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山門編-初国知らす王の章(18)-騒ぎ立つ木の葉(10)

<これまでのあらすじ>


 俳優わざをきの少年と黒衣の少女、そして多くの人の活躍と犠牲で厄災まがごとを乗り越えた山門は、天孫族を中心とした諸族の新たな秩序を整えていた。


 橿原かしはらに宮を築いた天孫あめみま磐余彦狭野姫いわれひこさのひめは、磯城族の入彦に特別な想いを抱き、そのことが天孫族に軋轢を生む。狭野姫の慕情は彼女を支え続けてきた手研たぎしの諫言さえもしりぞけるようになり、その間隙を突いて、葛城族の太忍ふとには悪謀を巡らせるが、入彦の三人の子供たちに阻まれる。


 狭野姫は突如として纏向まきむくへの遷都を宣言する。諸族は紛糾し、それを権力奪取の好機と捉えた太忍は、遷都の吉凶を天神地祇と祖霊に問うためと称し、誓約うけひ馳射はやあての開催を提案する。太忍は馳射の馬合わせで天孫族の軋轢をさらに大きくするべく策を仕込む。入彦の子の豊城彦も悪知恵を働かせ、磯城族の騎手のりてとして憧れの馬合わせへ出場する。


 思惑通りに進んでいた馬合わせだったが、太忍の予想外の事態が生じ、思いもよらぬ被害が発生する。太忍自身の身も危うくなるが、彼を守ったのは、彼が歯牙にもかけてこなかった庶子の剣根つるぎねだった。


 誓約の神託を待つ狭野姫に下された結果は、凶だった。


 天神地祇や祖霊から裏切られた思いの狭野姫は、橿原宮を去り、想いを寄せる入彦と共に新しい天地を創造すべく、纏向に向かう。その道の途中で待っていた手研は、狭野姫に決別の辞とも受け取れる言葉を贈った。その手研の耳には、天孫族の有力者である吾曽利が指嗾しそうの言葉を囁いていた。


 手研は、初代天津彦五瀬の正妻であった五十鈴媛を葦と笹百合の川辺に訪れた。彼女を妻とすることで父の権威の象徴を手中に納めた手研は、狭野姫不在の天孫族を実効支配する。それを手研の政変クーデターを見なした葛城族は、山門からの離脱を鮮明にし、南方の諸族の取込み工作を活発にする。


 ある夜、狭野姫が磯城族の瑞籬邑みずかきむらを訪れ、秘事を入彦に伝える。狭野姫の思いを受け取った入彦は、彼女の要請を受け入れ、ともに難事を乗り切ることを約束する。


 天孫族が決起する日が近づいていた。



  ≪是非ご一読ください。ご感想、ご評価をいただけましたら幸いです。≫



<人物紹介>


 豊城彦とよきひこ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。


 豊鍬姫とよすきひめ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。


 入彦いりひこ

 磯城族の氏上このかみ厄災やくさいを乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主あがたぬし


 美茉姫みまつひめ

 入彦の妻。明るい美しさの女性。しとやかであり、闊達でもある。


 活人いくめ

 入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。


 大彦おおひこ

 入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。


 石飛いわたか

 磯城族の青年。入彦の舎人とねり


 百襲姫ももそひめ

 磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。


 翠雨あおさめ

 入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。


 如虎にょこ

 黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。


 狭野姫さのひめ

 天孫族の氏上。兄から天津彦あまつひこを継ぐ。今は磐余彦いわれひこを号している。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。


 手研たぎし

 狭野姫の年上の甥。常に狭野姫を支えている。狭野姫が唯一甘える人物。


 珍彦うずひこ

 狭野姫の忠臣。手研の盟友。


 道臣みちのおみ

 狭野姫の忠臣。手研の盟友。


 吾曽利あそり

 天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。


 太忍ふとに

 葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。


 剣根つるぎね

 太忍の庶子。自分と母を棄てたも同然の父を見返そうとしている。


 五瀬いつせ

 狭野姫の長兄であり、手研の父。高千穂族とともに東の真秀場まほろばを目指し、天孫族を号する。初代の天津彦あまつひこ


 五十鈴媛いすずひめ

 五瀬の後妻。出雲族の出身で、製鉄技術者集団と縁が深い。手研にとっては、同年代の継母。



<用語>


 高天原たかまがはら:天上世界


 豊秋津島とよあきつしま:物語の舞台


 葦原中国あしはらのなかつこく:豊秋津島の別名


 山門やまと:豊秋津島のほぼ中央に位置する地方


 青垣山あおがきやま:山門の周囲を囲む山並み


 筑紫洲つくしのしま:豊秋津島の西部にある大きな島で、白日しらひ豊日とよひ建日たけひ日向ひむかの四地方を持つ


 しん:西の海の果ての大陸にある巨大帝国


 氏上このかみ:一族の族長


 天神地祇あまつかみくにつかみ八百万やおよろずの神々


 祖霊おやたま:祖先の霊魂 氏上は死ぬと神上かむあがって祖霊となる


 精霊すみつたま:森羅万象に宿る魂 山林の異気から生まれたものは


 魑魅すだま:山林の異気から生まれた邪霊


 厄災まがこと:山門を呪いによって支配していた饒速日にぎはやひの体制を瓦解させた大災


 剋軸香果実ときじくのかぐのこのみ:高天原の神々が下界に投げ捨てた邪心が凝固したもの いつか高天原に帰ることを望み、時を戻す霊力を蓄えるため大地に寄生して石の花を咲かせる

 豊城彦の勘は、とても鋭い。妹の豊鍬姫に秀抜な呪能が生まれつき備わっているように、豊城彦には鋭敏な直感が備わっていた。それがときに童子とは思えない洞察力として表現されるが、多くの場合、なにか刺激的な冒険の兆しを逃さない嗅覚として発揮される仕様となっている。それが大人をひやひやさせる悪戯となって、結局、父や大伯父やらの怖ろしい折檻を招くことになるところが、異母弟の活人からみて残念なところだ。


 そんな異母兄への評価を再認識していた活人は、豊城彦と豊鍬姫に置いてけぼりにされそうになって、


「こんなところに追いてかないで」


 と、慌ててあとを追いかけた。


 怯えた活人が、こんなところ、というのは、夜の野の獣道だ。


 どこに物怪もののけが潜み、悪呪が埋められているかわからない夜の野を行かなければならないはめとなったのも、豊城彦の直感のせいである。


 あれは、誓約うけひ馳射はやあての馬合わせで重い怪我を負った父が回復し、息子として安堵の眠りについていた夏の終わりの夜のことだ。荒々しく起こされた活人が、馬合わせに出場した興奮がどうやら冷めはじめた異母兄の顔を寝ぼけ眼で見たとき、嫌な予感が彼の通身を貫いた。そもそも、真夜中に豊城彦に起こされて、良かったためしがない。


「いくぞ」 


とだけ告げられた活人は、まるで予めそうすることが決められていたかのようにしとねから引き起こされた。


 へやの入口には豊鍬姫が待っており、手には例によって、ほっほっほっほと掛け声の松明がある。あまりやかましくすると豊鍬姫に消されてしまうので、松明なりに遠慮がちにしている。


「いやそれよりどこにいくのさ」


 異母兄の強引さに、近頃多少の耐性ができた活人は口を尖らせた。


「あいかわらす呑気だな、活人は。いま、この邑に面白そうなことが起きようとしてるんだよ」


「なにが起きるのさ」


 活人は用心した。


「そんなことわかってたら面白くないだろ。何が起こるかわからないから面白いんだ」


 それで納得してしまうのが、活人の不思議なところだ。結局のところ、活人にも好奇心という呪いがかかっている。


「夏虫の、微音ひそね仄火ほのかも、心惹く」


 と、豊鍬姫は注意を与えた。人に感づかれてしまっては、何も面白いことにありつけない。


 三人の童子はいつものようにこっそりと母屋を抜け出て、夏の夜の底を、物の怪にも気づかれないほどの忍び足で移動した。


 豊城彦の直感の案内に従って邑の裏門に行くと、二つの人影があった。月も落ちたような深夜に、活動しているような人間といえば、燈火ともしびを護る御火焚みひたきか、不埒な悪戯小僧くらいのはずだ。


 星明りは豊かにあるから、月はなくても人影の姿は何とか確認できる。


 物陰から様子をうかがうと、どうやら一人は石飛いわたかのようだ。彼は怒らせると怖いので、三人の童子は物陰に首を引っ込めた。


 再びおそるおそる六つの眼を出すと、石飛らしき人影は、誰かを斎宮いつきのみやの方へ案内しているらしい。その誰かの人体ははっきりとしないが、旅装ごしにも抑えきれない気品が漂ってくる。旅装が隠しきれない頬や手の甲には、まるで自ら光を放つような光輝がある。


「あれは磐余彦様だ」


 そう囁いた豊城彦の目が勝ち誇っている。こんな夜深くに、山門中の天神地祇と人民を魅力してやまない狭野姫が訪れるのは、容易ならざる何かの始まりに違いない。


 活人は半信半疑の目をこらして、石飛に案内される人影を見た。先日の馬合わせの馬場で磐余彦狭野姫の姿を遠目に見たことは見たが、観覧中の彼女は紗の降ろされた御座にいたので、行き帰りの通路を歩く姿を見ただけだ。なお、磐余彦という逞しい号を名乗りながら、その人が絶世の美女であることは誰でも知っている。


「狭野姫様にちがいないわ」


 豊鍬姫の頬は赤く上気している。誰もが愛し、憧れる磐余彦狭野姫だが、呪能に優れた豊鍬姫には、常人とは視点の異なる憧憬がある。人は美しければ美しいほど妖しさを増すが、妖しさは呪能と大いに関わりを持つ。逆にいえば、優れた呪能を備える豊鍬姫も美人の資質に富んでいることになるが、それが表現されるほどの歳月を、彼女の身体は過ごしていない。


 三人は足音を忍ばせて後を追った。 燈火の向こうに斎宮が見えるところまで来ると、三人は樹陰で足を停めた。ここから先には邪霊の侵入を防ぐための呪いが敷設されているはずで、うかつには近づけない。 うっかり呪いに触れでもしたら、まるで燈火の炎に飛び込んだ虫のような結末を迎えるはめになる。


 先を行く人影は、参道から斎宮に入った。後を追うには二人の童子も参道をゆくしかないが、見るからに(いか) めしく、融通の利かなそうな衛士えじが二人、道を閉ざしている。簡単な詐術程度では、頑として動きそうにない。


(いろも) ...」


 豊城彦は豊鍬姫の耳元にささやいた。 もちろん、 退却を告げたわけではない。


 豊鍬姫が頷いて何事かを足下にささやくと、そこにあった落ち葉が数枚、まるで号令を掛けられた衛士のように起立した。


「あなたたちは勇ましいねずみの斥候(うかみ) よ。 あそこでこっそり話されていることを聞いて、わたしに教えなさい」


 豊鍬姫が斎宮を指さすと、 自分をねずみの斥候と信じた落ち葉たちが、 整然と動き出した。 枯れ葉たちは颯爽と衛士の足下を駆け抜けた。衛士二人は気にもとめない。 夜風は微風のはずだが、風にあおられる様子を装って、 枯れ葉たちは斎宮の階を昇ってゆく。


 やがて斎宮の壁に貼り付いたり、 木戸の隙間に身を乗り入れた枯れ葉たちは、 中の話を盗み聞いた。 うかつな枯れ葉は、うっかり破邪の呪いに触れて一瞬で燃え尽きた。 そんな不幸な目に遭いつつも、 枯れ葉たちは豊鍬姫の指令に忠実に、順番に行ったり来たりを繰り返しながら、盗み聞いた内容を豊鍬姫に伝えた。


 行き来の活発な枯れ葉の群に、 衛士二人がようやく疑惑の目を向けたときには、三人の童子は大方のことを把握していた。


「よし、 さっそく支度に取りかかろう」


 豊城彦の合図で、三人の童子は風のように去った。


 それから季節がひとつ過ぎる間、三人は何やら匂い立つ大事件の舞台に登場し損ねないための準備にとりかかった。 といっても、これということをしたわけではない。活人は呪力を帯びた勝軍木ぬりでの短剣を磨いただけだし、豊城彦は空想を思い描いては、ときおり含み笑いをするだけだった。


 豊鍬姫は、 宮処 (みやこ) の神倉から拝借している白銅鏡(ますみのかがみ)石榴ざくろの果汁で丹念に磨いた。 この鏡は、詐術を用いて豊城彦を馳射(はやあて) の馬合せに出場させるにあたり、彼を磯城族の騎手 (のりて) の一人に化かす化粧(けわい) の術を施す為に必要だった。 活人の犠牲によって失敬できたこの鏡を、ことが終わってから神倉に戻すべきかどうか、豊鍬姫は豊城彦に相談した。 豊城彦の助言は、


「まぁ、もらっておこう」


 というあっさりしたものだった。


 借りた桶を自分のものだと言い張る輩の考え方だと活人はおののいたが、 豊城彦には彼なりの筋がある。 百襲姫 (ももそひめ) が呪力を込めて鋳上げたこの希有の白銅鏡を、彼らの父親である入彦は身につけておくつもりがなく、 神倉に蔵するままにするつもりのようだ。 それはまるで千里を飛翔できる鷹を鳥籠に閉じ込めておくような残酷な行為であるから、それを解放してやることに正義がある、 と豊城彦は主張する。


「でも、倉にないことがばれたら大騒ぎになるよ」


 活人は心配性だ。


「だいじょうぶさ」


 豊城彦はあっけらかんとしている。 あの白銅鏡は、以前に、木偶人 (このひとがた)と土偶人 (はにひとがた) という怪士(あやかし) を宮処に引き込むという事件を起こした。 その真相は、何者かが埋設していた呪いが鏡から漏れ出る霊力につられて誤発動したのだが、多くの人はそのことを知らない。 鏡が邪霊を招いたと信じている。 だから、 神宮の奥で綿布を被せられたこの鏡の存在を確かめようとする酔狂人はいないはずだ。 もちろん、 絹布の下は、鏡のふりをした丸い木片が置かれているのだが、そのことを知っているのは三人の童子だけである。


「でも、それでもばれてしまったら、どうするの」


 活人には、豊城彦が白銅鏡を失敬するための囮となった際、二人の御火焼 (みひたき) にこっぴどく説教を受けたときの恐怖がまだ残っている。


「そのときは、謝る」


 潔いのか盗っ人猛々しいのか、腕を組んで傲然と言い放つ豊城彦の態度は、とても謝る者のものとは思えなかったが、活人は異母兄の迫力に負けた。


 三人の童子がもうひとつ用意した支度は、助っ人を呼ぶことだった。その助っ人は四足で、絹のように滑らかな黒毛に覆われている。瞳は黄玉をはめ込んだように煌々としている。


 豊鍬姫に言霊を与えられた一本占地いっぽんしめじが、くぬぎの根本にすっくと立ち、使人となって三輪山へと駆け出した。


 指令を受けた一本占地はいじらしく走ってゆく。野を横切り、雨溜りに顔を出す小石の上を飛び渡り、森の樹木の根を越える。そうしてたどり着いた三輪山の森の奥で、一本占地は、岩の上で木漏れ日の日向ぼっこをしている黒毛の獣に豊鍬姫からの言葉を伝えた。


 伝言を受けた黒毛の獣はあくびをし、背を伸ばしてから岩を軽やかに降りた。


 役目を果たした一本占地は、達成感を得たときの吐息をついたあと、黒毛の獣が寝そべっていた岩のそばに、柔らかげな地表を見つけた。良さそうな培地だと思った一本占地は、そこに腰を下ろして休息しているうちに、そのまま元の占地に戻った。


 さて、道具を整え、助っ人の手配も終えた三人が、もうひとつ考えたことがある。それは、熊鷹の雛に名を付けることだ。その雛は、天孫族と山門諸族の祖霊おやたまを合祀して新しい時代の到来を告げる大祀 (おほのまつり) の前夜、神聖なる儀式を汚そうとした何者かと、それば葛城族の剣根 (つるぎね) であったのだが、立ち塞がった豊城彦たちとの交戦に巻き込まれて母鳥を喪い、豊鍬姫が保護していた。


 名前を得るということは、自我を獲得することだが、他者からの束縛を受けるということでもある。言霊の原理としてはそれが常識だから、熊鷹の雛を野生に返すべきと考えていた童子達は、名前を付けることを躊躇していた。しかし、雛は豊鍬姫に懐き、とても森に帰りそうになく、愛着をわかしてしまった彼女は、ついに名付けを提案した。そして、三人の童子達は、熊鷹の雛に、


かける


という名を与えた。その名は実は、豊鍬姫が雛を懐に保護した瞬間に、誰かに教えられたように脳裏に生まれた名前だった。そうして翔は、三人の童子の新しい仲間となった。


 こうして準備万端を整えた童子三人は、彼らの父の入彦が明日の未明に秘かに邑を出ることを、斥候の枯れ枝からの報告で知り、先回りすべく真夜中の寝床を抜け出たのだ。


 豊城彦と豊鍬姫は、実は足が四本あるのではないかと疑わしいほどに足が速い。夜の野路に置いてけぼりされそうになり、泣きべそをかきかけた活人のすぐ横に黒い風が駆けつけ、並走した。どんな物の怪かと身震いした活人は、すぐに胸をなでおろした。


如虎にょこ!」


 助っ人の黒毛の獣は、緩やかに走りながら、優しい光の黄玉の瞳で、背に乗るように促した。


 活人が如虎の背にしがみつくと、まるで野風になったように疾走した。


 豊城彦と豊鍬姫を追い越した活人が如虎の背から舌を出し、兄と姉を憤慨させた夜が明けると、入彦と狭野姫は静かに邑を出た。


 入彦は平服の下に短甲を着込み、銅剣をき、弓を肩に掛け、矢を入れたゆぎを背負っている。狭野姫は武装をしておらず、宝鏡のみを携えた。


 木枯らしが吹く夜明けだ。野の暗がりが薄まるにつれ、枯れ色の青垣山の輪郭が遠くに浮かびはじめた。


 にわかに朝日が雲を割り、 朝霧と山林を貫いて、 橿原宮(かしはらみや) がある方角を指して、入彦と狭野姫とに行くべき道を示した。 大地の起伏と、鬱蒼と茂った樹木に遮られて、二人の視野に橿原宮は見えないはずだが、 狭野姫の瞳には橿原宮のある畝火山 (うねびやま)の光景がありありと映った。畝火山の東の山麓には、朝日を照り返す矛を林立させた天孫族が結集している。


「手研は橿原宮にはいません」


 狭野姫が明確に、入彦にそう教えた。 手研は畝火山の西麓の片丘と呼ばれる小高い丘に邸を構えており、そこで二人を待っているという。なぜそうと知れるのか。そう感じたとしかいえない。


 東麓の天孫族は手研が集めさせたのだろう。磯城族を攻めることを口実に、実は手研へ繋がる狭野姫の道から障害を排除したのだ。 その準備と根回しに、 一季節を要したのだ。 離れていても、 狭野姫には手研の考えが手に触れたように理解できた。


「では、そちらに参りましょう」


 入彦はあえて理由は問わなかった。


 二人は野径を行く足を、 少し西へずらした。


 この日の日輪が中天に昇る頃、入彦と狭野姫は片丘の頂に手研の邸を見上げるところまで辿り着いた。


 緩やかな登り道がある。 それは手研が来訪者を招くために敷設した道であり、両脇には手研の人柄を表わしたように、客人まろうどをもてなす木立や花畑が整えられている。 もっとも、いまはそこも枯れ色だ。


 素朴な冬の風景に見えるが、ここから先は用心がいると考えた入彦は、百襲姫 (ももひめ)から授けられていた銅鐸を取り出した。心を静めて鐸 (さなき) を振ると、荘厳な音色が大気を震わせた。破邪の呪いが秘められた音色だ。


 突如として大地が幾つも盛り上がり、土の肉体を持つ埴土はにつちつわものが次々と現れた。 その数は十数体もあり、 入彦と狭野姫を取り囲んだが、 入彦は落ち着いていた。 入彦には七年前の危災 (まがごと) で、埴土の兵と戦った経験がある。


 鐸の音色は野色に擬態されていた霊司たまのつかさの姿をも露わにした。この霊司が埴土の兵を操っているのだ。


 夜霧か晴れるようにして現れた霊司の姿は、入彦と狭野姫を瞠目させた。見知った人物だ。特に狭野姫の胸中には、苦い驚きが広がった。

 「名」というものは、人の数ある発明の中でも最も偉大な発明のひとつだと思います。


 世界の全ての事象には名があり、 名があることではじめて認識し、区別することができます。 名さえあれば、人は、はるか幾万光年先の星も、この世ならざる幽界の住人すらも認識することができます。


 非常に便利な「名」 ですが、 その命名の方法には世界中で様々な手法と考え方があるようです。


 来年度の大河ドラマで描かれる徳川家康。 そのフルネームをご存じでしょうか?


 一口に「名」といっても、その種類はたくさんあります。わが国では、氏・姓、かばね、名字、あざないみな) の他に、 通称や幼名、(おくりな) や戒名などもありますし、 人によっては神号を持つ人だっています。


 徳川家康の場合、生前のフルネームは源朝臣徳川次郎三郎家康となります。 源が氏、 朝臣が(かばね) 、徳川が名字(元は得川。 嘉字を用いて徳川に変更)、 次郎三郎が通称、家康が誰です。神号はご存知のとおり、東照大権現です。


 現在は「名前」 とか 「氏名」 「姓名」 「上の名前、下の名前」とかがごっちゃになっています。 氏にしても、蘇我氏の「氏」 と松平氏の「氏」 とは意味が異なるようです。


 このようにややこしい 「名」 ですが、 それでも文字と同様に、 すばらしい発明だと思います。


 一番最初に「これから名前を付けて呼ぼう」 と言い出した人物に、 いつかどこかで会えたらな、と思います。その人の名は何だったのでしょうか。


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