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先生の笑顔の意味がようやく分かった。
興奮しすぎていったい何を口走ったんだろう? マズイことした。
喉に息が張り付いたようで息苦しい。
「もうしわけございません、わたくしは……」
「謝る必要はないよ」
先生はうんと頷いてから、目尻を下げる。
「大丈夫だから。謝ることも、隠すことも必要ない。そのままのきみでいいんだ。私の前ではね」
先生の手が頭の上に降りてきて、ポンポンと優しく撫でる。
それが合図になったかのように、肺に空気が戻ってくる。
「少し休むかい?」
背の高い先生が身をかがめて顔を覗き込んでくる。
「いいえ。大丈夫です」
「そうかい? じゃあ、さっそく淹れてみようか、コーヒー」
先生がいつもの調子でそう言ってくれるので、私は安心して大きく息を吸った。
「はい。淹れましょう、コーヒー」
私は本当に先生に恵まれてる。
「あ、でも先生、火がないですよ? えっと……アルコールランプ?」
木箱に入ったコーヒーセットの中には必要不可欠な熱源がなかった。記憶の中にあるものを名称を言葉に変換する。
「ああ、そうだった」
なんか、別の手立てがあるのかな? と思っていたら、どうやら忘れていたらしい。
借りてくる、と言い残して部屋を出て行ってしまい、私は一人残されてしまった。
でもちょうど良かった。この隙にせめてこのカウンター周辺だけでも掃除してしまおう。火も扱うのにこの可燃物だらけの状態はいただけない。あと、せめて少しでも清潔に。
先生が書き散らかす紙には大体日付が入っていることが多い。研究対象も多岐にわたるし、考察だけを書きなぐってあったり、とりとめのない落書きのように単語だけが羅列しているものもある。
必要なものなのか、不要なものなのなのかその辺りの判断はつかないので、手近な書類を日付順に重ねるだけにして、床に散乱する紙を拾い集める。
しかし、全部先生の文字のように見えるけど、どういうことだろう?
同僚とか助手とかいうのはこの部屋には存在しないのか?
……良く見てみてば、スペースが確保されている机が1カ所と、このカウンターの周辺以外は物置状態だ。椅子も机の前に1脚だけが確保されている。
もしかして、この芸術的なまでの紙と本とホコリの山は先生一人の御業か。
「はー……」
脱力を伴う大きなため息を吐いてから、決意を固める。
「よし、掃除!」
先生の一人部屋なら遠慮なんていらない。多分このカウンター周辺は先生の飲食スペースだ。せめてここだけでも清潔にする。
……いや、食はしてなさそうだな。夢中になると寝食忘れる人だし。
水だけは清潔な状態だから、誰かがこのズボラ先生の面倒を見ているに違いないのだけど。
先生が戻ってくるころにはなんとかカウンター周りの整頓と水拭きは終わった。けど、水差しの水は使ってしまって空っぽ。
コーヒーを飲むのも一苦労だ。
水を調達にやってきたけど。水って……、これ?
私、何も知らないお嬢様だって、猛烈に実感した。
水差しを持ったまま井戸の前で立ち尽くしながら。
いや、井戸? 井戸って何をどうするの?
釣瓶のロープを引き上げる。たしか、そう。
記憶というよりは想像を頼りにロープを引きながら、井戸の底のバケツを引き上げる。
「え、重っ!?」
多分、これでいいはずなんだけど、引き上げるのがめっちゃ重いんだけど? 何か間違ってるかな?
力いっぱいロープを引っ張っているのに、ちょっとずつしか上がらないし、ロープをつかむ手のひらも痛い。やっと一杯の水を汲み上げただけで握力がなくなった。二の腕はパンパンだし。
やり方がまずいのか、私の腕が貧弱なのか……。
とりあえずコーヒーを飲むだけの水は確保できた。
水差しを持ち上げようとして、腕がプルプルして持ちあがらない。
死んでる。腕が死んでる。
エセだろうが擬態だろうが、令嬢としての生活では水を汲むなんて初めてだった。いつも準備してもらった、つまり誰かが汲んできた水を使っていた。水を使うのに自分が苦労したことがなかったからあまり考えたことなかったけど……。
水って、そんなものだった?
遠ざかるコーヒーの夢に絶望しながらがっくりと膝をつきかけた。誰にも見られない場所なら、地面にへたり込んでいたと思う。
先生が探しに来てくれなかったら、コーヒーは永遠に飲めなかったかもしれない。
真っ赤になった私の手のひらを見ながら、先生は笑ってた。
「きみが水を汲めたのは意外だったなぁ」
「汲めたって言いますか、コレ」
たった1回汲み上げるだけで限界とか。
湯水のように。ふと、頭の中に言葉がよぎった。
言葉と意味と感覚がずっとつながっていたのに、実際に水を手に入れる苦労をしてみると、水の価値感を間違っていたことを痛感する。
それは私が常に誰かに水を用意してもらう立場だからではなく、記憶からくる生活習慣の違いに思える。
水はもっと楽に手に入るものだったはずだ。少なくとも水を手に入れることは肉体労働ではなかった。
「あまり無理しないでね」
「じゃあ、普段からちゃんと掃除してください」
「……面目ない」
「助手さんとかお手伝いさんとかいないんですか?」
断言してもいい。この先生が一人で生きていけるとは思えない。
「……そういえば、いたような気がするんだけど、どこに行ったかな?」
はい? それってうっかり無くすもの?
まさか紙の崩落に巻き込まれて窒息死とかしてないよね?
わずかに揺れるランプの炎を見ながら、懐かしい気持が溢れて泣きそうになる。
「さっき言ってた言葉の内容を教えてもらえるかい?」
穏やかな口調で先生はそう言うけど、興奮してべらべらしゃべった内容は正確には覚えてない。
「えっと……サイフォンが懐かしい、ですね。『レトロ』とか『アンティーク』感が…懐古趣味とか骨董品のような感じがすごくいいですよね、とかそんな感じですね」
「骨董品、ねぇ……」
先生が小さくそう呟いて考え込んでしまったので、私もそれ以上何も言わずに揺れる炎を静かに見つめていた。
フラスコの水が沸騰したので、次の作業をする。するするとお湯が上って行く光景は原理を知っていてもやっぱり不思議でおもしろい。
ロートから立ち昇るコーヒーの香りが、懐かしくてたまらない。この香りで肺の中を全て満たしてしまいたい。そんな衝動に駆られて大きく息を吸った。
体感で時間を計りながら作業を進めて、あとはコーヒーがフラスコに戻ってくるのを待つだけだ。
「……慣れてるね」
「ちゃんとおいしくできてるといいですけど」
褐色の液体を注がれたカップを手に、私は緊張していた。喜びと不安が手の中にある。
果たしてカップの中身は記憶の中にあるもと同じものなのか、違うものなのか。




