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山門編-初国知らす王の章(11)-騒ぎ立つ木の葉(3)

<これまでのあらすじ>


 俳優わざをきの少年と黒衣の少女、そして多くの人の活躍と犠牲で厄災まがごとを乗り越えた山門は、天孫族を中心とした諸族の新たな秩序を整えていた。


 橿原かしはらに宮を築いた天孫あめみま磐余彦狭野姫いわれひこさのひめは、磯城族の入彦に特別な想いを抱き、そのことが天孫族に軋轢を生む。


 権力の奪取をもくろむ葛城族の太忍ふとには、悪謀を巡らせるが、それを阻んだのは入彦の三人の子供たちだった。


 狭野姫の秘かな想いは日毎に大きくなり、彼女を支え続けてきた手研てぎしの諫言さえも顧みなくなる。そんな折、狭野姫は巻向まきむくへの遷都を宣言する。諸族は紛糾し、遷都の吉凶を天神地祇と祖霊に問うため、誓約うけひ馳射はやあてが開催されることになった。磯城族も騎手を選抜するが、入彦の子の豊城彦は選ばれず切歯扼腕し、悪知恵を働かせる。


 飛火野とびひの馬場ばばにおいて、誓約の馳射が始まる。馬合わせに出場する騎手は、諸族から選抜された精鋭たち。そのなかに一騎、心もとない綱さばきの騎手が紛れ込んでいた。



<人物紹介>


 豊城彦とよきひこ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。


 豊鍬姫とよすきひめ

 俳優わざをきの少年・御統みすまると黒衣の少女・とよの生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。


 入彦いりひこ

 磯城族の氏上このかみ厄災やくさいを乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主あがたぬし


 美茉姫みまつひめ

 入彦の妻。明るい美しさの女性。しとやかであり、闊達でもある。


 活人いくめ

 入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。


 大彦おおひこ

 入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。


 石飛いわたか

 磯城族の青年。入彦の舎人とねり


 百襲姫ももそひめ

 磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。


 翠雨あおさめ

 入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。


 如虎にょこ

 黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。


 狭野姫さのひめ

 天孫族の氏上。兄から天津彦あまつひこを継ぐ。今は磐余彦いわれひこを号している。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。


 手研たぎし

 狭野姫の年上の甥。常に狭野姫を支えている。狭野姫が唯一甘える人物。


 珍彦うずひこ

 狭野姫の忠臣。


 道臣みちのおみ

 狭野姫の忠臣。


 吾曽利あそり

 天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。


 太忍ふとに

 葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。


 剣根つるぎね

 太忍の庶子。自分と母を棄てたも同然の父を見返そうとしている。



 夜明けは近いが、星の残光はまだ灯っている。風は、青葉の薫りを運んでいた。


 飛火野とびひのの馬場には無数の篝火が燃え、その灯りを目指すように、山門の諸族の邑々から燈火ともしびの列が伸びている。地上の暁闇に、炎の文様が浮かび上がっている。


 東の空が白み、その白さが空の夜を剥ぎ落してゆく。地上の風景が、少しずつ彩を取り戻してゆく。光に追い立てられるように、霧が流れてゆく。


 馬場の西端に掲げられた花文の大鏡が、かっと光を放った。朝日が射し込んだのだ。


 山門を囲むように隆起する青垣山。その東の山並みの尾根から流れ込んだ朝の光が、飛火野の夜色をおおかた流し去った頃、馬場を幾重にも取り囲む人垣ができあがっていた。


 誓約うけひ馳射はやあての証人となるべく、山門中の人々が参集している。誓約の馳射は神事であるから、みな厳粛な顔つきをしているが、心のなかでは山門最大の娯楽に楽しむための準備を整えている。


 この度の馬合わせは規模が大きいので、馬場は急遽、拡張された。貴人うまひとが席につくうてなも、庶人おほしひと茣蓙ござを敷く見物席も、急づくりのものだが、たちまち満席となった。


 磐余彦狭野姫いわれひこさのひめの来臨を告げるさなきが厳かな音色を響かせ、ひときわ華やかな集団が、衣擦れの音もさやさやと台の最上段に現れた。


 常の儀式であれば、まず狭野姫がその日輪のような神々しい姿で、天神地祇あまつかみくにつかみ祖霊おやたま精霊すみつたま言祝ことほ言挙ことあげを行うが、この日は表情を強張らせたまま、台最上段の御座みくらに着座したままだった。代わりに手研が立ち上がり、短い言葉で、馳射はやあての馬合せの開始を告げた。


 まずは諸族から選抜されたかんなぎたちが、馬場の中央で神楽を舞った。魅惑的で官能的なその舞は、観客をも愉しませたが、天神地祇たちを地上に降ろすための舞である。


 舞を終えた巫が拍手喝采に送られて退場すると、勇ましく太鼓が叩かれ、馬合せに出場する二組の騎手のりてが登場した。拍手喝采がさらに盛り上がる。


 興奮と期待と一緒に肩を組んでいるような群衆の中で、不安とやましさに首根っこを押さえられているようなただ一人が、活人いくめだった。彼は磯城族に割り当てられた観覧席の最前列で、落下防止用の木柵にしがみついていた。その隣で、花見にでも来たような顔をしているのが、豊鍬姫とよすきひめだ。


 四つの幼いまなこが注視するのは、二百騎の騎手のうちの、ただ一騎だ。


 熱い歓声と万雷の拍手を浴びて、相対する二百騎の騎手たちが颯爽と愛馬を操り、両陣に分かれた。堂々とした手綱さばきのいずれもが厳選された騎手だと見て取れたが、ただ一騎、危なっかしい騎手がいた。その騎手は、表情だけは晴れやかに、馬場の東方の陣に並んだ。そこは天孫族や磯城族から選抜された組の陣営だ。危なっかしい騎手は、甲の衝角に翡翠色ひすいいろの布飾りを結んでいるから、磯城族の騎手だ。選んだ心当たりのない入彦は、なるべく彼の視界から逃れようとするその騎手を見て、何か苦い思い出が脳裏をうろつくような気がした。


 その騎手の顔を確かめようと入彦は馬首を巡らしかけたが、隣に馬を並べていた石飛に制止された。すぐに太鼓の音が轟き、両陣営に大きな御旗みはたが立った。陣形を整える合図だ。釈然としないものを抱えつつ、入彦は磯城族の騎手たちを、予め決められた位置につかせた。磯城族は右翼を任されている。彼らを右翼の中核に据えた旗頭はたかしらの手研は、磯城族の馳射の技量の高さを知っている。なお、旗頭は、組頭ともいい、総大将を意味している。


 馳射では、旗頭は旗を振って騎手たちに意志を伝える。旗には諸族ごとに意匠を凝らした紋様が縫い込まれているが、この度の馬合わせは諸族連合した大掛かりなものなので、特別に二つの旗をしつらえた。馬場の東の陣営には太陽を描いた旗が、西の陣営には月を描いた旗がそれぞれ与えられた。磯城族は、太陽旗が翻る陣営に属している。太陽旗の陣営を日輪組、月の旗の陣営を太陰組とする。


 総大将たる旗頭が持つ旗は東西一つずつだが、百騎の騎手に明確に意志を伝達するため、右翼と左翼にも一つずつ小さい旗が用意されている。日輪組の右翼で、その小さい太陽旗を任されたのが、入彦だ。


 日輪組の布陣は左翼に四十騎をおき、中央に天孫族の三十騎、右翼には磯城族を中核にした三十騎を配した。左翼が厚いのは、太陰組の右翼に登美族がくると見越してのことだ。やはり、登美族の騎手は諸族から抜きん出ている。


 二度目の太鼓が轟いた。準備はこれで終えなくてはならす、入彦は危なっかしい手綱さばきの一騎を気にしてはいられなくなった。


 三度目の太鼓が鳴る。しかしその音色は天空へ届く前に、歓声に掻き消された。


 入彦は旗をゆっくりと前方に倒した。磯城族を中心とした日輪組の右翼がゆっくりと動き出す。


 右翼を人の右拳とすれば、左翼は体をかばう左腕となる。太陰組の左腕は、春日族を中核とした三十騎だ。発祥が登美族からの枝分かれであるから、春日族の騎手も手強い。


 互いに矢頃に入り、礼儀の矢合わせのあと、激しく矢を応酬した。模擬戦だから矛をふるっての肉弾戦はないが、飛び交う無数の矢は、観衆を十分に楽しませる。天神地祇も悦んでいるにちがいない。


 矢の鏃には刃止めがされてはいるが、短甲で守られていない部分に当たれば肉に食い込むし、鮮血も飛ぶ。血が、ますます観衆を酔わせる。


 日輪組の右翼、太陰組の左翼に一人、一人と落馬者が増えた。落馬者は速やかに馬場を去れねばならない。自力で馬場を去れない負傷者が出た場合は、仲間が負傷者を連れ出す間、相手は攻撃を控えるのが馬合わせの礼儀だ。


 太陰組の右翼、つまり登美族を中核とした三十騎は、激しく日輪組の左翼を衝いた。登美族は十騎だが、他族の二十騎をあてにせず、彼らだけが突出した。巧みな馬術で日輪組の飛矢を避け、肉弾戦といってよい近距離まで近寄ってから渾身の強弓を放ったから、撃たれた方は堪らず馬上からもんどり落ちた。その様には、観衆からも悲鳴が上がった。


 ここで手研は冷静だった。登美族の強さも突出も想定どおりだったからだ。手研は御旗を動かし、左翼と中央の天孫族に合図を送った。


 日輪組は総大将の意志を受けて滑らかに動いた。手研は戦いに馴れている。諸族に武人は多くいるが、手研ほどの実戦歴を持つのは、磯城族の大彦くらいだ。実戦の数もさることながら、孔舎衛坂で天孫族が消滅するほどの大敗を喫したことが、手研に大きな教訓を与えている。模擬戦にすぎない馳射の馬合わせで手研が慌てるはずはなく、事前に騎手たちに戦いの推移の予想を伝え、それに対応した動きをしっかりと伝達している。準備の周到さこそが、手研の真骨頂だ。


 日輪組の左翼がするすると退いた。登美族の猛攻で数人を落馬させられたが、狼狽はない。動きに釣られて、登美族が間を詰める。太陰組の右翼の間隙が広がる。そこに日輪組の中央の十騎ばかりが割り込んだ。退いていた日輪組の左翼が攻勢に転じる。登美族は前後から矢を浴び、次々に落馬した。中核の登美族を失った太陰組の右翼はひるみ、うまくすれば逆に挟撃できた日輪組中央の十騎に攻撃をかけないまま、一旦退いた。


 緒戦は、まず日輪組優位で進んだ。


 日輪組の右翼と太陰組の左翼の戦いは一進一退だった。太陰組左翼の中核の春日族が手強い。彼らは登美族のような猛進はしないが、馬をうまく操り、飛矢を避けながら、的確な矢を放ってくる。双方に落馬者は少ないが、革甲に突き立つ矢の数は増えた。


 入彦は焦らずに、磯城族の戦い方を粘り強く続けた。


 この度の馬合わせは、東西共に諸族寄り合わせの混合戦であるから、他族との連携は難しい。登美族を迎え撃つため、中央と左翼との連携はうまくいったようだが、手研も右翼までは手が回らなかった。磯城族を信じたともいえる。


 入彦は、磯城族の十騎だけで終始戦い抜くつもりだった。仲間の他族を無視するわけではないが、他族の動きに惑わされないようにした。そのため、春日族の的確な矢は東組右翼の騎手を徐々に落馬させはじめたが、磯城族から脱落者は出ていない。


 入彦は、十騎が放つ矢が相手の一騎に集中するように戦った。だから、入彦は強弓を引ける族人ではなく、協調して的確な矢が放てる族人を選抜した。


 だが、十騎の矢が揃わない。一騎の矢が入彦の意図を外れ、俊敏に馬を駆る春日族は、その隙間を逃げてしまう。


「ああ」


 悲鳴に近い声を上げて、その一騎が的を外すたびに、活人は目を手で覆った。


「そんな声を出して。馬から落とされたときには、どんな声を出すつもりなの」


 隣の豊鍬姫が、声で弟を小突いた。


「そんなことを言わないでおくれよ。馬から落ちただけでも、打ちどころが悪いと大けがするんだ」


 大袈裟な身振りで、活人は豊鍬姫に訴えた。活人は兄が心配で仕方がない。あの危なっかしい手綱さばきの一騎は、活人と豊鍬姫の兄、豊城彦なのだ。


 もちろん、正式に認められての出場ではない。


 馳射の馬合わせに出場する騎手たちは、誓約うけひの見届け人ともなる観衆よりもずいぶん早く馬場に入り、騎手用の屋舎で準備をする。西組で選抜された者も、東組で選抜された者も、この神聖な神事の馳射に出場できる栄光に興奮気味だった。


 日輪組にあてがわれた屋舎のうまやで、馬たちが騒いだ。


「馬たちも気がはやっているらしい」


 騎手たちはそう言って笑ったが、笑ってばかりもいられない。大事な馬に万一があれば、神事は吉凶以前の大不吉で終わることになる。


「磯城族の馬のようだ」


 様子を見に行った騎手が、入彦にそう告げた。入彦が石飛を見ると、頷いた石飛は馬の扱いに長けた騎手を厩に向かわせた。


 磯城族の厩を覗いたその騎手は、すぐに異質の匂いに気が付いた。かすかな匂いだが、馬に詳しい彼には、それが発情期の牝馬の発する匂いに近いものであることがわかった。


 その匂いは微量で、馬を知らない人間には判別できない程度だが、よく調教された磯城族の牡馬とはいえ、大一番の戦いが控えていることを獣なりに察知して興奮ぎみの彼らを騒がせるには十分だった。


 その騎手はまことに馬の扱いに長けた騎手で、唇を引き上げる生理現象を起こしている馬を優しくなだめた。その作業をしている間、不覚にも、厩に漂う匂いに変化が生じたことに気づかなかった。彼が自分の身に起こったことを知るのは、この日の全てが終わった夕べのことになる。


 実は厩には、三つの小さい影が潜んでいた。その小さな影は、邪にも、山珊瑚やまさんごの赤い実と辛夷こぶしの蕾をすり潰して泥土に混ぜて練った丸薬をいぶして、微かな煙を立たせた。その煙の匂いは、発情期の牝馬の尿の匂いによく似ている。牡馬たちが騒ぎ始めたのは、そのためだ。


 小さな影たちは、磯城族の騎手が厩に入ってきたのを見ると、山珊瑚と辛夷の丸薬を踏んで煙を消し、かわりに忘れ草の根を粉状にして練った丸薬に火を付けた。また細々と煙が立ち、一番小さな影がせっせと振る扇の風に乗って静々と流れていった。悪辣色したその煙を吸い込んだ騎手は、たちまち深い眠りに落ちた。


 ほくそ笑んだ小さな影は、それぞれ、豊城彦、豊鍬姫、そして活人だ。


 彼らはすばやく動いた。


 眠りこけた騎手を飼葉桶かいばおけまで運んでその中に入れ、上から干し草を被せて隠した。干し草を被せる前に、手にした鏡で騎手の姿をしっかりと写し取った豊鍬姫に、


「頼むぞ、いろもよ」


 と、豊城彦が声を掛けた。豊鍬姫は自信満々に頷いた。


 豊鍬姫は鏡に写し取った騎手の姿と言霊の力で、豊城彦に化粧けわいまじないをかけた。彼女が持っている鏡は、あの白銅鏡ますみのかがみだ。百襲姫ももそひめの膨大な霊力を封じ込めたその希有な鏡が、豊鍬姫の手に渡った経緯を聞いた活人は幼い頬をぱんぱんに膨らませたものだ。その鏡を神倉かみくらから持ち出すために犠牲となった活人は、こっぴどく叱られたのだ。その活人に向かって、豊城彦は、活人をだしに使って鏡を手に入れた次第を、しれっと語って聞かせた。要するに、活人が夜番の御火焼みひたきたちに追いかけ回されているうちに、豊城彦が神倉に忍び込んで白銅鏡を拝借したわけだ。


「悪く思うな」


 弟の肩を叩いた豊城彦は、それで全て済んだといいたげな顔をした。


 悪く思う以外にしようのない活人だったが、膨らんだ両頬に満杯となった不平不満を、結局は呑み込んだ。豊城彦が今回の馳射にかける想いの強さを知っていたからだ。


 男児なら、だれもが馳射の騎手に憧れる。そのうえ今回は、大規模な誓約の馬合わせだ。誓約の結果がどうだろうと、出場した騎手は生涯栄光に包まれるだろう。勝ち気で目立ちたがり屋の豊城彦が、例え年齢が規定に達していなくとも、それくらいで諦めるはずがないのだ。


 それに、馳射の騎手として恥ずかしくないよう、豊城彦が夜間に秘密の特訓を重ねていることも、活人は知っている。子馬には乗ったことがある豊城彦だが、当然、馬合わせでは成馬にまたがる。速度は子馬と比較にならず、しかもその馬上で弓を引き、矢を相手に当てなければならない。


 豊城彦は、磯城族の瑞籬邑みずかきむらが寝静まると、こっそりと厩舎から馬を引き出した。父の入彦の愛馬である翠雨あおさめだ。翠雨はとても頭の良い牡馬で、人語を解するわけではないだろうが、豊城彦の必死の願いを聞き入れて、いつも静かに豊城彦に従った。


 邪霊が跋扈すると信じられた夜の野は人の忌避するところだが、豊城彦は臆することなく、夜の野で乗馬の特訓を積んだ。もちろん、豊鍬姫が特訓に付き合い、可能な限り邪霊を祓った。


 乗馬に慣れてくると、馬上で矢を射る修練も行った。これが難題だった。手綱から手を放せば、たちまち激しく揺れる馬の背から転げ落ちた。騎手のことを気遣える翠雨でなければ、豊城彦はどこかで大怪我を負っていただろう。


 打ち身と擦り傷が一夜毎に増えてゆき、それでも決して弱音を吐かず、とうとう馬の背をそれほを揺らさずに疾駆させる方法を身につけた。翠雨のうまい誘導があってのことだが、豊城彦の根気と負けん気は相当なものだ。


「どうだ。うまくなっただろう」


 そういって傷と痣だらけの顔に笑顔を浮かべた兄を見せられては、活人の口内にたまった不平不満は喉に落ちるしかなかった。


 ただ、馬を上手に走らせ、その背の上で弓を放てればよいわけではない。放った矢を、動く敵に当てなければならないのだ。


 最初は活人が動く的にされた。もちろん放つ矢の鏃は外してあり、矢の先端には布を巻いている。動きの遅い活人が簡単に当てられるようになると、豊城彦は三輪山の森の中で静かに暮らしている如虎にょこにも協力を願った。


 先に開催された神祝かみほぎの大祀おほのまつりで、聖なる儀式に泥を投げつけようとした何者かを協力して撃退して以来、豊城彦たちと如虎にょこの紐帯はますます強くなっている。だから、如虎は、的役を快く引き受けた。


 仲良くはなったが、如虎はなかなかに厳しい。活人に比べて体はかなり大きいが、その俊敏さはまったく目で追えるものではなかった。そのうえ、ときどき如虎は攻撃に転じて飛びかかってきた。間一髪で豊城彦は躱す。馳射の馬合せにおいては、当然、相手も矢を放ってくる。そのことを豊城彦は如虎から教えられた。


 そしてとうとう、豊城彦は如虎の鋭い跳躍を躱し、彼の背に鏃抜きの矢を当てることができた。誓約の馳射の二日前のことだ。豊鍬姫と活人と共に、磯城族の騎手にすり替わる手順を確認し終えた豊城彦は、丸一日を眠った。 


 そして努力の成果と悪知恵をひっさげて、豊城彦たちは飛火野の馬場の厩に潜んでいたのである。


「どこからどうみても、豊城彦には見えないわね」


 豊鍬姫の自画自賛の化粧術で、確かに豊城彦はあの騎手に瓜二つに化けた。ただ時おり、風に吹かれる木の葉のように、微かに輪郭がぼやけた。呪能に天稟てんぴんがあるにしても、まだ修行の足りない豊鍬姫だ。とはいえ、ここはこれで満足する他はない。


 そのようなわけがあって、磯城族の足並みが整然とはいかなくなっている。なにしろ、騎手に化けた豊城彦が乗る馬は翠雨ではない。いつもの主と匂いの違う人間を乗せた馬が彼を振り落とさなかっただけでも、豊城彦に乗馬の才能があると認めるしかない。


 さて、豊城彦のおかげで射落とされずにすんでいる春日族の騎手が、今度はその豊城彦に狙いを定めた。

 

 古代の日本人にとって、化粧は呪術的要素の強いものであったようです。邪霊が体内に侵入し、病気などの災いをもたらすことを防ぐための魔除けです。文身いれずみも同様に、災害から身を護るための呪術でした。


 化粧の化は「ケ」であり、つまりは日常生活のことです。普段着、よごれなどの意味もあり、それを呪術でよそおうことによって、神性に近づくと考えられたようです。ちなみに「ケ」の対義語は「ハレ」で、「晴れの日」などのハレです。


 古墳時代頃までの化粧に使われた顔料は主に赤色です。赤は太陽や火、血を象徴する神聖な色です。いわゆる白粉が一般的に用いられるようになったのは、平安時代からのようです。


 近頃は男性でも化粧する方がおられますが、呪術的な要素は薄れているとはいえ、素の自分から、何か別の存在に変わりたいと願う心は、古代人も同じだったようです。

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