赤
「はい……。病院へは行きました。急性胃炎だそうで、自宅療養でいいらしいですけど、安静を言い渡されました。どれくらいかかるか、またわかり次第、連絡します」
嘘の連絡を会社に入れると、携帯電話を切った。
外の世界の音を聞き、空気を感じたら少しは気が晴れた。
すやすやと眠るユニオの横に寝ころび、しばらくするとすぐにまた震えが戻って来る。
「う~~っ……。うううう~~……っ!」
震える声が口から自然に漏れ、頭の中でさまざまな不安が形を得て暴れ出す。
「ああっ……ああああっっはははは!!!」
笑っているのではない、気が狂いそうなだけだ。
マルチーズのちろくんが心配するように側に寄って来てくれると、少しだけ気が落ち着く。
まん丸い目であたしを見上げてくれる。自分でトイレも運動も出来るちろくんのほうが、再びユニオよりもかわいくなっていた。
ユニオは明らかに大きくなっていた。
まだ生後二日目にして、もう人間の赤ん坊でいえば二ヶ月くらいになっているように見える。
「うおおああ~っ! ああっはっは!!」
そう独り言を上げながら、台所へ行き、水を飲んだ。
鏡を見るとひどい顔をしていた。目の下にはくっきりと大きなクマが出来ている。
テーブルに座り、しばらくやめていた煙草を吸う。
すぐに消し、ユニオが心配でたまらないのでベッドに戻る。
ミルクでも喉に詰まらせてたら大変だ。
心配は現実のものとなった。
ちろくんがちょうどユニオのちっちゃな二の腕に噛みついたところで、それはまるで猛獣が獲物に食いついた瞬間に見えた。
ユニオが深刻な泣き声で助けを求める。ちろくんが頭を振って肉を食いちぎろうとしている。
「ちろくん!」
あたしが怒鳴るとびくっとして、ちろくんはユニオに突き立てていた牙を離した。
ユニオの二の腕は肉がえぐられてめちゃくちゃになっている。
血がシーツの上に赤い池を作り出す。
「この……!」
あたしはちろくんを蹴り飛ばしかけて、思いとどまった。彼が反省のポーズでうずくまっていなければ蹴り飛ばしていた。
ユニオの傷を診てあげる。
それは不思議な力でみるみる自己修復が始まっていた。
あたしの見ている前でどんどん傷が小さくなり、えぐられたところの肉が塞がって行く。
あたしはちろくんをケージに叩き入れるように閉じ込めると、万が一にも出て来られないように、扉の前に重たい雑誌を積み上げた。
ユニオを抱き上げる。前に抱いた時よりも明らかにまた大きくなっている。
やがて傷が完全に塞がると、ユニオの体がだんだんとまた重たくなり、泣いていた顔をぱあっと輝かせ、初めての言葉を発した。
「ママ!」
それを聞いた途端、あたしの狂ってしまいそうだった心がどこかへ吹っ飛んで行った。
「ユニくん!?」
目から涙が溢れ出した。
「ママがわかるの?」
育児は大変だ。常に気が狂いそうになる。あたしには助けてくれる旦那も母親も側にいない。
それでも絞め殺してやろうかと思っていた悪魔のようなベビーは、いともたやすく天使に変容する。
何も出来ず、ただ面倒を見させるばかりで、あたしを苦しめていたその悪魔が、あたしを救う天使にあっという間に姿を変える。
あたしはユニオとひとしきり言葉のない会話を堪能すると、すっかり癒されていた。
一緒に寝ころび、おっぱいをあげる。
かわいい。
あたしにすべてを委ねている彼は、あたしのベビーであり、あたしの恋人だ。
あたしは彼との肌の触れ合いを愉しみながら、気怠い眠りに落ちて行った。
ケージの中でちろくんが悲しそうな声を出すのが聞こえた。
明日、保健所へ、連れて行こう……。