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山門編-初国知らす王の章(13)-騒ぎ立つ木の葉(5)

<これまでのあらすじ>


 俳優わざをきの少年と黒衣の少女、そして多くの人の活躍と犠牲で厄災まがごとを乗り越えた山門は、天孫族を中心とした諸族の新たな秩序を整えていた。


 橿原かしはらに宮を築いた天孫あめみま磐余彦狭野姫いわれひこさのひめは、磯城族の入彦に特別な想いを抱き、そのことが天孫族に軋轢を生む。


 権力の奪取をもくろむ葛城族の太忍ふとには、悪謀を巡らせるが、それを阻んだのは入彦の三人の子供たちだった。


 狭野姫の秘かな想いは日毎に大きくなり、彼女を支え続けてきた手研てぎしの諫言さえも顧みなくなる。そんな折、狭野姫は纏向まきむくへの遷都を宣言する。諸族は紛糾し、遷都の吉凶を天神地祇と祖霊に問うため、誓約うけひ馳射はやあてが開催されることになった。入彦の子の豊城彦は悪知恵を働かせ、念願の誓約の馬合わせへ出場する。


 馬合わせには、太忍の悪謀の爪牙、剣根も出場していた。彼は鏡の呪術を発動し、馬場を混乱に陥らせる。だが、剣根の呪術は暴走し、予期せぬ展開が…。



  ≪ご感想、ご評価を是非お願いします。≫



<人物紹介>


 豊城彦とよきひこ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。


 豊鍬姫とよすきひめ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。


 入彦いりひこ

 磯城族の氏上このかみ厄災やくさいを乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主あがたぬし


 美茉姫みまつひめ

 入彦の妻。明るい美しさの女性。しとやかであり、闊達でもある。


 活人いくめ

 入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。


 大彦おおひこ

 入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。


 石飛いわたか

 磯城族の青年。入彦の舎人とねり


 百襲姫ももそひめ

 磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。


 翠雨あおさめ

 入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。


 如虎にょこ

 黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。


 狭野姫さのひめ

 天孫族の氏上。兄から天津彦あまつひこを継ぐ。今は磐余彦いわれひこを号している。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。


 手研たぎし

 狭野姫の年上の甥。常に狭野姫を支えている。狭野姫が唯一甘える人物。


 珍彦うずひこ

 狭野姫の忠臣。


 道臣みちのおみ

 狭野姫の忠臣。


 吾曽利あそり

 天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。


 太忍ふとに

 葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。


 剣根つるぎね

 太忍の庶子。自分と母を棄てたも同然の父を見返そうとしている。



 矢馳やばは、馳射はやあての馬合わせの賞杯が明らかでないときに用いられる決戦方法だ。両組から選抜された代表者による一騎打ちである。


 代表者は馬を馳はせ交わし、一矢ずつを放って、相手を落馬させるか、冑の衝角に付けた雉の尾羽を弾き落とせば勝ちとなる。矢馳せ馬は、勝敗が付くまで幾度も繰り返されるが、決着が付きやすいよう、普通の矢よりも大型の鏃を付けた猟箭ししやが用いられる。


 代表者にはその組でもっとも優れた騎手が選ばれるが、多くは旗頭がその栄誉に浴することになる。


 太陰組は太忍が代表者となることは早々に決定した。日輪組は旗頭の手研が負傷しているため、その任に当たることができない。


 くすしに治療を受けながら、手研は苦痛を耐える顔を入彦に向けた。手研の目から伝わった言葉を入彦は了解したが、彼とて左上腕を矢で射抜かれており、とても弓は引けない。


 意気阻喪の空気が流れ始めた日輪組に陽気な声が揚がった。


「はい、はい、あれ、吾がいきます」


 ぴんっと右手を揚げたのは、磯城族の例の騎手だ。まるで宴会の余興に名乗りを上げる溌剌さで、彼はもう決まったとばかりに弓の弦を鳴らして具合を確かめた。


「ならん」


 厳しい声で嬉々としたその騎手の動きを止めた入彦は、心の中では苦笑している。


 入彦には、その騎手が偽物であることがわかっている。正体が豊城彦であることも察知していた。


 怒りを感じるよりも、懐かしさを感じた。山門を危うく滅ぼしかけたあの厄災やくさいが至る前、同じように呪いの力で自らに幻をまとい、馳射の馬合わせに出場した童子がいた。その童子の魂は、豊城彦にも宿っている。


(やれやれ、御統みすまるえにしある者は、どうしてこうも向こう見ずなのか)


 呆れるよりも愉快だった。ただ、入彦の厳色は薄まらない。


 その昔、神祝かみほぎの馬合わせに衆目を欺いて出場した御統は、矢馳め馬にまでまかり出た。そして彼は、相手方の手練の騎手の放った矢を衆目が驚く曲芸で回避し、見事に勝利した。だがそれは御統が常人離れの軽業を培っていたからであり、その特性までが引き継がれていると過信すべきではない。


石飛いわたか


 入彦は厳粛な声のまま、彼が最も馳射の腕前を評価する者の名を呼んだ。


「ここに」


 颯爽と現れた石飛を見て、入彦は満足げに微笑んだ。石飛はすでに矢馳せ馬の騎手に選ばれることを予想して、準備を整えていた。


「重荷であろが、なれに頼みたい。その前にもう一つ厄介事を頼まれてくれ。かの者を黙らせられるか」


 入彦は顎をしゃくって、不満を身体全体で表現している磯城族の騎手を示した。石飛にも何となくかの騎手の正体が掴めている。石飛も、厄災前の馬合わせに出場していた一人だ。


 石飛は豊城彦が扮した騎手に近寄った。


「吾が出る。文句はないな」


 石飛には、本当の戦場で命を賭けた者の迫力がある。その迫力に、豊城彦は抗えなかった。素直に首肯するしかなかった。


 そういった経緯で、石飛は馬上に上がり、矢馳せ馬に臨んだ。入彦が手研を振り向くと、手研は頷いて賛同を示した。


 馬場の中央に、一定の距離を空けて、青丹あおにの顔料で二本の線が引かれた。馬場の東西から馬を馳せた騎手は、この線の内側で猟箭ししやを放ち合うのだ。青丹は青というよりも緑に近く、山門の大地が産する山門の象徴色だ。


 石飛が東の、太忍が西の位置についた。


 太忍は族人から角弓つのゆみを手渡された。角弓は大型の矢を放つための弓で、見栄えの良い装飾が施された強弓だ。


 角弓の弓弦ゆづるを弾き、具合を確かめているふうでありながら、太忍の心は矢馳せ馬とはまったく異なることを思っていた。


 剣根のことだ。彼は太忍を庇って、自らが生み出した偶人の騎手が放った凶矢を胸に受け、重い傷を負った。そのこと事態を案じてはいない。急所は外れていたし、葛城族のくすしは優秀だ。剣根を膝に抱いた太忍には、剣根の生命力が旺盛であることも感知できた。


 太忍が思い悩むのは、剣根の負傷を目の当たりにして、なぜ狼狽したのかという己の心情の在り方だ。


 太忍は己の野望に従順だ。目的のために族人が犠牲になっても、揺るがない心構えを備えている。それは決して冷酷ということではない。族人の犠牲の上に成り立つ、葛城族の豊かな未来を信じているからだ。だが、その自負が打ち砕かれた。


(吾は、いまでもあの女を想っているということか)


 自分の惰弱さに、太忍は失望した。剣根を膝に抱いたとき、確かに太忍は、剣根の母の面影を見ていた。


 矢馳せ馬の開始を告げる審神者の声が挙がっても、太忍は物思いに沈んでいた。彼が我に返ったのは、対戦相手の馬の蹄が地を打つ音が轟いてからだ。


 一瞬立ち遅れてから、太忍は彼の馬の腹を蹴った。


 磯城族の騎手の姿があっという間に近づく。


 立ち遅れが全てだった。太忍が放った猟箭が石飛の冑をかすめたとき、太忍の冑に付けていた雉の尾羽が散った。


 大歓声が馬場を揺るがした。矢馳せ馬は石飛が制し、馬合わせは日輪組の勝利に決した。


 大きく息を落とした太忍は、石飛や日輪組に降り注ぐ拍手喝采を背中で聞きながら馬を降り、角弓を族人に渡した。馬場を去る前に剣根の様態を族人に尋ね、命の危機を免れたことを確認すると、ようやく安堵の表情を浮かべた。


 太忍は太陰組に参加した騎手たちを労い、彼らを選出してくれた諸族の氏上に感謝と謝罪を述べてから帰路についた。


 観衆は日輪組の騎手たちを大いに称えたが、今回の馬合わせは誓約である。神意に問うた事柄の正邪吉凶を判ずるものであるから、人事の勝敗に意味はない。全ては神意なのだ。


 だが、人事が全て無意味であったわけではない。剣根の呪いによって、天孫族と磯城族には確実に亀裂が生じた。そうすることが目的であったから、太忍は結局、今日の結果に満足した。


 波瀾や禁忌破りを交えながらも、ともかく誓約の馳射は天孫族や磯城族を中心とした日輪組の勝利に終わった。


 通常であれば、勝敗を確認した審神者からの進言で、主催者から勝敗の宣告と、騎手たちへの賞詞があるのだが、今回の馬合わせは誓約だ。纏向への遷都について天神地祇、精霊、祖霊に問い掛けているから、その答えを聞くまでは神事は終わらない。


 観衆の興奮はまだ収まらないが、残念ながら、彼らは神々の声を聞くことはできない。その資格がない。聞くことができるのは、磐余彦狭野姫のみだ。


 狭野姫は馬合わせ中、固い表情のままだったが、それが余計に彼女の美しさを際立たせていた。狭野姫の固い面立ちに波打ちが生じたのは、手研と入彦が落馬したときだけだったが、二人の無事が確認できるともとの固さに戻った。彼女は強張った美しさのまま

、馬場を去った。


 観衆の興奮はいつ醒めるともしれなかったが、やがて、それぞれの族ごとに帰路についた。


 豊城彦の活躍を見届けた豊鍬姫と活人は、手を取り合っていつまでも喜んでいたが、桁外れの熱量を帯びた視線を感知すると、笑いを凍らせた。おそるおそる振り返ると、そこには丸太のような腕を組んだ大彦の仁王立ちがあった。


「いい馬合わせだったな。ところで、なれらに尋ねたいことがある」


 神々もとりあえず謝ると磯城族で噂される大彦の恐ろしい微笑みだ。豊鍬姫と活人は震え上がった。そして、偶然にも二人同時に、さっさと首謀者は豊城彦であることを白状しようと決心した。


 狭野姫の花衣が橿原宮に入ったのはその日の夕方のことだが、彼女はそのまま宮処みやこに入ることはできない。斎戒沐浴し、今夜は斎宮に泊まって身を浄めなければならない。そして、明日の朝一番に、御霊屋おたやまで、誓約の結果を大祝おほはふりから告げられるのだ。


 斎宮には斎戒に用いるへやがいくつかあり、当然、先に籠もっている大祝とは別房となる。両者を仲介する者がないよう、房には警備が付けられた。


 灯り一つの房内で、白衣一重の狭野姫は瞑想で夜を明かした。


 瞼を閉じた暗闇に浮かび上がったのは、美しい山門の夕景色だ。水煙が立ち昇る山門の里。遠く夕霞がたなびく生馬いこまの山並み。群雲が黄金色に輝く赤い空。


 それは鳥見山の樹林の中から見晴かした世界だ。彼女をその高台に連れて行ったのは磯城族の入彦だった。あのとき、確かに山門の天地を、狭野姫と入彦、二人の手のひらに載せたような幻想を共感した。


 狭野姫は磐余砦いわれとりででの攻防で一矢を放ち、その矢が入彦の父、大日の胸を貫いた。その矢傷で大日は斃れるが、彼を死に誘ったその矢は、孔舎衛坂の戦いで大日が放ち、狭野姫の兄であり天津彦あまつひこであった五瀬いつせを射止めた矢であった。狭野姫は敬愛していた長兄を奪った矢を射返したのだ。


 一本の矢が二つの族の氏上を奪い、次代を創る二人を結びつけた。その邂逅は、当初、激しいものだった。愛する人を奪われていた者同士であったから、その巡り合いが刀刃の交差から始まったとしても当然のことだ。


 渦巻く心火をぶつけ合った二人は、胸を突き上げる衝動を吐き出し終えると、火焔が大気の塵埃を清浄したかのような、奇妙に穏やかで澄明な時と空間を共有した。


 その後、狭野姫を物見に誘ったのは入彦だった。見晴らしの良い高台に行かないか。入彦はそう言った。 刀刃を交わし、恨みをぶつけ合った者の言葉とは思えないが、狭野姫には魅力的な言葉だと思えた。高台へゆくまでの間、二人が手を携えることはなかったが、心を繋いだような実感が、確かに狭野姫にあった。彼女も入彦も大切な人を亡くし、その悲しみを人に見せないまま族人を率いていかなければならない立場にあった。


 高台に立った二人は夕焼けに染まった。夕間暮れの山門の山野は美しいが小さかった。だが豊かだ、と入彦は、 言った。


 人が美しい天地あめつちを創ることはできるのか。狭野姫はそう問いかけた。入彦は答えなかった。しかし心の声は聞こえた。二人ならきっとこの夕景のように美しい天地を創ることができる。入彦の心は、確かにそう言ったのだ。


 そうして狭野姫は天津彦の名告りを磐余彦に改め、磯城族からのたいらぎを受け入れた。天を渡っていた狭野姫は、地に降り立ったのだ。


 纏向への遷都に恣意はなく、まして天孫族への裏切りではない、と狭野姫は信じている。


 天孫族が万里の波濤を乗り越え、目指した真秀場まほろばへはたどり着いた。志半ばで斃れた長兄の遺志を引き継ぎ、天津彦となった狭野姫は天孫族を理想郷へと引率した。遠く筑紫洲つくしのしまで、白日しらひ伊都族いとぞく奴族なぞく建日たけひ隈襲族くまそぞくに圧迫され、その横暴にふるえていた日向ひむか高千穂族ぞく、大志を抱いた五瀬によって天孫族を名告り、狭野姫によって山門の輝く天地を手に入れた。


 狭野姫は責務を果たした。天孫族は橿原の地を根拠として栄えれば良い。氏上には、五瀬の最初の妻の兄で、天孫族のうちに隠然とした勢力を築き、指導者への欲望を生長させている吾曽利あそりが就けば良い。


 狭野姫は新しい天地を切り拓きたいのだ。入彦となら、きっとそれが果たせるだろう。


 入彦に正妻がおり、子もいることは十分に知っている。何も入彦の愛を奪いたいわけではない。ただ、これまで誰も成し得なかったような大事業を成し遂げたいのだ。あの日に見た夕景のように美しい天地を創りたいのだ。その事業の協力者として入彦を選び、密かな恋心に人知れず胸を焦がしたとして、いったい何が悪かろう。


 狭野姫は自分の本心を声を大にして叫びたい。しかし、彼女はそれが許されないほどの超越的存在に祭り上げられている。一人の若い女性に過ぎない彼女は、天孫族にとって現人神あらひとがみなのだ。神を祀る者にとって、神は自分を見ていなくてはなら

ない。他人を見つめる神は、邪神と貶められる。


(わたくしは、ひとりの娘子をみなだ)


 纏向への遷都の宣告は、つまりはその心情を映し出した狭野姫の声なき声なのだ。それを、手研だけにはわかってほしい。そして、これまでと同じようにいつもそばにいて、支えていて欲しい。その想いだけは、狭野姫の我儘なのかもしれなかった。


 瞑想は、いつしか微睡まどろみへと移っていた。


 やがて房の外で狭野姫を呼ぶ声がし、彼女は朝が来たことを知った。


 房を出た狭野姫は、清涼な斉宮の朝風に全身を洗われた。空は白白明けだ。細い春月がまだ残っている。


 かんなぎ燈火ともしびに案内されて、狭野姫は御霊屋おたまやまで進んだ。祖霊おやたまが眠るところで、誓約の神託を聞くのだ。


 白衣を綺麗に折って、狭野姫は御霊屋の白砂しらさごに座った。


 すべてが静寂に沈んでいる。澄明な大気を波立たせるのは、ただ狭野姫の吐息だけだった。


 やがて空から降ってきたかのように衣擦れの音がし、狭野姫が目を上げると、御霊屋の堂上に大祝の姿があった。


 大祝にはすでに昨朝の馳射の結果が伝えられている。通常の馬合わせにはない混乱があったことと日輪組が勝利したこととが伝えられたのだが、大事なことは結果ではなく、馳射の馬合わせを奉納された天神地祇あまつかみくにつかみ精霊すみつたま祖霊おやたまが何を感じ、どのような占形うらかたを示し、如何なる神託を言依ことよせるかだ。


 大祝の御稜威みいつなる厳粛さは、すでに神祇霊魂の神判を胸中に受けている証左だ。


 狭野姫は、まるで周囲が真空になったような静黙の中で、大祝が紡ぎ出す言葉を待った。


「凶」


 その音声だけが、狭野姫の心身を揺るがした。実際には大祝はもっと多くの言葉を添えたが、その一言だけが、落雷のように狭野姫を打ち据えた。


「お待ちなさい」


 玉声一喝、狭野姫は大祝を叱責しようとした。凶であろうはずがない。狭野姫はかつて祭祀を怠ったことはなく、ときには自ら巫女となって神楽を献納した。天神地祇、精霊、祖霊には常に真心を捧げてきた。その神祇霊魂が、なにゆえ纏向に遷都したいという願いを拒否するのか。


 しかし狭野姫は一言も発することなく、白砂に座ったまま、ただ身体を震わせていた。女人ながら建御子たけるみこを自負する彼女も、さすがに場を弁えていた。


 大祝は御霊屋の堂上から去った。


 虚しい静寂だけが残ったが、そこに何かを砕くような音が鳴った。それは、狭野姫が白砂を握りしめた音だった。


 己を見つめない神霊は、己にとっての神霊ではない。天孫族がそうやって自分を責めるのなら、自分も神霊に抗おう。


 立ち上がった狭野姫は白衣を払い、決意を秘めて御霊屋を歩み去った。

 誓約うけひは、ある事柄の是非や正邪を判断する呪術的方法です。あらかじめ、「こうならこう、こうでないならこう」と定めておき、どちらが起こるかで超越的存在の意思を尋ねるのです。


 日本書紀や古事記、先代旧事本紀には、神代から神武天皇の東征の段において、誓約を行う場面がいくつか出てきます。

 

 もっとも有名なのは天照太神と素戔嗚尊の誓約です。姉である天照太神が治める高天原を弟の素戔烏尊が奪いに来たのではないかと天照太神は疑い、誓約を挑みます。互いの持ち物を交換して、神を生むことで正邪を判断したわけですが、その場面を読むと、何となく素戔烏尊が勝ったような気がするのですが、天照太神が強引に自分の勝利を宣告します。結局、声の大きい者が勝つという法則は、神代からあったようです。負けた素戔烏尊は高天原を追放され、地上に降りて八岐大蛇の神話の主人公となります。


 誓約は、いわゆる欠史八代以降はあまり見られなくなりますが、古代の狩りには誓約の意味が込められることがあったようです。つまり、獲物の多寡で神意を問うという一面があったようです。


 呪術的な裁判方法は、その後、盟神探湯へと変容します。煮えたぎった熱湯に手を入れ、火傷の有無で正邪を判断する方法ですが、熱湯に手を浸せば火傷するに決まっていますよね。これは、実質的な判断方法というより、「最初から本当のことをいいなさい」という脅しと、熱湯を前にしたときの表情や挙措で正邪を判断しようとしたのかもしれません。現在のポリグラフのような働きがあったのでしょう。

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