ユーコの印象
信じられないものを見た。
アパートの前に乗りつけたその人は、昔、あたしが免許取り立ての頃に、お父さんが『練習用に』と買ってくれたのと同じ車から降りて来た。
いい車だった。コンパクトなのに中は広くて、よく走る。でも、あたしが乗ってたのは、これほどポンコツじゃなかった。
天使の服を着せてキャップを被せたユニくんは喜んで乗り込んだが、助手席に乗ろうとする彼をあたしはやめさせた。ぶつかりそうになった時、自分ばっかり守って助手席から激突されたらどうするのよ。エアバッグが壊れてたらどうするのよ。それに隣にいさせないと安心できない。助手席にはちろくんを乗せた。
服装はいつものヨレヨレのスーツだった。信じられない。べつにウキウキしていたわけじゃないけど、一応これ、デートでしょ? 仕事中ということになっているのわかるけど、せめてアイロンぐらいかけて来いよ。あたしとユニくんに恥をかかす気か。
まぁ……、あたしも『いつもの』ピンクのチュニックにジーンズ姿だったから、人のことは言えないか……。
高速道路に乗るとバカみたいにスピードを上げた。
ユニくんはきゃっきゃと喜んだけど、あたしが釘を刺した。
車からギシギシ音が鳴るのが怖くて、ユニくんの身体を抱いて守った。
ドッグランでユニくんとちろくんを遊ばせながら、あたしは帰りたくなっていた。金網の向こうで戯れるふたりはかわいい。でも、隣にいる人が邪魔だった。3人だけなら、ちろくんとは久しぶりの、ユニくんとは初めての遠出。どんなに楽しかったことだろう。
「いい天気でよかったですねまるで天国にいるみたいだ」
あたしはゼンゾーさんの言葉を早送りして聞いた。
一応「そうですか」と答えてあげた。
天気はよかった。
気持ちのいい風は吹いていた。
「かわいいですよね」
その人は言った。
「人を3人食ったとはとても思えない」
「やめてください!」と思わず爪でひっかいて首を絞めてやりたくなった。
その人はさすがに反省したようだったが、あたしは心の中で許してはいなかった。
昨夜はプロポーズを受けてもいいと考えた。ユニくんを守るために、側にいてくれたほうが助かるからだった。でも、あたしとユニくんは、この人にはもったいない。そう思えてしまった。まだ今日のデートは半分も終わっていないのだろうが、それを知るには充分だった。
その人は電話で誰かと話していた。
おそらくは警察からだろう。
こんなダメそうな刑事にも連絡は来るんだなぁ、と彼の職場の空気の温かさを想像する。
電話が終わったら食事に連れて行かれるのだろうか。もうすぐお昼だ。「お洒落なレストランにかけそばを食べに行きませんか」などと言い出しそうな人だと思った。そばが食べたいならそば屋へ、お洒落なレストランへ行くならランチを頼むような人じゃない気がした。
すると電話を終えた彼が言った。
「優子さん。事件が起きた。……とてもすまないが、今日は中止にしよう」
ほっとした。
帰れる。
不謹慎だが、殺人事件が起きたらしいことに感謝した。
アパートの前でユニくんはなかなか車を降りようとしなかった。
「ゼンゾー、帰っちゃうの? はやすぎる! もっと一緒に遊ぼう! っていうか一緒に暮らそうよ」
「悪いな。お仕事だ。おれは行かなきゃならない」
「もぉっ……!」
ユニくんは女の子みたいにふくれっ面をした。
「すまん。これで我慢しろ」
そう言うと、ゼンゾーさんは運転席から振り返り、ユニくんの細い身体を引き寄せ、キスをした。
見るのは2回目だが、ユニくんとキスをする時だけ、この人が頼り甲斐のある男性のように見えてしまう。
しゃくれた顎が、二つに割れたアングロサクソンみたいな逞しい顎に見えてしまう。
2人がキスをするのを見るのは嫌じゃない。
これをしないとユニくんはまた人間を食べたくなってしまうらしいし。
何よりなぜか見とれてしまう。
天使と古代の戦士が口づけするのを見るようで。
部屋に戻るとすぐ、ユニオはすねたようにベッドに仰向けにダイブした。マットレスに穴を開けないよう、ちゃんとツノは上向きで。
「そんなにゼンゾーさんが途中で帰っちゃったのが嫌だったの?」
お茶を淹れながら聞くと、かわいい返事が返って来た。
「ママがいるからいいけど……。ゼンゾーもいたらもっといい」
ちろくんは銀皿の水を一心不乱に舐めている。
あんな人に、どうして、とは思わなかった。
今日の印象は散々に終わったが、それでもユニくんがゼンゾーさんになついていることは、少しも不思議ではなかった。
本当のお父さんと息子に見えてしまう瞬間があったのは、確かだった。
「さ、お茶も入ったし、少し遅いけどお昼ごはんにしよう」
簡単に作ったやきそばをテーブルに乗せると、嬉しそうにベッドから起き上がり、笑顔でこっちへやって来る。
「おいしい?」
あたしが聞くと、ソース色の麺を気持ちよさそうに啜りながら、ユニくんは言った。
「おいしい! でも、ぼく、またレバーが食べたいな」




