盲目の令嬢と異形の伯爵
ロランの目の前には、美しい花嫁クラリスがいる。
黒い髪を結い上げ白いドレスを着て、どこか恥ずかしげに頬を染める彼女を見下ろして、彼は余りの美しさに息を呑んだ。
「病める時も、健やかなる時も、愛し合うことを誓いますか?」
神父の声にクラリスは顔を上げると、すぐにロランに向かって言った。
「はい。誓います」
一か月前。
ロランはサミュエル家当主の叔父が急に結婚の話を持って来たのでこう叫んだ。
「正気か!?」
叔父はロランの剣幕に汗をかき、しかし前のめりに言う。
「うちには娘しかいない。伯爵の跡目を継ぐのはロラン、君しかいないのだよ。君と娘をぜひ結婚させてほしいと、オベール伯爵から話が来ているんだ」
「馬鹿を言うな!俺の嫁なんかにされる女が可哀想だろ!」
叔父は顔を上げ、歯ぎしりしているロランの顔をまじまじと眺めた。
ロランには生まれつき、顔半分に大きな赤痣がある。誰もが一度見たらぎょっとして目を背けてしまうほどの、ぶよんとして赤い痣だ。
目の周辺も赤く、若干垂れ下がっている。ロランはそのような容姿に生まれついたからには、結婚についてははなから諦めていた。
しかし親族は彼を放っておけなかった。サミュエル家には男児が誕生せず、次期当主のお役目は甥のロランに流れて来てしまったからである。
「こんな醜男、あっちから願い下げだろう。もし俺と結婚するなんて奴がいたら、そいつは身分か金目当てに違いない。俺はそんな女、信じないぞ」
ロランは頑なだった。彼は幼い頃から、同性にしろ異性にしろ、外見に関して心ない言葉を投げられ続けて来たからだ。容姿で差別された二十年。今更誰かと添い遂げろと言われても、人間不信の塊は誰にも溶かしようがない。
叔父は黙ってそれを聞くと、実に言いにくそうにこう告げた。
「実は、オベール伯爵の娘、クラリスは……目が見えない」
ロランは怪訝な顔をした。
「は?」
「つまり、彼女は、君の顔が一生見えることはない」
「……!」
「使用人が何くれと世話をしてくれるだろう。クラリスは世継ぎさえ産んでくれれば、あとは……」
「はあああああああ!?」
ロランは急に叫ぶと、青くなる叔父の首根っこを掴んで挑戦的に顔を近づけた。
「あんた、自分が何を言ってるのか分かってんのか?」
「……」
「醜男と結婚させられた挙句、男児を産んだら用無しだと!?」
「……」
叔父はロランを真っすぐに見つめると、こう言った。
「……クラリスが伯爵家でどのような扱いを受けているか、知っているか?」
ロランは目を見開く。
「君が想像するより遥かにひどい。一度、会ってみれば分かる」
ロランは何となく予想がつき、胸の奥底がひりひりと痛くなる。彼は叔父から手を放すと、慎重にこう言った。
「分かったよ……会うだけだからな」
それから一週間後。
ロランは屋敷にやって来たクラリスと初めて対面し、ずきりと胸が痛んだ。
ぼさぼさの髪に、視点の定まらないうつろな瞳。明らかに年代物の余り物のドレスを着せられ、それでも彼女はにこやかに微笑んでいた。
「初めまして、ロラン様。私と婚約して下さったこと、光栄に思います」
よく通る甲高い声。その投げやりな見た目とは違い、彼女はとても明朗な少女だった。
オベール家の使用人は、明らかにクラリスに侮蔑の視線を送っている。目が見えないから侮っているのだろう。ロランは生来の真っすぐさから、その不遜な態度に怒りが沸いた。
「クラリスに、なぜ手をかけてやらない?」
初めてロランから指摘を受けたオベール家の使用人はにわかに慌て、彼のそばにやって来るとこんなことを囁いた。
「だってお嬢様は、目が見えないではありませんか。ご主人様も、クラリス様の外見に手をかけたところでどうにもならぬと……」
ロランはぶちんと切れた。
「もういい。クラリス、うちの使用人が君を別室へ案内する。体の採寸をしろ。それから髪を整えてもらうんだ」
オベール家の使用人は縮こまっている。クラリスが連れて行かれたところで、ロランは彼女に告げた。
「帰れ。クラリスはしばらくここで預かる。何かあったらまた連絡する」
使用人は出て行き、扉は閉められた。ロランは頭を抱えた。
「……俺は……一体、何を?」
あの、侮蔑の視線。
あの使用人は、クラリスが何も分からないとでも思っているのだろうか。
ロランは知っていた。
あの視線は、目が見えていなくとも〝感じる〟ものなのだ。
あの視線はどこからともなく刺して来て、思わず振り返るほどの嫌な感覚がある。独特なものなので、この視線に晒された者ならば誰しもこの感覚を共有しているはずだ。
あの視線にオベールの屋敷内で常時さらされているクラリスを、ロランはどうしても放っておくことは出来なかった。
そして、二度とオベールの屋敷に帰す気にはならなかった。
クラリスが戻って来る。
「……ロラン様」
ロランは顔を上げ、ぎょっとした。
髪を結い上げられ、化粧を施されたクラリスの美しさは別格だった。ロランがぼうっと見つめていると、クラリスはうつろな目で微笑んで見せた。むしろその視線の曖昧さが妙な色気になって、彼女は燦然と輝いている。
「髪を結っていただきました」
「ああ……そうか」
次の言葉が出ない。
この美しさを備えていながら、目が見えないと言う悲劇に。
「……クラリス」
「はい」
「君が嫌でなければだが、しばらくここで暮らさないか」
「それって……」
クラリスは小首をかしげて見せる。
「結婚していただけるということですか?」
ロランは注意深く黙った。
「その前に、確認しておきたいことがある」
「はい」
「俺は……醜い」
クラリスはきょとんとロランの声の方を見上げる。
「どういうことでしょうか?」
「俺の顔の半分は、赤い痣で覆われている。誰もが俺を醜いと言う。正直に言うと、君は美人だ。俺なんかを連れていたら美しい君も笑われる。もし、それでもいいと言うのなら、俺は君を……」
それを聞くなり、クラリスはくすくすと笑った。
「私、ロラン様の隣へ行きたいです」
クラリスは使用人に連れられ、ロランの横に座らされた。彼は彼女の思わぬ行動にどきりとさせられたが、クラリスは更に驚きの行動に出る。
「顔を触ってもいいですか?」
ロランは目も口もぽかんと開け、
「ああ……」
と言うしかない。クラリスはそれを合図に、ロランの顔を両手でさすり始めた。
ロランは、自身の赤痣より真っ赤になって押し黙る。クラリスの湿った手が、ロランの目を、痣を、唇を這い、喉、髪へ伸び、肩を無遠慮にまさぐって行く。
余りの衝撃に魂が抜けてしまったロランに、クラリスは告げた。
「悪くないです」
余りにも忌憚のない言葉に、ロランは毒気を抜かれる。
「確かに赤痣の方?……は、ぶよぶよしていますが、もう片方のお顔はなかなか素敵です。それに、とても体が大きくていらっしゃるのね」
「……手で触って、顔の形や体の大きさが分かるのか?」
「大体分かります。あと……」
「?」
「お顔をすぐに触らせてくれる人は、いい人が多いです」
ロランは彼女の言葉が、心の隙間を満たしてくれるのを感じた。
「……クラリス、君は自分を不幸だと思ったことはないか?」
クラリスは困った顔で微笑む。
「思いますとも。子供の頃は目が見えていたのですが、段々見えなくなって行ったんです。今は光と色をぼんやりと感じるのみです。周りの人も、症状が進むにつれ、どんどん態度が冷たくなって行きますし」
「……」
「でも、それと同時に、信じる気持ちはより強くなりました」
「信じる?」
「はい。相手を信用する気持ちです」
ロランはその言葉を咀嚼した。
「信用……」
「目が見えないと、人を信用するしかなくなるんです。耳と感触以外、情報がありませんもの」
「……!」
「だから、まずは相手を信じます。私は今、ロラン様を信じようとしています」
「クラリス……」
クラリスは、まぶしそうにロランを見上げている。
ロランは、急に心が決まった。
「君が嫌でなければ、結婚してくれないか」
「嫌じゃないです。私でよければ、是非」
「なぜそう思う?」
「ふふふ。だって……」
クラリスはいたずらっぽく肩をすくめると、恥ずかしそうにこう告げた。
「ロラン様、声がいいんですもの」
ロランは呆気に取られた。
「……声?」
「あら、ご自身ではお気づきになりませんでしたか?とてもいい声をしていらっしゃいます。男らしくて、お腹から出ている声ですね。テノールを歌ったらきっと素敵だわ。私は目が見えませんから、心地よい音楽や声にとっても弱いんです」
ロランは使用人に尋ねた。
「俺はいい声か?」
「ええ、バリトンのいい声です。目を閉じればそこに男前がいますが、目を開けるとちょっとがっかりします」
「……正直に言い過ぎだぞ」
クラリスは彼らのそのやりとりを、くすくすと笑って聞いている。
式の当日。
美しい純白のドレスを着せられ、クラリスはロランと共に親族の見つめる中、神父の前で愛を誓う。
正直、同情で結婚していないと言ったら嘘になる。
だが、彼女に抗いがたい魅力があったのも事実だった。
教会の中では、侮蔑と憐みと安堵の視線が交差していた。
クラリスの美しさ、ロランの地位に目がくらんだのだろうという侮蔑。
醜男、または盲人と結婚させられたのだという憐み。
醜男、または盲人に伴侶を与えられたのだという安堵。
どれもこれもロランの心をいたずらに削って来る、嫌な視線だった。
愛を誓って踵を返すクラリスに、ロランは小さく呟く。
「君を、必ず今より幸せにする」
それが、クラリスをないがしろにしていた親族全員に対する復讐になり得る。
しかし彼女はにっこり笑ってこう言うのだった。
「あら。今より?」
ロランの肩から力が抜ける。
「あのなぁ……」
「今より幸せな日って、来るのかしら」
「来るだろ、多分」
「私、自分が結婚出来るなんて思っていませんでした」
「……俺もだ」
ロランはどこか不思議な気持ちで、妻を迎えた自分を俯瞰で見ていた。
彼は気づいている。
絶えず侮蔑されて開いた己の心の穴を埋めるために、クラリスを幸せにしようとしている、ということを。
彼女が幸せだと言ってくれれば、自分の惨めたらしい人生がようやく報われる気がする。
余りにも不純な動機だが──
次の日。
ロランの屋敷内にあるクラリスの寝室で彼女の持ち込んだ荷物を確認していると、見慣れない杖とマンダリンが出て来た。
「この杖は何だ?」
とロランが尋ねると、
「これは、こうやって使います」
と、クラリスは杖をコンコンと叩きながらうろうろ歩き始めた。
「なるほど。見えなくてもその杖があれば障害物を避けて歩けるのか」
「はい。子どもの頃、教師をつけて訓練しました」
「なら安心だ。少し懸念材料が減った」
「……あのー、屋敷を案内してもらっても?」
「ああ、では一緒に行くか」
二人は屋敷の中を連れ立って歩く。杖はリズム良く床を打ちつけ、クラリスはリズムを取るように歩幅毎にカウントする。
彼女は少し俯いて尋ねる。
「ロラン……と呼んでもいいかしら?」
「いいぞ」
「ロラン。まずはトイレへ……」
「そりゃ大事だな」
二人はトイレの場所を確認し、数々の段差を杖で把握する。
ロランはその素朴な木の杖が、どうにも気になる。
「クラリス。その杖はいいものか?」
「まあ、そうですね。使い慣れたものです」
「もっと装飾性の高いものにしてあげようか」
「あら、いいんですか?どうせ私には見えないものですが」
「俺には見えるものだからな。クラリスは美人だから、いいものを持たせたくなる」
それを聞いて、クラリスは赤くなった。
「ロランは……そんなに私を褒めて、一体何を企んでいるの?」
「企んでなんかいない。これは事実だ。君は着飾れば、もっと美しくなる」
クラリスは少し困り顔になる。
「美しくなっても、私……」
「美しくなった君を色んな場所に連れて行き、みんなに見てもらおう。しばらく遠ざかっていたが、社交界にも行こう。君が幸福になった姿を見てもらうんだ」
「あなたがそうしたいならお付き合いしますが、私は別に着飾らなくても構わないんですよ」
ロランはクラリスが遠慮しているのだと思った。
「新しいドレスも作ってやろう」
「そんなにあっても困ります。私には見えないものです」
「俺が君を飾り立てたいんだから、いいじゃないか」
「うーん。まぁ、ロランがそう言うなら」
クラリスは、何を着せても似合った。
視線がうつろな美人が着替えるたび、新しい魅力が引き出されて行く気がする。それが、ロランの痣だらけの心を癒すのだった。
夕方になると、クラリスは決まってマンダリンを爪弾いた。
「……上手だな」
「はい。目が見えていた頃に、手習いしてました。あの頃は両親も優しくて」
「あの頃〝は〟か……」
彼女の中の小さな絶望が、夕日の中、マンダリンの音色に乗せて流れて来る。
「音楽は、私を簡単に癒してくれます」
「音楽会にも行くか」
「ロランったら、さっきから私を連れ歩く話ばかりね」
ロランは器量よしなクラリスを眺め、悦に入った。
「だって君は美人だ。連れ歩けば自慢になる」
「まあ。私が美人?」
「俺は容姿の醜さでひどいことを沢山言われた。その意趣返しだ」
「ロランはちっとも醜くなんかない。口は悪いけど、とてもいい人よ」
「どうだか。クラリスだって目が見えていたら、余りの醜さに俺を避けていたはずだ」
「そんな。悲しいこと言わないで……」
クラリスは見えないなりにロランの手をまさぐり、しばらく遠くを眺めてから、ふとロランに視線を戻した。
「あなたの気の済むようにしたらいいわ。私、付き合うから」
それからというもの、ロランはクラリスを方々へ連れて歩いた。
皆、引きこもってばかりいたロランが外に出て来たことにまず驚いたが、隣のクラリスを見ると納得したような表情に変わった。
美しい、自慢の妻。
目は見えないが、彼女の何を見るでもない幻想的な視線に、人々が一瞬で夢中になって行くのがロランには分かった。
美しさは正義だ。彼女のハンデをむしろ魅力に変えてしまうほどの力を持っている。
周囲は彼女を連れ歩くロランにも一目置くようになっていた。
「盲人を妻に迎えるとは、あなたは優しい人だったんですね」
このように言われることが多くなった。また、
「目が見えない美女を娶るとは。その手があったか」
と言われることも多かった。
どちらの言葉にも、ロランは腹が煮えくり返った。どちらもロランを侮辱していることに変わりはないからだ。そして、ロランが埋めようとした己の心の穴は、むしろ開いて行ってしまう。
音楽会からの帰りにロランは我慢出来なくなり、ついぽつりと妻の前で本音を吐露した。
「……多分、周囲は俺が同情でクラリスを娶ったか、騙して娶ったとでも思っているんだろうな」
クラリスは少し俯いた。
「あなたは、実際どうなの?」
ロランは黙ってしまう。同情で娶ったと言っても、嘘ではないからだ。
空気を読んだのか、ふとクラリスは告げた。
「……同情だって、愛情だって、情は情です。あなたに情をかけてもらえて、私は嬉しいです」
ロランは先程沈黙してしまったことを、今になって悔やむ。
「……君は強いな。その心の強さはどうやって手に入れたんだ?」
「そうですね……」
クラリスは夫にしなだれかかって言った。
「信じることです。自分と他人を」
ロランは黙った。確かに、自分はいつまで経っても自分どころか、他人も信じられないのだ。
「いつか裏切られるとしても?」
「なぜそんなに仮定にこだわるのですか?その仮定は、確実に実現するものなのですか?」
「いつも嫌な仮定が実現してしまう人生だった」
「そうですか。私はあなたを裏切ったりしませんよ。それでも信じられませんか?」
ロランは目の見えない妻を見つめる。誰かに騙されれば、簡単に命の危険にさらされてしまう妻を。
「私はあなたに会えて、とても幸せなんです。それでは満足出来ませんか?」
ロランは久しぶりに目が熱くなって、クラリスの肩を抱いた。
「そうか……俺といて、幸せか」
「はい。だっていい暮らしをさせてくれますし、いい声ですもの」
「……あのなぁ」
「あなたは同情で私と一緒になった。私はあなたの声と暮らしが好きで一緒になった。お互い様ですね」
人より劣っている箇所があるからこその強さが、彼女には備わっている。
「俺も、強くなれる日が来るんだろうか」
「きっと来ます。人を信じるしかなくなった日に」
そんなある日。
ロランはいつものように、王族主催のパーティにクラリスを連れて行った。
クラリスはその美しさと盲人であるという個性から、人々に引っ張り回されていた。
クラリスは好奇心旺盛だったので、周囲は何か新しいものを与えて触らせては、彼女を驚かせたり笑わせたりといった反応を楽しんでいる。貴族たちにはこれがひとつの遊戯と化しているようで、クラリスはロランから離され、そのお遊びに付き合わされるのが常となっていた。
ロランは妻を眺めながらワインを飲み、うとうとと酔う。日頃の疲れもあり、椅子のあるラウンジに移動して目を閉じる──
はっと目を覚まして彼は青くなった。
王宮から、人気がなくなっている。
慌てて立ち上がると、ようやくロランを見つけた御者がラウンジに駆け込んで来た。
「ご主人様!クラリス様の姿が見当たりません!」
ロランは青ざめ、王宮の外を走り抜ける。
「そんな!どこへ……」
「さすがに目が見えませんので、ご自身で歩いて出て行かれたとは考えにくいのですが」
ロランは、一番悪い状況に思い当たる。
盲人の美女が攫われたとしたら、目的はひとつ──
「くそっ!貴族ばかりと思って油断していた。貴族にも醜悪な思考の奴が紛れている」
「……どうしましょう」
「お前は王宮の兵士たちに応援を頼め」
「わ、分かりました!」
ロランは思い当たる場所があって、走って行く。
王宮の死角にある、かつて不倫会場と化していた庭の片隅の藪の中。
そこから、聞き覚えのあるうめき声。
ロランが藪を分け入って行くと、複数の男に囲まれているクラリスの声がする──
「や、やめて下さい!」
「おい、口を塞げ」
「早くしろよ」
ロランは音もなく、背後から男の横腹を蹴り飛ばした。
「うわっ、ロランだ!」
ロランはその内のひとりの胸倉を掴み、片側の頬をぶん殴った。歯や頬骨が折れる音がするが、これでいい。
暗闇の中ロランに次々殴られた男たちは散り散りに逃げ、ロランはその場にがくりと膝をついた。
「ロ、ロラン。怪我は?」
「クラリスこそ、何かされなかったか?」
「はい。胸を掴まれたぐらいで……」
「くそっ。あとで全員ぶっ殺してやる……!」
上がった息を整えていると、ふとクラリスが尋ねた。
「……同情で、助けてくれたのですか?」
ロランは思わぬ言葉に顔を上げ、彼女をまじまじと見つめた。
「何だ、急に……」
「……いいえ」
クラリスが目を閉じて、悲しそうに笑う。ロランはどきりとしてクラリスに近づくと、恐る恐る彼女を抱き締めた。
「馬鹿っ。同情で助けに来るわけないだろ」
「そうですよね。じゃあどうして?」
「……」
その少しの間で、ロランは今までクラリスに残酷な時間を過ごさせてしまったことを痛感した。
「……言うよ。君を愛してるからだよ、クラリス」
その言葉をようやく聞けたクラリスは、彼の胸の中で小さく笑う。
「私怖くて、ずっとあなたの名前を心の中で叫び続けていました」
「……」
「でも声が出せなくて」
「もういい。君をいたずらに連れ歩いた俺が悪かった」
「あなたは悪くないわ。悪いのは、私を騙して連れ出した彼らの方よ」
ロランは先程の面々を思い出す。
どいつもこいつもロランの風貌を悪しざまに笑っていた、嫌な男ばかりだった。
醜ければ踏みつけにし、美しければ屈服させるだけなのだ。救いようのない人種が、この世には確実に生息している。
「ふん。全員俺みたいに片側の顔面が腫れ上がればいいんだ。俺の目とあの怪我が何よりの証拠だ。あとで全員捕まえて、目にもの見せてくれる。……ところでクラリス」
「はい」
「誰も彼をも信用するな。ああいうド腐れ野郎がこの世にはいっぱいいるんだ」
「そうですね。今回学びました」
「だから、その」
「はい」
「俺だけを信用しろ。他の男は信用したら駄目だ。いいな?」
クラリスはどこか生温かい目でロランを見つめている。
「何だよ?」
「……私はあなただけのものです」
「……クラリス」
二人は手を取り合った。
「帰ろう。二度と来るか、社交界なんか」
「……はい」
「この世は貴族までも、下品な奴ばかりだ。上品な我々には合わない」
「……」
「屋敷でまたマンダリンを弾いてくれ。テノールで歌うから」
「ふふふ」
二人は屋敷へと帰る。
それから二度と、公の場所に出ることはなかった。
誰かに見てもらうことは、何の慰めにもならないことを悟った日に。
ロランは屋敷の庭を改造した。見た目に美しいだけの植物や置物は排除し、風に吹かれると独特の音が鳴る木々や、鳥が集まる果樹、香りの強い花々を庭に植えた。歩けば面白い音が鳴るという、海の石で小道を作る。その上を杖を頼りに歩きながら、クラリスは庭園の香りと音を楽しんで回る。
「このお花、部屋に欲しいわ」
「あとで切って、持って行こう」
誰にも目の届かない楽園。
誰にも見られなければ、ロランもクラリスも、不安を感じることはない。
誰にも望まれなかった二人は、二人だけの世界で温かい時間を過ごす。
復讐、見栄、憐憫。そういった他者を介在するものとは無縁の世界で。
クラリスと共にいる時、ロランは自分の風貌を忘れ去る。なぜ自分があんなに他人に認められたがっていたのか、彼女と気持ちが通じ合った今となってはまるで分からない。
クラリスはロランのいるベンチまで来ると、座って空の光を見上げる。
「暖かい、いい日ですねぇ」
「……そうだな」
ロランはクラリスを抱き寄せる。彼女は彼の肩に身を寄せると、ねだるように口を尖らせた。
ロランはその幼い仕草にブッと吹き出すと、クラリスの唇にそうっとキスをする。
「……幸せだ」
「あら。ようやくロランからその言葉が聞けました」
「……」
健やかな時がほとんどなかった、二人の晴れの日に。
「愛してる、クラリス」
「……ふふっ。あなたが愛を囁くなんて珍しいわね」
ロランはようやく彼女に永遠の愛を誓った。