ユーコの引っ越し
てっきり賃貸住宅の大家さんでもやっているのかと思っていた。
公務員がそんな副業を持っていていいものかわからないが、この人ならこっそりやっていそうだと。
でもあたしの目の前に現れたのは、高層マンションぐらいにインパクトのある、森に包まれたとても大きな洋館だった。
「知らなかった……。自分の住んでる町のすぐ近くに、こんな凄い個人の家があったんですね」
「驚いた?」
ゼンゾーさんは頼もしく聞こえてしまう声で、言った。
「おれの先祖が築いたものなんだけどね」
「ご先祖は……殿様?」
「殿様ならお城に住んでるよ」
ゼンゾーさんがくすっと笑う。
「先祖は代々商人だったそうです。海外貿易を独占して荒稼ぎしてたらしい」
門を入っても玄関まで結構な距離があった。ようやく車庫に辿り着くと、黄色い外車のスポーツカーが停まっていた。これももしかしてゼンゾーさんの物なんだろうか。彼を見る目が変わってしまう。
大きな木製の玄関扉をゼンゾーさんが開くと、中はまるで映画セットのような広い空間だった。
「素敵……」
あたしは思わず声が漏れた。
「気に入った?」
ゼンゾーさんが嬉しそうに笑う。
「今日からここが君の家だよ」
「あの……」
「ん?」
「犬……ペット可……ですかね? 聞くの忘れてたけど」
なぜかの照れ笑いをしてしまいながら聞いた。
「なんでも可だよ」
ゼンゾーさんはなぜか興奮しながら答える。
「大型犬飼おうか? 馬でもつないでおく場所あるぜ?」
「いえ……。ちろくんのことですけど」
あたしがそう言うと、ゼンゾーさんは「ああ」とうなずき、なぜか肩を落とした。
「ここを君の部屋にしよう」
建物の一番奥のほうまで歩き、ゼンゾーさんは木製のドアの前で立ち止まった。
あたしは荷物を床に下ろすと、ゼンゾーさんのほうを真っ直ぐ向いて、お辞儀をした。
「ありがとうございます。お世話になります」
顔を上げると彼の不思議そうな顔があった。まるで自分の家に入るのに丁寧にお辞儀をする娘を見るような。
すぐにくすくすと可愛いものを見るように笑うと、言った。
「同居人を紹介しよう。あと、夕食に食べたいものあったら彼に言って」
コンコンコン、と斜向かいの部屋のドアをノックする。
返事がないのでもう一度ノックした後、激しくそのドアを蹴りはじめた。
「おいスティーブ! いるのはわかってんだ! 出て来い!」
すると部屋の中からなんだか「ブゥーン」とか「ジーー」とかいうようなノイズが急に大きくなった。
「いかんっ!」
ゼンゾーさんがあたしに飛びかかって来た。
「きゃあっ!?」
「耳、塞げ!」
次の瞬間、あたしには何が起こったのかわからなかった。爆弾でも落ちたのか思うほどの轟音が鳴り響き、壁も床も震えた。
静まり返って、しばらくすると扉が開いた。中から背の高い、ちりちりの長髪にサングラスをかけ、口の下にへんなチョビ髭を生やした白人さんが現れた。
「スティーブっ!」
ゼンゾーさんがあたしの耳を覆っていた手を離しながら、苦しみのこもった大声で叫んだ。
「おまえっ……! 見ろっ! これがおれの婚約者の優子さんだぞっ!」
はい?
「アイタガヤ」
外人さんは無表情に、上手な日本語で喋った。
「お帰り」
「何!? 何だって!?」
ゼンゾーさんが大声で叫ぶ。
「聞こえねーよ! 今の爆音で耳、潰れたよ! 謝れよ! 聞こえねーけどもしひでーこと言ってるんなら今すぐ謝れよ!」
「スミマセンデシタ」
外人さんは憮然とした表情で、何もひどいことは言ってないのに謝った。
頭は下げなかった。
ゼンゾーさんはその後しばらく耳が聞こえなくなったらしくて、自室に戻ってウンウン唸っていた。看病してあげようかなとも思ったけど、放っておけばそのうち聞こえるようになりそうだし、あたしは自分に充てがわれた部屋に荷物を運び込むことにした。
荷物はほんのスーツケース1つとボストンバッグ1つだけだ。それを持って部屋に入り、思わず声を漏らした。
「わぁ……。素敵……!」
部屋には家具が備わっていた。白い洋服箪笥と木製の小さなテーブルと椅子、そしてマットレスだけ乗ったダブルサイズのベッド。
それだけだけど、すぐに生活を始めるには、あと布団さえあれば充分だった。
何より緑色の縦縞の入った壁紙がヨーロッパのお城みたいな雰囲気で、お姫様になった気分になれる。
どう見ても古い部屋なのだけど、意外に照明は新しいものがついていて、壁のコントローラーで明るさが調整可能だ。エアコンも今時のものが備わっている。
ベッドがダブルサイズでよかった。ユニくんが帰って来ても、これなら余裕で一緒に寝られる。アパートのあたしのベッドよりも断然広くなった。
今日は疲れた。
マットレスだけのベッドの上に横にならせてもらったら、いつの間にか眠りに落ちていた。
「う……ん?」
目を開けるとゼンゾーさんの顔がすぐ近くにあって、じっとあたしを見つめていた。
鼻の穴がとても開いている。
両手はあたしの顔のそれぞれすぐ横にあって、マットレスを凹ませていた。
「あの……」
あたしはちょっと怖くなりながらも、彼を宥めるように話しかけた。
「ごめんなさい。勝手に寝ちゃって。とてもいいお部屋ですね」
すると彼はなぜか、感動に打ち震えるように目を潤ませた。




