彼女にしか表れようのない美しさを生んでいる。美茉姫の美しさに触れて、入彦は全身全霊が家に帰ったのだと安堵した。
「子どもたちは健やかに育っているな」
子育ての満足な時間が持てない入彦は、そう言って妻を労った。
「お褒めいただき光栄でございます」
一礼した美茉姫は、私が育てておりますからね、という自慢顔をした。
「霊殿に参ってくる。百襲姫様にもご挨拶せねば」
「そうなさいませ。ついでに天孫の氏上様にお酔いになった御心もお洗いなさっておいでませ」
おそらく、橿原宮から帰った男のほとんどが妻や恋人から同じような当てつけを言われただろうが、入彦と狭野姫の関係を知る美茉姫の嫌味には、そう気づかせないほどの爽やかさがあった。
そもそも、狭野姫を見て心を囚われない男の方が心配だ。女性でさえ魅惑される。嫉妬心がさじを投げるほどの美しさの次元に狭野姫はいるのだ。世の女性の、誰が星や月と美しさを競おうとするだろうか。
「そうだな。そうしよう」
その手のことに鈍感な入彦は、美茉姫の言葉を真に受けて霊廟に向かった。
翠雨と並んで、日のしずくの下を歩く。翠雨は賢い馬で、入彦の意図をよく理解している。真新しい社が見えてくると、翠雨は入彦と別れて川辺に下り、水を飲んだ。放っておいても、翠雨は自分で厩に戻る。
社は右手に三輪山、左手に鳥見山に拝礼できるところに建てられている。拝殿に上がると、木材の清々しい香りが胸の中に沁み込んだ。そのまま本殿へ進み、霊廟で祖霊への報告を済ませた入彦は、次に神楽殿に向かった。そこに端座している白髪の女性が、磯城族の祖霊に仕える百襲姫だ。
「大伯母様、入彦、罷り越しましてございます」
入彦は檜の床に額を付いた。百襲姫は祖霊に仕え、祖霊が降りる憑坐であるから祖霊そのものでもある。祖父の姉という血の繋がりがあろうとも、大伯母と呼ぶことは祖霊への不敬ではあるが、入彦はあえて親しみを優先させた。
「あれから七年。果実の災いは尽に消えたのでしょうか」
百襲姫は瞼を下ろしたまま入彦に問いかけた。遥かな神代、高天原から地上へ棄てられた天津神の邪気は、果実となって大地に根を張り、育ち、大地から吸い上げた霊力を蓄え、天津神が自分を捨てたその日に還るため、周囲を巻き込んで時を戻す剋軸香果実となった。災いの果実とも呼ばれたその邪気の実は膨大な霊力を持ち、その無尽蔵の霊力を欲した者が手中に収めようとしたが、その度に暴走し、そのときに栄えていた文明を原野に還すことで滅ぼしてきた。邪気を忌み嫌いって地上に打ち捨てた高天原の天津神は、失態の後始末をつけるために、天磐船を操る饒速日に瑞宝十種を授け、命じて果実を根絶やしにさせようとした。ところが初代の饒速日では始末が付かず、累代の後継者にその事業を引き継いでいく中で、やがて使命を忘れた者が饒速日の名を継ぎ、再び果実の妖魅にたぶらかされたあげく、地上に災厄を引き起こした。その事件が、七年前の厄災だ。心ある天神地祇の協力と勇敢な人々の犠牲によって、山門は最小限の被害で厄災を乗り越えた。しかし、果実そのものを滅ぼしたわけではない。
「あの日、光り輝く尾が空を飛び行くのを多くの者が見ています」
入彦はうつむきがちに答えた。百襲姫の問いかけに、暗い答えを返さなければならないことが口惜しかった。光り輝く尾の正体は、霊力を放出し終えた果実が、次なる生息地を求めて飛ばした種である。そのことを知る者は少ないが、果実はそうして常に存在し続けてきた。
「強き人々が、また必ず現れると信じましょう」
人の不屈を信じる百襲姫の信念は入彦を覆う暗さを少し晴らしたが、大伯母の表情に別の懸念を見た入彦は、沈黙で問いかけた。
「わたくしの命はもう長くありません。この期に及んで、百襲姫の名を継がせる者を得られぬ至らなさを悔やんでいます」
水面のように静かだった百襲姫の眉宇に苦渋が滲んだ。
百襲姫は磯城族の祖霊と磯城の天神地祇に仕える巫だ。同じような責務を負う巫は各族に存在する。百襲姫が異例であるのは、氏上の血筋のうち、もっとも呪力に秀でた女人を幼少の頃から巫として育て、百世の末まで名を襲わせていくところにある。だが、饒速日が剋軸香果実の妖力を利用して山門全土に白霧の呪いをかけ、磯城に及んだ呪いの効力を弱めるため長い昏睡を要する秘術に入った百襲姫は、後継者に相応しい女児を育てる暇がなかった。そして、次代の百襲姫に相応しい呪能を秘めた女児が磯城に誕生していないことも事実なのだ。
もしも豊がここにいれば、次代の百襲姫として申し分のない呪能者であったことは間違いない。その美しさ、呪力の高さは、神々に仕えるに相応しい。
今、豊に比肩する候補を探せば、入彦の妻の美茉姫がいるが、人の妻を神妻とすることはできない。
「百襲姫はわたくしで途絶えることになるかもしれません。そこで、こういうものを作っておきました」
瞼を上げた百襲姫は、まだ二十代とも思える美しく強い眼差しで入彦に微笑みかけ、立って、神楽殿の中に設えられた神倉へゆき、中から厳かな繍が施された布嚢を持ち出し、それを入彦の前に置いた。
百襲姫に促された入彦が布嚢を取ると、光輝が生まれた。
「これは、白銅鏡ですね」
室内に現れた光源に目を細めながら、入彦は言った。
入彦に明々とした鏡面を向けているのは、まぎれもなく白銅鏡だ。銅と錫とを絶妙の割合で混ぜ合わせ、白銀の光沢をもたせて鋳上げた鏡である。錫の含有量が増えると合金は脆くなるが、光は美しくなる。強度を保ったまま白銀の光を放つ鏡を鋳る技術は、相当の修練を必要とする。
御統という名の俳優の男童が白銅鏡を持っていた。その鏡には、天目一箇神という天津神が封じられていた。白銅鏡を持った御統がいなかったなら、山門は七年前の厄災を乗り越えることができなかったに違いない。その御統の魂が豊城彦と豊鍬姫に転生した、と入彦は信じている。
「御統という男童がこれと同じ白銅鏡を持っていましたね。御統の鏡を鋳た鍛人は類稀な能の持ち主であったようです。御統の鏡には及びませんが、磯城の鍛冶の技の粋を集めて鋳させました」
「これを私に賜わるのですか」
「この鏡に、わたくしの術の全てを収めました。天神を封ずることはかないませんが、わたくし程度の術であれば鏡も耐えることができたようです。この先の災いの祓えに少しでも役立つよう、これをあなたにお渡しします」
鏡を挟んで入彦の正面に端座し直した百襲姫は、衰えなど微塵も思わせない美しい瞳を再び閉じた。彼女の眼差しに宿る呪力を感ずれば、とても命が尽きそうにあるとは思えない。しかし優れた呪能者であればあるほど、呪力が尽きたときの死は呆気ないことを、入彦は知っている。
「次は私が己の至らなさを恥じねばなりません。どのように優れた鏡を授かろうとも、私にはそれを使う言霊の力がございません」
白銅鏡を入彦に与えたことによって責任の一つを背から下ろした思いの百襲姫の表情はわずかに穏やかになったが、大伯母のその思いに応える力量を備えていないことを入彦は悔いるのだ。
百襲姫の表情に、さらに穏やかさが増した。
「人が一人で生きていくものではないことを、あなたほど知る者はないでしょう。この鏡に封じたわたくしの術をあなたが使う必要はないのです。使える者が現れたとき、その者に鏡を渡せばよいのです。あなたがなすべきことは、その者の正しきと邪を見抜くことなのです」
大伯母の教えを、入彦は心の深いところで受け取った。人の意に染まるだけだった空っぽの入彦は、いろいろな人に出会うことによって変わった。これからも出会う人を受け入れていけばよい。大事なのは正邪を見極めることだけだ。入彦の心が軽くなった。
「わが氏上の寿ぎに、舞を一差し舞いましょう」
風に乗る羽毛のような軽さで神楽殿の舞台に昇った百襲姫は、秘伝の神楽を舞った。祖霊や天神地祇を招き、楽しませる舞の中でも最難度の舞だ。入彦は大伯母の舞の美しさに陶然とした。齢七十を超えたとは到底思えない蠱惑的な舞の仕草に、入彦は情欲すら覚えた。祖霊や神に仕える巫の時は動かない、という言い習わしを入彦は思い起こした。呪力が尽きたとき、神々に愛されていた巫の時が一度に動き出す。だから死が唐突に訪れるのだ。
もしも天孫の狭野姫がこの神楽を舞ったとしたらどうだろうか。磯城や山門だけでなく、豊秋島全土はおろか、はるか大真帝国までも照らし、賑わすことになるのではないだろうか。百襲姫の舞に酔いながら、入彦はそんな夢を見た。
神楽殿を辞したころ、辺りはすっかり宵闇に沈んでいた。灯火がひとつ点っているのは、従者が入彦を待っているからだ。
従者に労いの言葉をかけ、燈火を受け取った入彦は、そのまま自邸に向かった。
氏上の住処は、普通、宮と呼ばれる。宮が建つ土地のことを宮処という。その分類からいえば入彦の住居は宮であるが、見た目はそうでもない。もちろん矮屋ではないが、壮麗でも豪壮でもなく、家族と従者たちが暮らせる程度の広さしかない。華飾の乏しさは、入彦の人柄を表している。
入彦の帰宅が告げられると、子どもたちが駆け寄ってきた。あいかわらず、活人は豊城彦と豊鍬姫の二三歩後ろにいる。
入彦家の家宰ともいうべき舎人の石飛は主の帰宅まで家内を切り盛りしていたが、入彦に労われたあと、自宅に帰った。彼にも家族ができている。
親子団欒の食事になった。
子どもたちにねだられて、入彦は橿原宮の話をした。話題の終わりに、百襲姫から授かった白銅鏡のことを話した。霊異ふる宝鏡の話に、豊城彦は畏れ敬う姿勢を見せ、豊鍬姫は興味津々を瞳に灯し、活人は怯えたように肩をすぼめた。
食事が終わり、入彦は妻屋で妻と二人になった。屋内に戻る前、美茉姫は入彦に勧められ、宮の神倉に納められた白銅鏡を拝見した。神倉の中の暗さにありながら、鏡は仄かな銀光を発していた。
「御統が持っていた鏡によく似ていました」
「御統の鏡は、父の友で、昔の磯城邑に暮らしていた鍛人が鋳たものだ。その鍛冶の族は、白霧の呪いが邑を襲ったときに離散していたが、近頃戻ってきていてね、百襲姫様は彼らに頼んで鋳てもらったそうだ」
「とても美しい鏡でした。ですがわたくしは、あの鏡があることがどこか不安でございます」
美茉姫は、漠然とした怯えから逃れるように身体を入彦に預けた。
美茉姫は御統のことも、彼の白銅鏡のことも、そして豊のことも子どもたちには伝えていない。夫が信じているように、豊城彦と豊鍬姫が御統と豊の生まれ変わりであると彼女も信じているが、そうであるがゆえに、子どもたちが数奇な運命に囚われることを恐た。その母心を、入彦も理解している。
「案ずることはない。あの鏡には、百襲姫様の呪力が宿っている。その鏡が子どもたちに災いをもたらすはずはない。きっと護ってくださるはずだ」
入彦は美茉姫を受け止めた腕に夫の愛情を込めた。
「そうですね」
吐息のような美茉姫の声には、母としての安堵と、久しぶりに抱きしめられた妻としての甘えが含まれていた。入彦は二つのその思いを愛でるような所作で美茉姫を褥に横たえ、自らをその上に重ねた。
百襲姫から授かった白銅鏡。厄災のときと同じように、その鏡から物語が始まります。