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王子のノートは宝石箱のようだった。
建国史から始まったノートは年表を軸にその出来事の詳細はもちろん、その土地の特徴や民族的風習にも触れていて、今日の先生の語り口が聞こえてくるようだった。
読み進めながら書き写し、書きながら疑問に思ったことを自分のノートに書き留めていく。
エリーに強制停止されるまで夢中で書き写していた。
明日の選択授業のティオル国概論も大いに期待できる。
……女子は少ないだろうけどね。いや、でもティオルは多彩な織物の産地だから、意外と女の子がいるかも?
なんて色々考えていたら、見学のことをすっかり忘れてしまいましたよ……。
翌朝、講堂に入るなり、水色の頭がひょっこり現れる。
「アイリーア嬢、本日の放課後はこの講堂にお迎えに上がりますがよろしいですか?」
なんて言われて、改めてそんなイベントがあったな、と落ち込んだ。
「はい。では、午後の授業が終わりましたら、こちらへ参ります」
会心の令嬢スマイルで受け答えながら心の中で海よりも深いため息をついた。
早く帰って王子ノートを書き写したい。
午前の退屈な授業を聞き流し、ランチタイムのお喋りを受け流し、午後の授業に臨む。
さあ、女の子来い!
と思っていたのに、なにやら昨日のデジャヴが……。
メンバーもほぼ一緒じゃない?
王子もいるし。
「アイリーア嬢、今日もお会いできるとは光栄です」
あ、王子の名前、分からないんだった。どうしよ……。
「昨日は大切なノートをお貸しいただき、ありがとうございました」
「いえ、お役にたちましたか?」
「はい、とても! お恥ずかしながら、まだ全てを写せておりませんが、お約束の期日には必ずお返しいたしますね」
おっとはしゃぎ過ぎちゃった。
王子がおかしそうに笑ってくれちゃってるし、周囲がドン引いてるよ。
「じゃあ、ティオルのノートも貸そうか?」
ノートを差し出されて、思わず飛びつきかけた。
もうホント、ギリだから。
「光栄です。では、授業が始まるまでの間、見せていただいてもよろしいですか?」
って言ったら、王子がにこにこしながら手渡してくれる。
とりあえず、授業の流れを掴んでおきたくて、手早く目を通していく。
流れはだいたいベルカイム概論と同じか。建国から始まる歴史。それから産業にも触れているけど……この国でメジャーなものばかり、と。
あとは、たぶんベルカイムの先生の方が話し上手。
予鈴が鳴り始めて、私は慌ててノートを閉じた。
王子は私の隣席を取ったようですぐそこにいたのだが……。名前、分からーん。
ノルベルト様って呼ばれてたけど、それってファーストネームよね? 私が呼べる名前じゃないよね? ファミリーネームを教えてくれよー!
……ダメだ。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥って言うし、聞いてしまおう。
ってか学年違うんだから知らなくて当然だし、逆になんでアンタが私の名前を知ってんだって話よね?
とはいえ、ノートを差し出しながら申し訳無さそうに問いかけてみる。ヘタレだからね。
「ありがとうございました。参考になりました」
「うん、役に立ったのなら嬉しいよ」
多めに息を吸って、でも少し声を落とした。
「不調法で申し訳ないのですが、お名前を……なんとお呼びすればよろしいででょうか?」
コップ1杯分は冷たい汗をかいたと思う。
でも王子はなんだそんなこと、と特に気にするでもなく答えてくれる。いい人だ。
「普通にノルベルトでいいよ」
あれ?
「ノルとかノルンとか愛称で読んでくれてもいいよ?」
くすくす笑いながら普通にからかってきやがる。
いい人とか思った5秒前の私を殴りたい。
てかいつの間に、こんなに砕けた喋り方!?
「ありがとうございました、ノルベルト様」
スマイルと浅いカーテシーで受け流して自席に戻る。
なんだって私をからかってくるんだ。……世間知らずなのがバレバレなのか!?
はぁ、メル君の「ざまぁ」の幻聴が聞こえる。
王子ノートのおかげで内容はすんなり掴めたけど、やっぱり行きつ戻りつで、「そういえば先程のところ…」とか「忘れてましたが」と後出し情報が結構ある。
空白を多めにノートを取って正解だった。
予め王子ノートを見ていたおかげなのでやはりノート君には感謝をしておかねばなるまい。
ん? 自分でノート君と呼んでくれって言ってたよね? 確か。
授業後、ノート君がまたもノートを差し出してくれたが、流石にそれはお断りする。
一度に何冊も借りたくない。とりあえずベルカイムのノートを返してからだ。
「きみはサンブリアの授業にも参加するの?」
ルトナークに隣接する3カ国の概論は今年まとめて終えてしまおうと思っているので、肯定する。
「じゃあ、また、明後日に」
上機嫌でくすくす笑いながら手を振って去って行くノート君は笑い上戸なのか。そして、なぜか距離感がおしいよ?
とりあえず、教務課に来週分の仮選択を提出して帰ろう……。
じゃ、なかったー。
引きこもりには学生生活の難易度がハード過ぎる。
ロッカーに荷物を押し込んで、講堂に戻れば、1号・2号コンビがいた。
1号君がレイモシー・グラディスで2号君は……えっと? たしか……。
チェスロー伯の縁者だったはず。
まぁ、ファミリーネームが分かればいっか。
3人で練習場に足を向ける。
2人が代わる代わるエスコートしてくれるんだけど、君たち、エスコート慣れてないよね?
まぁ、仕方ないか。将来に期待ってことで。
マナーの先生の安定感と比べちゃだめだよね。
「アイリーア嬢は今まで剣術をご覧になったことはございますか?」
レイモシーが私の手を引きながら訪ねてくる。
手を引っ張らないでー。あと、令嬢基本移動速度はもう少しゆっくりだから。
「いいえ。初めてですので、実は楽しみなのです」
本当はお家に帰りたいのです。
「お転婆だって、笑わないでくださいね」
剣のお稽古が見たいなんて、令嬢基本行動から外れそうだけどね。けど、誘いに乗っておいて見たくないっていうのもだめだよね。
令嬢の匙加減は難しい。
「ああ、でも、一度だけ……幼い頃に、お友達が剣術の真似事をしているのを見たことがあります」
脳裏に黒髪の少年が悔しそうに眉を寄せている姿が浮かび、懐かしくなった。