山門編-初国知らす王の章(19)-騒ぎ立つ木の葉(11)
<これまでのあらすじ>
俳優の少年と黒衣の少女、そして多くの人の活躍と犠牲で厄災を乗り越えた山門は、天孫族を中心とした諸族の新たな秩序を整えていた。
橿原に宮を築いた天孫の磐余彦狭野姫は、磯城族の入彦に特別な想いを抱き、そのことが天孫族に軋轢を生む。狭野姫の慕情は彼女を支え続けてきた手研の諫言さえも斥けるようになり、その間隙を突いて、葛城族の太忍は悪謀を巡らせる。
狭野姫は突如として纏向への遷都を宣言する。諸族は紛糾し、それを権力奪取の好機と捉えた太忍は、遷都の吉凶を天神地祇と祖霊に問うためと称し、誓約の馳射の開催を提案する。太忍は馳射の馬合わせで天孫族の軋轢をさらに大きくするべく策を仕込む。入彦の子の豊城彦も悪知恵を働かせ、磯城族の騎手として憧れの馬合わせへ出場する。
馬合わせでは太忍の予想外の事態が生じ、思いもよらぬ被害を発生させて終わるが、誓約の神託を待つ狭野姫に下された結果は、凶だった。
天神地祇や祖霊から裏切られた思いの狭野姫は、橿原宮を去り、想いを寄せる入彦と共に新しい天地を創造すべく、纏向に向かう。その道の途中で待っていた手研は、狭野姫に決別の辞とも受け取れる言葉を贈った。その手研の耳には、天孫族の有力者である吾曽利が指嗾の言葉を囁いていた。
手研は、初代天津彦五瀬の正妻であった五十鈴媛を葦と笹百合の川辺に訪れた。義母である彼女を妻とすることで父の権威の象徴を手中に納めた手研は、狭野姫不在の天孫族を実効支配する。それを手研の政変を見なした葛城族は、山門からの離脱を鮮明にし、南方の諸族の取込み工作を活発にする。
ある夜、狭野姫が磯城族の瑞籬邑を訪れ、秘事を入彦に伝える。狭野姫の思いを受け取った入彦は、彼女の要請を受け入れ、ともに難事を乗り切ることを約束する。
天孫族の決起が近いことを五十鈴姫の歌から知らされた入彦と狭野姫は、歌が導くまま、手研の邸へ向かう。秘かに邑を出たはずの二人の跡をつける三つの小さな影があった。
≪是非ご一読ください。ご感想、ご評価をいただけましたら幸いです。≫
<人物紹介>
豊城彦
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。
豊鍬姫
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。
入彦
磯城族の氏上。厄災を乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主。
美茉姫
入彦の妻。明るい美しさの女性。淑やかであり、闊達でもある。
活人
入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。
大彦
入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。
石飛
磯城族の青年。入彦の舎人。
百襲姫
磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。
翠雨
入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。
如虎
黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。
狭野姫
天孫族の氏上。兄から天津彦を継ぐ。今は磐余彦を号している。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。
手研
狭野姫の年上の甥。常に狭野姫を支えている。狭野姫が唯一甘える人物。
珍彦
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
道臣
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
吾曽利
天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。
太忍
葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。
剣根
太忍の庶子。自分と母を棄てたも同然の父を見返そうとしている。
五瀬
狭野姫の長兄であり、手研の父。高千穂族とともに東の真秀場を目指し、天孫族を号する。初代の天津彦。
五十鈴媛
五瀬の後妻。出雲族の出身で、製鉄技術者集団と縁が深い。手研にとっては、同年代の継母。
<用語>
高天原:天上世界
豊秋津島:物語の舞台
葦原中国:豊秋津島の別名
山門:豊秋津島のほぼ中央に位置する地方
青垣山:山門の周囲を囲む山並み
筑紫洲:豊秋津島の西部にある大きな島で、白日、豊日、建日、日向の四地方を持つ
真:西の海の果ての大陸にある巨大帝国
氏上:一族の族長
天神地祇:八百万の神々
祖霊:祖先の霊魂 氏上は死ぬと神上がって祖霊となる
精霊:森羅万象に宿る魂 山林の異気から生まれたものは
魑魅:山林の異気から生まれた邪霊
厄災:山門を呪いによって支配していた饒速日の体制を瓦解させた大災
剋軸香果実:高天原の神々が下界に投げ捨てた邪心が凝固したもの いつか高天原に帰ることを望み、時を戻す霊力を蓄えるため大地に寄生して石の花を咲かせる
天津彦五瀬に導かれ、真秀場を目指した天孫族は内つ海を東へ渡り、難波の白肩津に上陸した。真秀場を目前にしながら、大日を将軍とする山門諸族と孔舎衛坂で戦い、大敗を喫した天孫族は、指導者の天津彦五瀬を喪った。
天津彦の号を継承した狭野姫は、勢力を衰えさせた天孫族を鼓舞し、山門南方の室と呼ばれる地へ再上陸した。その地の民を邪教で支配していた丹敷族の司霊を韴霊剣の力を借りて打倒した狭野姫は、八剣山の天磐楯という巍峨たる峰を大熊に見立てて崇めていた彼らの土地に熊野の名を与え、山門進出の策源地とした。このとき、狭野姫は、その地の古い一族である名草族の氏上の血を引く少女を熊神への生贄から救った。丹敷族の司霊によって熊神の神妻として捧げられるはずだったその少女は、それにふさわしい美貌を持っていた。
丹敷族との戦いの中で母を喪った少女は、名を香魚といった。川面に鱗をきらめかせる鮎のように、肌と瞳の美しい少女だった。父は名草族の氏上である日臣であり、彼は名を道臣と更えて狭野姫に仕え、山門征途に従った。
香魚は名草邑に留まり、祖父に養育された。成長するにつれて彼女は美しさを際立たせるようになったが、同時に、自身に起こった過去と、それによって母を喪った事実を理解するようになり、不幸を撥ね返せなかった非力な女性という自身の性を嫌悪した。女でなければ、神妻に選ばれることはなく、我が子を生贄の運命から逃れさせるために母が命を喪うこともなかった。
名草族やその周辺の諸族を邪教で支配していた丹敷族の司霊は女であったが、性を超越した力感と気迫、そして暴虐性を漲らせていた。それは丹敷族に伝わる秘術によるものだが、禁断というべきその呪術に、香魚はいつしか興味を持つようになった。
狭野姫が室に熊野の名を与えて治めるようになってから、丹敷族もまた邪教から解放され、名草族とも友好的に交わるようになった。香魚は、丹敷族の古老から、秘術について問うことが多くなった。
丹敷族の古老たちにとってもその秘術は苦い過去の遺物であるため、香魚に語ることをためらう者が多かったが、彼女はその秘術の源が、八剣山に棲み、かつては邪教の崇拝を受けていた大熊神にあることを知った。
ひとりで山路を歩くことのできる体力を成長により獲得した香魚は、八剣山に向かうようになった。
族人の目を忍ぶ登山だったが、祖父には明かした。信頼しているからだが、だからこそ祖父には自分の望みを、たとえ受け入れて貰えないにせよ、知っておいて欲しかった。
当然、祖父は孫娘の摂理を乗り越えようとする意望をたしなめた。しかし、強くは止めなかった。孫娘の心に刻まれた深い傷が、まだ癒えないまま血を滴らせていることを知っていたからだ。丹敷族の司霊が滅び、その秘術を継承する者がいない今、少女ひとりがその秘術にたどり着けようとは思えなかった。山野を歩き、草花に触れ、鳥のさえずりに浴するうちに、自然と彼女の心の傷は癒えるのではないか。祖父はそれを期待した。
ところが、祖父は、香魚の意志の強さを見誤っていた。それ以上に、彼女の瞳に宿った類稀な呪力を測りきれていなかった。
目細し、とは見た目が美しく立派なことをいうが、香魚の瞳はまさに目細しく、その瞳を向けられた者を恍惚とさせる。
美しさは妖しさでもある。妖しさの灯る瞳は、常人には見えない風景を捉えることがある。香魚は大人でも道に迷うような八剣山の深い樹林と激しい起伏を着実に踏破し、誰に案内されることなく、ついに秘奥に鎮座する天磐盾にたどり着いた。
天磐盾は、八つの峰を持つ八剣山の主峰の頂にそびえ立つ巨岩だ。山肌が吐く深い山気をまとったその威容は、確かに巨大な熊の姿に見える。丹敷族の司霊が邪教の主神とし、傘下の諸族がそれを信じたのも無理はない。実際、室を平定した狭野姫は、この天磐盾を見上げる丹敷族の祭の庭で、濃霧に隠れた異様な迫力の気配に遭遇している。彼女はこの地に熊野の名を与え、永遠に幽宮として祭祀を捧げることを条件に、その山中を通って山門へ通り抜ける許しを得た。
丹敷族の司霊を指導者とした血なまぐさい祭祀がかつて執り行われていた斎宮に、香魚はたどり着いた。山気が深く、そこに至る山道の両側には千尋の幽谷が無尽の暗闇を穿っている。道を熟知する者の案内もなく、谷に吸い込まれずに斎宮にたどり着いた奇跡は、香魚の瞳に宿る呪力が霊異の道筋を見極めたからだろう。
天磐盾の斎宮は、濃霧の底に沈んでいる。それでも香魚には、そここそが祈りを捧げる場所であると知覚した。
香魚は地に跪き、神寿詞を言挙げ、霧の白さを見つめたまま祈った。
いくらもしないうちに、身体中が締め上げられるような圧倒的な気配が現れた。白霧の奥に何かがいた。姿は見えないが膨大な霊異の塊がそこにいる。
「よくここまで来たな」
無尽の霊異が感心したように言った。いずれ谷の闇の中へ墜ちるとみていた予想が外れた意外さもこめられていた。
「よく目を見せてみよ」
霊異に応じて、香魚は声の響く方を見つめた。
「妙眼をしておる。その眼に免じて、予への言向けを許そう。なにを求めて参ったのか」
白霧を震わせるその霊異の声は恐ろしいものであったが、香魚は臆さずに答えた。
「かつて丹敷の司霊へ賜われた御恵を、吾へも垂れたまえ」
香魚は真摯にそう祈った。
「…ふむ」
無尽の霊異の口ぶりは、やや考えるふうだった。
「それは半月術のことであろうか」
「吾にはわかりかねます。ただ、かつて丹敷の司霊たちは、婦女でありながら醜男のごとき荒ぶる力を備えていました。吾もそうありたいのです」
香魚は胸中から心を取り出すような直向きさだった。なお、醜男は醜い男ということではなく、頑強な男という意味だ。
「…さようか。そのわけは敢えて問わぬが、汝には美しき眼が備わっておる。それだけで、非永の崇めを受けぬことはおさおさあるまい。何も好んで半月などになることはなかろう」
かつて荒ぶる地祇として八剣山周辺の諸族を怖れさせた無尽の霊異も、香魚のいじらしさを憐れんだ。だが、香魚には容姿の健気さからは想像できない芯の強さがある。
「この眼では、母を救えませんでした。吾は強弓を引き、矛を振るう剛力が欲しいのです」
「…かつて、この地に熊野の名を与えた建子がおった。名を天津彦狭野と名告っておった。あれはちょうど汝ほどの女童であったが、半月の術など用いずとも、猛き者であった」
「熊野坐神漏岐よ、その人は今、山門の主となり、磐余彦狭野姫を名告っておいでです。あの方は天孫、青人草にすぎない吾が、どうして同じ道をたどれましょうや」
幼い頃に見上げた狭野姫の勇ましくも美しい立ち姿。丹敷の司霊から逃れ、天孫族に匿われた一夜、香魚は狭野姫と、まるで姉妹のように同じ褥で眠った。あの夜には手を繋いでいた人が、時が経つにつれ、とても届かない高さに昇ってしまった。狭野姫への憧憬は常に胸の中にあるが、同じ道を歩むことの出来ない現実を、齢を重ねた香魚は知っている。
「元はといえば熊野坐神漏岐よ、神妻として御前へ捧げられる習わしから吾を逃すため、母は死んだのです。母を再び現世に蘇らせることが叶わぬのなら神漏岐よ、吾に半月の技を施されたまえ」
香魚の瞳をまっすぐに向けられた熊野神はうろたえた。自ら望んだことではないが、たしかに捧げられた清らかな乙女を体内に取り込み、その穢れなき魂を己が霊魂の滋養としたことは確かだ。それよりも、そのことをまっすぐに指摘されたことに熊野神は驚いた。山気より生まれいでて悠久の時を過ごしたが、過誤を責められた経験はない。新鮮な驚きだった。
「よかろう。それほどに望むのであれば、願いを叶えてやろう。だが、今ではない。今宵はまだ月が弓を張っておらぬ。あと三夜もすれば、弓張月となろう。陰と陽とが相半ばしてこそ、半月の剋となる。ふふ、この術はもともと予のものではない。かつて、汝ら非永にとっては大昔のことだが、吾と月主は恋仲であったことがあってな、そのときに学んだのだ。これこれ、秘め事を話させるでない。おっと、忘れるところであったが、三夜のうちに銀の石を探し、ここへ持ってくるのだ。その石を憑坐とせねば、予が手では月の光がこぼれてしまうゆえな…」
その石は、毎夜、月光を燦々と浴びて内部に月の霊力を蓄えた石だ。特別の言霊で話しかければ、銀光を放つという。丹敷の司霊は、八つの峰を連ねる八剣山のどこかからその石を運んできて、熊野神に半月の術をねだったという。八剣山のどこかにあるには違いないが、特別の言霊を投げかけないと光を放たないので、どこにあるかはわからない。その言霊も、丹敷の司霊の滅亡と共に忘れ去られた。
「だが汝のそのまぐわしき眼があれば、見極められよう」
熊野神からそう言われた香魚は、踵を返して、さっそく石探しに取りかかった。
八剣山の山界は広大だ。人の足で、しかもわずか三夜では到底探しきれない。邪教で諸族を支配していた司霊は滅んだが、仕えていた者はまだいるはずだ。そう考えた香魚は、まずは丹敷族の族人を訪ね回った。幸い、丹敷の司霊に命じられて銀の石の採掘に同行したという族人がすぐにみつかった。その族人によれば、銀の石は山を掘らずとも露頭しているものがあるという。そのことが香魚を安心させた。しかし、その露頭のあるところまではとても女の足ではたどり着けない。そう警告されたが、それは香魚の足を留める理由とはならなかった。熊野神の神坐も自分の足で探し当てた香魚だ。切り立った崖の鋭さも、幽界に誘うような霧の深さも、母を喪った過去が彼女の心を焼く痛みには勝らない。
二夜をかけて、ついに香魚は銀の石を見つけた。山肌を覆う木々の根の間から、まるで花が開花するように露頭している石があった。だが彼女のまぐわしき眼をもってしても、それが銀の石であるかどうかは分からない。そこで、香魚は誓約をして占った。
「この石が銀の石であれば、茸を取るように、この手に取れよ」
そう言挙げしてからその石に触れると、それほど力を入れていないのに、まるで茸を採るような軽やかさで、その石は香魚の手中となった。
ひとときの休息も取らず、香魚はまた一夜をかけて、熊野神の神坐まで歩いた。祈るまでもなく、彼女を取り巻く濃霧に、無尽の霊異が現れた。香魚は両膝をつき、その先に銀の石を置いた。
「よくぞ見つけて参った。それほどの剛き体と猛き心があれば、やはり半月の術などは不要ではないか」
熊野神は、なおも香魚に再考を促した。しかし、香魚の意思はどのような石よりも強固だった。
「お言いつけのものは持ち来たりました。どうか吾に御恩を垂れたまえ」
「恩であるか否かわからぬが。もう一つだけ申しておく。半月の術を施せば、もはや元には戻れぬぞ」
「心得ております」
「ならばもはや何をも申すまい。汝の望むがままとしてくれようぞ」
濃い霧が緩やかに動き、まるで白い手に掴まれたように銀の石が宙に浮いた。そのままするすると昇っていき、霧の中に消えた。そして香魚の頭上のはるか上であろうと思しきところから、まばゆい銀光が降り落ちてきた。
「おお、この銀の石の奇霊なることよ。これならば、汝の願いは叶うであろう」
その声を最後に熊野神は気配を消し、視界を白く覆い尽くすような銀光が香魚を包み込んだ。
いくらか経って、香魚がふと瞼を開き、視界を取り戻すと、銀光は消えており、白い水底のようだった濃霧も晴れていた。頭上の夜空には星宿が連なり、上弦に弓を張る月が静かに輝いていた。
術は施されたのだろうか。香魚は自分の体をまさぐってみたが、特段の変化には触れなかった。ただ、丹田の下辺りにほのかな温もりがある。その温もりを保ったまま、彼女は山を降りた。
丹田の下に生じた温もりが、やがて熱となり、逞しく隆起するものとなった頃、香魚は、まるで生まれ変わったかのように、邑で精力的に活動した。男が担当する狩猟に参加し、男でも引けないような強弓を易々と扱い、誰よりも獲物をとった。
香魚の変化を、邑人は驚きの目で見たが、それを気味悪がったり、恐れたり、忌避しようとした者はおらず、むしろ彼女を崇め、邑の運営をすら委ねようとした。女人でありながら、男人のように精力的な香魚は、邑人の眼には神秘に映った。高位の神は両性を具有するものだ。
香魚にとって邑は居心地がよく、邑人の期待に応えるべく溌剌と活動したが、すぐに手持無沙汰となった。山中の小さな邑では、彼女の精力を満足させることはできない。
香魚は、祖父に全てを打ち明け、父のいる山門へ向かう許しを求めた。父の面影よりも濃く、かつて彼女を救った狭野姫のきらびやかな姿が、香魚の胸中には描かれていた。
「よかろう」
孫娘を、もはや影響下に置くことができないことを悟った祖父は、己の育成力のなさを嘆いた。香魚に、結局、丹敷の司霊と同じ手段を選ばせてしまったことを、彼女の母に詫びるしかない。しかし、丹敷族に支配されるだけの世界しかしなかった若者が、山門という天地があることを知れば、そこに飛び出していきたくなるのは必然だ。鄙びた邑の名もない娘として一生を終えるはずの香魚が、磐余彦として山門主となった狭野姫の元で、大いに花弁を開くときがあるかもしれない。祖父はそう願うことで、己を慰めた。
香魚が邑を出て山門へゆくと知った邑の若者数名が、同行を願った。彼らの親たちもまた香魚の祖父と同様の思いを抱いて、彼らを送り出した。
香魚と数名の若者は、八剣山の峻険を南から北へ越え、山門の大地を踏んだ。香魚は迷うことなく橿原宮を訪れ、狭野姫に仕えることを請うた。苦境のどん底で一夜の褥を共にした妹のような香魚を、狭野姫はもちろん覚えており、来訪を大いに歓迎し、仕えることを許した。香魚に同行した若者たちも、旧主というべき道臣のもとへ出向き、仕えることを許された。
それから歳月が経ち、建御子として大いに憧れていた狭野姫は、女性としての感情に染まり、他族の男への恋慕を抱いたまま、橿原宮を出奔した。
「棄てられた」
そう痛感した香魚は、自分の憧憬を裏切った狭野姫を許さないと決めた。
そして狭野姫と入彦が、片丘の手研の邸へ向かっていたこの日、香魚は手研邸へつづく丘の麓にいくつもの呪詛を埋め込み、裏切り者の到来を待ち構えていたのである。
月の光は、ときに月影と表現されることがあります。光なのに影。なぜでしょう?
月は、どこか不思議です。燦々と降り注ぐ日光は麗しいものですが、煌々と輝く月光には美しさの他に妖しさがあります。
日光は生命を育み、月光は霊魂を育むと考えた昔人がいたようです。
日本神話では、日光の化身は天照、海の化身が素戔嗚、月の化身を月読としました。天照は女神であり、素戔嗚は男神です。ですが、月読は性別が定かではありません。
月は陰陽を兼ねるのです。満月が陽であれば、新月は陰です。月における陰陽の境が、半月なのではないでしょうか。そこから、半月には陰陽を兼ねさせる力があるのではないかと想像しました。
両性具有の神は世界の神話にも登場し、日本神話では天之御中主や高皇産霊などがそうと考えられているようです。実は天照や素戔嗚も単独で子を産んでいますから両性具有なのかもしれません。
神話はあくまで神話ですが、神話を創った人たちはおそらく神話を創っている意識はなかったでしょうから、男にして女、女にして男という考えは、古代では意外とありな話だったのではないでしょうか。日本書紀の一節にも、女性の役職である巫女に男性が任じられるという一幕があります。
現在でもLGBTは社会に浸透しつつありますが、古代では、性はもっと開放的だったのかもしれません。




